「ヨーロッパ横断特急」(1966仏スペイン)
ジャンルサスペンス・ジャンルファンタジー
(あらすじ) ヨーロッパ横断鉄道の個室で映画製作者たちが新作の打ち合わせをしていた。パリからベルギーに麻薬を運ぶ男エリアスが主人公の犯罪映画である。すると、同じ列車に物語の主人公エリアスが同乗してくる。彼は組織の命令で麻薬が入ったスーツケースをベルギーに運び込もうとしてた。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 映画製作者たちの新作の打ち合わせと、その新作の「物語」を交錯させながら、シュールに展開される一風変わった作品である。
本作がユニークなのは、現実の映画製作者たちの「物語」と、彼らの創造物である「虚構の物語」が時々同じシチュエーションに同居することである。いわゆるメタフィクションというやつで、これが実に面白く、今作を独特の作風に仕立てている。
監督、脚本はアラン・ロブ=グリエ。監督デビュー作である
「不滅の女」(1963仏)からして、特異な作家性を発揮していたが、今回も現実と虚構をごちゃ混ぜにした作りという点では共通している。しかし、「不滅の女」ほど現実と虚構の境界線は曖昧ではない。映画製作者たちのドラマは列車の客室での会話劇として独立し、エリアスの物語とは完全に切り分けられている。
メインとなるのは、そのエリアスの物語の方である。麻薬の入ったスーツケースをパリからベルギーまで運ぶのだが、その道中で彼は組織の支持を受けながら様々な奇妙な人物たちに出会っていく。
中でも白眉なのがエヴァという女性である。
彼女は深夜のバーでセクシーなショーを披露する自称”令嬢”で、エリアスは彼女にのめり込んでいくようになる。しかも、このエリアスにはSM趣味があり、エヴァをロープで縛って抱くのだ。エヴァは一体何者なのか?そのあたりも含めて観ると、この映画はより一層楽しめると思う。
他にも、組織が指定した場所に必ず現れるサングラスをかけた盲人の男、刑事を名乗りながら組織の伝達役を務める男、気の優しいカフェの給仕等、癖を持った人物たちが登場してくる。
基本的にはフィルム・ノワール調の物語であるが、こうしたユニークな人物たちを含め、要所にコメディとも思えるような演出がふんだんに盛り込まれており、その点でも楽しく観れる作品になっている。
但し、終盤で死んだはずのエヴァがSMクラブのステージに登場する辺りは、さすがに戸惑いを覚えたが…。前作の謎の美女同様、ここでも虚像の不滅性を大胆に提示して見せるあたりにロブ=グリエの真骨頂が伺える。基本的に氏は女性という存在に神聖性を見ているようだ。
映画は、最後に映画製作者たちの物語とエリアスの物語を再度交錯させて終わる。これもやはりロブ=グリエらしい遊び心に満ちたアイディアである。果たしてエリアスは劇中の人物だったのか?それとも現実にいた人物なのか?それが分からなくなってくる。
尚、演出はヌーヴェルヴァーグ、というよりもゴダールの影響が強く見て取れる。
例えば、不整合なモンタージュの組み合わせ、音あるいは無音の使い方、そしてB級犯罪映画を敢えてパロディのように取り入れた所に、ゴダールの「気狂いピエロ」(1965仏)や「勝手にしやがれ」(1960仏)の影響が感じられる。しかも、劇中に夫々の作品に主演したジャン=ポール・ベルモンドのポスターが出てくるのだから、明らかにロブ=グリエはこの2本を意識しているだろう。
エリアスを演じるのは名優ジャン=ルイ・トランティニャン。冷酷さを前面に出した演技が中々堂に入っていた。
劇中の映画監督役はアラン・ロブ=グリエ本人が演じている。また、隣に座っているスクリプターは彼の妻ということである。このスクリプターがロブ=グリエの考えたストーリーの矛盾点を次々と冷静に突っ込みを入れるのが可笑しかった。
「不滅の女」(1963仏)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) イスタンブールで教師をしている男は、ある日波止場で一人の美女に出会う。彼女を自宅のパーティーへ招待した後、二人は急接近。邂逅を重ねていくうちに惹かれあっていくのだが…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 謎の女に翻弄される中年男の姿を幻想的に描いたサスペンス・ロマンス。
