「パッチギ!」(2004日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 1968年の京都。高校2年の松山康介は、担任教師の指示で、常日頃争いの絶えない朝鮮高校へ親善サッカーの試合を申し込みに行く。親友の紀男と共に恐る恐る朝鮮高を訪れた康介は、音楽室でフルートを吹くキョンジャという女生徒に一目惚れしてしまう。しかし、あろうことか彼女の兄は朝鮮高の番長アンソンだった。
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(レビュー) 純情高校生、康介と在日コリアンの少女、キョンジャのロマンスを、当時の世相を交えて描いた青春ドラマ。
監督、共同脚本は井筒和幸。氏の「ガキ帝国」(1981日)や「岸和田少年愚連隊」(1996日)に通じるような、どこか郷愁を滲ませた忘れがたき青春活劇になっている。どこまでも泥臭く、どこまでも青臭く、既存の価値観に反発する若者たちの生き様が胸を打つ。ある意味で、この3作品は姉妹作と言ってもいいかもしれない。
また、今回は在日コリアンを題材にしている点が、前2作と違って新鮮である。日本人と彼らの間には、過去の戦争の歴史を含め根深いわだかまりが厳然としてある。これにより康介とキョンジャのロマンスには「ロミオとジュリエット」的な障害が立ちはだかり、ドラマチックさも生まれている。
更に、本作には原案となった小説が存在する。「少年Mのイムジン河」というタイトルの小説である。著者はザ・フォーク・クルセイダーズの楽曲「イムジン河」の日本語訳を務めた松本孟という人物である。本作ではこの「イムジン河」が印象的に使用されている。
ご存じの通り、この曲は南北に分断された朝鮮半島について歌った歌だが、ラジオに数回かかっただけでレコード会社は政治的配慮から発売を中止したという経緯を持っている。
そんな曰く付きの曲を、この映画は体制に抗う若者たちの反発の象徴として、終盤にかけて大々的にフィーチャーしている。このあたりの選曲の上手さもこの映画は光っている。
井筒監督の演出は徹頭徹尾コミカルで軽快である。そして、時に浪花節的ペーソスを持ち込みながら、この青春活劇を愛おしく見せている。過去の「ガキ帝国」や「岸和田少年愚連隊」のような無軌道なパワフルさと違い、抑揚をつけた手捌きには余裕を感じさせる。
クライマックスは康介たちのロマンスの行方を追うドラマ以外に、日本人学校と朝鮮学校の生徒同士の抗争、病院に担ぎ込まれたシングルマザーの出産、イムジン河のオンエアを強行するラジオ局の騒動といった複数のドラマが同時並行に描かれている。この辺りの編集の巧みさも見所である。
キャスト陣も今見ると豪華である。キョンジャ役を演じた沢尻エリカが、今では考えられないようなウブな役を演じていて新鮮だった。他に、真木よう子、小出恵介、加瀬亮、坂口拓といった当時の若手俳優が多数出演している。
「帰って来たヨッパライ」(1968日)
ジャンルコメディ・ジャンル社会派
(あらすじ) 3人の大学生が休暇で日本海の海辺へ泳ぎにやって来た。ところが、泳いでいる間に服がなくなり、代りに軍服と粗末な学生服が置かれてあった。3人はそれに着替えて帰るが、途中で韓国人の密航者と間違われて警察に追われる破目になる。
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(レビュー) 韓国人の密航者に間違われた3人の大学生が様々なトラブルに巻き込まれていくスラップスティック・コメディ。
何ともナンセンスな喜劇であるが、笑いよりも社会問題や政治的なメッセージありきで作られたようなところがあり、コメディとしては少々中途半端な出来である。
むしろ、日本の大学生が軍服一つで韓国人に間違われ、やがて自分自身のアイデンティティーを見失っていくドラマは、痛烈な風刺としてチクリと刺さってくる。
そこには当時のベトナム戦争の影もちらつき、在日韓国人に対する差別、学生運動の終焉とともに生まれたシラケ世代に対する皮肉も投影されているような気がした。
監督は大島渚。脚本に大島のほか、田村孟、佐々木守、足立正生が集っている。このメンバーを見ればなるほどと思える。
