「シルバー・グローブ/銀の惑星」(1987ポーランド)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス
(あらすじ) ある惑星に調査のために宇宙船が不時着する。数名の乗員が命を落とし、生き残ったのはマルタとヒョートル とイェジーだけだった。広大な砂漠の中でサバイバルが始まるが、その中でマルタとヒョードルの間に赤ん坊が生まれる。それから数十年の歳月が流れ、ただ一人生き残ったイェジーはここでの暮らしを記録して、それを小型ロケットに乗せて地球に向けて発射した。地球ではその記録映像を受け取ったマレックが惑星調査に乗り出す。
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(レビュー) ある惑星に不時着した地球人のサバイバルと、その子孫に託された数奇な運命を、数世代に渡るドラマで綴った壮大な映像叙事詩。
監督、脚本はポーランド映画界の鬼才A・ズラウスキー。彼の叔父であるイェジー・ズラウスキーの長編小説「月三部作」(未読)の1部と2部を映像化したSF大作である。
尚、今作は製作の途中でポーランド政府から撮影中止の命令がくだされ、残りの5分の1を残して未完となってしまった。冒頭で監督自身の口からその経緯が説明されている。
その後、1987年になってズラウスキーが未撮影の箇所を現代のポーランドの町並みで再撮して、監督自身のナレーションを入れることでようやく完成にこぎつけたらしい。
中止になった理由は莫大な製作費のせいだったということだが、それは表向きで実は反共産主義的な内容だからだという説もある。確かに映画を観ればその説はあながち間違っていないようにも思う。
いずれにせよ約3時間に及ぶ大作であり、かつズラウスキー映画らしく難解で哲学的な内容のため、観る人を確実に選ぶ作品だと思う。自分も1回観ただけではすべてを把握することはできなかった。以下に原作者であるイェジー・ズラウスキーのウィキペディアを記しておく。おそらくこのページの「月三部作」の項を見ると、本作の理解に役立つことと思う。
イェジー・ズラウスキー(ウィキペディア) 物語は大きく分けて前半と後半に分けられる。前半は地球によく似た未開の惑星に不時着した宇宙飛行士たちのサバイバルを描く探査モノとなっている。とはいっても、ハリウッド製アクション映画のような冒険活劇ではなく、ひたすらイェジーが捉えた記録映像、つまりPOV形式で進む日常描写で占められている。
後半は、彼らが残した記録映像を頼りにマレックが惑星に降り立ったところから始まる。すでに惑星にはマルタの産んだ子孫が家族を形成しており、一個の集落ができている状態である。そこでマレックは神のように人々から崇め奉られていくようになる。
夫々見応えがあるが、特に後半のドラマは、惑星の先住民族であるシェルン(鳥人間)との戦いがスペースオペラよろしく描かれており面白く観ることができた。
例によって、ズラウスキー映画らしい演者の熱量高目なパフォーマンス、手持ちカメラによる臨場感あふれる映像、神に対する考察や哲学論といった観念的なセリフが続き、物語云々という以前に、まずこの圧倒的なパワーに引き込まれた。
また、途中でメタ視点で語るようなセリフも見られる。
例えば、マレックが突然「演じることは何か?」を語ったり、映画のラストでズラウスキー監督本人が登場して自身の口から物語が締めくくられている。こうした複雑な構成が入り混じるので、この映画は更に難解さを増しているような気がした。
映像は実に素晴らしい。
大海原をバックにした美観が作品世界にスケール感をもたらしている。全体的に青みのフィルターがかかっており、どこか空虚で詩的な雰囲気を漂わせるも、いかにもズラウスキー映画らしく格調高い。今回はSFというジャンル故、更に荘厳さが加わったという印象だ。
最も印象に残ったのはラストシーンである。磔にされたマレックは、明らかにゴルゴダの丘のキリストの姿を連想させる。美醜の極みと言わんばかりの映像に魅せられた。
しかも、安易に信仰の啓蒙に傾倒しないどころか、それを痛烈に皮肉っているのがズラウスキーの凄い所である。つまり、神は人間によって祭り上げられた虚像に過ぎず、その神をいとも簡単に殺してしまうのもまた人間であるという現実。宗教は人間がコミュニティを統治する上での一つの手段でしかない…と言っているかのようである。
尚、本作を観てアレクセイ・ゲルマンの傑作