監督・脚本はアラン・ロブ=グリエ。アラン・レネ監督の「去年マリエン・バードで」(1960仏伊)で脚本を書いた彼が、その2年後に監督した長編デビュー作である。現実とも幻想とも言えないつかない浮遊感が全編を覆いつくし、観てるこちらも主人公の身になって翻弄されてしまった。
物語自体はシンプルである。主人公の教師は魅惑的な女に出会い恋に落ちるが、彼女は自動車の運転中に事故死する。教師は彼女を忘れられず、彼女と歩いた道や寺院を訪れて思い出に浸るうちに、彼女は本当に存在してたのか?本当に死んだのか?という妄想に駆られていくようになる。
淡々とした演出が続くので、退屈する人はいるかもしれないが、個人的には最後まで目が離せなかった。物語を追いかけるというよりは、次々と流れてくる幻想的な光景に心奪われてしまった。
女は様々な場所で教師の前に現れる。ファッションや髪型がバラバラなので、このシーンはどのシーンと繋がっているのかさっぱり分からない。
もちろんこれはロブ=グリエの計算なのだろう。教師にとっての女=<幻想>ということで、敢えて整合性のない演出をとっているのだと思う。
中盤で、女は暫く教師の前から姿を消し連絡が取れなくなってしまう。寂しさに耐えかねた教師は彼女と一緒に連れだった場所や、彼女を知る関係者に情報を聞いて回るのだが、不思議なことに彼女のことを誰も知らないと言う。これも女の存在をあやふやなものとする演出だろう。
本作には他にもシュールな演出は横溢する。
例えば、背景のモブは一様に動かず止まっているシーンがある。まるでこの世界が教師と女だけしかいないように見える。
あるいは、キャラの視線が微妙にかみ合わなかったりするシーンもある。
極めつけは、冒頭で女の傍にいたサングラスの男の存在である。画面にたびたび登場してくるが、彼に関しては一切の説明がない。教師もまったく眼中にないため、物語的には完全にカヤの外に置かれている。しかし、自動車事故の直接の原因となった犬を連れて歩いていたし、明らかに画面に定着したキャラとしてひときわ目を引く存在で、何かしら重要な役割を持たされていることは間違いない。
個人的な解釈では、彼は女共々、悪魔的な存在で、主人公の教師を罠にかけたのではないか…と睨んでいるのだが…。
尚、本作はイスタンブールの風光明媚な景観がたくさん登場するので観光映画的な楽しみ方もできる作品である。美しい海岸や古式ゆかしい寺院等、目で見ても楽しめる映像作品になっている。
「TATSUMI マンガに革命を起こした男」(2010シンガポール)
ジャンルアニメ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 新聞社に4コマ漫画を投稿していた辰巳ヨシヒロは、高校卒業後、プロの漫画家を目指すべく上京する。そして、自らが描く大人向けの漫画を“劇画”と命名して精力的な執筆活動を行っていく。彼の作品は劇画ブームの火付け役となっていく。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 漫画界に一大旋風を巻き起こした”劇画”の名付け親、辰巳ヨシヒロの短編5本をオムニバス形式で構成したアニメーション作品。
辰巳ヨシヒロのことを全く知らずに観たのだが、海外では結構有名らしく、この映画もシンガポールの作家が監督をしている。
日本にいると当たり前のように劇画に触れているが、それがこういう形で生まれたのか…ということが知れて興味深く観れた。
映画は全部で5本の短編アニメで構成されている。原作はいずれも辰巳自身が描いた短編で、マンガの絵をそのまま映像化したような作風となっている。フラッシュアニメのような感じで、ディズニーや現代の日本のアニメを見ていると拙さは感じる。ただ、逆に言うと原作のテイストは見事に再現されているような気がした。モノクロに色を付けてカラー化したり、色々と工夫が凝らされている。
そこで描かれるのは、戦後直後の日本の復興を背景にしたドラマである。広島の原爆投下や闇市、貧困に喘ぐ市井の人々のドラマなどがオムニバス形式で綴られている。