「日本の夜と霧」(1960日)を機に松竹を退社した大島渚は、創造社を設立し独自の映画活動を精力的に邁進することになる。その中には、今回脚本を務めた田村孟、佐々木守も入っていた。足立正生にいたっては、若松プロ下で映画を撮り、後に日本赤軍に合流することになる。つまり、大島を含めた彼らは、この映画で”政治”を語りたかったのである。この布陣を考えれば、本作がただの能天気なコメディになろうはずがない。
しかして、かなり毒と風刺を含んだ作品になっており、その辺の凡庸なコメディとは一線を画す骨太な映画になっている。
面白いと思ったのは映画の構成である。
本作は中盤の新宿の街頭インタビュー・シーンを境に、前半と後半で大きく切り分けることができると思う。そこを境に、3人の学生は前半で辿った物語を再び繰り返すのだ。つまり、バッドエンドで終わった前半の物語を、今度はハッピーエンドにしようとやり直すわけである。これはタイムループ物の映画ではお馴染みの手法で、一種のロールプレイング・ゲームのようなものである。
もっとも、低予算が仇となったのか、作りが稚拙でギャグも大島渚の得意とするところではないせいで、余り笑えない代物となっているのが残念であるが…。
また、主役の3人を演じたのが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったフォーク・クルセイダーズのメンバーである。はっきり言って演技は完全に素人である。コメディで最も肝心となるキャストがこれでは、仮に演出とシナリオが優れていたとしても如何ともしがたい。
尚、タイトルにもなっている「帰って来たヨッパライ」は、彼らのメジャー・デビューシングルで大ヒットを記録した。この曲は劇中で印象的に使われている。もしかしたら、本作は彼らを売り出そうという目論見で作られたアイドル映画的な部分もあるのかもしれない。
「無理心中 日本の夏」(1967日)
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派・ジャンルアクション
(あらすじ) 男を求めてさまようネジ子は、路上である男と出会い海岸へ行く。しかし、男は自殺願望があり、ネジ子を抱こうとはしなかった。そこへ制服姿の男たちが現れ、武器の入った箱を運び出す。それを目撃したネジ子たちは彼らに連れられて郊外の廃墟であるアジトに監禁される。そこには数人の殺し屋たちがいて…。
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(レビュー) 鬼才・大島渚監督によるシュールでアヴァンギャルドな犯罪映画。
映画冒頭から何が何やらよく分からないシーンのオンパレードである。
街中に白いペンキを塗る謎の集団。日本の国旗を掲げてデモ行進する学生たち。道路に人型のオブジェが突然現れ、海岸から銃火器が入った木箱が掘り出される。一体何が起こっているのかさっぱり分からないまま物語は進行する。
但し、これら一連のシーンはロケーションも含め、映像が実に魅力的である。これから一体何が始まるのか?ワクワクさせられた。
ところが、ネジ子と男がビルの廃墟に監禁されて以降は、序盤で見られたようなシュールさは影を潜め、やや通俗的な作りになってしまう。彼らが監禁される部屋には、様々な個性的な殺し屋たちがいて、黒服の集団が敵対する組織に討ち入りする計画を立てている。結局ただのヤクザの抗争か…ということが分かり肩透かしを食らってしまった。
更に、後半から白人青年による銃乱射事件のエピソードが挿入される。一見するとネジ子たちの物語に何の関係もないように思えるのだが、意外なことにこれが終盤で繋がってくる。ヤクザの抗争はどこへやら、ネジ子たちは武器を片手にこの白人青年の元へ走るのだ。
もはやここまでくると物語としては完全に方向性が定まらないといった印象で、更にドラマへの興味が削がれてしまった。
おそらくだが大島渚は、この白人青年に当時のベトナム戦争の影を暗に忍ばせたかったのだろう。そして、彼を伴って警察と徹底抗戦する終盤の姿には、当時の学生運動を投影したかったのではないかと思う。
尚、東大安田講堂事件が起こるのは映画が製作されてから2年後。あさま山荘事件が起こるのは5年後である。ある意味で、本作はこうした若者たちの熱き時代の終焉を予見したかのようにもとれる。
更に、ネジ子という性に奔放なキャラに翻弄される男たちの滑稽さは、彼らの戦いをどこか茶化しているようにも見える。彼はかつて
「日本の夜と霧」(1960日)で学生運動の行きつく先を早くも見抜いてい。それに通じるような終末観がここでも再現されている。