「神々のたそがれ」(2013ロシア)を思い出した。あれも地球から遠く離れた惑星で行われる争いの歴史を風刺を交えて描いた野心的なSF映画だった。かつてのポーランドと現在ロシアでは時代や環境が異なるものの、いずれも共産主義国という点では共通している。そのあたり念頭に入れて両作品を並べてみると色々と興味深い共通点が見つかるかもしれない。
「ハードコア」(2016ロシア米)
ジャンルSF・ジャンルアクション
(あらすじ) 見知らぬ研究室で目を覚ました男ヘンリーは、彼の妻だと名乗るエステルによって死にかけていた体をサイボーグに改造されて蘇生した。その直後、謎の男エイカン率いる武装集団に襲われ、エステルを誘拐されしまう。ジミーという男に窮地を救われたヘンリーは、彼の協力を得てエステル救出へ向かうのだが…。
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(レビュー) サイボーグの体に改造された男が、謎の集団の陰謀に巻き込まれながら壮絶な戦いを繰り広げていくSFアクション映画。
POV形式の映画も一時の流行りに比べたら大分すたれた感じがするが、やりようによってはまだまだ新鮮に観れるものである。本作は全編にわたって主人公ヘンリーの一人称で進むPOV形式の作品である。
ゲームで言えばFPSゲームに近い感じと言えばいいだろうか。目の前に現れた敵を次々と銃や格闘術で倒していく。カメラが縦横無尽に動き回るので、人によっては画面に酔うかもしれない。
何と言っても、見どころはこの革新的な映像である。一体どうやって撮影したの?と驚かされることしきりである。
例えば、ビルからロープをつたって歩いたり、走る車から別の車に飛び移ったり、飛んでるヘリからダイブしたり等々。
何せ主人公は不死身のサイボーグなので、普通の人間ではできないアクションを軽々とやってのける。基本的にスタントマンが頭に小型カメラを取り付けてアクションしているのだろうが、一部ではリアルでは不可能と思える映像も出てくる。おそらくかなりCGは使われているのだろう。
ただ、逆に言うと、ヘンリーが無敵すぎるため、アクションシーンにおけるスリリングさは余り感じられない。
一方、ストーリーはあるにはあるが、至極簡素である。エイカンの陰謀もこの手の作品ではお約束的な物であるし、エステルの裏切りも想定内だった。
唯一、途中から登場するジミーの存在は少し意外性があって面白かった。実は彼はコピー人間で、他にも様々なジミーが登場してくる。彼を操るオリジナルの正体は後半に明かされるが、そのバックボーンが作中で最もドラマが効いていたように思う。
アクションシーンは、強烈な人体損壊描写もあるので好き嫌いが別れそうである。ただ、スピード感あふれる映像が貫通されているため気になるほどではなかった。
監督はロシアのパンクバンドのフロントマンということらしい。処女作らしいので色々と粗い部分もあるが、何をやりたいのか、目的がはっきりしているのが良い。
ただ、こういうスタイルは一発狙いならともかく二度目は厳しいだろう。監督としての力量は次の作品で試されそうな気がする。
「アップグレード」(2018米)
ジャンルSF・ジャンルアクション
(あらすじ) 愛する妻と幸せな日々を送っていたグレイは、ある日突然、謎の組織に襲われ、妻を殺され自身も全身麻痺の重傷を負ってしまう。失意に暮れるグレイのもとに、巨大企業の天才発明家がやって来る。開発中の最新AIチップ“ステム”を埋め込まれたグレイは再び体の自由を取り戻し、憎き犯人の行方を捜し始める。
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(レビュー) 最新AIチップを埋め込まれた男が超人的なパワーで悪人たちに復讐を果たしていくSFアクション作品。
よく人間は脳の10%しか使ってないと言われるが、もし最新AIチップで今以上の能力を引き出せたら…という夢のような物語である。
実際にそんなに上手くいくのかという疑問は置いておき、映画としてこのアイディアはすこぶる面白い。
グレイは脳内のAIチップ”ステム”と会話しながら自分と妻を襲った謎の組織に戦いを挑んでいく。情を持った人間と合理的な機械では思考が違うので当然対立もするのだが、二人(?)は同じ肉体に宿る運命共同体として一緒に戦っていく。ちょうどバディ・ムービーのような感覚で楽しめる。
