「刺さった男」(2012スペイン)
ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) かつて大ヒット商品の広告を手掛けたロベルトは、今では職を失い家族を抱えてスランプに陥っていた。旧知の会社社長にも冷たくあしらわれたロベルトは、その足で妻ルイサと新婚旅行で訪れた場所にやってくる。ふとしたはずみから遺跡発掘現場に転落してしまった彼は後頭部に太い鉄筋が刺さってしまう。幸いにも即死は免れるが、救急隊やマスコミがやってきて世間の注目を集めるようになっていく。
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(レビュー) 後頭部に鉄筋が刺さったまま動けなくなってしまった男を巡るブラック・コメディ。
人を食った設定のコメディで、その中にチクリと風刺が効いている面白い作品である。
監督はスペインのアレックス・デ・ラ・イグレシア。「どつかれてアンダルシア(仮)」(1999スペイン)、「ビースト 獣の日」(1995スペイン)といった作品を撮っている鬼才である。ジャンルはホラーからファンタジー、コメディと多岐にわたり、作風はハイテンションでナンセンスでブラックでシュールという独特の作家性を持っている。
ただ、今回は脚本を他人に任せているせいか、従来のブラックなテイストはそこまで強くない。誰が観ても楽しめるような作品で、ドラマも家族愛的な美談に着地させている。
ただ、もしこれをテーマにするのであれば、ロベルトと子供たちの関係はもっと深く掘り下げるべきだったように思う。妻との関係はそれなりに掘り下げられているが、子供たちとの関係は表層的で添え物的な扱いでしかない。したがって、ロベルトを見守る家族、マスコミの誘いを文字通り蹴飛ばす痛快なラストも今一つ感動するまでには至らなかった。
むしろ、こちらのほうが本題だと思うのだが、ロベルトに集まるマスコミや野次馬、政治家のゲスっぷりは相当強烈である。番組の独占取材を交渉するテレビ局の重役。ロベルトとテレビ局の間を取り持つエージェント。彼らは人の不幸に群がるハゲタカそのものである。この風刺はかなり毒が効いている。
また、自ら広告の宣伝文句を編み出してきたロベルトが、逆にマスコミの餌食になっていく…というのも皮肉が効いていて面白い。
とはいえ、悲劇的な物語でありながら、そこまで陰惨さが感じられないのがイグレシア監督らしい所であるが。
ロベルトは負傷しているとはいえ、奇跡的に痛みもなく、普通に会話もできる状態である。終盤こそ悲劇色を前面に出すものの、割とあっけらかんとしている。なのでそこまでの悲惨さが感じられず、社会風刺を効かせたコメディとして気軽に楽しめるように作られている。
「ビリディアナ」(1960スペイン)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ビリディアナは神学に励む修道女見習いである。休暇で育ての親である叔父の家に一時帰宅するが、その晩叔父に睡眠薬を飲まされ眠っている間に犯されそうになった。ショックを受けたビリディアナは出て行こうとするが、叔父はそれを引き止めるべく一計を案じる。
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(レビュー) 修道女見習いの少女が叔父の欲望に深く傷つきながらも逞しく成長していく姿をシリアスに綴った作品。
監督・脚本は名匠ルイス・ブニュエル。
彼は幼い頃は熱心なキリスト教信者として育てられたが、成長してからは無神論者に転向した。本作は、そんな無神論者であるブニュエルの思想が色濃く出た作品だと言える。
最たるは、ホームレスの集団が乱痴気騒ぎをする後半パートである。その中にはキリストの最後の晩餐のパロディが出てくる。あろうことかホームレスにキリストの真似をさせるのだから、当然観る人が観れば怒るだろう。
実際にこれが原因でこの作品は本国では上映禁止となった。当時はフランコ政権下の時代だったというのも問題だったかもしれない。反体制的ということでお蔵入りになってしまった。
ただし、そんな味噌をつけた本作だが、カンヌ国際映画祭に出品されて見事にパルムドール受賞という偉業を成し遂げた。このことによってブニュエルの名は一躍世界に轟き、結果として本作は多くの人々に称賛を持って迎え入れられることとなった。何とも皮肉的な話である。
