「キラー・メイズ」(2017米)
ジャンルファンタジー・ジャンルコメディ・ジャンルアクション
(あらすじ) 自称芸術家の青年デイブは、自宅の居間に段ボールハウスを作り、そこに入って出られなくなてしまう。恋人アニーや友人たちがやってきてデイブを救うために段ボールハウスの中に入るが、そこはまるで迷路のようだった。
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(レビュー) 段ボールの迷路に迷い込んだ若者たちの冒険をナンセンスなギャグを絡めて描いたアクション・コメディ。
どうして段ボールの中があんなに広いのか?どういう構造でどういう仕掛けでああなっているのか?そんなことをいちいち考えていたらきりがない映画で、ここは素直にファンタジーと割り切って楽しむのが吉であろう。
何と言っても、段ボールで作られた迷路という絵面が朴訥としてて魅力的である。普通この手のメイズ物は殺伐としたサバイバルゲームになりがちだが、本作にはそういった緊迫感は皆無である。
以前観た作品で
「恋愛睡眠のすすめ」(2006仏)という映画があった。鬼才M・ゴンドリーのアナログ愛溢れるユニークなファンタジー恋愛映画だったが、アレに近い感覚を覚えた。あの映画にもダンボールで作られた街並みが登場してきた。手作り感溢れる特撮も両作品に共通している。
とはいえ、段ボールで作られた迷路のプロダクションデザインは中々凝っていて、それを見るだけでも十分に楽しめる作品になっている。中にはS・キューブリックの傑作「2001年宇宙の旅」(1968米英)のオマージュと思えるようなセットも登場してくる。
本作には、他にも様々な映画のパロディが登場してくる。
例えば、迷路の中にミノタロウスの怪物が登場してデイブたちを追いかけ回すのだが、これなどは「シャイニング」(1980米)のステディカム撮影を彷彿とさせる。
他に、デイブの仲間が殺されるシーンではコーエン兄弟の「ファーゴ」(1996米)の粉砕器のパロディが登場してくる。この迷路の中では血が全て紙吹雪で表現されるので、あそこまでの生々しさはないが、ちょっとしたブラックな演出である。
また、ある部屋ではモノクロ映画が上映されており、これにはT・マグワイアが主演したファンタジックなロマコメ「カラー・オブ・ハート」(1998米)が想起させられた。画面の中には登場人物たちがキャストとして出演しており、それを観ていると本人たちの姿まで段々モノクロになっていくというのが面白い。
この不可解にして奇妙な段ボールの迷路は、デイブの芸術家になりたいという願望が生み出したナンセンスな妄想の産物なのだと思う。芸術家になる夢を諦めきれない未練。そう解釈すると、本作は青年の夢の挫折という普遍的なテーマを描いているとも言える。バカバカしいと笑いながら観ていると、最後は思わず足元をすくわれてしまう。そんな逸品だと思う。
唯一、迷路で死んだ人たちが現実に戻ってこないまま映画が終わってしまったのはいただけなかった。気楽に観れるエンタメとしてはやや後味が悪いのが難点である。
「ババドック 暗闇の魔物」(2014豪)
ジャンルホラー
(あらすじ) アメリアは事故で夫を亡くし息子のサミュエルと2人で暮らしていた。サミュエルは学校で度々問題を起こし彼女の手を焼かせていた。そんなある夜、サミュエルがアメリアに読んで欲しいと1冊の絵本を持ってくる。“ババドック”なるその絵本はどこか薄気味の悪い絵本であった。それ以来、2人の周囲で次々と奇怪な現象が起こるようになる。
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(レビュー) 不気味な絵本を読み聞かせたことをきっかけに恐怖の体験をしていく母子の姿をダークなタッチで描いたホラー映画。
サミュエルは絵本に出てくる不気味な怪物ババドックが実在するという。元々彼は問題の多い子で、また嘘をついているのだろうとアメリアは軽く考えて相手にしなかった。ところが…である。翌日から次々と身の回りに不気味な現象が起こるようになり、アメリアは気味悪がってその絵本を焼き捨ててしまう。これで平和が戻るだろうと思いきや、さにあらず。何と焼き捨てたはずの絵本が戻ってくるのだ。この映画で一番ゾッとしたのはこのシーンだった。