そして、一連の短編から、辰巳自身の半生が読み解けるのも面白い。
彼は幼少時代は新聞の4コマ漫画に投稿を続け、マンガの神様である手塚治虫に促され長編マンガを描くようになる。それが劇画ジャンルの走りになるわけだが、やがて劇画ブームが落ち着いてくると徐々に彼の働き場所は失われていく。こうした彼の漫画家としての人生が哀愁タップリに再現されている。
ある種、彼の半生を描いたドキュメンタリーのようになっているのが興味深い。今までこういう作りの映画はあるようでなかったので新鮮に観れた。
声は辰巳自身と別所哲也がナレーションを含め6役を担当している。
「アノマリサ」(2015米)
ジャンルアニメ・ジャンルロマンス・ジャンルファンタジー
(あらすじ) カスタマーサービスの本を書いて名声を築いたマイケル・ストーンは、妻子に囲まれながら恵まれた人生を送っていた。しかし、それは表向きだけで本当は退屈な日常に不満を募らせていた。ある日、講演をするためにシンシナティーを訪れたマイケルは、寂しさから別れた恋人と会うことになるのだが…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 孤独な中年男の心の闇を幻想的な表現で描いたパペット・アニメーション。
監督、脚本は「エターナル・サンシャイン」(2004米)、「アダプテーション」(2002米)、「マルコビッチの穴」(米)等の脚本を手掛けた鬼才チャーリー・カウフマン。監督業としては本作が2本目となる。尚、自分は1作目の「脳内ニューヨーク」(2008米)は未見である。
これまで実写映画を手掛けてきたカウフマンであるが、いずれもファンタジックなテイストのドラマだった。どこか漫画的で一風変わった独特の世界観が奇妙な味わいを醸していた。そこから考えると、今回パペット・アニメに挑戦したというのは、何となく合点がいく。根本的にカウフマンはコミック作家的な資質を持っているのだろう。特にビジュアル面でそれを強く感じる。
実際に本作を観てみると、随所にその資質が見て取れる。
例えば、本作の登場人物は、マイケル以外は皆、同じ顔と声である。これを実写で再現するとなるとちょっとハードルが高いだろう。アニメで表現することでシュールさも増すし、幻想性も引き立つように思う。
また、パペットの顔は目を境に上下に割れていて、ある時にそれが分割しそうになる。これもパペットならではの表現と言えよう。こうした不条理で不気味な”可笑しさ”は確かにカウフマンらしいユーモアである。
物語は実にシンプルである。いわゆる一夜のアバンチュールのドラマということに尽きる。しかし、このドラマをどう解釈するかは、相当難解と思われる。個人的にこれは人間の”孤独”と”没個性”を描くドラマだと解釈した。
マイケルは幸福と名声を手に入れ何不自由ない暮らしを送っている。しかし、それは表の顔であって、本心では満足していない。常に鬱屈した感情を抱え、本心を抑えこんで生きている。
そんなマイケルの心象を最も象徴的に表したのが、中盤、彼が浴室のガラスに映る自分の顔を見つめるシーンである。先述したように、本作の登場人物の顔はみな、目を境に上下のパーツに分かれている。マイケルは突然もがき苦しんで顔の下半分が剥がれそうになるのだ。おそらく本音を吐き出したくなった、ということなのだろう。彼は常に仮面をつけて生きている…ということが分かる。
マイケルは孤独を紛らすように元恋人と寄りを戻そうとするが失敗する。その後、リサという女性に出会い恋に落ちる。このリサという女性は元の恋人に似て大変地味で、決して美人とは言えない。そんな彼女に執心するマイケルの未練がましさは実に滑稽だが、”同じ容姿”の女性に再び恋をするというあたりはいかにもカウフマンらしいシュールさだ。
もう一つ、本作を解釈する上で注目したいのは「声」である。登場人物の顔が全て同じなのと同様、声も全て同じ声(マイケルの声)になっている。仮面をつけて生きる没個性な人間という存在そのものを表しているのだろう。
但し、ここで注意したいのは、リサの声だけは他とは違うという点だ。彼女だけはマイケルの声優ではなく女性の声優が演じているのである。リサだけは本音を包み隠さず自分の生きたいように生きている…ということを意味しているのだろう。