キャストでは、ネジ子役の女優のインパクトに圧倒された。半分金髪で半分眉毛を剃るという、その大胆不敵な風貌からして強烈である。実は、彼女はプロの俳優ではないらしい。後で調べて分かったのだが、元々はフーテンをしていた所を大島渚に拾われて本作に出演することになったという。演技自体はつたない部分が多いのだが、このキッチュな造形は抜群だった。
また、ライフル銃に異様な執着を見せる若者役で田村正和が出演している。きびきびとした軽快な演技が後年とのギャップから興味深く観れた。
「炎と女」(1967日)
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) 伊吹真五と立子の間には、一歳七ヶ月になるひとり息子、鷹士がいた。しかし鷹士は人工授精によって生まれた子であり、真五の実の子ではなかった。伊吹家には人工授精の手術を担当した藤木田、そして精子の提供者である坂口と妻シナが出入りしていた。ある日、立子が目を離したすきに鷹士が行方不明になってしまう。
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(レビュー) 人工授精を巡って二組の夫婦が愛憎渦巻く対立を深めていく社会派ドラマ。
監督、脚本は松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手、吉田喜重。共同脚本を山田正弘、田村孟が務めている。
山田正弘はテレビのウルトラマンシリーズのメインライターとして活躍した人物であり少々意外であった。一方の田村孟は同じく松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として活躍した大島渚の作品を数多く手掛けており、今回の仕事はその流れからだろうと想像できる。もっとも、吉田喜重とのコンビは本作1本のみというのが意外であるが…。
例によって、吉田喜重らしい凝った映像が至る所で見られ、ファンであれば間違いなく楽しめる作品になっている。逆に、観念的でシュールな演出に耐性のない一般の観客にとっては実に独りよがりな作品…と一蹴されそうである。
個人的にはこの吉田ワールドは割と好きなので楽しく観ることができた。
また、物語も今回は難解な所はなく、非常に明快に展開されているので楽しめた。
真五と立子、坂口とシナ。二組の夫婦は人工授精によって生まれた鷹士を巡って血縁的にねじれた関係にある。鷹士の本当の父親は精子の提供者である坂口であり、真五ではないのだ。
そのため、立子は人工授精の子供、鷹士に素直に母としての愛情を注げないでいる。真五は精子の提供者である坂口に”男”として少なからず嫉妬の感情を抱いている。坂口は妻のシナを抱けず、そのせいで子供ができないことに負い目のようなものを感じてる。そして、シナは子供を産めない体にコンプレックスを抱いている。
このように4人は、それぞれにわだかまりを抱えているのだが、表向きはそんなことを感じさせないほどフランクに付き合っている。傍から見るとこれが存外恐ろしいわけだが、しかしある事件をきっかけに両夫婦の関係は一気に険悪になってしまう。シナが、鷹士を自分の息子だと言って連れ去ってしまうのである。
果たして4人の関係はどうなってしまうのか?そこが本ドラマのポイントとなる。
吉田監督のシュールな演出は今回も健在である。
まず、何と言っても立子たちが住むモダンな邸宅のデザインが印象的である。幾何学的な画面構成は吉田作品の一つの特徴であるが、それを象徴するかのように存在している。
そして、極端なパースの画面構図が登場人物たちを徹底的にフレームの枠の中に押し込み、彼らの圧迫感と緊迫感を見事に表現している。
ロケーションも素晴らしい。高くそびえたつ林道、廃鉄橋等、よくぞこんな場所を見つけてきたと感心するばかりである。
女性のスキャットを前面に出した音楽もシュールな世界観にほどよくマッチしていた。
キャスト陣では立子役の岡田茉莉子の浮遊感をもたらした演技が喜重ワールドを下支えしている。やはり吉田喜重のミューズは彼女以外にはないと再確認させられた。
尚、人工授精という問題をこういう形で取り上げたことは、製作された時代を考えればかなり先進的だったのではないかと思う。そういう意味においては先見性を持った作品とも言える。
「乾いた花」(1964日)
ジャンルサスペンス・ジャンルロマンス
