「20センチュリー・ウーマン」(2016米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1979年、シングルマザーのドロシアは15歳の息子ジェイミーと暮らしていた。家には他に、子宮頸がんを患うパンクな写真家アビー、元ヒッピーの便利屋ウィリアムも居候していた。ジェイミーにはジュリーというガールフレンドがいたが、中々一線を越えられず苛立ちを覚えていた。ジェイミーは次第に反抗期を迎えドロシアの手を焼かせていくようになる。ドロシアはアビーとジュリーに息子の教育係になってほしいと相談するのだが…。
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(レビュー) シングルマザーと思春期の息子の関係を周囲の人間模様を交えて描いたヒューマン・ドラマ。
監督、脚本は
「サムサッカー」(2005米)、
「人生はビギナーズ」(2010米)のマイク・ミルズ。人間の孤独と人生の悲喜こもごもをさりげなく描く才人である。今回もその資質は存分に発揮されている。
面白いと思ったのは、ドロシアとアビーとジェイミー、3人の女性の立場を母性という観点から明確にキャラクリゼーションした点だ。
ドロシアはシングルマザー。アビーは子宮頸がんによって母になれない女性。ジェイミーは奔放に男友達を渡り歩く未熟な少女。こんなふうに分けられる。
そんな彼女たちのやり取りは本作の妙味の一つになっている。中でも、アビーが病気のことをドロシアに相談するシーンは白眉であった。母親になれない彼女の悲しみが痛々しいほど伝わってきた。
女性陣が目立つ映画であるが、居候の便利屋ウィリアムもユーモア担当という立ち位置で中々の存在感を発揮している。アビーと肉体関係に及ぶなど、彼は基本的に来る者は拒まず、誰とでも寝る男である。いかにもヒッピー文化の洗礼を受けてきたおじさんという感じだが、そんな彼はドロシアの良き相談相手になっていく。そして、ある時ついに彼女にキスを迫るのだ。ところが、軽く一蹴されて落胆してしまう。ドロシアの方が完全に上手で、この辺りにはクスリとさせられた。
このように本作は母子のドラマがメインなのだが、周囲に集う人間模様も大変魅力的に描けていて、ある種群像劇的な楽しみ方もできる作品となっている。多彩な人物の捌き方には「サムサッカー」同様、マイク・ミルズの才覚が伺える。
もちろんメインであるドロシアとジェイミーの関係を描くドラマも抜かりはない。子育ての難しさに悩む母の葛藤を丁寧に描写していて見応えを感じた。
ただ、タイトルの「20センチュリー・ウーマン」(邦題は原題そのまま)には今一つピンとこなかった。物語は1979年という特定の時代を背景にしており、掲げられたお題目とは程遠いドラマである。
キャストではドロシアを演じたアネット・ベニングの妙演が印象に残った。若い頃からコメディやシリアスをまたにかけて活躍していた実力派だが、最近では
「キッズ・オールライト」(2010米)など一癖持った母親役がしっくりとくる女優になってきた。今後もますます活躍の場を広げていくのではないかと期待せずにいられない。
「サムサッカー」(2005米)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 17歳の少年ジャスティンは未だに親指を吸う癖が治らず悩んでいた。行きつけの歯医者のペリー先生は、そんなジャスティンの悩みを解消するため催眠術を施した。おかげで癖は治ったものの、不安を解消する術を失ったジャスティンは次第に自分の行動をコントロールできなくなってしまう。ついにジャスティンはADHD(注意欠陥多動性障害)と診断され抗うつ剤を処方されるのだが…。
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(レビュー) 親指を吸う癖が治らない少年の心の成長を周囲の人間模様を交えながら描いた青春映画。
抗うつ剤を処方されたジャスティンが突然流ちょうに言葉を操りながらトントン拍子にディベート大会で優勝してしまうクダリに、やや安易さを覚えたが、そこ以外は非常にリアリティのあるドラマで真摯に見ることができた。