また、超人的なパワーを手にするというのもロマンがあって面白い。普通の人間がもしスーパーヒーローになったら…というのを、そのままやっているわけで、これはほとんど漫画的なノリである。
一方、ストーリーは実にシンプルである。黒幕の正体も容易に想像がつくので、もう少し捻りが欲しい。正直、物足りなかった。
ただ、ラストはいい意味で予想を裏切る終わり方になっている。普通であればハッピーエンドで終わらせるところを、この映画はAIの恐怖というメッセージを提示してドライに締めくくっている。
監督、脚本はリー・ワネル。「ソウ」シリーズの脚本家から出発し、「インシディアス 序章」(2015米)で監督デビューをした作家である。「インシディアス 序章」は未見だが、今作を観る限り演出は軽快で中々手練れていると思った。
また、「ソウ」シリーズからすでにその才能は買われていたが、新鮮なアイディアを物語に上手く組み込むことに長けた作家のように思う。AIチップという未来のガジェットを人間の肉体に宿らせることで、一人の男の破滅と再生を描いた所に本作の妙味がある。
確かにバレバレなミスリードなど工夫が足りない部分もあるが、それを補って余りある秀逸なアイディアは新鮮である。
「リバース」(1997米)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス・ジャンルアクション
(あらすじ) 女性刑事カレンは、テキサスの砂漠で車がクラッシュして途方に暮れていた。しばらくすると1台の車が通りかかり、同乗させてもらう。車を運転するフランクとレイアンの夫婦は仲睦まじく見えたが、その道中でレイアンが浮気していることが発覚する。逆上したフランクは彼女を殺害してしまう。
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(レビュー) タイムマシーンで過去に戻った女性刑事の奔走をスタイリッシュな映像で描いたSFサスペンス作品。
タイムマシーンの研究所のしょぼさや、登場人物の少なさなど、明らかに低予算だということが丸わかりだが、アイディア勝負の小品として見れば十分に満足できる作品だと思う。
逆に、話を大きく膨らませなかったことで、作品自体はコンパクトにまとめることに成功している。
カー・アクションや銃撃戦等の映像的迫力も十分あるし、どんどんドツボにハマっていく皮肉的なユーモアも中々に楽しめた。
カレンは殺人鬼フランクと対峙するために、タイムマシンで20分前に戻って、彼の殺害を阻止しようとする。しかし、ことはそう上手く運ばない。逆に被害が拡大してしまい、仕方なくカレンは更にそれ以前に戻って過去をもう一度やり直そうとする。
人間は誰しも過去を悔い、もう一度やり直したい…と思うことがある。しかし、実際に戻れたとしても、そう都合よく自分の思うようには過去を書き換えることなどできない。そういう意味では、本作は非常に現実主義な作品になっている。
難は、タイムリープの瞬間にカメラがグルグル回るというチープな演出だろうか…。古い作品ならまだしも、この時代にこの演出はないだろう。他は良いのに、ここだけ何故か飛びぬけて陳腐である。
「あやつり糸の世界」(1973西独)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス
(あらすじ) サイバネティック未来予測研究所が開発中の<シミュラクロン1>は、電子空間に仮想世界を構築し、高度なシミュレーションによって政治や経済などの未来予測を行う画期的なシステムだった。ある日、開発者のフォルマー教授が急死し、後任にシュティラーが任命される。だがその直後、彼にフォルマーの最期の様子を伝えようとした同僚ラウゼが忽然と姿を消してしまう。
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(レビュー) バーチャルワールドの開発に従事する男が謎めいた陰謀に巻き込まれていくSFサスペンス作品。
「マトリックス」シリーズなどでお馴染み、仮想現実を題材にした作品だが、本作が製作されたのは1973年というから、それよりもかなり前である。
尚、本作には原作小説がある。1964年に刊行された「模造世界」(未読)という小説である。
同時代にはフィリップ・K・ディックも活躍していた頃であり、
「トータル・リコール」(1990米)の原作としても有名な「記憶売ります」は1966年に刊行された氏の小説である。この頃はこうした題材を扱った小説が流行っていたのだろうか?
