「海底47m」(2017米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) バカンスにやって来た姉妹リサとケイトは、地元の若者たちと意気投合して、彼らから“シャークケージ・ダイビング”というアクティビティに誘われる。それは海中の檻の中に入って野生のサメを間近で鑑賞するというものだった。翌日、2人は水深5mに沈められて大迫力のサメを堪能するのだが…。
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(レビュー) 二人の女性が海中でサメの恐怖に怯えながら決死のサバイバルを繰り広げていくサスペンス映画。
スピルバーグ監督の「ジョーズ」(1975米)の中で、R・ドレイファス演じる科学者が海中の檻の中に入ってジョーズと戦うシーンがある。檻は鉄製でできているが、巨大なジョーズの前ではほとんど役に立たず大ピンチに陥る。このシーンを自分はハラハラしながら観たものであるが、本作はあのシーンを全編に渡って描いたような作品である。
物語はシンプルで徹頭徹尾アトラクションに徹した作りになっている。全体のほぼ2/3が海中で展開されており、観る側はリサとケイトの恐怖を追体験するという形で画面に参加することになる。エンタテインメント性を追求した作りが潔い。
特に、酸素ボンベの残量が少なくなっていくサスペンスは非常にスリリングで、外にいるサメとの対決のみならず”時間”との戦いが相乗効果的に恐怖を盛り上げていて面白かった。
また、海上に脱出するためには途中で”減圧停止”をしなければならない。ご存じのように海中と海上では気圧が違う。そのためリサたちは体内の窒素を放出するために、海上に出る途中で一旦止まって減圧をしなければならないのだ。その間、当然は無防備の状態に晒される。そこにサメが襲ってきたらひとたまりもない。これも非常にスリリングだった。
最後のオチも見事だった。皮肉めいているが、素直に終わらなかったところが良い。
90分の小品ながら、最小限のシチュエーションを使って最大効果のスリル効果を上げた所が本作の妙味だろう。正にアイディア勝負の逸品と言っていい。ドラマは薄みながら、それを補って余りある面白い作品となっている。
尚、本作は全米でスマッシュヒットを飛ばし「海底47m 古代マヤの死の迷宮」(2019米)というタイトルで続編が製作された。機会があればそちらも観てみたい。
「クワイエット・プレイス」(2018米)
ジャンルホラー・ジャンルSF
(あらすじ) 音に反応し人間を襲う“何か”によって壊滅状態となった地球。そんな中、どうにか生き延びた1組の家族がいた。夫リーと妻エヴリン、そして子どもたちは手話で会話し、音を出さずに暮らしていた。しかし、彼らには妊娠中のエヴリンの出産という最大の危機が目前に迫っていた。
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(レビュー) 音を出したらおしまい…という極限的状況に置かれた一家の恐怖をスリリングに描いたSFホラー作品。
本作はアイディアが素晴らしいと思う。というのも、自分は”ホラー映画”における音響効果は映像に匹敵するほど重要なものではないかと常日頃から思っているからである。
いわゆる”ビックリさせる”系のホラー映画において大きな音はショック効果を与えるのに一役買うし、じわりじわりと恐怖感を煽るホラー映画においても不気味な効果音は雰囲気を盛り上げるのにとても重要な働きをする。
本作は、そんなホラー映画における”音の効果”を最も活かした作品ではないだろうか。
まず、映画はほぼ全編に渡って無音状態の緊張感が持続する。観ている方としては、主人公一家にシンクロしながら、この極限的状況を疑似体験することになる。つまり、彼らに感情移入しながら”何か”の恐怖に怯えることになるのだ。正にお化け屋敷に入った感覚に近い怖さを実体験できる。
見所は何と言ってもエヴリンの出産シーンだろう。赤ん坊の泣き声は当然抑えることができないので、産んだ後はどうするのだろう?とヒヤヒヤしたが、なるほど。そうやって切り抜けるのか…と思った。
また、この時のエヴリン演じるエミリー・ブラントの迫真の演技も見応えがあった。
もっとも映画はクライマックスにかけて、今まで見えなかった”何か”が一家の前にはっきりとその姿を現してしまい、緊張感が一気に崩壊して凡庸なアクション映画になってしまう。エンタメ性を考えれば止む無しだが、それまでとガラリとトーンが変わってしまうので少し勿体なく感じた。
監督は本作で夫役を演じるジョン・クラシンスキー。俳優としてはこれまでに何本か出演作品を観ているが、正直あまり印象に残っていない。実は彼は監督業も同時並行に続けていて、今作は3本目の監督作品ということになる。演出自体は小気味よくまとめられていて中々手練れていると思った。
それにしても、今回は配信で鑑賞したのだが、それでは勿体ないと感じた。できれば映画館の大きな画面でこの静寂を味わいたかった。そうすればもっと臨場感を得られただろう。
尚、本作は全米でスマッシュヒットを飛ばし続編も製作された。新型コロナのせいで公開が延期されており、いまだに正式な公開日が決定していない。早く決まって欲しいものである。