そんな曰く付きの本作であるが、件のパーティー・シーン以外にも、個人的に幾つか気になる場面があった。
例えば、縄跳びの使い方などは実に秀逸だと思う。叔父の家で働くメイドの娘が使うこの縄跳びは、中盤でアッと驚く使われ方をする。また、後半でも再度、意外な使われ方をされていて、このあたりにはブニュエルの演出の妙を感じる。
物語も、ブニュエルらしいという意味で中々面白く追いかけることができた。
聖母のごとく屹立するビリディアナを貶めるプロットは、信じる者は救われるという聖書の教えの反証以外の何物でもない。また、ビリディアナの慈愛は悉く裏切られ、叔父の理不尽な仕打ちにも「小公女」のごとき悲惨さが漂い、救いなど何処にも存在しない。キリスト教に対するブニュエルらしい不信感がはっきりと見て取れる。
一方で、幾つか放りっぱなしな伏線があったり、全体的にスマートさに欠ける脚本という気もした。
例えば、ビリディアナの夢遊病という設定は、結局何の意味もなかった。
あるいは、後半に入って登場する従兄弟のキャラクタリゼーションも今一つ掴めないままだった。彼は馬車に繋がれていた猟犬を気の毒に思い買い取るが、そんな優しい気持ちを持った男がメイドに手を出したり、ホームレスに冷たい態度をとったりするだろうか?彼の立ち回り方を含め、物語上の存在意義が余り感じられない。
キャストでは、ビリディアナを演じたシルヴィア・ピナルの美しさが印象に残った。また、叔父を演じたフェルナンド・レイも嫌らしい演技が板についてて適役である。
「オルフェ」(1949仏)
ジャンルファンタジー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 詩人のオルフェは“詩人カフェ”で王女と呼ばれる女性と出会う。その時、カフェの目の前で詩人のセジェストがバイクにはねられ死亡した。王女はオルフェに手伝わせてセジェストの死体を自宅へと運んだ。すると死んだはずのセジェストは蘇り、王女の導きで鏡の中へ消えてしまった。オルフェはすっかり妖しいオルフェの虜になってしまう。妻ユリディスが待つ自宅に戻っても彼の心は虚ろであった。
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(レビュー) ギリシャ神話のオルフェウス伝説を、現代のフランスに置き換えて描いたシュールな幻想奇談。
詩人であり劇作家であり映画監督でもあったジャン・コクトーの才能が存分に発揮された作品で、この摩訶不思議な世界観は今もって古びない新鮮さがある。
尚、同じオルフェウス伝説をモチーフにした作品は過去に何本か見たことがある。共に現代のブラジルを舞台にした寓話で1959年に製作された「黒いオルフェ」(1959仏)と、1999年に製作された「オルフェ」(1999ブラジル)である。夫々にメロドラマ色の強い作品で、情熱的なサンバのリズムが印象的だった。
それらに比べると本作はかなり幻想的な作りになっている。さすがはシュルレアリストの代表格であるコクトーの面目躍如といった所か。氏の資質がよく出ている。
例えば、鏡を使ったトリック撮影やフィルムを逆回転させた撮影、多重露光による合成、光と影を強調したノワール・タッチなモノクロ映像、縦と横を横転させたトリッキーな建物のセット等、見所が尽きない。
また、”鏡”の使い方も抜群だった。そもそも映画における”鏡”の意味合いは古今東西、様々な作家たちが独自の解釈の元に重要なアイテムとして利用してきた。ある時は心を写したり、ある時は別の世界へと誘ったり、映像的にも物語的にも特別な意味を持たされることが多い。
本作では現世と死後の世界を繋ぐ出入り口として利用される。オルフェやセジェストはこの鏡を通って二つの世界を行ったり来たりする。これぞ”映画”ならではの醍醐味である。実際には不可能なことも映画の中では可能となる、ジョルジュ・メリエス的映画の原初的興奮が味わえる。
アイテムと言えば、本作はラジオもユニークな使われ方をしていた。ラジオから謎の声が聞こえてくるのだが、オルフェはそれに影響されて詩を書く。一体どこから流れてくるのか分からないが(おそらく死後の世界からだと思うが)、このナンセンスなギャグは可笑しかった。