いずれにせよ、現代では当たり前のようになっている仮想現実を取り扱っているという点では先見の明があった小説だったのではないかと思う。
監督、共同脚本はライナー・ヴェルナー・ファスビンダー。ニュー・ジャーマンシネマの代表格にして、その独特の作家性で多くのファンを魅了する孤高の映画監督である。その特徴は、遺作となった「ファスビンダーのケレル」(1982西独仏)などを観るとよく分かる。人工的で耽美的で劇場空間的な映像設計をする稀代のビジュアリストと言って良いだろう。
その彼が演出するのだから、今作も通俗的なSF映画にはなっていない。ゴダールの「アルファビル」(1965仏伊)、トリュフォーの「華氏451」(1966仏英)といった作品に通じるような観念的且つ禁欲的なSF映画になっている。ハリウッドで製作されるような明快で派手なエンタテインメントは皆無で、実に渋い作品である。
まず、何と言っても目に付くのは、計算されつくされたプロダクションデザインである。無機的で冷たい感じを漂わせたブルーのトーンの中に、鏡やガラスといった舞台装置が至る所で主張されている。まるでこの映画のモチーフである仮想世界を象徴するかのようなシュールで幻想的な映像が横溢する。
物語的にも現実なのか幻想なのか判然としないようなシーンが続く。
シュティラーは失踪したラウゼのことを周囲に尋ねるが、誰も知らないと答える。そうこうしていくうちに、彼はこの世界が本当は仮想世界なのではないかと疑うようになっていく。
ファスビンダーの演出は実に淡々としている。SFというジャンルにおいては地味と言わざるを得ないが、逆に氏のこの資質はいい意味でシュティラーの現実世界に対する疑念、大きな陰謀の静かなる気配をそこはかとなく観る側に意識させ、作品を不気味に盛り立てている。
尚、本作は元々はテレビムービーとして製作された作品である。そのため低予算、短時間、16ミリ撮影という制限された条件の中で作られた。日本では随分後年になってから、それを編集して劇場公開された。前後編合わせると210分を超える大作となる。
正直、話が割とシンプルなので3時間半を超えるこの長さはさすがに水っぽく感じられた。娯楽要素が少ないので余計にそう感じてしまうのかもしれない。この内容であれば、2時間程度がちょうどいいのではないか…という気がした。
ただ、先述したように、鏡やガラスを使った幻惑的な映像には目を見張るものがあるのも確かで、妙に引っかかる作品である。
また、ファスビンダーのSF映画というのも大変珍しく、氏のフィルモグラフィーの中では異彩を放つ作品であり、ファンであれば一見の価値があろう。
「パーティで女の子に話しかけるには」(2017米)
ジャンルSF・ジャンルロマンス
(あらすじ) 1977年のロンドン。パンク好きな高校生エンは、ある日、ライブの帰りに不思議なパーティに迷い込み、そこでザンという少女と出会う。規則だらけの生活にうんざりしていた彼女はエンが語るパンクに興味を持ち、パーティを抜け出して一緒に街へ繰り出すのだが…。
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(レビュー) 平凡な高校生が宇宙人の少女と恋に落ちるSFロマンス作品。
ボーイ・ミーツ・ガールの定番物語であるが、相手の少女が宇宙人という設定で、彼らの儀式や思考が一風変わっているため非常にユニークな作品となっている。
例えば、宇宙人のパーティーは倦怠感漂う雰囲気で、どこか前衛芸術のような摩訶不思議さがある。彼らのセックスも独特で、性交中にオーガズムに達するとマジシャンよろしく”ある物”を体から出してしまう。
個人的にはパンクと宇宙人という組み合わせから、伝説のカルト作「リキッド・スカイ」(1982米)を連想した。
また、緑のエメラルドという小物が登場するあたりには、宇宙人とロック・アーティストの禁断のホモセクシャルな恋を描いた
「ベルベット・ゴールドマイン」(1998英)も連想させられた。
ビジュアル的には非常にユニークな作品であるが、一方のドラマはというと、こちらは結構古風なものである。ロミオとジュリエット的な…と言ってしまったら身も蓋もないが、要するに人間と宇宙人の恋愛という、種族の違う男女が大恋愛を演じるという普遍的な内容である。
ただ、ラストにかけて、この映画はかなり壮大なテーマにまで言及していくようになり、そこはいい意味で裏切られた。