物語は終盤になると、ババドックの正体も露わになり、ある種モンスター映画的なノリになっていく。アメリアたちはこの怪物と戦っていくことになるのだが、このあたりはスペクタクル感も増して中々上手く盛り上げられていると思った。
ラストも余韻を引く終わり方で良かった。
このラストから分かることは、本作はただのホラー映画ではないということだ。一見するとババドックという謎の怪物に襲われる母子の恐怖を描いた作品に見えるが、そうではない。実はこれは父親がいなくなって孤独に陥る母子に与えられた試練のドラマだったということがよく分かる。
このババドックとはいったい何だったのだろうか?映画を観終わってもその正体は明確にされない。
ここからは自分なりの解釈であるが、ババドックはサミュエルの想像が具現化した怪物だったのではないだろうか。その怪物はつまりサミュエルの負の感情である。アメリアはそれを取り払おうと格闘し最終的には元の仲の良い母子に戻る…というのが本作の趣旨のように思った。
監督、脚本はジェニファー・ケント。元々はL・V・トリアー監督の「ドッグヴィル」(2003デンマーク)で助監督を務めた経験があるそうである。とはいえ、トリアーとは全く異なる映像タッチで、いわゆるハリウッド的なスタイリッシュな演出でグイグイと引っ張るタイプの作家のように思った。本作が彼女の長編監督デビュー作ということで今後が楽しみである。
キャストではアメリアを演じた女優の熱演が印象に残った。熱量高目な演技はクライマックスを大いに盛り上げている。
「アンセイン~狂気の真実~」(2018米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) ソーヤーはデヴィッドという男につきまとわれ、新しい土地に引っ越しした。しかし、精神的ダメージは大きくカウンセリングを受けることになる。ところが、そのまま強制入院させられソーヤーは完全隔離されてしまう。
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(レビュー) ストーカーに付きまとわれた女性の受難を不気味なトーンで描いたサスペンス・スリラー。
カウンセリングに受けに行ったらそのまま強制入院とは実に恐ろしい話である。
ソーヤーは入院するほどの重病患者ではない。しかし、出された書類にサインしてしまったことで、そのまま入院する羽目になってしまう。ちゃんと読めばいいのに…と思ってしまうが、細かな文字で書かれた説明書など読まない人が大半であろう。彼女も何も考えずにサインしてしまったのだ。
こうしてソーヤーは理不尽にも完全隔離されてしまう。なんとか抜け出そうとするが病院は厳重に見張られている。中々外に出ることができず、そうこうしているうちに彼女は衝撃的な事実を目の当たりにする。なんと職員の中にストーカーのデヴィッドがいることを知ってしまうのだ。
正直、前半の得体の知れない理不尽な怖さが中々不気味で好きだったのだが、デヴィッドが登場して以降は何だかしらけてしまった。いわゆる通俗的なサイコ・スリラー映画になってしまった感がある。
監督はS・ソダーバーグ。様々なジャンルを撮る監督であるが、こうしたサスペンスも得意としている。
今回はソーヤーの強迫観念を歪な映像で表現しており、この特異な画面は中々の緊張感をもたらしている。
後で調べて分かったのだが、本作は全編iPhone7Plusで撮影されたということである。もはやスマホでここまでの映像が撮れてしまうことに驚きである。
ソダーバーグは自分の作品でカメラを兼任することがあるが、今回も彼が撮影監督を務めている(ピーター・アンドリュース名義)。
キャストでは、ソーヤー役を演じたクレア・フォイの熱演が印象に残った。強制入院されたことで徐々に精神的に追い詰められていく様を切迫感溢れる演技で見事に表現している。
「皆殺しの天使」(1962メキシコ)
ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) オペラ帰りの客たちがノビレとルシア夫妻のディナーに招待される。楽しいひと時を過ごすが、いざ帰ろうとすると、どういうわけか部屋から出ることができなくなってしまう。水と食料が底をつき、何日も閉じ込められた彼らは次第に常軌を逸していき…。