「暗闇にベルが鳴る」(1974米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) クリスマスを控えた女子学生寮に1本の不気味な悪戯電話がかかってくる。最初は軽く考えていた生徒たちだったが、その夜、女子学生の一人クレアが失踪する。生徒たちの間で不安が広がっていく中、ジェスは恋人ピーターに妊娠したことを告白して喧嘩になる。彼女は子供を堕ろすと言うのだが…。
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(レビュー) 不気味な悪戯電話から始まる恐怖の一夜を緊迫感溢れるタッチで描いたサスペンス・スリラー。
低予算のB級映画だが、最後の意味深な終わり方が強烈な印象を残す作品である。
ただ、ストーリーはかなりの水増し感があり余り感心しなかった。
まず、主人公ジェスの同級生バーブのキャラに余り必要性が感じられなかった。フェラチオという単語で警察官をからかうシーンは、ユーモアだとしても余り品がない。
また、最初の犠牲者クレアの父親と彼女の恋人も、物語を盛り上げる上では決して効果的な使われ方をしているとは言い難い。
その一方で、これは中々上手くいっていると思った個所もある。
ただの悪戯電話では警察は動かない。では、その警察をどうやって動かすのか?ということになるのだが、それをこの映画はもう一つの少女失踪事件を用いることで自然に見せることに成功している。この展開は中々リアリティがあって良かったと思う。
演出は基本的にオーソドックスにまとめられている。
但し、ここぞというシーンは中々の鋭さを見せ、犯人の主観で捉えたカメラワークや極端なクローズアップ、コントラストを効かせた照明効果が上手く緊張感を創り出している。また、最後まで犯人の姿を伏せた描写も恐怖を盛り上げるうえでは効果的だった。
そして、何と言っても電話口の犯人の変幻自在な声色。これが非常に不気味で恐ろしい。最初はよくあるセクハラ電話だったのが、徐々に言ってることが意味不明になっていく。それによって少女たちの恐怖度も徐々に増していく。
キャストでは、ジェス役のオリヴィア・ハッセーの演技が印象に残った。特に、クライマックスで犯人に追い詰められるシーンの熱演は一見の価値あり。彼女はF・ゼフィレッリ監督の傑作「ロミオとジュリエット」(1968英伊米)に主演したことで知られているが、日本では歌手の布施明と結婚したことでも有名である。非常に美しい女優さんで、本作でもその美貌は堪能できる。
ところで、本作を観て自分はある都市伝説を連想した。それは不気味な悪戯電話の主が実はすぐ近くにいたという怖い話である。かなり有名なので知っている人も多いと思うが、初めて聞いた時はぞっとしたものである。本作も観終えた後に、それと同じような背筋の凍る思いがした。
「ザ・トライブ」(2014ウクライナ)
ジャンルサスペンス・ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 少年はろうあ者の寄宿学校に入学した。そこで犯罪などに手を染める不良グループ(トライブ)に目を付けられ手荒い洗礼を受ける。しかし、弱音を吐かなかった彼は、その根性を認められ仲間として受け入れられた。こうして彼は様々な犯罪に加わっていくようになるのだが…。
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(レビュー) 全編手話のみによって表現された特異なスタイルの青春映画。
字幕がないので何をしているのか分からないシーンもあるが、ドラマ自体はシンプルなので理解しやすい映画である。
おそらく敢えて字幕を排して、ろうあ者の無音の世界を観客に疑似体験させようという狙いでやっているのであろう。こうしたアイディアは映画文法的には実に斬新で、この実験精神は大いに評価したい。
物語は、主人公の少年がひたすら暴力の世界に落ちぶれていく…という凄惨なものである。彼がどうして今の境遇に陥ってしまったのか?そのあたりのバックボーンが余り語られていないので、感情移入するというよりも、彼を見守るような感覚で観た。
少年はやがてグループのリーダーの愛人と関係を持ってしまう。よくある話と言えばそれまでだが、これが彼を破滅の道へと追い込んでいくようになる。
そして、ラストでは取り返しのつかない悲劇が起こり絶望的な結末を迎える。リアルに考えればありえない描写という言い方もできるが、全てを吹き飛ばすくらいの”救いのなさ”に圧倒されてしまった。
圧倒されたと言えば、リーダーの愛人が中絶するシーンも、直視するのがためらわれるほどの凄惨さで言葉が出なかった。
今作にはこのような過激なシーンがいくつか登場してくる。言葉を発しない分、彼らの暴力とセックスには野生の獣を思わせるような迫力がある。それが一層画面を鮮烈にしている。
ところで、本作を観て寄宿学校の教師たちは一体なにをしているのか?という疑問が湧いた。荒廃した生徒たちを野放しにしているのが不思議でならない。この学校はもはや手の施しようがないところまできているということだろうか?