エンは過去に父親から捨てられたというトラウマを抱えている。ザンたちエイリアンは親子間で”ある奇抜な慣習”が行われている。エンとザン、夫々の親に対する反発、わだかまりから、血縁、生命の連鎖といった壮大なテーマが導き出されていく。
一見するとチャーミングなロマンス映画に見えるのだが、ここまで風呂敷を広げるとは予想できなかった。しかも、その風呂敷がエピローグで見事に収束されるのでカタルシスも感じられる。
監督・共同脚本はジョン・キャメロン・ミッチェル。「ヘドウィグ・アンド・アグリー・インチ」(2001米)、
「ラビット・ホール」(2010米)と、佳作ながら独特の作品を作り続けている作家である。今作もそうだが、一風変わったユニークな作品が多い。
特に、今回は昔のB級SF映画のようなノリが散見され、そこが面白く観れた。
キャストではザンを演じたエル・ファニングの魅力。これに尽きると思う。パンク・ファッションで熱唱する姿が愛らしく、他にも様々な顔を見せている。ある種アイドル映画として、ファンなら垂涎ものだろう。
一方のエン役の俳優は、申し訳ないが今一つだった。確かに平凡な高校生という設定なので、これはこれで合っているのかもしれないが、ザンが心を寄せるだけの魅力が余り感じられなかった。
他に、音楽プロデューサー役でN・キッドマンが登場してくる。意外な役どころで驚かされた。
「パージ」(2013米)
ジャンルサスペンス・ジャンルアクション・ジャンルSF
(あらすじ) 1年に1晩だけ犯罪を合法とするパージ法が施行された。これにより犯罪率が下がり、アメリカはかつてない平和な時代を迎えていた。今年もその日がやってくる。セキュリティ・システムのセールスマン、ジェームズは妻メアリー、2人の子どもたちと完璧な防犯システムが備わった家でこの日を迎える。ところが、息子のチャーリーが、家の前で助けを求めていた見知らぬ男を家の中に入れてしまったことで、思わぬ危機に巻き込まれてしまう。
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(レビュー) 1年に一晩だけ犯罪を合法化する法律”パージ法”というアイディアが秀逸である。
日常生活の場が無法地帯と化した時、人はどのように豹変するのか?あるいは、どのようにサバイバルするのか?ある意味で、これは人間の本性を露わにするシミレーションのようでもある。
一応、SFという設定だが、何せ低予算な小品ゆえ、ほとんど現代と変わらぬ世界観となっている。また、家の中を舞台にしたワンシチュエーションの映画なので、随分とこじんまりとした作風である。
ただ、このチープさが奏功し、かなりリアルな恐怖を創り出すことに成功している。
傑作なのはクライマックスである。文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図と化していくのだが、そこに前半でチャーリーが助けた黒人浮浪者が再登場する。彼の立ち回りは意外性があって面白かった。
また、本作には強烈な風刺が込められていて、そこも興味深く観ることができた。
この世界では現代より更に貧富の差が拡大していて、富裕層はパージ法を利用して浮浪者を標的にマンハント・ゲームを楽しんでいる。これも人間の醜悪さをよく表していると言えるが、本作はクライマックス・シーンでこれを痛烈に皮肉っているのだ。この映画がただの見世物スリラーで終わっていないのは、この部分である。この痛烈なアイロニーが発せられていることで、作品としての歯ごたえが生まれている。
尚、本作を観て「ジョン・カーペンターの要塞警察」(1976米)やD・フィンチャー監督の
「パニック・ルーム」(2002米)を連想した。屋内を舞台にしたワンシチュエーションの攻防戦という物語が共通している。
監督、脚本はジェームズ・デモナコ。初見の監督さんだが、どうやら脚本家出身の作家らしく、過去には先述した「ジョン・カーペンターの要塞警察」をリメイクした「アサルト13 要塞警察」(2005米仏)の脚本も書いている。そのフィルモグラフィーを知ると、なるほどと思える。
尚、今作は全米でスマッシュヒットを飛ばしシリーズ化された。現在までに映画が4本とテレビシリーズ1本が製作されている。
「真夜中の処刑ゲーム」(1982米)