(あらすじ) 刑務所を出所した村木は、賭場で不思議な魅力を放つ少女、冴子と出会う。ある夜、村木は屋台で彼女と再会する。冴子にもっと大きな勝負があるところへ連れて行ってほしいとせがまれ、二人は大きな賭場へと向かうのだが…。
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(レビュー) ヤクザが謎多き少女に翻弄されながら賭場の世界にのめり込んでいく異色の恋愛サスペンス。
石原慎太郎の同名原作を松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手と称された鬼才・篠田正浩が監督したフィルム・ノワールである。
正直、物語自体は至極シンプルで、これといった盛り上がりどころはない。
途中で村木を襲う若いヤクザが登場して奇妙な師弟関係が育まれるのだが、これが実にアッサリとしか描かれない。
また、賭場で見かけた不気味なヒットマンが村木と冴子の間に割って入るのだが、この三角関係もぼんやりとしか描かれていない。そのため恋愛ドラマ特有の情念とか欲望といったものは余り感じられない。
全体的に突き放したクールな演出が徹底されている。そのためドラマへの感情移入はしずらい作品となっている。
ただ、逆に言えばこのクールさは本作を稀有な作品にしているとも言える。自分はそこに痺れてしまった。
例えば、村木が冴子の車を待つシーン。冴子の車に静かにズーミングしていくゾクゾクするようなカメラワークは、他の映画では中々味わえない秀逸な演出のように思う。
また、中盤で村木が襲われるシーンは、これぞノワールと言わんばかりの渋いモノトーンで表現され目が離せなかった。
更に、村木が見る悪夢シーンの幻想的なタッチには、シュールレアリスムのエッセンスも見て取れる。何とも言えない不条理で不気味な恐ろしさが堪能できる。
このように本作は篠田監督の独特な感性がほとばしった、ある意味で怪作であり、通俗的なやくざ映画とは一線を画したアート映画となっている。
後年、一般商業映画を撮るようになった篠田監督だが、本作や
「心中天網島」(1969日)といった初期時代のラジカルな作品を観ると、改めて氏の振り幅の大きさに驚かされる。
キャストでは、村木を演じた池部良のニヒルな佇まい、冴子を演じた加賀まり子のコケティッシュな魅力が印象に残った。同年に製作された
「月曜日のユカ」(1964日)もそうだったが、この頃の加賀まり子の小悪魔的な魅力は尋常ではない。
音楽は武満徹。前衛的な作風が今回も冴えわたっていた。それが賭場という空間に意外と合っていた。
「TENET テネット」(2020米)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス・ジャンルアクション
(あらすじ) ウクライナのオペラハウスで起きたテロ事件で、人質救出作戦に参加し捨て身の活躍をしたその男は、適性を見込まれあるミッションを託される。それは、未来からやって来た敵と戦い世界を救うというものだった。彼は“TENET(テネット)”と呼ばれる謎の組織の存在を知らされ、ある女性科学者から時間を逆行させる不思議な装置について説明を受ける。
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(レビュー) 時間を逆行させる装置を使って世界を破滅へ導こうとするテロリストとの戦いを、ハードなアクションシーンとミステリアスな構成で描いたSF作品。
監督、脚本はC・ノーラン。「メメント」(2000米)で時間経過の逆行を描いてみせた彼が、再びそれに挑戦したのが本作である。但し、今回は順行する描写と逆行する描写を同時にやってしまうったところが斬新だ。これまで見たことがない映像表現を見せてくれたという意味では大変ユニークな作品である。
物語は時系列に進行するというわけではなく、主人公が逆行する場面も出てくる。逆行する主人公と、過去の順行する主人公が同じシーンに居合わせたりするので、注意しながら観ないと混乱する可能性がある。
しかも、主人公の視座で物語は進行するので、彼以外に逆行する人間まで登場してくると理解が更に追い付かないことになる。正直、自分も完全にすべてのシーンを把握したとは言い切れない。
また、未来人のことやTENETやテロリストの組織、主人公を取り巻く状況について丁寧な説明がないため、不親切に感じる部分もある。未来から送り込まれたという装置の説明も「なぁなぁ」で、ろくな説明がないためSFマニアが見たらきっと穴だらけの作品に映るのではないだろうか。