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(レビュー) ディナーの招待客が外に出れなくなってしまうという不条理な状況をブラック且つシニカルに描いたルイス・ブニュエル監督の怪作。
本作はドラマ的な面白さよりも、いわゆるシットコムのような感覚で楽しむべき作品のように思う。
部屋から出れなくなった彼らは、その場にとどまり無意味で虚無的な時間を貪り尽くす。やがて水と食料が底をつくと精神的にも肉体的にも徐々に疲弊し錯乱状態に陥って幻覚を見るようになる。そして、醜い争いを繰り広げるようになっていく。
この異常な状況は、彼らの日常への回帰の拒絶を意味しているのか?それとも、催眠術のようなオカルト的現象なのか?実際のところ映画を観終えてもよく分からない。
ただ、暗喩として捉えるならば、外界から遮断されたこの状況は彼らの心の”壁”が作りだしたものなのではないか。そんな風に想像できた。
登場するキャラクターは歌手や指揮者、医者、末期患者、建築家等々、実に多彩である。最後まで全ての人物関係を把握するのは難しい映画だが、彼らに共通するのは全員がブルジョワだということである。ブニュエルと言えば「ブルジョワジーの密かな愉しみ」(1972仏)が思い出されるが、彼は基本的にブルジョワ階級に対しては痛烈な批判を浴びせる作家である。その資質が本作から存分に感じられた。
そして、穿ってみれば、外界から隔絶されたこの状況は、俗世間との断絶を頑なに固辞する彼らの心の狭さを意味しているようにも思えた。
それは屋敷の外に集まる聴衆との対比からも伺えることである。警察まで出動して大騒ぎになるのだが、誰も屋敷の中に入ることができない。何日間も傍観するのみである。屋敷の扉と彼らの間には目に見えない壁が存在しているかのようである。
このように物語に関して言えば、ブニュエルの映画史上、最もシュールな作品だと言える。
また、中盤で女性客の一人が床を徘徊する手首を見るが、これなどはホラータッチが入った演出で恐ろしかった。その手首は実在したのか?それとも幻覚なのか?分からないところが、これまたシュールである。
尚、本作で今一つ意味不明だったのは、実際に部屋の中に登場する羊や熊である。何かを暗喩したものなのだろうか?その意味するところがよく分からなかった。
また、ラストで軍に抵抗するレジスタンスが登場してくるが、おそらくこれは当時のフランコ政権に対する批判を示したものだろう
。本来のドラマとは全く無関係であり、自分は蛇足に思えたが、このような風刺を取り入れた所もいかにもブニュエルらしいところである。
「砂漠のシモン」(1965メキシコ)
ジャンルファンタジー・ジャンルコメディ
(あらすじ) 聖人シモンは砂漠に高くそびえた柱の上で毎日、神に祈りをささげていた。そこに魔女や悪魔の化身がやってきてシモンの信仰心は揺らいでしまう。
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(レビュー) 5世紀ごろに実在したという聖人シメオンの伝説をモティーフに、鬼才ルイス・ブニュエルが撮った中編作品。
自分はこのシメオンの伝説をまったく知らなかったが、この題材選びからして、いかにもブニュエルらしいと思った。彼は無神論者である。その彼が、聖人として讃えられたシメオンの信仰心を意地の悪い皮肉で仕立てたことは、いかにも氏らしいユーモアだ。
柱の上で来る日も来る日も神に祈るシモンの前に、セクシーな格好をした魔女や豪勢な食料を持った悪魔が現れて甘い言葉をかける。意識が朦朧となったシモンは、どうにかしてその誘惑に負けまいと己を律するのだが、最終的には心が折れてしまう。この最後のオチにはクスリとさせられた。
46分という短い作品なので、あっという間に見れてしまう作品である。深みが足りないという意見があるかもしれないが、個人的には小話を聞いてる感じで楽しめた。
中編ながら、シュールでシニカルなユーモアが詰め込まれたブニュエルらしい逸品である。
「ピクニック」(1936仏)
ジャンルロマンス・ジャンル古典