ジャンルアクション・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 警官がストライキに突入した夜。無法地帯と化した街に“ニューオーダー”と称する自警団が出現し、ゲイバーを襲撃する。彼らは次々に客と店員を殺し始めた。たった一人、隙を見て逃げた青年がアパートの一室に助けを求めるのだが…。
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(レビュー) 警察がストライキに突入した夜の街で、自警団を称してゲイを処刑する殺人集団と、唯一逃げ延びたゲイの青年を匿う若者たちの壮絶な戦いをスリリングに描いたスアクション映画。
低予算のB級映画ながら、スピード感と緊張感みなぎる演出がすこぶる快調で最後まで面白く観ることができた。
物語はたった一夜の出来事であり、ドラマ的にはそれほど目を見張るものはない。ただ、ラストのオチが捻りが効いてて良い。
一方、本作はアクションの見せ場に関しては事欠かない。
何と言っても、銃を持った自警団を迎え撃つアパートの住人達の知恵を絞った戦い方がゲーム感覚で面白く観れる。
例えば、アーチェリーを改造して凶器にしたり、侵入を防ぐためにドアにトラップを仕掛けたり、どうしてそんなものを持っていたのか分からないが釘や画鋲で小型爆弾まで作ってしまう。こうした手製の武器が良い味を出している。
また、キャラクターもそれぞれに魅力的に描けている。
ゲイの青年が逃げ込むアパートには5人の若者たちが籠城する。気の優しい兄貴分なホレイショ、彼の恋人バーバラ、理系派で何でも武器を作ってしまう者、異様に聴覚が優れた盲目の青年等。
対する自警団のメンバーも、血の気の多い者からちょっと臆病な者まで、しっかりとキャラの色分けされている。中でもリーダーのケイブは冷酷無比で一際印象に残った。サイレンサーの銃でゲイバーの客を淡々と撃ち殺していくシーンの異様さが強烈なインパクト残す。
ただ、本作は厳しい眼で見てしまうと色々と突っ込み所が散見され、完成度という点では決して高いわけではない。
例えば、アパートの階下に住む中年男の扱いなどは失笑物であるし、あれだけ派手なドンパチをしているのに周辺の住人はまったく登場しないというのも不自然である。
監督、脚本はポール・ドノヴァン。フィルモグラフィーを見ると、どうやら主にB級映画を撮っている監督のようである。代表作と呼べるようなものはないが、最近までテレビシリーズの演出やプロデュースをしていたので腕はあるのだろう。この映画しか観てないが、サスペンス演出に限って言えば非常に見せ方が上手い。ホレイショの部屋と隣の部屋を繋げる小窓の使い方などは秀逸だと思った。
尚、本作を観てJ・カーペンター監督の「要塞警察」(1976米)を思い出した。あちらも同じようなシチュエーションの籠城モノだった。そちらも傑作である。
「マップ・トゥ・ザ・スターズ」(2014カナダ米仏独)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) ハリウッドのセレブ一家、ワイス家。父スタッフォードは、TV番組を持つ有名なセラピストとして活躍している。息子ベンジーは子役としてブレイク中である。母クリスティーナは、息子のマネージャーとして精力的に活動していた。一方、スタッフォードのセラピーを受けている落ち目の女優ハヴァナは、今度の新作に意欲を傾けていた。ある日、彼女の前に顔に火傷の痕がある少女アガサが現れる。ハヴァナは彼女を気に入り個人秘書として雇い入れるが…。
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(レビュー) ハリウッドのセレブ一家にまつわる秘密を凄惨な描写を交えて描いたサスペンス・ドラマ。
実名がバンバン出てくるのでハリウッド内幕モノ的な面白さもあるが、本題はそこではないように思う。これはある一家の凄惨な過去を暴いていく恐怖のホームドラマだと思う。
監督はD・クローネバーグ。ホラー、スリラーを得意とする監督だけに、その資質は本作にもよく表れている。
ワイズ家の家族関係は非常に複雑怪奇である。スタッフォードとクリスティーナの禁忌を犯した夫婦関係。長男ベンジーの薬物依存症の過去。そして、家族全員が触れたがらない長女の存在…。物語を追いかけていくうちに、そのあたりの家族の秘密と過去が徐々に明らかになっていく。まるでミステリーを紐解くような構成が興味を惹きつける。