物語は、中盤ややダレるものの最後まで飽きなく観れた。ただ、現実世界におけるサブキャラがやや整理しきれていないのと、オルフェが現実の世界に戻ってからの終盤をもう少しスムーズに展開させて欲しかった。エンディングに至るまで、若干もたつくのが難である。
それにしても、ここに登場する死神たちは妙に人間味に溢れていて憎めない。王女にしろ、彼女の運転手ウルトビーズにしろ、人間をあの世へ送る役目を負いながら、逆にその人間に恋をしてしまうのだから、何ともロマンチックである。王女はオルフェに、ウルトビーズはユリディスに惹かれていく。
ラストの二人の顛末もロマンチズムの極みである。自らの愛を貫いた所に、もしかしたら人間よりも人間らしい死神だったのかもしれない…と切なくさせられた。
「ブランカニエベス」(2012スペイン仏)
ジャンルファンタジー・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1920年代のスペイン。天才闘牛士アントニオは、ある時アクシデントに見舞われ、荒れ狂う牛に体を貫かれて瀕死の重傷を負う。それを観戦していた妻はショックで産気づき、娘カルメンを生むと同時に亡くなってしまった。全身不随となったアントニオは、カルメンを愛することができず、優しくしてくれた看護師エンカルナと再婚した。一方、カルメンは祖母に育てられながらすくすくと成長していく。
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(レビュー) 闘牛士だった父に捨てられた少女が、様々な苦難を乗り越えて父と同じ道を歩んでいく大河ドラマ。
タイトルの”ブランカニエベス”とは白雪姫のことである。本作はあの有名な「白雪姫」をベースに敷いた寓話である。
何と言っても、特筆すべきは作品スタイルである。本作はモノクロ、サイレント映画である。バックには音楽だけが流れ、セリフは一切なくすべてテロップで表示される。
くしくも前年に同じスタイルで
「アーティスト」(2011仏)という作品が製作されたが、あれと同じようなスタイルである。
ただし、外見は同じように見えるかもしれないが、特異な作品スタイルにこだわった”理由”は両作品はまったく異なるように思う。
サイレント時代の物語を描いた「アーティスト」は、敢えて当時の時代に合わせたモノクロ無声映画で表現することで、作品世界の現実味を巧妙に”パロディ”へと転嫁させていた。
それに対して、本作は元が「白雪姫」というドイツの民話であり、一種のおとぎ話である。その寓話性を強調するために、モノクロ無声映画というスタイルを敢えて選択したのだと思う。
物語は、「白雪姫」をベースに敷いているが、そこに闘牛士という設定と父娘の愛憎を織り込んだ点は新味だ。サイレント映画というスタイル上、シンプルにならざるを得ない面はあるものの、少女の葛藤は十分に語られているし、父を超えたいと願う彼女の熱意もひしひしと伝わって来た。
また、お馴染みの意地悪な魔女や白雪姫の周りに集う小人たちも、少しだけアレンジされた形で登場してくる。もちろん、有名な毒リンゴも重要なシーンで出てくる。
演出も非常にスタイリッシュでケレンに満ちていた。
モノクロならではのコントラストを効かせた陰影の美しさはもちろん、アクションシーンにおける緊張感とダイナミズムも素晴らしい。
また、音楽もサイレントである本作では大きな魅力の一つとなっている。スペインらしいフラメンコのリズムがアクションシーンを大いに盛り上げている。
特に、クライマックスの闘牛シーンは音と映像のコンビネーションが素晴らしく、激しいビートに合わせた短いカッティングで、カルメンの闘志と聴衆の興奮を上手く創出していた。
ラストについては賛否あるかもしれない。ディズニー版の「白雪姫」(1937米)に慣れ親しんだ人にとっては違和感を持つ者もいるだろう。ただ、元々の「白雪姫」には結構残酷な描写があるというし、物語全体の悲劇性を考えれば、このエンディングはごく自然な成り行きと言うことができると思う。個人的にはすんなりと受け入れることができた。
「ミッドサマー」(2019米スウェーデン)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) ある日突然、最愛の家族を失ってしまったダニーは心に深い傷を負う。恋人クリスチャンは、そんな彼女を男友達と行くスウェーデン旅行に誘う。一同が向かった先は、森の奥地にひっそりと佇む小さな村だった。そこで90年に一度開かれるという特別な“夏至祭”を楽しむのだが…。