親指を吸う癖は精神医学的に幼児性の表れとも言われている。ジャスティンは歯科医のペリーの奇妙な催眠術のおかげでその癖が収まるのだが、コトはこれだけでは終わらず、ADHDと診断され徐々におかしなテンションになっていくのだ。そうこうしていくうちに大きなトラブルに発展し、やがて彼はあるがままの自分を受け入れていくことで精神的に一回り大きく成長していくことになる。青春談としては至極まっとうにまとめられており、気持ちよく観ることができた。
ジャスティンの周囲に集う人々の物語も中々面白い。
母親やガールフレンド、かかりつけの歯科医ペリーといったサブキャラがジャスティンの成長を促す上で重要な役回りを担っている。
母親は少し変わった性格の女性で、よく言えばざっくばらんとした性格、悪く言えば独善的な所がある。母親と言うより年の差が離れた姉のような存在で、このサバサバしたところが今時の母親という感じがした。
ガールフレンドとの関係は後半で大きな変化が訪れる。ジャスティンも思春期の男子である。それなりに性欲は持っているが、彼女はこれを”意外な理由”で袖に振ってしまう。早い話が失恋してしまうのだが、ゆくゆくこれがジャスティンの自律の原動力になっていく。
そして、ジャスティンのかかりつけの歯科医ペリーも大変ユニークなキャラである。キアヌ・リーヴスが演じているのだが、いかにも彼らしい自由人スタイルな風貌で、しかも奇妙な心理学に凝っているという少々変わったキャラクターである。彼に関しては、メインのドラマとは別に独立したサブドラマが用意されており、前半と後半とでは全くキャラクターに変化するところに注目したい。
そして、何と言っても忘れられないのが、終盤に出会う元ヤク中の男である。彼の”自分語り”がジャスティンの鬱屈した心情を解放したことは間違いない。
他に、ジャスティンと今一つ打ち解けられない父親、生意気な弟といった人物たちが周囲に集う。
こうした多彩な人物を追った群像劇風な楽しみ方ができるのも本作の妙味だ。
監督、脚本はテレビCMなどで活躍していたマイク・ミルズ。本作は彼の長年映画デビュー作である。
軽快なテンポで紡ぐシークエンスやスタイリッシュな映像編集に、いかにも元CMディレクターらしい資質が感じられた。その一方で、ガールフレンドとの間に流れる気まずい空気感など、丁寧に拾い上げじっくりと見せるような演出も中々上手い。全体的にそつなく作られていると思った。
キャストでは、ジャスティンを演じたルー・テイラー・ブッチの佇まいが印象に残った。大人と子供の中間を繊細に演じ、本作で見事にベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞している。しかしながら、この後が今一つパッとしないのが残念である。自分が観た作品では
「死霊のはらわた」(2015米)のメインキャストの一人くらいだろうか。もっと活躍しても良いと思うので今後に期待。
「裸足の季節」(2015仏トルコ独)
ジャンル青春ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 黒海沿岸の小さな村。13歳のラーレは、美しい5人姉妹の末っ子。10年前に両親を事故で亡くし、姉妹たちは祖母と叔父が暮らす家に身を寄せていた。ある日、姉妹たちは学校帰りに男子生徒と海で騎馬戦をして無邪気に遊んだ。しかし、それを祖母に知られて”はしたない”と激しく叱られる。そんな中、ただ一人ラーレだけは反抗したため、罰として外出を禁じられてしまう。
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(レビュー) 古い因習にとらわれた5人姉妹の自律を瑞々しい映像とともに綴った社会派青春映画。
トルコの小さな村を舞台にした物語は、我々日本人には余り馴染みがないかもしれない。しかし、古くは日本でもこうした因習や村のしきたり、封建的な社会は存在していた。「箱入り娘」なんていう言葉もあるくらいで、不順異性交遊はご法度。親同士が決めた相手と結婚させられる…なんてことが現実にあったのだ。