演出はドキュメンタリータッチを貫き、基本的にロングテイクが徹底されている。それが奏功し、映画は非常に生々しいものとなっている。
また、出演している子供たちは、皆本物のろうあ者ということで、それも作品にリアリティをもたらしていると思った。
監督はどういう演出をしたのか気になる所だ。おそらく手話の通訳を通してキャストに演出を施したのだと思うが、そう考えるとこの監督はかなり困難なことに挑戦したということになる。まさしく前代未聞の映画である。
「STOP」(2016韓国日)
ジャンル社会派・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 若い夫婦サブとミキは、東日本大震災による福島第一原発の事故で東京への移住を決意した。ある日、二人の元に政府の役人が現われて、身重のミキに堕胎を勧める。
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(レビュー) 東日本大震災による放射能汚染の被害にあった夫婦が強迫観念に苛まれながら徐々に精神的に追い詰められていく社会派人間ドラマ。
製作、監督、脚本、撮影、編集、録音は、先日惜しまれながらも新型コロナウィルスで亡くなった韓国映画界の鬼才キム・ギドク。
これまでもセンセーショナルな内容の作品を撮ってきた作家である。その彼がどうしても撮りたかったということで完全自主製作で撮り上げたのが本作である。
東日本大震災の原発事故についての映画は日本でも幾つか作られたが、海外の監督がこれを題材に撮ったというのは余りないのではないだろうか。しかも、世界三大映画祭ですべて受賞しているという世界的な作家である彼が撮るというのだから注目も相当高いものと思われる。
しかしながら、結論から言うと作品としてかなり稚拙である。もちろん低予算の自主製作というハンデはある。しかし、ストーリーにリアリティが感じられないのは致命的である。
他にも、セリフを噛んだり、編集の整合性が無かったり、作品のクオリティ的に過去作と比べて明らかに見劣りする。
キャストに対する演技指導もどこまで徹底されたのだろうか?サブ役の俳優は時折、手を使ったオーバーアクトをするが、アメリカ人ならまだしも日本人が日常生活でこんなモーションをとるだろうか?
政府の役人だと名乗る男も見るからに怪しい風貌で、それを安易に信用してしまうミキも無知すぎる。ネットで調べればいくらでも情報収集できるのにこの夫婦はどうしてそれをしなかったのか?
ギドクの演出は基本的に生々しさを前面に出す反面、ストーリー自体は多分に不条理劇であったりする。そこがギドク映画の面白い所であるのだが、こと本作のような現実問題を題材にした場合、リアリティとの折り合いという点でその作家性は相性が悪い。
確かに彼が伝えたいメッセージというのは理解できる。反原発、人間の愚かさ、夫婦の絆といったテーマを、慣れない異国の地で描いたことは大したものだと思う。しかし、リアリティを失した本作では、そのテーマも素直に心に響いてこなかった、といのが正直な感想である。
今回ばかりは、流石に失敗作と言うほかない。
尚、内容的に問題なのか、それとも作品クオリティ的な問題なのかは分からないが、今現在ソフト化はされていないようである。
「海は燃えている ~イタリア最南端の小さな島~」(2016伊仏)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル社会派
(あらすじ) イタリアの最南端のランペドゥーサ島にやって来る難民、移民を捉えたドキュメンタリー。
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(レビュー) 自分はこの映画を観るまでランペドゥーサ島のことをまったく知らなかった。フランスやイギリス、ドイツなど、ヨーロッパにはアフリカや中東からの移民がたくさん住んでいることは知っていたが、このような小さな島にも移民が入ってきているとは知らなかった。
本作は、実際にどのように移民がやってきて、どのように当局が対処しているのか、ということが現場目線で描かれている。実に詳細に、そして生々しく撮影されていて、これだけでも貴重なフィルムとなっている。一見の価値があるドキュメンタリーと言って良いだろう。
中でも後半、移民を乗せた船がたどり着くシーンは必見である。
アフリカからやって来たその船は、数日間かけてランペドゥーサ島にたどり着く。しかし、食料不足や衛生面の問題で、何人かが遺体で発見される。病院に担ぎ込まれた子供たちもいた。まさに地獄絵図のような光景が延々と映し出され、観てて本当に辛かった。