(あらすじ) 結婚を控えた娘アンリエットとその家族が、パリから馬車で田舎町へとピクニックにやってきた。その姿を遠巻きに眺めていた地元の青年ロドルフとアンリは、都会の女性たちとひと時の恋を楽しもうと、アンリエットと彼女の母親を舟遊びに誘うのだが…。
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(レビュー) ある一家のピクニック風景を美しい映像で綴った中編作品。
モーパッサンの小説を巨匠J・ルノワールが監督、共同脚本を務めて撮り上げた珠玉の映像作品である。
何と言っても特筆すべきは、田園風景を捉えた美しい映像の数々だろう。ルノワールの父は、言わずと知れた印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールである。その父が描いた印象絵画を思わせるような美しい映像の数々に心奪われる。
特に映画序盤、ロドルフとアンリがカフェの窓を開け放つシーン。窓の向こう側からアンリエットたち一家の戯れる姿が登場してくる瞬間は、正にスクリーンの”開幕”を思わせるような絢爛さに溢れていて印象に残った。目に飛び込んでくる…とは正にこのことだろう。一気に画面の中に引き込まれてしまった。
川を舟で下る映像、陽光が差し込む森の中での男女の戯れる映像等。これらも製作された時代を考えると奇跡的な美しさと言って良いだろう。
一方、物語はいたってシンプルである。何せ40分程度の中編なのでそれほどドラマ的なうねりは認められない。
しかし、ロドルフとアンリが夫々にアンリエットと母親をナンパするが、いつの間にかパートナーが入れ替わってしまう所にはユーモアを感じるし、終盤で物語が数年後にジャンプすることでもたらされる切なさは中々に感動的である。更に言えば、ナンパの駆け引き、スリリングさも濃密に味わえる。
尚、本作は完成する前に大戦が勃発し、監督のJ・ルノワールは亡命してしまったためお蔵入りとなってしまった。それを当時のプロデューサー、助監督だったJ・ベッケルらの手によって完成にこぎつけたという経緯を持っている。なぜルノワール自身が本作の完成に携わらなかったのかは不明だが、こうして日の目を見ることができたのは幸福なことである。
「サボテンの花」(1969米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 独身主義のプレイボーイ、ジュリアンは結婚していると嘘をついてトニーという女性とつき合っていた。ある日、トニーの自殺騒ぎから真剣に彼女との結婚を考えるようになる。そこでジュリアンは、生真面目なオールドミスの看護婦ステファニーに自分の妻を演じてもらいトニーとの結婚話を進めようとするのだが…。
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(レビュー) 独身貴族の歯科医と恋人、看護師の三角関係を軽妙洒脱な会話で綴ったロマンチック・コメディ。
テンポの良いセリフ回し、際立ったキャラクター造形、先の読めない展開、キャストの妙演。どれをとっても一級品の出来映えで、古い作品でありながら今観ても十分に楽しめる作品である。
唯一、シックリこなかったのは序盤で自殺未遂を起こしたトニーがあっさりとジュリアンを諦めてしまったことである。ジュリアンの妻に成りすましたステファニーの登場で身を引くのだが、激情型なトニーにしてはいささか聞き分けが良すぎるという気がしてしまった。
それにしても本作は脚本が良く出来ている。
脚本はB・ワイルダー作品でお馴染みのI・A・L・ダイヤモンドであるからして、クオリティの方は保証済みである。洗練されたダイアローグの応酬と無駄のない物語構成で、ジュリアン、トニー、ステファニー、三者三様の思惑を軽快に表現している。
また、キャラクター造形にも上手さを感じた。ジュリアンの裏工作を知らずに殊勝に振る舞うトニーの健気さが愛らしく、素直に感情移入してしまう。
言い寄る患者を袖に振るステファニーは”軍曹”と呼ばれる生真面目な中年女性で、コメディライクに造形されている。夜のディスコで普段は見せないような激しい動きでダンスに夢中になる姿は傑作だった。