ある時、リサはマイケルから食事の仕方を注意をされる。すると彼女の声は急にマイケルと同じ声に変わってしまう。これは、個性の抑圧を皮肉的に物語っていると思った。
このように解釈していくと、本作は中々骨のある作品のように思う。現代社会に生きる人間の孤独と没個性が見事に表現されている。
尚、劇中にはマイケルとリサのセックスシーンが登場してくる。ストップモーションアニメでここまで大胆にセックスを再現したのは中々ないのではないだろうか。本作はパペットアニメでありながらR15指定作品となっている。
「ぼくの名前はズッキーニ」(2016スイス仏)
ジャンルアニメ・ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 母と2人暮らしの9歳の少年イカールは、ズッキーニという愛称で呼ばれていた。ある日、母が酒に酔って転倒事故で亡くなってしまう。事故を担当した警察官のレイモンに連れられ、孤児院を訪ねたズッキーニは、そこで新しい生活を始めていく。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 天涯孤独になった少年が周囲に励まされながら強く生きていく様を感動的に綴ったストップモーション・アニメ。同名の原作小説のアニメ化である。
孤児院には様々な子供たちがいて、夫々に親から見放されたり、虐待を受けたりしてここにやってきた。そのことを正面から描きながら、そんな彼らが”仲間”として強く生きていく様が真摯に描かれている。非常に淡々とした作りで過度に感動を盛り上げない所に好感を持てた。
また、クレイアニメながら、個々のキャラの心の襞を端正に捉えた所も素晴らしく、そこには実写ドラマを超えるような”味わい”が感じられた。
例えば、孤児院の一番の問題児シモンのラストの寂しさなどは実に味わい深い。彼は本当はここから出たい。しかし、それが叶わぬことも十分知っていて、無理にでも明るく振る舞おうとする。この健気さが泣かせる。
キャラクターの造形も一種独特で、決して万人受けするような親しみがあるわけではないが、作品の世界観に沿った作りになっている。ズッキーニをはじめ、子供たちの顔色や目に生気が余り感じられないので少々グロテスクである。このグロテスクさに彼らの置かれているシビアな状況が投影されているのだろう。クレイアニメ独特の温もりの中に毒気をまぶした造形が秀逸である。
物語はいたってシンプルである。ズッキーニは孤児院で虐めにあうが、次第に周囲と打ち解けて仲間として受け入れられていく。そこにカミーユという少女がやってきてほのかな恋心を芽生えさせていく。特に大きな事件が起こるわけではなく、いわばズッキーニの成長を描く物語としては常道をいく展開となっている。
1時間強という中編程度の作品なので、ドラマとしては必要最低限なものを描いたという感じである。一切の無駄がない。
欲を言えば、レイモンのバックストーリーも見てみたかったか…。まるで仏のような慈愛に満ちた善人で表面的すぎるきらいがある。キャラの説得力を持たすためにも何らかのバックストーリーは欲しかったかもしれない。
また、本作は音楽も中々に良い。淡々とした作風にうまくマッチしていた。
「メアリー&マックス」(2008豪)
ジャンルアニメ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) オーストラリアのメルボルンに住む8歳の少女メアリー。友だちのいない彼女は、アメリカの見知らぬ誰かに手紙を書こうと思い立ち、分厚い電話帳から変わった名前のマックス・ホロウィッツ宛てに手紙を出す。マックスはニューヨークに暮らす肥満体の中年男で、他人とのコミュニケーションが苦手で孤独な日々を送っていた。二人は文通を始めていくのだが…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 見知らぬ男女が約20年にわたって文通を繰り返しながら、徐々に固い絆で結ばれていく過程を、クレイ・アニメで表現した作品。
本作は監督自身の実体験を基にした作品ということである。ウソのようなホントの話で、こういう体験ができるというのは人生において中々貴重ではなかろうか。