移民問題について描いた劇映画はこれまでに何本か観てきたが、本作を観るとそれらが吹き飛んでしまうほど衝撃的である。リアルなドキュメンタリーならではの説得力であろう。
そして、本作は移民たちの姿を捉える一方で、島に住む一人の無邪気な少年の姿も描いている。彼は父親から、この島に生まれたからには将来は船乗りだと厳しく言いつけられるが、まだ友達と遊んでいる方が楽しい年ごろである。手製のパチンコ弾を作って遊んだり、海岸を走り回ったりする姿が実に微笑ましく見れた。
おそらく過酷な運命を背負わされた移民と、平和な暮らしを送る少年を対比させることで、問題の深刻さを浮き彫りにするという意図からこうした構成にしたのだろう。
但し、個人的にこの少年のエピソードは余り面白いとは思えなかった。余りにも作り手側の創意が透けて見えてしまうからである。ラストで少年がパチンコ弾で戦争ごっこするのも、どうも取ってつけたような印象にしか思えなかった。
被写体の焦点を移民のみに絞ったほうが、テーマも鮮明になり力強い作品になったのではないだろうか。
「顔たち、ところどころ」(2017仏)
ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) 映画監督のアニエス・ヴァルダが、写真家青年JRと一緒に旅をしながら巨大ポートレートを壁に貼っていくドキュメンタリー。
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(レビュー) 映画監督のアニエス・ヴァルダと写真家のJRがトラックに乗ってフランス各地を巡りながら、出会った人々の顔を写真に撮り、それを引き延ばして壁や物に貼っていく。その様子を追いかけたドキュメンタリー。内容はいたってシンプルなのだが、そこから見えてくるフランスの歴史、社会背景が中々興味深く見れる逸品である。
彼らの被写体となるのは、寂れた炭鉱町に居座り続ける中年女性、巨大な牧場を切り盛りする農夫、化学工場で働く社員たち等、実に多彩だ。そして、皆が特別な誰かではない、ごくありふれた普通の人々である。そんな市井に根差したスケッチがフランスの現在と過去、文化を少しずつ炙り出していく。
また、本作はアニエスとJRの交友を描く、いわゆるロードムービー的な楽しみ方もできる。彼らは祖母と孫ほども年が離れているが、お互いに芸術家同士ということで、まるで親友のように惹かれあっていく。その温もりに満ちた関係性が微笑ましく観れた。
時には、どこにどんな写真を貼るかで意見を対立させることもあるが、夫々の感性の食い違いが見えてきて、これまた面白い。アニエスは映画監督になる前は写真家としても活躍していたので、彼女には彼女なりのこだわりがあるのだろう。
最も印象に残ったのは、海岸に転がる戦時中のトーチカのシーンだった。彼らはそこに巨大なポートレートを貼るのだが、満潮になればその写真は海に流されて消えてしまう。しかし、それが分かっていても、彼らはその一瞬のためだけにこの巨大なオブジェを創り上げていくのだ。すべては芸術のためである。
映画は延々と二人のアート活動を追いかけていくことで進行していくが、クライマックスでちょっとしたドラマが待ち受けている。それはアニエスにとっては因縁の相手とも言えるJ=L・ゴダールとの邂逅である。このシークエンスは、アニエスとゴダール、そしてジャック・ドゥミの関係を知っているとグッと来てしまう。
尚、アニエスは旅の途中で徐々に視力を失っていったそうである。そんな中でこの映画を撮り続けていたのか…と思うと壮絶である。本作が公開された2年後に彼女はこの世を去ったが、ゴダールに会いたいと願った彼女の胸中は如何なるものだったろう。観終わった後に切なくさせられた。
「フリーソロ」(2018米)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンルスポーツ
(あらすじ) 命綱なしで崖を上るフリーソロの世界で活躍するアレックス・オノルドに密着したドキュメンタリー。
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(レビュー) フリーソロというロック・クライミングあることを全く知らずに鑑賞した。過去に何人もの人が滑落して命を落としたそうである。なぜ彼らは命を賭けるのか?観終わっても、彼らの心理が自分には理解しかねる物だった。ただ一つ言えることは、まともな思考を持った人間がやるものではない…ということだけである。