その一方で、本作は落ち目の女優ハヴァナのドラマも展開される。彼女の母はかつての名女優で、ハヴァナは母と同じ役を演じることになり、その影に怯える。そんなある日、顔に火傷を負ったアガサという少女と出会い、彼女は精神的な安定を取り戻していく。但し、アガサにはある秘密があって、そこが本ドラマの大きなカギを握っている。
映画は終盤に入ってくると、この二つのドラマが運命的な結びつきを見せていく。ワイズ家の過去にもハヴァナの過去にも”火災”という事件が関係しているが、これは宗教的に見ても道徳的に見ても実に意味深で興味深く考察できる。
ただ、物語はそれなりに面白く追いかけて見れるのだが、ではテーマは何なのか?と聞かれると答えに窮してしまう。
果たして皮肉と毒を利かせた家族のドラマなのか?だとしたら何故ハリウッドを舞台にしたのか?その理由がよく分からなかった。
ハリウッドを舞台にしたのには、それなりの理由があるはずだろう。しかし、その意図が余り感じられない。単に人間の虚栄を暴きたいのであれば、別にハリウッドである必要性はない。わざわざハリウッドで活躍する有名人の名前を実名で出しているのだから、もう少し突っ込んでショウビズ界隈に毒付くようなネタがあっても良かったように思う。
ラストに関しても、やや凡庸に堕した気がした。ドロドロした家族の愛憎をこうも綺麗にまとめられてしまうとなんだか物足りなさを覚えてしまう。クローネンバーグであればなおのこと、もう少し捻りと強烈さが欲しかった。
キャストではハヴァナを演じたジュリアン・ムーア、アガサを演じたミア・ワシコウスカが印象に残った。終盤の二人のやり取りは、ほとんどホラー映画のような恐ろしさで見入ってしまった。
「ザ・ブルード/怒りのメタファー」(1979カナダ)
ジャンルホラー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) フランクは幼い娘キャンディと二人暮らし。母ノーラは精神疾患を患いラグラン博士の元で治療を受けていた。しかし、フランクはその療法に疑問を抱いていた。というのも、面会に行っていたキャンディの体に虐待の後が残っていたのだ。フランクはノーラが折檻しているのではないかと睨むのだが、ラグラン博士はこれを否定した。フランクは本格的に調査を開始するのだが…。
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(レビュー) 得体の知れぬ怪物に襲われながら精神科医の恐るべき計画に迫っていく戦慄のホラー。
監督、脚本はD・クローネンバーグ。流石に鬼才ということもあり、中々斬新なホラー映画である。
言ってしまえば、本作はタイトルにもある通り人の”怒り”がモチーフとなっている。この”怒り”はノーラの”怒り”であり、その原点は彼女の過去にまで遡る。
その秘密は彼女の両親の登場によって序盤で早々に想像できるのだが、だからといって退屈するというわけではない。怪物の影をちらつかせながら上手くストーリーを組み立てており、このあたりの上手さにクローネバーグの才覚が伺える。
また、単なるモンスター映画だけで終わらせるのではなく、怪物の誕生にノーラの意識を介入させた所にアイディアの妙が感じられる。これもいかにもクローネンバーグらしい所で、「ビデオドローム」(1982カナダ)、「裸のランチ」(1991カナダ英)、「イグジステンス」(1999カナダ英)等、後に肉体と精神のグロテスクな融合を追及した彼の素養が見て取れる。彼のフィルモグラフィーを語る上では、本作は外せないだろう。
演出は実に端正にまとめられている。ただ、後の独特な美的感性はまだそれほど強く出ているわけではない。氏らしいエロティズムとグロテスクの混在も、終盤のノーラの異形の姿に見られるが、低予算の映画なので派手さはない。逆に、この1点集中な”見せ場”に賭けた作りはプロの芸当とも言える。正直、怪物の造形自体はそれほど恐ろしくはない。一番恐ろしかったのはこの時のノーラの姿だった。
キャストでは、ノーラを演じたサマンサ・エッガーの怪演が印象に残った。精神疾患者という役で、終始目を見開いたエキセントリックな演技が続く。彼女の代表作と言えば、W・ワイラーの傑作「コレクター」(1965米)が思い出されるが、本作の演技も中々のものである。