そもそもセイターが狙う”アルゴリズム”については、ほとんどB級映画のような代物で啞然とさせられた。もっと凄いものだと想像していたので、なんだか肩透かしを食らった気分である。
ただ、こうした突っ込みは、怒涛のようなストーリー展開と迫力の映像でねじ伏せられしまうのも事実で、こういっては何だが今回もノーランの剛腕ぶりに魅了されてしまった。
但し、アクション演出は今一つと感じるシーンがある。特に、モブを扱うシーンは相変わらず演出が上手くなく、誰が誰だかよく分からないのが残念だった。
とはいえ、150分という長さを感じさせない映像演出と複雑なストーリー構成が素晴らしく、改めてノーランの手腕には首が垂れる。しかも、ここまで完全オリジナルの脚本で勝負する人がハリウッドにどれほどいるだろうか?その意味でも、氏は真の表現者なのかもしれない。
尚、本作で最もエモーショナルだったのは主人公の相棒となるニールというキャラだった。ドラマのキーパーソンとして印象に残った。こういうエモーショナルさを持ち込むのもノーラン映画の真骨頂と言えよう。
「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」(2020日)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー・ジャンルロマンス
(あらすじ) 感情を持たない“武器”として育てられた元兵士の少女ヴァイオレット・エヴァーガーデン。戦後、彼女は“自動手記人形”と呼ばれる手紙の代筆業に従事しながら、戦場で別れた恩人ギルベルト少佐を思い忍ぶ日々を送っていた。そんなある日、彼女はユリスという名の少年から依頼の電話を受ける。
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(レビュー) 2018年にテレビアニメシリーズ化された同名作の劇場版。テレビ版のその後を描く続編である。
自分はテレビ版を一通り見ての鑑賞である。
一応おおまかな設定やあらすじは、過去のフラッシュバックなどで簡単に説明されているので一見さんにも理解できる内容と思う。しかし、実際に見ているのと単に知っているとでは、本作の鑑賞感は大分違ってくるだろう。第一にヴァイオレットと少佐の絆がいかに運命的な物で深いか。それはテレビ版を通して見てみないと分からないと思う。
今作はテレビ版に描かれた1エピソードを元にドラマが構成されているので、その点でも事前の情報はチェックするにこしたことはない。
そのテレビ版の”あるエピソード”との絡め方も実によくできている。
本伝であるテレビ版から数十年たった未来から物語は始まる。このエピソードはシリーズ屈指の名エピソードと言われており、それを思い起こすだけでも胸が締め付けられそうになる。
そこから物語は過去にさかのぼりヴァイオレットと少佐の恋慕が展開される。
まずは、この流麗な展開と時世を交錯させた構成が実に素晴らしい。
また、人々のコミュニケーションが電話に取って代わり、ヴァイオレットたち自動手記人形の代筆業が風化しているという時代背景には郷愁もおぼえる。かつての愛を取り戻していくヴァイオレットと少佐の姿には、ある種おとぎ話のような伝承性さえ感じ、この時代設定の上手さにも感心させられた。
また、本作には新しいエピソードも追加されている。それはユリスという少年のエピソードである。こちらもメインのドラマであるヴァイオレットと少佐の恋慕に相関されており、上手い作りに思えた。思いを伝えることの大切さ…というと少々臭いが、言うなれば普遍的な愛の物語として至極王道にまとめられているのだ。
映像も魅力的である。本作の舞台は架空の世界であるが、そんなことを忘れさせてくれるような緻密な映像に親近感がわく。魔法や特殊能力といった飛躍したギミックがない分、現実味のあるドラマとなっている。
難を言えば、一部で不要と思える描写があったことだろうか。テレビで描かれたキャラやエピソードが幾つか後日談的に登場してくるが、これは余り意味がないように思えた。おそらく初見の人にとってみれば、思い入れがない分、ピンと来ないのではなかろうか。
もう一つ、会話するときのキャラの距離感がいくつかのシーンで気になった。明らかにその話し声では相手に聞こえないだろう、という遠い距離で会話するシーンが散見される。ソーシャル・ディスタンスの注意喚起ではないだろうが不自然に映った。