この映画で描かれるラーレを中心とした5人姉妹も、正に祖母と叔父に縛られて、決められた相手との結婚を強要される。末っ子のラーレは、そんな姉たちの不幸を見て反抗していく。
物語はシンプルながら軽快に展開されていくので最後まで面白く観ることができた。
確かに隠滅としたドラマではあるのだが、随所にユーモアが巧みに配されているので親近感を持ってみることができる。
例えば、嫁いだ長女が実は処女でなかったことが判明し両家がパニックに陥るシーンは、当人たちからしてみれば深刻な問題だろうが、どこか笑えてしまうのも事実である。悲喜劇の両面を表したエピソードで味わい深い。
物語のキーマンとして登場してくるトラック運転手の青年もドラマにユーモアを与えていた。彼はラーレたちの反抗を助ける”ナイト”のような立ち回りを見せる。ややご都合主義すぎる気がしないでもないが、その存在は実に頼もしく感じられた。
また、本作は映像もとにかく美しい。ドラマの陰惨さとは打って変わって、いたるところに煌びやかな映像が横溢する。
例えば、姉妹はサッカーが大好きで町に観戦しに行くために、祖母に内緒でこっそりと家を出ていく。夕陽をバックに和気あいあいとサッカー場へ向かう彼女たちの姿は、如何にも青春映画然とした瑞々しい映像で甘酸っぱい感傷に浸れた。
あるいは、序盤の海辺のシーン。美しい大海原をバックに男子生徒と戯れる姿も解放感に満ちていて実に素晴らしかった。
透明感に溢れた5人姉妹のフォトジェニックな映像が随所に登場し、ある種アイドル映画的な趣も感じられる。
監督はこれが初長編となる新人女性監督ということである。美しい映像へのこだわりは、ちょうどソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」(1999米)を連想させる。あれも女流監督ならではの、透明感あふれる美しい映像が印象的であった。
クライマックスにかけてのドラマの盛り上げ方、伏線と回収を巧みに絡ませたオチも気持ちよく観ることができた。すべてを描かないのでスッキリしないという人もいるかもしれないが、個人的には余韻を引く終わり方で良かったと思う。
「父の秘密」(2012メキシコ)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 母を交通事故で亡くしたアレハンドラは、父ロベルトと新天地でやり直そうとメキシコ・シティに移り住む。アレハンドラは新しい学校でクラスメイトと打ち解けていくが、ひとつの事件をきっかけに激しいイジメの対象になってしまう。ロベルトは、そんな娘の異変に気づくことができず…。
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(レビュー) 母を亡くした少女の孤独と、それに気付いてやれなかった父親の苦しい胸の内をシリアスに綴った人間ドラマ。
いわゆるイジメ問題を題材にした物語だが、本作は父と娘のすれ違いを描く家族の物語でもある。アレハンドラとロベルトの間には厚い壁がある。その原因は後になって分かるのだが、そこを想像しながら観ていくと、このドラマは非常に入り込みやすいと思う。
しかして、最終的に父親は”ある行動”に出るのだが、これは衝撃的だった。法的、倫理的には決して許されない行為である。しかし、そうせざるを得なかった彼の心境もよく分かる。
アレハンドラが学校のいじめをロベルトに隠しているので、観ている最中は「父の秘密」ではなく「娘の秘密」ではないか…と思っていたのだが、なるほど。この衝撃のラストを見て「父の秘密」というタイトルに納得できた。
映画は、最初から最後まで余計なセリフやBGMを排したロングテイクが続く。まるでその現場を目撃しているかのようなドキュメンタリータッチが全編にわたって貫かれ並々ならぬ緊張感が味わえた。
物語自体は至極シンプルである。しかし、じっくりと腰を据えた演出によって、アレハンドラとロベルトの苦悩がこちら側によく伝わってきた。
ただ、決して観客に対して親切な作品とは言い難い。根気強く観てあげないと、この映画は一体何について描いているのか?といった感じで途中で脱落してしまうかもしれない。
例えば、冒頭の車中のシーンは、初見だけでは一体何が起こっているのかよく分からないシーンである。しかし、物語が進むにつれてようやくその意味が分かってくるようになる。