本編でも描かれているが、もちろん彼らは何度もコースを確認して絶対に滑落しないという自信をもって臨んでいる。しかし、万が一ということもある。手足が滑ったら、その時点で一巻の終わりである。よくもこんなことがアメリカでは許されているな…というのが正直な感想だった。
映画はアレックスがカリフォルニアにあるクライマーの聖地、エル・キャピタルを制覇するまでを描いている。もし事故が起こったらこのドキュメンタリー自体、おそらく封印されるであろうから、最後は登頂に成功するのだな、ということは分かる。しかし、分かっていても、やはり見ている最中はハラハラさせられた。
臨場感あふれる撮影が見事である。アレックスがフリーソロに集中できるように無人カメラを各所に設置して行われるのだが、編集の巧みさもあろう。一体どうやって撮ったのか分からないような映像が出てくる。
例えば、手足のクローズアップはどのようにしてカメラに収めたのだろうか?もしかしたらそこだけ別撮りで編集したのではないか?などと穿ってしまいたくなった。それほど”映画的”な撮影技法で撮られている。
劇中では撮影スタッフの葛藤も描かれている。撮影はアレックスの集中力を削がないように細心の注意を払って行われる。しかし、アレックスの精神状態は不安定になっていく。もしかしたらこの撮影は間違っていたのではないか…と監督は複雑な心境を吐露するようになる。
また、本編にはアレックスと恋人の私生活や彼女のインタビューも登場してくる。愛する人を失ってしまう可能性があるわけだから、彼女の胸中も複雑だろう。
フリーソロは孤独な戦いであるが、決して一人で上っているわけではない。こうした人たちのサポートによって支えられているのだ…ということがよく分かる。
「さようならCP」(1974日)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル社会派
(あらすじ) CP(脳性小児麻痺)者たちの実生活をとらえたドキュメンタリー映画。
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(レビュー) CP(脳性小児麻痺)者の赤裸々な姿を捉えた衝撃のドキュメンタリー。
「ゆきゆきて神軍」(1987日)や
「ニッポン国VS泉南石綿村」(2018日)等、センセーショナルな題材と社会問題を真っ向から描いてきたドキュメンタリー作家・原一男の監督第1作である。
障碍者たちの姿を真正面から捉えた内容は、観る人によっては嫌悪感を抱く人もいるかもしれないが、これもまた氏の作品の特徴である。きれいごとなど一切なしのガチンコ撮影には頭が垂れる思いだ。
印象的だったのは、町のど真ん中で寄付を募るシーンだった。募金をした人に何故募金をしたのか?と尋ねると、可哀そうだからという答えが返ってくる。これはこれで人としての良心であり、正直な答えだろう。
ただ、その一方で障害者も一人の人間である。普通の人と同じように扱ってほしい…という気持ちもきっとあるはずである。単純に障碍者=可哀そうという色眼鏡で見ることが果たして正しいのかどうか…。そこは考えさせられてしまう。
ラスト直前、全裸で道路のど真ん中に鎮座する障碍者の姿は強烈な印象を残す。すべてを曝け出したその姿に、彼の生き様みたいなものが感じられた。自分の本当の姿を見て欲しいという主張に見えた。
本作には”青い芝”という障碍者の団体が登場してくる。彼らの中にも、自分は独立した一人の人間であり特別扱いしてほしくないと思ってる人が多い。車椅子を使わず地べたを這いつくばって移動する者、風俗店で性的欲求を満たす者。その言動は障碍者=可哀そうという一般的な概念を覆す。
この映画は、障碍者の救済と自立、その微妙な狭間を鋭く突いたドキュメンタリーのように思う。
同情するだけが彼らの救いになるわけではない。一番は当事者の生の言葉に耳を傾けることが大切なのではないか?ということを我々に教えてくれるからだ。
観た人はきっと障碍者に対する既成概念が一変することは間違いないだろう。多くの人に観てもらいたい意義ある作品である。
ただ、インタビューの中には、何を言っているのか聞き取れないものが多かったので、できれば字幕を付けて欲しかったかもしれない。もっとも、そこも原一男監督は敢えてつけないことで、彼らの言葉を直に受け取って欲しいと願ったのかもしれないが…。
