「シンプルメン」(1992米英伊)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 強盗犯の兄ビルと生真面目な弟デニスは、元大リーガーで国防省爆破犯として手配中だった父の逮捕を新聞記事で目にする。二人は面会に駆けつけるが、既に父は脱走した後だった。母から父の愛人のものらしい電話番号を受け取るも繋がらず、二人はそれを手掛かりに父探しの旅に出る。
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(レビュー) 指名手配中の父を探して旅をする兄弟をユーモラスに綴ったロードムービー。
登場人物がそれぞれに一癖も二癖もあって面白い。そもそも元大リーガーで爆破テロ犯という父のキャラクターが圧巻で、どこからこんな発想を思いつくのだろうか。こんなキャラクターを今まで見たことがない。
主役の兄弟もそれぞれに個性的で魅力的である。兄ビルは恋人と友人と強盗に成功するが、恋人が友人と駆け落ちしてしまうという甲斐性無しである。弟デニスは兄とは対照的で、馬鹿がつくほどの真面目な性格である。
彼らが旅の途中で出会う人々も訳ありな面子が揃っていて楽しめる。獄中の夫の帰りを待つ美女。その夫の親友でバーを経営する男。ルーマニアから来たという少女。詩を書いているガソリンスタンド店員。それぞれに数奇な人生を歩んできたのであろう。色々と想像させる。
ただ、これだけ多彩な人物が揃っていても、メインである兄弟の父親探しは余り盛り上がらないのは残念だった。何なら父が見つからなくてもこの兄弟は構わないといった感じで、このまま旅で出会った人たちとずっと一緒に暮らしてもいいや…という風にさえ見える。
父親探しを”なおざり”にしてしまった脚本は賛否分かれよう。個人的には観ててやや痺れを切らしてしまった。
ラストはカタルシスを重視するよりも、兄弟のこれからの人生を色々と想像させるような締めくくり方になっている。この旅を通じて少しだけ成長した二人の姿に、しみじみとさせられた。父の背中を追うのではなく自分自身の生き方を見つけようとする二人の姿に爽やかさが感じられた。
製作・監督・脚本は「ヘンリーフール」三部作のハル・ハートリー。独特の間の使い方や音楽の合わせ方にこの人の才覚が伺える。特に、バーのダンスシーンは白眉だった。
尚、音楽を担当するネッド・ライフルはハル監督自身が組んでいるバンドの名前である。そして、この名前は「ヘンリーフール」三部作の登場人物の名前でもある。ある意味でハートリー作品のアイコンと言えよう。
「トラスト・ミー」(1990英米)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 16歳の少女マリアは高校を中退し、両親に妊娠したことを告白する。それを聞いた父は心臓マヒで急死してしまった。母に家を追い出されたマリアは、読書好きでテレビ嫌いな一風変わった青年マシューと出会う。マシューはマリアに夢中になっていくのだが…。
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(レビュー) 妊娠した少女と一風変わった青年の恋をユニークなスタイルで切り取った青春ロマンス作品。
監督はニューヨークのインディペンデント界で活動し続けるハル・ハートリー。本作は彼の長編映画2作目である。尚、長編処女作「アンビリーバブル・トゥルース」(1989米)は未見である。いずれ機会があれば観てみたい。
物語はマリアとマシューの視座で進行する。二人は夫々に両親と対立している。
マリアは母親に縛られながら鬱屈した日々を送っている。ある日、妊娠を告白したことで父が急死し、マリアは家を追い出されてしまう。
一方のマシューも偏屈で厳格なシングルファザーと無味乾燥な暮らしを送っている。父とは全くそりが合わず、常に険悪な関係にある。
物語は、そんな毒親を持つ若い二人が出会うことで始まる。今までの暗く沈んだ暮らしに灯りをともしながら、未来に向かって歩み進む彼らの姿には”いじらしさ”と瑞々しさが感じられ、実に愛おしく見れた。
しかして、ラストの痛快にして悲哀を滲ませたエンディングには深い感銘を受けた。通俗的なロマンス映画を一蹴してしまうような力強さと特異なユーモアはドラマの締めくくり方としては見事というほかない。