母の交通事故の原因も然り。明確にセリフで説明されておらず、ある程度想像しながら観ていかなければならない。もちろんその原因は終盤で判明するのだが、そこに至るまで興味を維持できるかどうかが問題である。
このようにこの映画は、観客の集中力が試される作品とも言える。振り落とされないように根気強く見て行かなければならない。
印象に残ったのは、先述した衝撃のラストシーン以外に、イジメのシーンも相当強烈で脳裏に焼き付いた。正直、ビジュアル的にはそこまでの凄惨さはないのだが、かなり粘着的に描かれているので大変嫌な気持ちにさせられた。だからこそ、このドラマに説得力が生まれているとも言えるのだが、しかし観てて決して気持ちの良いものではなかった。
そんなイジメに堪えていたアレハンドラは相当タフである。そこには母親の死が関係していたのだろう。あるいは、彼女なりの贖罪の意味があったのかもしれない。実に憐れな少女で見てて辛かった。
「ラブレス」(2017ロシア仏独ベルギー)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 一流企業で働くボリスと美容サロンを経営するジェーニャは離婚協議中の夫婦。2人にはすでに恋人がいて、新しい生活をスタートさせる上で息子のアレクセイはお荷物でしかなかった。そんなある日、学校からの連絡でアレクセイが行方不明になったことが分かる。
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(レビュー) 行方不明になった息子を捜索する夫婦の軋轢をシリアスに綴った作品。
終始重苦しいトーンに支配された映画である。行方不明になったアレクセイはどこにいるのか?事故や事件に巻き込まれてしまったのか?両親であるボリスとジェーニャ、警察やボランティア捜索隊の奔走する姿が延々と描かれるドラマである。
いわゆる娯楽映画であれば、最後にアレクセイが見つかって不仲だった夫婦も復縁してハッピーエンドとなろう。しかし、本作はラストもそんな安易な形では終わらない。引っ張るだけ引っ張って、最後に観客を突き放して終わるのだ。観終わった後には苦々しい鑑賞感が残る。観た人それぞれが考えてくれ…ということなのだろう。
そもそも本作はアレクセイの捜索を描きながら、実はそこに着目して展開される映画ではない。残された夫婦の確執と葛藤をメインとしたドラマとなっている。言わばアレクセイの失踪はそこを描くための”きっかけ”でしかなく、テーマは崩壊した夫婦関係、人間のエゴそのものなのである。
ラストは流れる川を捉えた映像で終わっている。ここから想像するに、アレクセイはこの川に流されてしまったのかもしれない。更に言えば、これは事故ではなく自殺だった可能性もある。醜い両親の軋轢に嫌気がさして自らの命を絶ち現実に別れを告げたのかもしれない…。
いずれにせよ身勝手で自分のことしか考えない両親が、この幼い少年を殺した。そんな風に思えて、見終わった後には何ともやるせない気持ちにさせられた。
監督、共同脚本は「父、帰る」(2003ロシア)、
「裁かれるは善人のみ」(2014ロシア)のアンドレイ・ズビャギンツェフ。冷徹な眼差しでしっかりとドラマを見据えた作劇は今回も健在で、目をそらすことができない重厚さに溢れている。
ただ、今回はドラマがシンプルな分、物語がやや水っぽい印象がした。アレクセイ捜査のサスペンス、ボリスとジェーニャの私生活。主にこの二つを交互に描く構成になっているが、前者の緊張感を後者が途絶えさせてしまっている感じがする。そのため、どうしても途中で興味が削がれてしまう。夫婦の冷え切った関係を描く描写をほどほどにして、アレクセイの捜査をメインに据えて展開させたほうが良かったのではないだろうか。
それにしても、ボリスとジェーニャの関係はどうしてここまで破綻してしまったのだろうか?映画を観ても彼らの過去が一切分からないため、そこは大いなる謎だった。そもそもの原因は何だったのか?どちらの浮気が先だったのか?それが気になった。
しかし、逆に言うと、そこを伏せたのもズビャンギンツェフ監督の計算なのかもしれない。