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(レビュー) 家族を失った少女がカルト・コミュニティーを訪れたことで恐怖の体験をしていくサスペンス・スリラー。
監督、脚本は
「へレディタリー/継承」(2018米)のアリ・アスター。異様なトーンが横溢した前作同様、今回もかなり観る側の肝が試される作品となっている。
ただし、前作は、はっきりとしたホラーだったが、今回はホラーとも言えるし、不条理劇とも言えるし、斜に構えて見ればコメディにも見える。要するにジャンル分けが大変難しい作品で、観る方としても悩ましい所である。ただ、これが本来のアスター監督の才覚なのだろう。後述するが、一見すると悲劇のドラマだがどこかで喜劇のように観れてしまうのも事実で、この奇妙なテイストは唯一無二と言えよう。
映画は序盤からスリリングな出だしで始まる。ダニーが家族の死を知るまでの展開は前作同様、非常に後味の悪い苦みを感じる。
続いて、ダニーは恋人クリスチャンに誘われてスウェーデン旅行について行くことになる。本当はクリスチャンは男友達だけで行きたかったのだが、仕方なくダニーを誘うのだ。実は、このやり取りが終盤の伏線になっている。
そして、いよいよコミュニティーに到着するのだが、ここからやや退屈してしまった。
確かに一種異様な雰囲気をまとったコミュニティーの様子は興味津々に観れたが、そこでの暮らしぶりや、クリスチャンたちのやり取りがダラダラと続き少々退屈してしまった。所詮これらは設定の説明に過ぎず物語的にはまったく動きがない。
面白く観れるようになるのは、中盤で起こる”ある事件”からである。老人たちが村人たちの見てる目の前でまるで儀式のように飛び降り自殺をするのだ。当然ダニーたちは卒倒するが、周囲はそれを讃えるように眺めるだけである。この非常識さ、シュールさで一気に画面に引き込まれた。
更に、コミュニティーの奇抜な儀式は続く。ネタバレを避けるためこれ以上は書かないが、いずれも一般常識の範疇からかけ離れた奇天烈な行為の数々で、一体次は何が起こるのか?という期待と不安が入り混じり目が離せなかった。
こうしたテイストは以前にも映画の中で体験したことがある。それは「ウィッカーマン」(1973米)という作品である。あれも主人公が怪しげなカルトの村に漂着して恐怖の体験をする物語だった。
あるいは、フェリーニのシュールな祝祭映画のテイストに近い物も感じる。あそこまでのキッチュさや荘厳さはないが、それに似たビジュアル的な刺激と華やかさがある。
また、映画ではないのだがサウンドガーデンの「ブラック・ホール・サン」というMVも連想した。鮮やかな描景に芽吹く”毒”が画面上に”ゆがみ”として表象し、まるで世紀末を思わせるような世界観が印象的だった。今作の映像の中でも、鏡に映ったダニーの顔、食卓に乗った食べ物、ダニーの花飾り等が不気味に歪んでいた。
終盤の展開も、ここまでやるか?という所までやってくれるので、ある種の清々しさを覚えた。
先述したように、ここでのダニーの”選択”は、すでに序盤で伏線が張られていた。クリスチャンにとってダニーはもはや恋人ではなく、周囲に気を遣うだけの面倒な女でしかないのである。ダニーもこの期に及んでそのことを確信しており(この手前のクリスチャンの行為が決定打となっている)、クリスチャンに今更、未練はないわけである。なので、この結末は特に驚きはなかったが、しかしここまで徹底的なバッドエンド(?)で締めくくるとは英断である。
ちなみに、この映画にはそこかしこに伏線が散りばめられている。クリスチャンの”最期の姿”も、実は前半でそうなることが暗示されていた。部屋に飾ってあったポスターにその回答が隠されている。勘の良い人らすぐ分かるだろう。
尚、先ほど「バッドエンド(?)」と書いたが、実はドラマ自体を紐解けばこれはハッピーエンドと捉えられなくもない。というのも、ダニーの視点に立てば、この物語は家族を失った心の穴を新しい家族(村人)で埋めていく…というドラマになるからである。
したがって、映画を観終わって暗澹たる思いになるのだが、同時に奇妙な爽快感も覚えてしまうのだ。この鑑賞感は一種独特である。