もっとも、単純にハッピーエンドというわけではないので、観る人によって評価は分かれるだろう。中にはこれをバッドエンドと捉える人がいるかもしれない。
しかし、そもそもこの映画は若い二人の悲惨な日常を描いている割に、どこかユーモラスなテイストが貫かれている。そのテイストからすれば、この結末もどこか楽観的に見れてしまう。おそらく遠くない未来、二人は結ばれるに違いない…。そんな希望的観測に満ちた終わり方で自分は好きである。
ハートリーの演出は相変わらずスタイリッシュで引き込まれた。後年の
「ブック・オブ・ライフ」(1998米)のような鼻につく過剰さはなく、程よい凝った演出で大変観やすく仕上げられている。
また、随所にシュールなタッチが混入されるのも面白い。例えば、壊れたテレビを抱えて修理屋に並ぶ人の行列など、普通に考えたらあり得ない光景だがクスリとさせられた。
冒頭のマリアの父親の死に方も然り。平手打ちをされて倒れてそのまま帰らぬ人になってしまうなど、ほとんど冗談みたいな死に方である。
クライマックスも実際には殺伐としたシーンなのだが、ほとんどコントのようなノリなので楽しく観れる。ここで前半に出てきた”あるアイテム”が登場するのだが、この伏線回収も中々に気が利いていて面白かった。
尚、伏線と言えば、マリアが雑貨屋の前で出会った謎めいた中年女性は中々良いキャラクターをしている。彼女は物語終盤のキーパーソンとなっていくので注意して見ておきたい。
キャスト陣も大変魅力的だった。マシュー役のマーティン・ドノヴァンはハートリー作品の常連で今でもハリウッド大作などにも出演しているベテラン俳優である。今回は不器用で屈折した青年を初々しく好演している。
マリア役の女優も中々に良かった。時々メガネをかけるのも萌えポイントである。
「婚約者の友人」(2016仏独)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 戦後間もない1919年のドイツ。戦争で婚約者のフランツを亡くした悲しみから立ち直れずにいたアンナは、ある日フランツの墓の前で泣いているドイツ人の男性と出会う。アドリアンと名乗るその青年は、フランツと戦前のパリで知り合ったと明かす。フランツとの思い出話を聞きながら、アンナは次第に彼との交友を重ねていくのだが…。
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(レビュー) 戦争で婚約者を亡くした女性とその婚約者の友人を名乗る男性の関係をスリリングに綴ったミステリーロマンス。
エルンスト・ルビッチ監督による1932年の作品を、フランソワ・オゾン監督がリメイクした作品である。オリジナル版は未見なので比較できないが、中々面白く観ることができた。
前半はアドリアンのミステリアスな造形に惹かれた。果たして彼が言ってることは本当なのか?という疑いの目で見ることで、まるでヒッチコックの「疑惑の影」(1943米)のようなスリリングさが味わえた。
しかして、映画中盤でアドリアン自身の口から真実が語られその正体が判明するのだが、これにはやるせない思いにさせられた。戦争が引き起こした残酷な運命の皮肉に胸を締め付けられてしまう。ルビッチのオリジナル版は反戦ドラマと言われているらしいが、そのテーマはこの部分から存分に感じられた。
後半は、アンナとアドリアンのロマンスを追いかける作劇に傾倒していく。アンナの心の揺れが、これまたスリリングに描写されていて引き込まれた。すべてを語らせないオゾンの演出も堂に入っていて、実に味わい深いメロドラマになっている。
ラストは実に不遇な終わり方で締めくくられている。アンナの胸中を察すれば、これは実にいたたまれない結末である。おそらく彼女は今後もウソをつき続けることになるのだろう。ただ、そのウソはいずれ自分自身を苦しめることになるはずである。
ウソというものはその時は救いとなるが、バレた時には必ず本人や周囲に深い悲しみをもたらすことになる。そのことは正に本作のアドリアンが証明してみせてくれている。彼もウソによって救われようとしたが、良心の呵責からウソをつきとおすことができなかった。そして真実を打ち明けたことで、より深い悲しみに苦しめられることになってしまった。
いずれアンナもそうなるのかもしれない。しかし、それでも彼女はウソをつくことを選択した。”未来”よりも”今”の苦しみから逃れるためにウソをついたのだ。