幼いアレクセイからすれば、両親が自分を捨てた理由など大した問題ではない。ただ失った愛を取り戻したいだけなのである。
つまり、アレクセイの視点に立って、ボリスとジェーニャの理不尽な行動を考えて欲しい…というメッセージなのだろう。
ズビャンギンツェフ監督の徹底した客観的語り口には改めて脱帽するしかない。
「裁かれるは善人のみ」(2014ロシア)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) ロシアの小さな入江の町。自動車修理工場を営むコーリャは、若くて美しい妻リリアと前妻との息子ロマと3人で暮らしていた。ある日、町に開発計画が持ち上がり、彼の土地を市が収用することになる。納得のいかないコーリャは、親友の弁護士ディーマの力を借りて市を相手に訴訟を起こすのだが…。
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(レビュー) 行政の土地開発計画に抗う男が辿る悲劇的な運命をシリアスなトーンで綴った社会派人間ドラマ。
物語前半は土地開発問題を巡ってコーリャと行政側が対立するドラマとなっている。
コーリャは親友のディーマを弁護士に付けて法廷闘争にのぞむのだが、その中で二人は家族ぐるみの交友をしながら友情の結束を固めていくようになる。法廷ドラマであると同時に、ある種人間ドラマ的な趣が味わえる内容となっている。
そして、中盤でこの法廷闘争は一応の決着がつく。
後半に入ってくると物語は意外な方向へ進んでいく。
ネタバレを避けるために詳しくは書かないが、コーリャとディーマの関係に亀裂が入り、映画前半で敗訴となった市長が反撃の攻勢に出てくるのだ。喜びも束の間、コーリャの人生は大きく狂ってしまう。
しかして、ラストは取り返しのつかない事態にまで発展し、残酷的な顛末を迎えることになる。正直、これは予想できなかった。一体どうしてこんな結末になってしまったのか?誰が悪かったのか?どこかで軌道修正できたのではないか?と色々と考えさせられてしまった。
タイトルの「裁かれるは善人のみ」の意味が反芻される。
そこには宗教的な意味合いも確実に含まれており、それは終盤に登場する神父が語る旧約聖書のヨブ記の言葉に示唆されている。悲劇の連続に苦しめられたヨブは神に向かって理不尽な我が身を訴えるという話だが、それはまさしくコーリャの境遇そのものに重ねて見ることができる。果たしてこの世に神は本当にいるのか?救いはあるのか?という彼の心の問いかけは空しく響くばかりだが、それは観ているこちらもまったく同じ思いである。
尚、映画のタイトルの原題は「リヴァイアサン」(英語読み)である。リヴァイアサンは旧約聖書に登場する怪魚である。この映画の舞台となる寂れた港町には海岸に打ち上げられたクジラの死体が転がっている。手つかずのまま何年も放置されたままなのだろう。すでに白骨化しており、それが正に怪魚リヴァイアサンの死体を思わせる。そして、希望も変化もない閉塞感に包まれたこの町を、このクジラの死体は暗に象徴しているようにも感じられた。非常に印象的なオブジェである。
監督、脚本はアンドレイ・ズビャギンツェフ。同監督作「父、帰る」(2003ロシア)同様、今回も終始張り詰めた緊張感が持続する映画となっている。
音楽は一切なく、セリフも必要最小限で、映像で語るタイプの典型的な作家で、その研ぎ澄まされた表現が今回も健在だった。
そのミニマルな作家性が最もよく出ていると思ったのは、皆で狩猟に出かけた中盤のシーンである。ここでコーリャとディーマの軋轢は決定的な物となるのだが、それを直接的に見せず、機関銃の”音”のみで表現するスマートな演出に脱帽した。
キャストの好演も見事である。ロシアの俳優は余り馴染みが無いのだが、コーリャ役の俳優の苦悩を秘めた演技、妻リリア役の女優の抑制された演技が絶品だった。
「無言歌」(2010香港仏ベルギー)
ジャンル社会派・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1956年、ソ連のスターリン批判を教訓に、中国は党に対する批判を歓迎する“百花斉放百家争鳴”を提唱した。しかしほどなく方針を一転させ、批判した知識人たちは“右派分子”として辺境の再教育収容所へ送られてしまう。彼らは劣悪な環境の中で過酷な労働を強いられるのだが…。