マックスとメアリーは年齢や性別がまったく異なるが、孤独な者同士、分かり合える部分も多く、この文通を通して次第に友情で結ばれていく。但し、マックスはアスペルガー障害者である。この辺りがちょっと気を使わなければならない点である。メアリーはまだ子供ということで、そのあたりを全然察しておらず、やがてこの文通は悲劇的な展開を迎えることとなる。メアリーの”あること”がきっかけで、それまでの友情が壊れてしまうのだ。
もちろんメアリーに悪気はない。しかし、マックスの心を深く傷つけてしまったことは事実で、このあたりが人と人とのコミュニケーションの難しさである。
こうして二人の文通は終わってしまうのだが、映画はここから二人の関係修復のドラマが描かれていく。普通の映画であれば感動的に描くのであろうが、本作はそこも安易なハッピーエンドに堕していない。一度壊れてしまったものを再び元通りにすることがいかに難しいか。そのことが痛感される。
しかして、ラストは少し切ない形でエンディングを迎えるのだが、ここには監督の強いこだわりが感じられた。それは、これが実体験に基づく物語だからなのかもしれない。
映像はメルボルンのシーンはカラフルに、ニューヨークのシーンはモノトーンといった具合に完全に差別化されている。ただ、陰鬱になりそうなニューヨークのシーンも、要所に赤色や黄色といった明るい色を配することで、ダークなトーンを上手く中和している。したがって、観てて余り不快な感じを受けなかった。この辺りはこの監督のセンスだろう。
人形の造形はデフォルメを利かせユーモラスだが、どこかブラックさも感じさせる。ティム・バートンの世界観に通じるようなグロテスクさも伺え、一種独特である。他では余り見られない造形で面白いと思った。
「2分の1の魔法」(2020米)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー・ジャンルコメディ・ジャンルアクション
(あらすじ) かつて魔法が栄えていた世界。今ではすっかり魔法が廃れ、誰もが文明の力を享受していた。16歳になった少年イアンは、引っ込み思案で何事にも自信を持てずにいた。そんな彼に、母は亡き父が残した魔法の杖を与える。イアンは父に一目会いたいと願いそれで彼を復活させようとする。ところが、魔法は半分しか成功せず、父の下半身しか蘇らなかった。陽気な魔法オタクの兄バーリーとともに、イアンは復活の魔法を完成させるべく大冒険へと旅立つ。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 引っ込み思案な弟と陽気な兄の冒険をアクションとユーモアを交えて描いた感動のファンタジー・アニメ。
父に一目会いたいと願うイアンの思いから始まった兄バーリーとの旅は、最終的に意外な顛末を迎え、このクライマックスには良い意味で予想を裏切られた。ストーリー構成が見事である。
また、二人が道中で出会う事件やアクションも楽しく描かれ、個性あふれるサブキャラもそれぞれにいい味を出していて、全編通して面白く観ることができた。特に、マンティコア酒場の女主人が印象的である。
一方で、本作は後半に行くにつれて、ペーソスの味わいも増していく。
中でも印象に残ったのは、イアンとバーリーの関係に亀裂が入るシーンである。中盤で二人が走らせるバンがスピード違反で捕まってしまうのだが、ここでイアンのハーリーに対する”本音”がチラッと出てしまう。それを聞いたハーリーのシリアスな顔。そんな兄をよそよそしく気遣うイアン。車中の二人の微妙な心理が中々に魅せる。
また、ハーリーが生前の父との思い出を吐露する終盤のシーンにもペーソスは感じられた。ハーリーの悔恨。そして、亡き父に彼もまた会いたがっている、ということが切々と綴られている。
監督は「モンスターズ・インク」(2001米)の前日弾を描いた「モンスターズ・ユニバーシティ」(2013米)で監督デビューを果たしたダン・スキャロン。
製作は、映像クオリティの高さ、ストーリーテリングの上手さについては定評があるピクサースタジオ。今回も十分に満足のいく出来栄えとなっている。
ただ、観終わった後に少しだけ物足りなく感じた部分もある。それは、魔法が消えかけている世界という特殊な世界観をドラマの盛り上がりどころで上手く使いきれなかった点である。