映像はモノクロとカラーを巧みに使い分けながら、非常に美しく撮られている。
全体的に沈んだドラマなのでモノクロの映像は上手くマッチしていると思った。
一方、回想シーンや登場人物がウソをついている時、人物の心理状態によっては、映像が時々カラーに切り替わっている。画面にメリハリの付けるという意味では、センスのある演出に思えた。
「胸騒ぎの恋人」(2010カナダ)
ジャンルロマンス
(あらすじ) ゲイのフランシスはストレートのマリーと姉と弟のような親友同士にあった。ある日、2人はパーティでニコラという青年に出会い一目惚れする。3人は小旅行に出かけることになり、そこでニコラと楽しげに戯れるフランシスに嫉妬したマリーは、彼と取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。
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(レビュー) 同じ青年に恋をしてしまったゲイの少年とストレートの少女の複雑な胸の内をスタイリッシュに描いたロマンス作品。
製作、監督、脚本、主演はカナダの俊英グザヴィエ・ドラン。本作は彼の長編デビュー作
「マイ・マザー」(2008カナダ)に続く監督第2作である。
前作は自伝的要素を含んだ母と息子の関係に迫った作品だったが、今回は自身のゲイとしてのアイデンティティをモティーフにした3人の男女の恋愛物語となっている。前作に続き自分自身を曝け出したような作品になっていて、ドランの人間性、作家性が窺い知れるという意味で大変興味深く観れる作品だった。
物語はドラン演じるフランシスと、親友のマリーがニコラという青年に恋焦がれることで展開されていく。
ありがちな物語ではあるが、丁寧な人物描写が奏功し夫々の感情が素直に伝わって来た。いい意味で青臭く純朴な映画になっている。
特に終盤、ニコラを追いかけてそれとなく復縁を持ち掛けるマリーの姿に切なくさせられた。
また後半、疎遠になったニコラをパーティで久しぶりに見かけたフランシスとマリーの表情も絶品である。夫々の複雑な感情が手に取るように伝わってきた。
映像もデビュー作よりかなり洗練されている。
例えば、服飾関係や美術に関しては前作よりも更にこだわりが感じられた。また、画面の色彩センスにも後の才覚が伺える。この才能は次作
「わたしはロランス」(2012仏カナダ)で一気に開花させることになるが、その予兆を本作から伺える。
「すぎ去りし日の…」(1970仏)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 建築家ピエールが自動車事故で瀕死の重傷を負った。彼は自分が辿って来た過去を走馬灯のように思い起こす。恋人、前妻、息子、親友との思い出の数々。そして出せなかった1通の手紙…。
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(レビュー) 重傷を負った中年男の走馬灯を巧みな回想形式で綴ったビターな恋愛ドラマ。
ドラマ的にはありきたりな不倫劇といった感じだが、過去のフラッシュバックで解き明かされるピエールのバックストーリーに惹きつけられながら最後まで面白く観ることができた。また、恋人に宛てた手紙が最後にどうなるのかといったサスペンスも面白く追いかけることができた。90分弱というコンパクトな上映時間も大変観やすくてよい。
監督、共同脚本は「ボルサリーノ」(1970仏)で脚本を務めたクロード・ソーテ。元々は脚本家だったこともあり、本作における現在と過去を交錯させた巧みなシナリオ構成は見事である。今わの際の主人公のモノローグ、主観映像を駆使しながら彼の心情に肉薄した脚本は秀逸である。
シュールな演出も要所で奇妙な味わいを出していて面白い。
例えば、事故の瞬間はハイスピード撮影によるスローモーションで描かれている。ピエールの表情はもちろん、事故の関係者一人一人の姿まで克明に切り取られており、悲惨な事故にもかかわらずどこかユーモラスさを醸し出している。
ピエールが恋人と結婚式を挙げる夢想シーンもシュールで魅了された。祝宴の列席をピエールの主観映像で表現し、左側の席(愛する人々の姿)から右側の席(事故現場の人々の姿)にパンさせながら”夢想”から”現実”に引き戻す演出の妙が素晴らしい。
ラストの締めくくり方も意味深で色々と想像を働かせたくなった。