捉え方ひとつで、悲劇が喜劇に裏返る本作は、実にユニークな作品であると言える。悲劇と喜劇は表裏一体とはよく言うが、まさに本作を観るとそのことが実感される。
「豚小屋」(1969伊)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 中世時代、火山地帯の荒野をさすらう青年が兵士の一団と遭遇する。彼はその中の一人を殺して人肉を食べた。現代の西ドイツ、ブルジョワ青年ユリアンには婚約者がいたが、二人の間に肉体関係はなかった。ユリアンには彼女を抱けない、おぞましい理由があった。
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(レビュー) 中世と現代の物語を交互に描きながら、人間の禁忌に対する欲望を赤裸々に描いた問題作。
監督、脚本はピエル・パオロ・パゾリーニ。マルキ・ド・サドの原作を映像化した同監督作「ソドムの市」(1975伊)を思わせるようなグロテスクな内容の物語である。ただ、今作にはそこまでの直接的な描写はない。その点で「ソドムの市」ほどの強烈さはなく、かなりマイルドにまとめられている。
とはいえ、中世時代の主人公青年のカニバリズム、現代編の主人公ユリアンの倒錯的な性的欲望、はっきり言うと彼は豚と獣姦しているのだが、こうしたいわゆる”人間らしさ”をかなぐり捨てた本能的欲望はかなり強烈に提示されている。
人も所詮は動物の一種であるということを言わんとしているのだろうか?無神論者パゾリーニの人間観が窺い知れる。
そして、これとは別に本作にはもう一つのテーマが語られており、これもいかにもパゾリーニらしいと思った。それは現代編の主人公ユリアンがブルジョワ青年であることと深く関係している。
彼の父親はちょび髭を蓄えたヒトラー似の男である。この風貌からして明らかにナチズムに対する批判が伺えるが、同時に資本主義経済に対する批判も強く感じる。
というのも、彼は事業で巨大な富を築き、政治にも強い関心を持っている典型的な資本家だからである。政治の腐敗は資本主義社会に付き物の副産物である。パゾリーニは、このことを暗に示すがごとく、この俗物を物語の重要な登場人物として登場させている。
先述した「ソドムの市」も、第二次世界大戦下のイタリアを舞台にしており(原作から改変されているらしい)、当時の冷戦期におけるネオファシスト運動に対する批判が込められた作品だった。
パゾリーニは共産主義者だったが、このように政治と映画は後年のフィルモグラフィーの中では重要な部分を占めるモチーフとなっている。本作からもそれが強く見て取れる。
映画は終盤にかけて、二つの時代のカットバックが頻繁に繰り返されていくようになる。ドラマの盛り上がりを考えると、この辺りの編集の上手さには唸らされる。夫々の主人公が迎える顛末は共に悲劇的な物であるが、その惨めな姿に象徴されるのは、やはり人間=獣でしかないというパゾリーニの思想である。
ラストの軽やかな締めくくり方も実に上手い。凡庸な露悪趣味に走らなかったところが一味違う。本作が単なる見世物映画に堕してないことの証拠だろう。
キャストでは、意外な所でフランスの名優ジャン=ピエール・レオが出演している。おそらくパゾリーニの映画に出演しているのは本作1本だけではないだろうか?ユリアン役を飄々と演じており、まさかその裏で豚を盗んで獣姦してるようには到底思えない。…が、変態とは案外、表の顔はそうなのかもしれない…と妙に納得させられた。
「アポロンの地獄」(1967伊)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 捨て子だったオイディプスは、コリントスの王に預けられすくすくと成長した。ある日、彼は母と交わり父を殺すという神託を受ける。予言を恐れた彼は、故郷を捨て荒野をさまよう中でライオス王と出会う。彼を殺害したオイディプスは、その足でテーバイへと赴き、そこで人々を苦しめる怪物スフィンクスを討伐する。
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(レビュー) ギリシャ悲劇「オイディプス王」をピエル・パオロ・パゾリーニが監督した作品。
有名な戯曲なので大筋は知った上での鑑賞である。ストーリー自体は特に大きな改変はなく、戯曲に則った内容になっている。