結局、本作は家族愛という所にオチを持ってきてしまっているので、割とこじんまりとした印象になってしまった。この冒険を通してイアンの魔法は覚醒するわけだが、それは彼個人の成長ドラマであって、魔法が消えかけた世界を変えるほどの”インパクト”はない。できれば彼が起こす奇跡の魔法が世間に何らかの衝撃を与える…という所まで言及出来たら、この作品はスケール感と力強さを増すことができただろう。魅力的な世界観をドラマに十分に結び付けられなかった点は少し残念である。
「コスモス」(2015仏ポルトガル)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 法学部の試験に落ちたヴィトルドは、勉強のためにポルトガルの港町へやってくる。同じ年の青年と意気投合した彼は、家族経営の民宿に滞在することにした。そこには躁状態の女主人、浮世離れした夫、唇のめくれた女中、美しい長女が住んでいた。ヴィトルドは長女に恋をするのだが、彼女にはすでに婚約者がいた。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 一人の青年が奇妙な民宿に滞在しながら、そこに住む少女に惹かれていく青春ロマンス。同名原作の映画化である。
監督、脚本がアンジェイ・ズラウスキーということなので例によって一筋縄ではいかない作品となっている。
普通に描けば、ちょっとシュールなナンセンスコメディになるだろうが、いたるところに意味深で詩的なセリフが散りばめられている。物語自体は割と明快なのだが、こうしたズラウスキーらしいギミックが各所に施されることによって作品全体の印象は難解なものとなっている。
物語はヴィトルドの視点で綴られる。彼は民宿の娘に一目ぼれするが、彼女は聡明でハンサムな男性と婚約中である。それでも彼は諦めきれず、なんとか彼女に近づきたいと願うのだが、袖に振られるばかりでまともに相手にされない。
逆に、彼は唇のめくれた女中に迫られてしまう。しかし、ヴィトルドは彼女まったく関心がなく、こうして奇妙な三角関係の同棲生活が始まる。
美しい娘と唇のめくれた女中の間で揺れ動くヴィトルドの葛藤を見ると、これは美醜の価値観がテーマなのではないか…という気がした。
人は外見の美しさに魅せられ、時として本当の価値観を見失ってしまうものである。外見にとらわれず真価を見出すことは大変難しい。美しい娘と醜い女中を対比的に登場させたのには、そんな意味があるのではないか、という気がした。
相変わらず演者の大仰な熱演が随所で炸裂しているが、これもズラウスキーの映画を観慣れている人からすればお馴染みの光景であろう。それに圧倒されて不思議と最後まで見続けられてしまう。
また、海を捉えた映像が実に美しく、このあたりには詩的な風情も漂う。
紐につるされた雀や電線につるされた鶏の死骸など「死」のメタファーが随所に登場してくるが、これも作品全体に異様な雰囲気を漂わせている。ヴィトルドはこれらの光景を目撃、もしくは想像することで、「死」のイメージに取りつかれ徐々に常軌を逸した行動をとるようになっていく。このあたりは、さしずめホラー映画的でもある。
本作はズラウスキーの遺作となる。彼は終始一貫して自分の世界観を貫き通した稀有な作家だったように思う。エンタメ性よりもアート性を追求した独自のスタイルは今もって古びない魅力を見る側に与え続けている。ポーランドからフランスへ渡り、一時は映画製作ができない時期があったことを考えると、真の意味での”孤高の作家”だったという気がする。こういう映画作家はもう中々現れてこないだろう。
「悪魔」(1972ポーランド)
ジャンルファンタジー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 18世紀末のポーランド。国王暗殺未遂の罪で精神病院に収監されていたヤクプは、悪魔の手助けによって修道女と一緒に脱走する。その足で彼は故郷へと向かったが、そこには変わり果てた実家の姿があった…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 動乱のポーランドで悪魔に取りつかれた男が次々と禁忌に反した凶行にのめり込んでいく不条理劇。