ピエールからの手紙には何が記されていたのか?前妻はその手紙を見てどう思ったのか?そして、どういう気持ちでそれを破り捨てたのか?セリフを排した描写に見応えを感じる。
個人的解釈としては、前妻は亡き夫のもとに駆けつける恋人の姿を目撃した瞬間、ある確信にたどり着いたのだと思う。夫は自分ではなく恋人を選んだのだ…という確信に。
仮に手紙の内容が自分に対する謝罪や求愛だったとしても、それを投函できなかったということ自体が問題であり、やはり夫の愛は失われていた…ということを彼女は自ずと知ったのではないだろうか。
このラストのクダリは実にドラマチックで、色々と考えさせられた。
「地獄愛」(2014仏ベルギー)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) シングルマザーのグロリアは、出会い系サイトでミシェルという男と恋に落ちる。しかし彼の正体は結婚詐欺師で金だけ奪って姿を消してしまった。その後、グロリアは執念で彼を見つけ出し、彼と一緒に居たいがために結婚詐欺を手伝うと申し出る。
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(レビュー) 結婚詐欺を繰り返すカップルの逃避行を強烈なバイオレンスシーンを交えて描いたロマンス・サスペンス。1940年代に起こった実際の事件を元にした作品である。
実は同じ題材を元にした映画が数本作られているのを後で知った。「ハネムーン・キラーズ」(1970米)、「ロンリーハート」(2006米)、「深紅の恋 DEEP CRIMSON」(1996メキシコ仏スペイン)という映画である。自分はいずれも未見であるが 「ハネムーン・キラーズ」は一部でカルト的な人気を誇っているそうである。
それにしても、同じ題材でこれだけ映画が製作されているということは、よほどこの事件は世間に大きな衝撃を与えたのだろう。実際、今回の映画を観てみても、グロリアとミシェルがたどる運命は中々ドラマチックで、多少の脚色は入ってるにせよその思考と行動には惹きつけられた。余りにも刹那的で情熱的である。
監督、共同脚本は「変態村」(2004ベルギー仏ルクセンブルグ)で世界中を震撼させたファブリス・ドゥ・ヴェルツ。あのシュールで過激なバイオレンス作品を世に送り出した鬼才ということで、本作もかなりアクの強い作品となっている。
まず、オープニングシーンからして異様である。グロリアが死体の体を拭くというシーンの何とグロテスクなことか。彼女は死体安置所で働いており、この冒頭のシーンは後々の伏線となっている。
その後、グロリアは結婚詐欺師のミシェルに騙されて捨てられる。ところが、惚れた弱みだろう。彼女はミシェルを見つけ出して復讐ではなく、彼の結婚詐欺に協力すると言い出すのだ。こうして二人の結婚詐欺の奇妙な旅が始まる。
この物語で面白いと思ったのは、グロリアとミシェルの力関係についてである。最初はグロリアは捨てられたくないためにミシェルの言いなりになるのだが、この力関係がある時から逆転する。それはグロリアが嫉妬に駆られて、ある金持ちマダムを殺害してしまったことから始まる。彼女の狂気は暴走し始め、あれだけ優位に立っていたミシェルが彼女の前では怖くて委縮するようになってしまうのだ。
やがて迎えるクライマックスで、二人の旅はある事件によって決定的な終焉を迎えることになる。
実は、この映画はグロリアをシングルマザーという設定にしたことが非常に重要だと思う。というのも、このクライマックスの顛末やミシェルの過去には、母親という存在が大きな意味を持っているからである。
ネタバレを避けるために詳細は伏せるが、ミシェルは母にまつわる凄惨な過去に苦しめられている。グロリア同様、母一人子一人の母子家庭で、父親がいないせいで母はミシェルに過剰な愛を注ぎ込んでしまったのだ。
母性愛と言えばおおらかな無償の愛といったイメージで語られがちだが、実はそれは恐ろしい物にもなりうるという怖さも持っている。
このあたりのことは、ポン・ジュノ監督の
「母なる証明」(2009韓国)でも語られていたが、母親の暴走した愛は実に恐ろしいものであることがよく分かる。
ファブリス監督の演出は「変態村」のようなシュールでブラックなテイストはなりを潜め、比較的オーソドックスにまとめられている。
ただ、終盤のグロリアが見るフラッシュバック演出や、中盤のミュージカルのようなタッチは独特のシュールさがあり、やはりこの監督のセンスは相変わらず独特である。