「Mank/マンク」(2020米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1930年代のハリウッド。アルコール依存症の脚本家ハーマン・J・マンキウィッツは、オーソン・ウェルズが監督、主演する「市民ケーン」の脚本に取り掛かることになった。その矢先、彼は運悪く自動車事故で足を骨折してしまう。砂漠の別荘に缶詰めになった彼は、そこで脚本作りを急ぐのだが…。
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(レビュー) 不朽の名作「市民ケーン」(1941米)の脚本製作にまつわるエピソードを当時の世情を絡めて描いた実録映画。
監督は
「ソーシャル・ネットワーク」(2010米)、
「ドラゴン・タトゥーの女」(2011米)、
「ゴーン・ガール」(2014米)のデヴィッド・フィンチャー。脚本は彼の亡き父ジャック・フィンチャーの遺稿である。
未だにオールタイムベストにも選ばれる「市民ケーン」であるが、その製作にあたっては様々な逸話が残されている。作品の主人公のモデルとなった当時の新聞王ウィリアム・ハーストの怒りを買って劇場公開や賞レースで妨害を受けたというのは、余りにも有名な話である。また、ディープ・フォーカスやローアングルといった撮影技術も本作から始まったと言われている。
それを若干26歳のオーソン・ウェルズがプロデュースから監督、主演まで務めて製作したというのだから、当時の映画界に与えた衝撃は相当大きなものであったことだろう。
もちろん本作にもオーソン・ウェルズは登場してくる。しかし、主人公は「市民ケーン」のシナリオを書いたハーマン・J・マンキウィッツの方である。「市民ケーン」ではウェルズと共同脚本になっていたが、今作を観ると実質的にはマンキウィッツ一人で書いたように見える。どうして共同名義になったのか?そのあたりのからくりは本作を観るとよく分かる。
マンキウィッツは「市民ケーン」でアカデミー賞の脚本賞を受賞し、一気に名脚本家の仲間入りを果たした。しかし、これ以降は脚本家として大成したというわけではない。そのあたりの理由も本作を観るとよく分かる。
フィルモグラフィーを見るとほとんどがB級作品である。よく知られている所だと「紳士は金髪がお好き」(1928米)や「打撃王」(1942米)といった作品だろうか…。しかし、これらはいずれも共同脚本名義であるし、「紳士は~」にいたっては原作戯曲やM・モンローが主演した55年版の方が有名である。
結局、彼はこの「市民ケーン」をキャリアの頂点として映画業界から忘れ去られた存在になってしまった。そんな不遇の作家マンキウィッツの一か八かを賭けた大仕事。それがこの「市民ケーン」だったということが本作を観るとよく分かる。
ただ、華やかりしハリウッドを舞台にしてはいるものの、メインとなるドラマは悩めるシナリオライターの苦闘の日々である。決して万人が共感を持てるドラマとは言い難い。「市民ケーン」の製作裏話を覗き見する…という感覚で観れば十分に楽しめるが、「市民ケーン」を観たことがない人には余り興味を持てない作品だろう。
また、実在した関係者の名前が続々と登場するので、予め予習しておかないと分かりづらい面もある。自分は、MGMのCEOルイス・B・メイヤーや名プロデューサ、セルズニックあたりは知っていたが、それ以外はよく知らなかったので観てて少し分かりづらかった。マンキウィッツに同業者の弟がいたことも今回の映画で初めて知った次第である。
尚、この弟との最後のやり取りは中々味わいがあって良かった。
更に、劇中には当時のカリフォルニア州知事選挙が登場してくる。共和党のプロパガンダにMGMが一役買っていたことも初めて知った。先の大統領選然り、現代に通じるような風刺を効かせたところに製作サイドの気骨が感じられる。
映像は40年代を意識したモノクロ映像で統一されており、フィンチャーならではのこだわりが感じられた。
例えば、車窓に流れるスクリーン・プロセスやモノクロ特有のコントラスを利かせた陰影は、当時の映像の再現に他ならない。リアリティを考えればナンセンスかもしれないが、そこにはフィンチャーならではのユーモアが感じられる。
音楽も当時のジャズを流用し、とことん40年代風味を追求し、ここにもフィンチャーの完璧主義が徹底されていると思った。
かつては鬼才などと評されていたフィンチャーも、ここまでくるともはや名匠の域に来ているという感じがする。改めて彼の完璧主義な映画作りには感服するほかない。
キャストでは、何と言ってもマンキウィッツを演じたG・オールドマンの狼狽した演技と、時折見せるユーモラスな演技が絶品だった。他の俳優も素晴らしいアンサンブルを披露している。