「奇跡の丘」(1964伊)で聖書を忠実に映像化したパゾリーニなので、このあたりは律儀である。
特に新味は感じられないが、長く愛されている名作だけに安定した面白さがある。皮肉に満ちたオイディプスの人生は実にドラマチックで見応えを感じた。
尚、この父殺しの話は、後にフロイトのエディプス・コンプレックスの語源にもなっている。
一方で、忠実に再現された物語とは裏腹に、演出にはパゾリーニらしい独特のユニークさがうかがえる。
例えば、オイディプスが神託を授かる場面は、彼の主観映像と彼の姿を捉えた俯瞰映像のカットバックで表現されている。主観映像では多くのモブが存在するが、俯瞰映像では彼一人の姿だけでモブは存在しない。父を殺し母と姦通すると予言されたオイディプスの動揺をこのようなシュールな映像演出で表現したところに彼の才覚が伺える。
また、本編の前と後に、中世の王室の物語と現代のスペインの物語が挿話されている。一見すると本編とは全く関係ない話に思えるが、実はこの3つは時代の変遷という点で深く繋がっている。中世、古代、現代という時代の流れの中で、君主制が崩壊して民主制が敷かれた歴史を見事に寓話という形で描いて見せているのだ。
まず中世の物語は王族の子息の目線で紡がれる禁断の愛憎ドラマとなっている。王妃に恋い焦がれる名も無き兵士が嫉妬に狂う様を寒色系の陰鬱なトーンで描いている。
続く本編では、オイディプス王が自らの運命を呪いながら王室を滅ぼし、更には自分の目を潰して国を去っていくまでの物語が描かれる。
そして、最後の現代編では、そのオイディプスと同じ俳優が演じる盲目の男が登場してくる。国を去ったオイディプスは最後に物乞いにまで落ちぶれるが、同じキャスト、目が見えない世捨て人という共通の設定から、この盲人は明らかにその後のオイディプスを象徴していると見ていいだろう。
このように解釈していくと、この映画は一人の王の”誕生”から”死”までを、中世→古代→現代と時代を変えながら描いていることがよく分かる。
かなり変則的な構成の映画であるが、これもパゾリーニらしい機知に富んだ作劇ということができのではないだろうか。
一方、演出で若干無頓着に思えるようなシーンが幾つか見られた。
オイディプスがライオス王と遭遇するシーン、スフィンクスの討伐シーン、オイディプスがイオカステーの寝室を訪ねるシーン。このあたりは演出が雑に思えた。映画らしいケレンミにも欠ける。こうした粗は、作品全体の鑑賞感を損なうほどのものではないが、完成度という点では少し勿体なく思う所である。
「奇跡の丘」(1964伊)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) べツレヘムの大工ヨゼフの婚約者マリアは、聖霊によって懐妊しイエスが生まれた。迫害を逃れるためエジプトからイスラエルに戻りガラリヤで成人したイエスは、ヨハネのもとで洗礼を受けた。その時、天から声かひびきわたり、イエスは神の子として覚醒する。
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(レビュー) イエス・キリストの奇跡の半生を美しいモノクロ映像で綴った作品。
監督・脚本はピエル・パオロ・パゾリーニ。
数々のスキャンダラスな作品で物議を醸したイタリアの巨匠である。自身が同性愛者だったことからも分かる通り、決して信心深いわけではなかった彼が、イエス・キリストの伝記映画を撮っていたというのは意外であった。
とはいっても、ほぼ聖書の内容をそのまま映画にしたような作りなので、果たしてそこにパゾリーニの宗教観がどれほど入っているのかは分からず、もしかしたら彼はキリストに特別な思い入れなど無いままこの映画を撮ったのではないか…という感じも受けた。
確かに、劇中にはキリストが起こす数々の奇跡が描かれている。病人を一瞬で治したり、湖の上を歩いたり等々。しかし、これらは聖書に記されたものであり、オリジナルのエピソードではない。しかも、パゾリーニはこれらを淡々と描いており、いたずらにドラマチックさを狙うような演出もしていない。
キリストの偉大さや功績を讃えるのであれば、ここは神々しく描くべきであろう。しかし、パゾリーニは敢えてそうしていない。客観的な眼差しでイエス・キリストの奇跡を淡々と描いてるのみである。