また、意味深なラストも尾を引く終わり方で良い。果たしてこれが何を意味しているのか、観る方は解釈を迷わせるだろう。こうした観客を煙に巻くのもファブリス演出の特徴である。
個人的には、あの電話は通じてはいなかったのではないかと思うのだが…。
ちなみに、劇中には名匠ジョン・ヒューストン監督の「アフリカの女王」(1951米英)の映像がたびたび登場してくる。H・ボガードとK・ヘプバーンの掛け合いが楽しいアドベンチャーロマンだが、ミシェルはこの映画をお気に入りとしている。本作のグロリアとミシェルのカップルとは正反対な「アフリカの女王」を持ってきたところにユーモアを感じた。
「みじかくも美しく燃え」(1967スペイン)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 妻子ある伯爵のスパーレ中尉はサーカスの綱渡り芸人エルヴィラと禁断の恋に落ちる。二人は全てのしがらみを捨てて、あてどない旅に出た。やがて暮らしが困窮してくると木イチゴや椎茸を採取して飢えをしのぐ暮らしを強いられるようになる。その頃、二人の手配書が至る所に出回り…。
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(レビュー) 何と言うことはない世間知らずな男女の駆け落ちのドラマだが、映像がとにかく素晴らしい。一つ一つのカットが実に洗練されていて、それを観るだけでも十分に鑑賞に値する作品だと思う。
特に、美しい田園風景の数々が印象に残った。二人が並んで歩いてるだけで絵になるのだから、正にロケーションの勝利であろう。
思い出されるのがテレンス・マリックの映像叙事詩「天国の日々」(1978米)である。名手ネストール・アルメンドロスが切り取った映像美が印象深い作品だったが、この作品はいわゆるマジック・アワーにこだわった映画ということで語り継がれている。そこで見られるようなマジック・アワーこそないものの、本作の自然光を取り入れた風景描写はそれとは対照的な美しさで魅了される。
撮影監督はヨルゲン・ペルソン。P・アウグスト監督作「愛の風景」(1992スウェーデンデンマーク仏独伊英ノルウェーフィンランドアイスランド)、「愛と精霊の家」(1993独デンマークポルトガル)や、ラッセ・ハルストレム監督作「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」(1985スウェーデン)といった秀作を撮ったカメラマンである。実績のある氏の功績が本作でも如何なく発揮されている。
また、本作はウルヴィアを演じたピア・デゲルマルクの美しさも必見である。ヨーロッパ的な正統派美少女といった顔立ちで印象的である。残念ながら本作で映画主演デビューを果たしたのちに3本の映画と1本のテレビシリーズを残して引退してしまったが、逆に言うとその短いキャリアの中で彼女は女優人生を駆け抜けた…という言い方もできる。その煌めきを確かめることができる本作は大変貴重であろう。
正直、映像やキャストの素晴らしさを除けば、映画の出来としては平凡だと思う。演出は少女漫画的な稚拙さを感じる部分がある。
例えば、喧嘩した二人が仲直りするシーンはこうだ。スパーレが謝罪の言葉を記したメッセージを川に流して下流のエルヴィラがそれを受け取る…といった具合である。
物語も、こういってしまうと身も蓋もないが、貴族の坊ちゃんと世間知らずなサーカス小屋のお嬢ちゃんが後先考えずに衝動的に駆け落ちする。ただそれだけの話である。古い時代の物語とはいえ余りにも能天気なドラマであると言わざるを得ない。
しかし、観終わった後に知ったのだが、何とこの物語は実話の映画化だそうである。実際の事件は1889年にスウェーデンで起こっており、それを元にして本作は作られたというから驚きである。
考えてみれば近松門左衛門の「曾根崎心中」も実話を元にした浄瑠璃だったわけで、国は違えど古い時代にはこういうことが結構ざらにあったのかもしれない。現代の感覚では余り考えられないことだが、これも時代だろう。
「5時から7時までのクレオ」(1961仏)
ジャンルロマンス
(あらすじ) シャンソン歌手のクレオは、病院で癌の検査を受診した。検査結果が出るまでの間、彼女は占い師に占ってもらった。ますます不安な気持ちに駆られた彼女は恋人や友人に会いに行くが、彼らの無神経な態度に苛立つばかりだった。そんな彼女の前に一人の青年が現れる。