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(レビュー) 政治的スローガンに翻弄された知識人たちの非情な運命を冷徹な眼差しで描いた社会派ドラマ。
様々なドキュメンタリー映画で世界を震撼させてきたワン・ビン監督が、初めて劇映画に挑戦した作品である。
とはいっても、映像スタイルはこれまで通り、ロングテイクを主体としたドキュメンタリータッチで、劇映画というよりほとんどドキュメンタリーを見ているような感覚を持った。
撮影前にかなりリサーチとしたということなので、物語にも十分の説得力と真実味が感じられた。完全にフィクションではなく、おそらく本当にこんなことがあったのだろう…と思えるリアリティが感じられる。
収容所での生活環境は非常に劣悪である。この辺りの描写は、以前観た同監督作
「収容病棟」(2013香港仏日)を想起させるものがある。
収容された者は昼間は屋外で肉体労働を強いられ、夜になると暗い洞穴の中で汚い布にくるまって雑魚寝をして就寝する。配られる食料はわずかな白がゆのみで、そのため裏では物々交換で食べ物が取引されている。栄養失調で倒れる者、飢餓で死んでいく者。中には死体の肉を食う者までいる(直接の表現はないがセリフで語られていた)。
最も強烈だったのは、ある男が別の男の嘔吐物の中から豆を拾って食べるシーンだった。これはさすがに観ててきつかった。
このような惨状がひたすらドライに切り取られていくので、観てて余り気持ちの良い映画ではない。確実に人を選ぶ映画だろう。しかし、この鬼気迫る描写の数々には目を離せない迫力が感じられた。
物語は中盤で一つ大きな節目が訪れる。ある労働者の妻が訪ねてきて、施設側に夫に合わせて欲しいと懇願するのだ。以降は彼女を中心とした話になっていく。
結局、彼女は面会が叶わず、やがて悲劇的な光景を目の当たりにすることになるのだが、これには実にやるせない気持ちにさせられた。この理不尽極まりない顛末には心を痛めるしかない。改めてワン・ビン監督の揺らぎなきジャーナリスティックな姿勢に圧倒されてしまう。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016英仏ベルギー)
ジャンル社会派・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 長年大工として働いてきた平凡な中年男ダニエル・ブレイクは、ある日、心臓病を患い医者から仕事を止められる。仕方なく国の援助を受けようとするが、役所の融通の利かない対応に苛立った。そんな時、助けを求める若い女性が職員に冷たくあしらわれているのを見て、彼の堪忍袋の緒は切れた。ダニエルは、幼い2人の子どもを抱えた彼女ケイティと交流を始めていくが…。
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(レビュー) 市井の眼差しで労働者階級の実態を描いてきたイギリスの名匠K・ローチ監督が、弱者切り捨ての現代社会に物申す社会派人間ドラマ。
お役所仕事の融通の利かなさは、ここ日本でも感じる所であるが、本作を観るとどこの国も一緒だなと思ってしまう。
正に本作では、そのあたりのことが真正面から描かれている。
例えば、ダニエルはネットで求職情報を検索するが、パソコンなど使ったことがないため悪戦苦闘する。デジタル化社会の波に乗れないお年寄りなどは、こういうことはよくあるのではないだろうか。
昨今の我が国の給付金申請も然り。利便性を追求するのは良いが、これでは元も子もない。行政サービスとは何なのか?ということを考えさせられてしまう。
また、イギリスの就職斡旋所では、役所が主催する履歴書の書き方講座を受けないと履歴書を受け付けてくれないらしい。履歴書は多種多様である。夫々が自分に正直に書けばいいのであって、全員に義務化する必要なんてあるのだろうか?と疑問に思ってしまった。