むしろ、ドラマチックということで言えば、終盤のユダの裏切りの方に盛り上がりを感じた。余りにも有名なエピソードなので知ってる人もいると思うが、ユダは金に目がくらみキリストをローマ側に売り渡してしまう。この場面におけるユダの心情に迫るようなパゾリーニの演出には魅了された。超然とした主人公キリストではなく、敢えて裏切り者である”人間”ユダの葛藤に迫ったことは興味深い。
こうした見応えを覚えるシーンもあるが、しかし全体的にはキリストの生涯をダイジェスト風になぞるドラマは決して新味はなく、余り面白みは感じない。キリストのことをまったく知らない人や聖書をかじったことがない人にとっては勉強になると思う。
一方で、映像については実に素晴らしい。
特に、クライマックスとなるゴルゴダの丘は壮大で迫力のある映像が続く。何と言ってもロケーションの素晴らしさが際立っている。このリアリズムには舌を巻いてしまった。
「魂のゆくえ」(2017米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) ニューヨーク州北部の小さな教会で牧師をしているトラー。かつて従軍牧師をしていた彼は、軍に送り出した息子が戦死したことで心に深い傷を負っていた。ある日、妊娠中の信徒メアリーから夫マイケルと話してほしいと相談される。マイケルは深刻な環境破壊が進むこの世の中を憂いていた。
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(レビュー) 悩める信者の魂を救えなかった牧師の葛藤を静謐に綴ったシリアスな人間ドラマ。
環境破壊に絶望するマイケルとメアリー夫妻と交流するうちに、トラーは次第に彼らの思想に感化され、やがて神に対する不信を募らせ過激な行動に出る。最終的にテロリストのようになってしまうのだが、それほどトラーはひどく追い込まれてしまった…ということなのだろう。
彼の行動に同調できるかどうかはさておき、今現在、世界を見ていると何となく彼のような人物が出てきてもおかしくはない…という気がした。
大企業による環境破壊。貧富の差がますます拡大していく格差社会。世界各地で行われる紛争。正に我々は混沌とした世界の中で生きている。
本作のマイケルは、こんな世の中で子供を育てたくない…という理由でメアリーに堕胎を迫る。トラーはそんなマイケルの苦悩を知り何とか救いたいと尽力するが、その力もむなしくマイケルは自らの命を絶ってしまう…。
神に祈ることですべて解決できればこんなに楽なことはない。しかし、実際には紛争は無くならないし、自然破壊も進んでいる。現実は非情だ。
マイケルは環境保護活動に勤しみ、結果として自分の命を縮めてしまった。その彼を救えなかったことはトラーの中で大きなトラウマとなっただろう。彼の信仰心は大きく揺らいだに違いない。
トラーの信仰に対する迷いを更に推し進めたのは、もう一つあると思う。それは自らの拠り所である教会までもが大企業の献金の上で成り立っている…という事実である。中立公正な教会とはいえ、全てを信者の献金だけで賄っているわけではない。そこには大きな経済も関与してくるわけで、もはや宗教と経済は切っても切れない関係にある。
実際にアメリカの共和党を支持する団体の中にはキリスト教福音派が存在する。これは大きな勢力を占めていて、大統領選挙にも強い影響力を持っている。彼らは堕胎や同性愛を固く禁じる保守派であり、宗教と政治も密接に繋がっているのである。
クライマックスが印象的だった。
トラーは、ついに信仰に背を向け過激な破壊行動に出ようとする。非常にスリリングに展開されているが、最後に一つの救いを提示してこのドラマは終幕する。予想の範囲内ではあるものの、この救いにはホッと安堵させられた。
監督、脚本はP・シュレイダー。若い頃はバイオレンスが得意な作家というイメージが強かったが、本作は意外にもじっくりと腰を落ち着けた静かな作品である。演出も正攻法で安定感があり、ここにきて円熟期の極みを見せている。
ただ、1か所だけエキセントリックな演出があり、個人的にそこは観てて戸惑いを覚えた。それはトラーとメアリーが身体を重ねて精神世界に没入する”マジカルミステリー・ツアー”のシーンである。二人の体が宙に浮いて自然風景の中を飛行するのだが、スピリチュアルに傾倒しすぎて今一つ馴染めなかった。