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(レビュー) 癌の不安を抱えた女性歌手の姿をスタイリッシュに描いた作品。
監督、脚本はアニエス・ヴァルダ。本作は「ラ・ポワント・クールト」(1955仏)に続く彼女の長編映画2作目である。
型に捉われない演出は実にラディカルで、『ヌーヴェルヴァーグの祖母』と言われたアニエスの才能が堪能できる。ヌーヴェルヴァーグ初期時代の代表作「勝手にしやがれ」(1959仏)と並び評されて然るべき意欲作と言えよう。
映画は、約2時間にわたってクレオの姿をほぼリアルタイムで切り取っていく。クライマックスの一点集中なドラマは食い足りなさもあるが、先述したように今作はユニークな演出を楽しむべき作品であろう。
冒頭のカラーとモノクロを対比したカットバック演出、クレオが乗った車窓から捉えたパリの大通りの映像、通行人たちの活き活きとしたクローズアップ等、定理にとらわれない瑞々しいセンスが至る所で炸裂している。ゲリラ撮影なのか、背景の一般人がカメラの方を向いてもお構いなしである。ライヴ感を優先させた撮影が印象的だ。
その反対に、後半の映画館で流れるサイレント映画には、ヴァルダの遊び心溢れる演出術が堪能できる。ここは撮りおろしの劇中劇になっていて、かのチャップリンも顔負けの小粋な恋愛小品となっている。尚、このサイレント映画にはゴダールと彼のミューズであるアンナ・カリーナが出演している。
本作には、他にも多彩な才能が集結していて、音楽はミシェル・ルグランが担当しており、本人が作曲家役として即興でピアノの演奏を披露している。
ラストも実に印象的な終わり方で余韻を引く。死の不安からの解放と生きる意志が力強く表明されており、観終わった後に清々しい気持ちになった。
尚、ここで登場する青年との間には恋の予感を期待してしまうが、彼はアルジェリア戦線に赴く道程にある。したがって、必ずしも生きて帰ってくる保証はなく、いくばくかの苦味をもたらして完結している。そこがこのドラマを一層味わい深いものにしていて良い。
「夜」(1961仏伊)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 結婚して10年になる作家ジョバンニと妻リディアが、病床に伏す夫の友人を見舞った。彼の姿を見てリディアは密かに心が傾いていくのを感じた。一方のジョバンニも、他の女性患者に言い寄られてベッドに入りそうになってしまった。その後、ジョバンニはサイン会のため会場である書店へと向かった。一方のリディアは退屈を持て余して宛てもなく郊外を歩き回る。
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(レビュー) ある夫婦の破綻の危機を淡々と綴ったシリアスなドラマ。
監督・共同脚本はM・アントニオーニ。いかにも氏らしい不毛の愛をテーマにした大人の恋愛ドラマである。
物語は一日の出来事で構成されている。ジョバンニとリディアはすでに冷え切った関係にある。リディアは病気療養中のジョバンニの友人に心が傾き、ジョバンニも他の女性に誘惑されてその気になってしまう。
その後、夫婦は別行動を取り、ジョバンニは自分のサイン会場へ赴き、残されたリディアは町の外れまで宛てもなく歩き始める。そこで描かれるリディアの行動は正に無為の一言に尽きる。映画前半のほとんどは、そんなリディアの退屈な半日の描写で占められる。
映画後半は、ジョバンニとりティアがパーティーに出かけるところから始まる。以降は、ほぼこのパーティー会場のシーンとなっている。
そこでジョバンニは魅力的な女性バレンチナと仲良くなり、リディアはまたしても部屋の端に放置されてしまう。昼間とまったく同じように彼女は退屈を持て余して宛てもなくパーティー会場を放浪するのだ。
こうした夫婦の描写が最後まで延々と綴られるのみで、これと言った大きな事件が起こるわけではない。したがって、観る人によっては退屈な映画だと思う人もいるだろう。
しかし、個々のシーンを細かく見ていけば、これほど計算されつくされた映画もないと思う。各シーンにおける夫婦それぞれの感情を想像しながら見て行けば中々スリリングな恋愛ドラマとして興味深く追いかけることができる。