このように本作のダニエルは幾つもの煩雑な手続きに阻まれて、中々補助申請を受け付けてもらえない。明日も見えない不安の中で彼は徐々に行政に対する不信感を募らせていくようになる。
きっと器用な人間ならもっと上手く立ち回れるのであろう。しかし、このダニエルは、どちらかと言うと昔ながらの頑固おやじで、なかなかそれができない。周囲の環境変化への対応能力をあまり持ち合わせおらず、そのためどんどんドツボにハマってしまうのだ。
そして、ついに我慢の限界に達した彼はクライマックスで”ある行動”に出る。周囲の市民がそれにシンパシーを覚えて喝采を送るが、これには自分も胸がすくような気持ちになった。
ダニエルのこの行動は決して褒められたことではないかもしれない。しかし、そうせざるを得なかったという苦しい胸の内もよく理解できるからだ。
行政を改善するにはどうすればいいのか。それはとても難しい問題であるが、結局その改革を促すのは我々一般市民であることを、この映画はダニエルという平凡な中年男の姿を通して語っているような気がする。皆が”ダニエル・ブレイク”になって声を上げれば、きっと行政は動いてくれる。ケン・ローチが本作を通して伝えたかったことは、そのことだったのではないだろうか。
尚、本作にはケイティというシングルマザーが登場してダニエルと心温まる交流を繰り広げていくが、こちらも貧困に喘ぐ市井の一人として実に印象深いドラマを紡いでいる。
特に、フードバンクを訪れた際に見せる彼女の姿には心を痛めてしまった。
一方で、ダニエルと同じアパートに住む若者たちの能天気さは、隠滅になりがちなドラマに明るいユーモアを持ち込んでいて中々に面白かった。彼らは中国から海賊版のバスケットシューズを仕入れて、それをネットで売りさばく商売をしているのだが、これは完全に違法行為である。しかし、その商魂逞しさは、どこか憎めなさもあって微笑ましく見れた。
「ローサは密告された」(2016フィリピン)
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) マニラのスラム街で雑貨店を営むローサは、家計を支えるために少量の麻薬売買をしていた。ある時、警察のガサ入れが入り夫と一緒に逮捕されてしまう。警察署に連行されたローサたちは、多額の見逃し料を要求されるのだが…。
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(レビュー) 腐敗したフィリピン警察の実情を、ある一家の目線を通して描いた社会派サスペンス・ドラマ。
どこの社会でもこうした権力の腐敗はあるものだが、フィリピンも然り。勝手なイメージだが、こうした腐敗が日常化してるイメージがある。
以前観た映画で
「エリート・スクワッド」(2007ブラジル)という作品があるが、それに近い印象を持った。そこで警察の腐敗は蔓延しており、ブラジルもやはりそういうイメージが強い国である。
だからと言って、本作が既視感のある映画かと言えばさにあらず。権力の腐敗、ドラッグの蔓延といった映画の素材そのものは決して新鮮ではないものの、フィリピンのマニラが舞台というだけで独特の風土、空気感が感じられる映画になっていて興味深く観ることができた。
それにしても、ローサたちを逮捕した警官たち何と醜悪なことよ…。ローサたちに釈放する代わりに多額の見逃し料を要求し、押収した麻薬を横流しして酒を飲んでいるのだからヒドイ有様である。
確かに麻薬を売りさばいていたことは犯罪である。しかし、ローサたちが裁かれて、自分たちは堂々と悪行に手を染めてもお咎めなしというのが理不尽極まりない。
物語は厳しい取り調べを受けるローサと夫を描く一方で、両親の保釈金の金策に奔走する子供たちの姿も描かれる。何とも悲惨極まりない状況で見てて辛かった。
しかも、彼らは母を密告した犯人を見つけるのだが、その相手が彼らがよく知る身近な人物だったというのもやりきれない。貧しいこの町では誰もが密告者になり得るということなのだろう。絶望的である。
しかして、ローサの運命はどうなるのか?と思って観ていくと、最後にこれまた皮肉的なオチで締めくくられる。生きていくためには仕方がないとはいえ、これもまた貧しい社会に生きる者たちの実態なのだろう。