「囚われの美女」(1983仏)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 闇の組織で情報の運び屋をしているヴァルテルは、ある夜クラブでブロンドの美女と出会う。ボスから仕事が入ったため彼女と別れたが、その晩、奇遇にも再会する。怪我をしていた彼女を介抱して一緒に夜を過ごしたヴァルテルだったが、翌朝目を覚ますと彼女の姿はどこにもなかった。そしてヴァルテルの首筋には何者かに噛まれた傷跡が付いていた。
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(レビュー) 謎の美女に翻弄される男の不思議な体験を幻想的なタッチで描いたサスペンス作品。
ヴァルテルの前にたびたび現れるブロンドの美女は一体何者なのか?もしかしたら女吸血鬼?敵対するマフィアの刺客?後半でこのブロンド美女がすでに死んでいたことが分かるのだが、だとすると彼女は亡霊か何かだった…ということなのだろうか?色々と想像しながら観ていたが、最後までよく分からなかった。
監督、共同脚本はアラン・ロブ=グリエ。
いかにも氏らしいシュールで幻想的な映像演出が横溢し、独特の世界観が構築されている。どこからが幻想でどこからが現実なのか曖昧なまま話が展開していくので、かなり難解な作品である。
ただ、ファムファタール物として観れば、今回は彼の監督デビュー作
「不滅の女」(1963仏)に似た作品だと思った。
なんでも本作はシュルレアリスム作家ルネ・マグリットの絵画をモチーフにして作られたそうである。時々、額縁越しの海がイメージ映像のように登場するが、これなどはいかにもシュールレアリスムの世界観といった感じがする。混沌とする物語はともかくとして、こうしたシュールで幻想的な映像にはやはり魅了されてしまう。
他にも、黒のレザージャケットに身を包んだ女ボスがバイクに乗って颯爽と走るシーンが何度か登場する。明らかにチープなスクリーン・プロセスで敢えて現実感を失する演出を採用している。普通はやらないような演出を施すことで非現実感、幻想性を強調しているのだ。氏の独特の感性と言えよう。
また、ロブ=グリエは基本的にフィルムノワールを得意とする作家のように思うのだが、今回もその資質は存分に出ている。
ヴァルテルが引き受けた仕事は、ある政治家にメッセージを届けるというものなのだが、すでに相手は死んでいて、ヴァルテル自身が警察に追われることになる。これは典型的な巻き込まれ型サスペンスである。
そして、何と言っても本作はラストが秀逸である。
ブロンド美女は政治家に囲われていた愛人だった。その意味では確かに「囚われの美女」という邦題は正しいのだが、しかし囚われていたのは彼女の方ではなく、実は彼女の幻影に取りつかれてしまったヴァルテルの方だったのではないか…ということが分かり、ハッとさせられるのである。
「囚われの美女」という邦題が完全にミスリードだったわけである。これにはやられた…という思いである。
「快楽の斬新的横滑り」(1974仏)
ジャンルサスペンス・ジャンルエロティック
(あらすじ) アリスはルームメイト殺しの容疑で逮捕される。ベッドに拘束され心臓をハサミで突き刺された被害者の体には、聖女の殉教の絵が描かれていた。教会が運営する保護施設に収容されたアリスは、そこで取り調べを受けていくのだが…。
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(レビュー) アリスが本当にルームメイトを殺したのかどうか?そこを巡って刑事や弁護士、神父が取り調べを繰り返していくのだが、実際の所はよく分からない。もしかしたら二人は同性愛的な関係で結ばれていたかもしれないが、果たして痴情のもつれから殺人にまで発展したかどうか…と言われると今一つ明確な答えは出ない。
そんなわけで、観終わっても何となくモヤモヤとした気持ちが残る映画だった。
監督、脚本はアラン・ロブ=グリエ。例によってイメージ先行型の作りになっており、ストーリーはこの際に二の次。自らの性的趣向であるSMプレイと、幻惑的なシークエンスを徹底的に追求したアート映画になっている。これはこれで独自の世界観を貫いたという意味ではアッパレである。
特に、殺されたルームメイトと瓜二つの女性弁護士が登場して以降は、シュールさを増していく。果たしてこの弁護士は実在していたのか?それともアリスが見た幻想だったのか?人を食ったような”仕掛け”で中々面白かった。