例えば前半部。リディアが広場で玩具のロケットの打ち上げを見物するシーンがある。空高く打ち上げられたロケットを彼女は一体どんな気持ちで見たのだろうか?きっと鬱屈した夫婦生活からの”解放”を夢想したに違いない。
あるいは、後半のパーティー会場におけるリディアの孤独感は、主に喧騒との対比でクローズアップされている。ジョバンニが常にパーティーの輪の中心に溶け込んでいることで、その対比はいっそう強調されている。時には顔の表情を見せず後姿だけで語らせており、この抑制を利かせた演出は実に味わい深い。
M・アントニオーニの作品は、とにかく虚無的で悲観的で一般大衆には受けないわけだが、こうした知的で大胆な語り口にはやはり魅了されてしまう。カットの一つ一つが時に意味深で、そこに忍ばされたメッセージに我々は時に意表を突かれドキリとさせられるのだ。
キャストでは、ジョバンニを演じたM・マストロヤンニの飄々とした演技もさることながら、リディアを演じたJ・モローのけだるい演技が絶品だった。同年にゴダールの「女は女である」(1961仏伊)とトリュフォーの「突然炎のごとく」(1961仏)に出演し、翌年には彼女の代表作と言ってもいい「エヴァの匂い」(1962仏)が公開され、正に脂が乗っていた頃であろう。そんな絶好調だった時期の1本である。彼女のファンであれば尚更楽しめると思う。
「雨のなかの女」(1969米伊)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 平凡な主婦ナタリーは夫を残して家出をする。彼女のお腹の中には赤ん坊がいた。旅の途中で、彼女は元大学フットボールの選手ジミーに出会う。彼は試合中の怪我で脳に障害を患っていた。二人は交流を育みながら旅を続けるのだが…。
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(レビュー) 家出をした平凡な主婦の旅をしみじみと綴ったロード・ムービー。
監督、脚本はフランシス・F・コッポラ。彼の初期時代の作品で、非常に私的な作品だと本人が語っている。
コッポラは前作「フィニアンの虹」(1968米)で華々しくハリウッドデビューを果たしたが、製作体制はあまり満足のいくものではなかったらしく作品の出来については思う所があるらしい。元来作家主義である彼にとって、システマティックなハリウッドの製作体制は肌に合わなかったのだろう。その鬱憤を払うかのように、この「雨のなかの女」では自由奔放な演出を披露している。
映画自体は散文的でストーリーと言ったストーリーはそれほどない。基本的にはナタリーが旅で出会った人々と起こす様々な事件をスケッチ風に描くというものである。
ただし、ジミーとの関係から、母親の宿命をテーマにしていることは何となく読み解けた。
ジミーはラグビーをしている最中に事故で脳に障害を負ってしまった可哀そうな青年である。ナタリーは初めこそ彼のことを逞しい青年として恋愛の眼差しで見るが、彼の不幸な境遇を知ってからは母性愛を目覚めさせていくようになる。ある意味でジミーは”大きな子供”とも言え、彼に向けられる愛はお腹の中の子供に注ぐ愛とも連動しており、ナタリーは徐々に”女”から”母親”へと変貌していくところが面白い。
映像はラフな手持ちカメラを基調としたドキュメンタリズムが徹底されている。中には即興的に撮られているような箇所がいくつか見受けられる。低予算なインディペンデント作品にありがちな作風だが、これが画面に生々しさを与えている。
また、オープニングの電話ボックスの長回しは中々に挑戦的である。ナタリーが妊娠したことを長距離電話で夫に告白するカットなのだが、彼女の葛藤がひしひしと伝わってきた。
もう一つ、最後のシーンも中々に魅せる。特に、ここでの銃の使い方はちょっと衝撃的であった。仮にコッポラの自己投影が反映されているのだとしたら実に悲しい結末と言わざるをえない。本人が私的な作品だと言っているので、そんな穿った見方もできる。
キャストではジミー役のジェームズ・カーンが絶妙な演技を見せている。その無垢なる表情は、後のマッチョなイメージを考えると意外である。
尚、ナタリーの夫が中絶のために東京へ渡航すると言っていたことからも分かる通り、当時のアメリカではほとんどの州が人工中絶を禁止していた。キリスト教の国ということなのでさもありなん。今でもアメリカでは中絶禁止の州が存在する。