映像は手持ちカメラによるドキュメンタリータッチが徹底されており、強引な取り調べのシーンや雑多なドヤ街の喧騒などをワンカットワンシーンでパワフルに切り取っている。生々しい映像がドラマへの没入感を見事に誘導している。
娯楽性は少ない作品であるが、マニラの底辺社会の実態を赤裸々に表した所に十分の見応えを感じる作品だった。
「サーミの血」(2016スウェーデンノルウェーデンマーク)
ジャンル青春ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 1930年代、スウェーデン北部のラップランド地方。ここに暮らす先住民族サーミ人は、他の人種より劣った民族と見なされ理不尽な差別を受けていた。サーミ人の少女エレ・マリャは優秀な成績で町の学校への進学を希望する。ところが、教師からは都会ではやっていけないと冷たくあしらわれてしまう。そんなある日、エレ・マリャは夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちるのだが…。
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(レビュー) 理不尽な差別を受けるサーミ人の少女の成長と葛藤を静謐なタッチで描いた社会派青春ドラマ。
自分はサーミ人について全く知識がなかったので、この映画をきっかけに彼らが受けてきた差別と偏見の歴史を知った。現在ではそこまでの差別はないようだが、過去にこうしたひどい状況があったということに心を痛めてしまう。
中でも、映画前半でエレ・マリャが進学の希望を教師に相談するシーンが印象深かった。この時、教師はこう述べる。サーミ人の脳は文明に適していない…と。ただサーミ人だからという理由だけで、スウェーデン人より知能的に劣ると一蹴されてしまうのだ。エレ・マリャは悔しがりながらも進学を断念せざるをえなくなる。
映画はエレ・マリャが妹の葬儀に出席する現代編から始まる。そこから時代は遡り、エレ・マリャの青春時代が回想形式で綴られる。
その中で明らかにされる妹との関係は実に興味深く観ることができた。
故郷を捨てて自分の生きたい道を進んだエレ・マリャ。姉とは逆に故郷に留まった妹。離ればなれになった姉妹の生き方の違いが次第に分かってくる。時を経て再会した二人はすでに語り合うことはできないが、おそらくエレ・マリャは故郷と妹を捨てた後悔をずっと抱えていたに違いない。その胸中を察すると、何とも切なくなってしまう。
その一方で、回想編ではエレ・マリャがスウェーデン社会に溶け込もうともがき苦しむ姿が描かれる。理不尽な差別や失恋を乗り越えながら前を向いて生きて行こうとするエレ・マリャの強い意志に、観ているこちらも自然と胸が熱くなった。
広大で美しい大自然を捉えた映像も素晴らしかった。特に、エレ・マリャが久しぶりに故郷に戻って妹と抱擁するシーンが絶品だった。
監督、脚本は自身もサーミ人の血を引き継いでいるという女流監督である。本作が彼女の長編初監督作ということで、並々ならぬ思いが感じられた。今回はかなりプライベートなドラマだったが、今後はどんなテーマで映画を撮るのか気になる所である。
キャストではエレ・マリャを演じた少女の佇まいが素晴らしかった。演技云々というよりも、もはやその造形のみでキャラクターとしてのインパクトを残したという感じである。特に、固く結ばれた口元が印象的である。エレ・マリャという少女の意志の強さが伺えた。
尚、どうしてサーミ人がここまで虐げられてきたのか。その理由はこの映画の中では明らかにされていなかったので、ちょっと気になって調べてみた。
そもそもサーミ人というのは自分の国を持っておらず、ノルウェー、フィンランド、ロシア、スウェーデンといった国に跨って暮らしていた民族らしい。したがって、サーミ人と一括りに言っても、実態は様々であり、彼らは夫々の国で夫々の生活を送っているわけである。当然そうなるとその国からは「部外者」として扱われることになる。これが本作で描かれているような差別を生む土台になっているということだ。
ちなみに、ラップランドという呼称も彼らにとっては辺境の地を意味する蔑称だということらしい。今まで普通に使っていた自分が恥ずかしくなってしまった。