キャストでは、トラーを演じたイーサン・ホークが印象に残った。終始苦悶の表情を貫き、悩める牧師を切々と体現していて◎。
「最愛の子」(2014中国香港)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) 下町で寂れたネットカフェを営むティエンは3歳の息子ポンポンと2人暮らしである。ある日、ポンポンが何者かに連れ去られてしまう。ティエンはポンポンの母である元妻ジュアンとともに必死で捜索を続けるが、消息をつかめないまま時間ばかりが過ぎていく。
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(レビュー) 2009年に中国で実際に起こった児童誘拐事件を元に描いた社会派ヒューマンサスペンス。
中国ではここで描かれているような児童の誘拐事件が大きな社会問題となっているということだ。衝撃のドキュメンタリー
「一人っ子の国」(2019米)でも描かれていたので、ある程度は知っていたが、誘拐された児童と残された家族の悲しみを思うと実にやりきれない思いにさせられる。
本作が秀逸だと思う点は、誘拐された親だけでなく、誘拐した犯人サイドの親の苦悩も描いていることである。
確かに誘拐した犯人の罪は許しがたいものがある。どんな理由があれ、他人の子供を誘拐して自分のものにする道理はない。しかし、この犯人一家は、ある複雑な事情を抱えている。妻が不妊症で赤ん坊ができなかったのである。だからと言って、他人の子供を誘拐していいという話ではないが、彼女の苦悩を考えると一定の同情を覚えてしまう。
映画は前半を被害者のドラマ、後半を加害者のドラマに割り振っている。両者の視点を切り替えて描いた理由は明らかで、要するにこの問題はどちらも被害者であり、根本の問題は個人にあるのではなく国や政治、法律といった社会の枠組みの中にある…ということを言いたいのだろう。
本作には一人っ子政策に苦しむ一組の夫婦が登場してくる。ティエンとジュアンが通う集団セラピーの中の一組の夫婦なのだが、彼らは子供を誘拐されて何年も捜索している。しかし、ティエンたちと同じように未だに見つかっていない。その間にもう一人の赤ん坊が妻のお腹に宿る。ところが、役所に行って出生届を申請しようとすると却下されてしまう。行方不明になった子供の死亡届が出されなければ、新たに出産することは認められないというのだ。行方不明の状態では、当然死亡届は発行されない。夫婦はどうしていいか分からず途方に暮れる。これは明らかに制度上の不備であろう。
メインの誘拐事件に直接関係しないエピソードであるが、こうした国の一方的な政策によって理不尽な思いを強いられる人々がいるということが最も重要なのだ。だから誘拐事件も後を絶たないし、せっかく生まれてくる生命も無下に処分されてしまう。
監督は、切ない大人のラブロマンスを描いた「春の日は過ぎゆく」(2001韓国日香港)や、角膜移植手術をモチーフにしたアイディアが秀逸だったホラー「THE EYE」(2001香港タイ英シンガポール)などのプロデューサ、ピーター・チャン。監督業の経験も豊富で、そういう意味では映画作りの酸いも甘いも知り尽くしたベテランである。
彼の監督作は初見だが、演出自体は実に手練れていると思った。軽快な語り口でグイグイと観る側を惹きつける手腕は見事である。
また、脚本もよく出来ている。ティエンとジュアンの元夫婦の愛憎関係や、誘拐されたポンポンの無垢なる苦悩。加害者側の夫婦にはもう一人誘拐してきた子供がいて、その子供を巡る親権問題も発生する。複雑に絡み合った問題を”親子の絆”というテーマで集約して見せたプロットは見事と言えよう。
更に、認知症の母を抱える若き弁護士のエピソードや、都市と地方の経済格差に苦しむ労働者たちの姿など、周縁のドラマも充実している。ある種群像劇的な広がりを見せながら、作品の鑑賞感を豊饒なものとしている。
尚、ラストには本作のモデルとなった人々が登場してくる。やや感動の押し売り的な嫌らしさは感じるものの、やはりその姿には心を痛めるしかなかった。
キャストでは、誘拐犯の妻を演じたヴィッキー・チャオの熱演が素晴らしかった。快作「少林サッカー」(2001香港)で頭を丸めたあの少女が、ここでは子供に恵まれない女性の悲痛な思いを切々と語っている。