ポーランドの鬼才A・ズラウスキー監督の長編第2作。演者の狂演とゲテモノ的ポルノ趣味は、後の
「ポゼッション」(1981仏西独)に通じるようなテイストである。「ポゼッション」も相当強烈な作品だったが、今作における殺人、レイプ、近親相姦、男色等のバイオレンス&グロテスクさはそれ以上かもしれない。かなり刺激的な映画である。
一方、物語自体はいわゆるコスチュームプレイ物として普通に展開されるので、映像ほどのインパクトはない。若干、構成に難ありで、例えばヤクプを巡る周囲の人間模様が雑多だったり、途中で登場する俳優一座も特段ドラマに必要性が感じられなかった。
ヤクプが悪魔に指図されるまま行動するというのも、葛藤不足で感情移入しずらいものがある。もちろん、物語への感情移入をさせるようなタイプの作品でないことは分かるのだが、何せヤクプが実家と元恋人の間を行ったり来たりしてるだけなのでドラマの変化に乏しいのが致命的である。
ただ、先述した見世物的面白さには事足りない作品なので、最後まで一気に見れてしまったのも事実で、このあたりはズラウスキー監督の演出手腕のおかげだろう。同様のことは「ポゼッション」鑑賞時にも思ったのだが、とにかく画面から漂う異臭、毒々しく重苦しい雰囲気に魅了される。こういう空気感の映画を撮れる人は中々いないと思う。
例によってキャストの過剰なまでのパフォーマンスも画面に異様な熱気をもたらしていた。
また、カメラワークもかなり野心的で、一部で魚眼レンズによるPOV形式の表現がある。これがヤクプから見た悪夢的世界観を見事に再現している。悪魔に魅了された人間が、この世界をどのように見ているのか?ある種地獄めぐりのような映画なので、怖いもの見たさで見る分には十分に満足のいく”映像”作品かもしれない。
「夜の第三部分」(1971ポーランド)
ジャンルサスペンス・ジャンルファンタジー・ジャンル戦争
(あらすじ) 第二次世界大戦下のポーランド。ミハウは家を留守にしている間に家族をナチスに皆殺しにされてしまう。その後、抵抗運動に参加した彼はナチスに追われることになる。その時、彼の身代わりに別の男が撃たれて連行されていった。その男の妻はマルタといい、驚くほど自分の妻に似ていた。ミハウはマルタと彼女のお腹の子供を養うためにナチスの人体実験に手を貸すようになる。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) ナチス占領下のポーランドで家族を失った男が悪夢のような体験をしていく不条理劇。
監督、脚本はこれが長編デビューとなるアンジェイ・ズラウスキー。
シュールで幻想的な映像演出、ストーリーの不可解さ、人を食ったようなオチ等。氏の特徴が前面に出た作品であり、観終わった後に頭の中で「?」が浮かぶこと必至な怪作である。
個人的な解釈では、ミハウはナチスに撃たれたときにすでに死んでいたのではないかと思う。以降の物語は彼が見た夢の中の出来事で、ラストで彼の魂は元の肉体に戻ってようやくあの世へ旅立つことができた…と解釈した。
それにしても、ミハウは妻と瓜二つのマルタと赤ん坊の世話をするために、憎きナチスの実験体にまで身を落とすのだから、その胸中を察すると実に切なくさせる。その実験とはチフスの研究のための人体実験である。あまりにも非人道的な、そして戦争の狂気が生み出した蛮行である。命を救えなかった妻子に対する贖罪か。あるいは彼らに対する未練か。いずれにせよ、ミハウは実に悲しい男である。
先述したように、本作は色々と想像しながら観て行かないと、最終的にワケわからないという映画になってしまうので、注意が必要である。ただ流れてくる映像やセリフだけを漫然と眺めても、一体それが何を表しているのか分からない…というのが続いてしまう。
自分も大体の話の流れは独自に解釈したつもりだが、それでも細かな点でまだよく分からない謎が残った。
例えば、ミハウの前に現れた預言書の男は一体何者だったのか?盲目の男は抵抗運動の組織のリーダか何かだったのか?こうしたところはよく分からなかった。
決して情報量が多い映画ではない。しかし、全てを親切に説明してくれる映画ではないので、一度見ただけでは完全に把握するのは難しい作品である。