本作の見所は、各所で繰り広げられるセクシャルなプレイの数々ではないかと思う。ロブ=グリエがノリノリで撮っている顔が思い浮かぶ。
例えば、アリスがルームメイトのノラの裸の上に生卵を落とすシーンは最も印象に残った。これまでに鞭や拘束具を使ったプレイはたびたび彼の映画の中で出てきたが、こういう妙に艶めかしいプレイは新鮮である。
また、海辺に置かれたベッドの上でアリスとノラが戯れるシーンも幻想的で印象に残った。ベッドに縛られているのがマネキンの人形というのがどこかフェティズムを感じさせる。
このように映像に関しては、隠微で美しいシーンがいくつか見つかる。
殺人事件の謎解きという陰惨さとは裏腹に全体の印象としてそれほど重苦しくならないのは、こうした幻想的なタッチが介入することで、事件の現実性が薄まっているからなのだと思う。
こういう作風は他の監督では中々撮れないだろう。やはりロブ=グリエは他に類を見ない唯一無二の作家であることが再確認できる。
尚、今作は劇中に登場するエロティックな描写が問題となり、各国で上映禁止になったという逸話を持っている。おそらく性的な描写の舞台が教会だったのがまずかったのではないだろうか。神聖な教会を汚す内容は欧州であれば反発が出るのは仕方がないことである。
「エデン、その後」(1970仏チェコチュニジア)
ジャンルサスペンス・ジャンルファンタジー
(あらすじ) カフェ・エデンにたむろするパリの学生たちは退廃的な遊戯や儀式に興じていた。そこに突如、デュシュマンという男が現れ麻薬らしき粉末を差し出す。その粉末を摂取したヴァイオレットは様々な幻覚に見舞われていくようになる。
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(レビュー) ドラッグを摂取した女子大生が死と性の世界を旅していくシュールで美しい幻想映画。
すでに冒頭からして、この映画はトリップ・ムービーのごときシュールさと怪しさを放っている。学生たちがロシアンルーレットごっこをしたり、謎のダンスをしたり、公開セックスに興じたり等々。すでに少量のドラッグをやっているらしく、意味不明な乱痴気騒ぎが描かれる。そこにデュシュマンという外国人が現れ、彼らに麻薬らしき粉末を差し出し、ヴァイオレットはこれを口にする。
監督、脚本はアラン・ロブ=グリエ。
今回はドラマよりも映像に全精力を傾けたような作りになっていて、彼のシュールで幻想的な世界観が前面に出た作品になっている。これまで以上に氏の作家性が明確な形で表現されていると思った。
しかも、本作は彼にとっての初のカラー作品である。画面の色彩設計の見事さは本作最大のポイントであり、各所の映像には感嘆するばかりである。
先述したように完全にイメージ先行型の作品なので、ストーリーらしいストーリーはほとんどない。ヴァイオレットがカフェ・エデンに入り浸り、そこで享楽に更けながら、強いドラッグを摂取したことでディープな幻覚を見ていく…という、ただそれだけのことである。
一応、一枚の写真を手掛かりに、チュニジアの小さな町で、ある人物を探し求める…というサスペンスは用意されている。しかし、そこも、もちろん彼女が見る幻覚の世界であり、ほとんど物語的には意味を成さない。
最も印象に残ったのは、チュニジアの美しい青い海と空、真っ白な建物を捉えた美観の数々である。そして、そこにヴァイオレットを演じた女優の、どこかツィッギーを彷彿とさせるコケティッシュな魅力が合わさることで、この世のものとは思えぬファンタジックな魅力が誘発されることになる。
更に、そこで繰り広げられるのは、ロブ=グリエの性的趣向であるSMプレイであったりバイオレンスだったりするので、ただの綺麗、美しいだけの映画にはなっていない。真っ赤な血が青い海や白い建物とのコントラストで、よりいっそう刺激的で残酷なものに見えてくる。真っ赤な血は”死”と”性”のシンボルを意味しているのであろう。独自の残虐趣味をきっちりと主張させるあたりは流石である。
また、本作から、かすかにロブ=グリエなりの宗教観を読み取れたのも興味深かった。「カフェ・エデン」は、その名から明らかなように「楽園」を意味しているものと思われる。とすると、ヴァイオレットがそこで麻薬を摂取して堕落していく…という筋書きには、旧約聖書のアダムとイヴの物語が投影されているとも言える。
これまで宗教については余り語ってこなかったロブ=グリエだが、ここでそれを前面に出してきたのは意外であった。