ちなみに、このディスコのシーンでは、患者のハーベイが登場してきてジュリアンとトニー、ステファニーとハーベイという二組のカップルによるWデートに発展する。思わぬ飛び入り参加ということで、これも可笑しかった。
キャスト陣の妙演も素晴らしい。
ジュリアンを演じたW・マッソーはこの手のコメディはお手の物と言った感じで安定感がある。
ステファニーを演じたI・バーグマンは相変わらずの芸達者ぶりである。シリアスもできれば、こうしたコメディも中々板についている。
そして、トニー役を演じたゴールディ・ホーンも、デビュー間もないということもあり瑞々しい演技を披露している。本作で見事にオスカーを受賞し、以降はこの手のロマコメを得意分野としていくようになる。
「キャロル」(2015米英仏)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 1950年代、クリスマスを控えたニューヨーク。高級百貨店のおもちゃ売り場で働くテレーズは、写真家になる夢を持ちながら恋人と充実した日々を送っていた。しかし、どこか満たされない感情も抱いていた。ある日、ゴージャスな毛皮のコートを着た女性キャロルと出会う。彼女は夫と愛のない生活を送りながら幼い一人娘にすべての愛情を注いでいた。キャロルとテレーズは互いに惹かれ合いながら交友を育んでいくようになる。
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(レビュー) 「太陽がいっぱい」などで知られるパトリシア・ハイスミスの同名小説を
「ベルベット・ゴールドマイン」(1998英)、
「アイム・ノット・ゼア」(2007米)の鬼才トッド・ヘインズが映画化した作品。
当時はタブーとされていた女性同士の禁断の愛をドラマチックに綴ったメロドラマである。
かなりベタなドラマであるが、映像面でのクオリティが非常に高く1950年代のアメリカの風景が見事に再現されていて見応えを感じた。但し、映像的なスケール感が今一つ物足りないのは残念である。おそらく予算が決して潤沢ではなかったのだろう。
よくよく見るとトンネルのシーンなどは編集でかなり誤魔化している感じがする。どうにか工夫して撮っているというのがありありと見て取れた。
本作の撮影監督はエドワード・ラックマン。ヘインズ監督とは「エデンより彼方に」(2002米)を含め3回組んでいる。今作でアカデミー賞を含め多数の映画祭でノミネート&受賞しているが、こうした撮影上の工夫が評価されたのだろう。
物語は紋切り的な感じはするものの、古風なメロドラマとしてみれば安定感はある。
途中からキャロルとテレーズのロードムービーになっていくあたりは面白いし、キャロルと夫の間で娘の親権問題が勃発するのも定番であるが終盤のツイストを上手く盛り上げていた。女としての幸福と母親としての幸福。一体どちらを選択するのか。キャロルの葛藤が実に切なく観れた。
思えば、キャロルが何故テレーズのような決して裕福とは言えない少女に惹かれたのか…というと、それは肉体的な若さに対する郷愁もあったのだと思う。おそらく失われた自らの青春を彼女の中に再生させたかったのだろう。これは過去を引きずった後ろ向きな未練とも言える。それゆえにキャロルのテレーズへの愛は観てて非常に切なく感じられた。
一方のテレーズにもそれなりのバックストーリが用意されている。彼女はプロの写真家になりたくて、日々アルバイトに精を出している。交際中の恋人から結婚を申し込まれるが、自分の夢をあきらめきれない彼女はそれを袖に振る。女として幸せを取るか、キャリアを取るか。その狭間で彼女もまた葛藤する。
キャロルを演じるのはケイト・ブランシェット。満たされぬ妻としての顔、娘に向ける母としての顔、テレーズに見せる魔性の女としての顔。様々な顔を見せながら貫録の演技を披露している。
テレーズを演じるのはルーニー・マーラ。ミア・ファローを彷彿とさせるコケティシュな魅力が全開でこちらも好演と言えよう。
尚、劇中では二人の濃厚なラブ・シーンも用意されており、そこも本作の大きな見所である。
「ファーザー」(2020米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 認知症を患うアンソニーは、介護人とトラブルを起こして追い出してしまう。娘のアンは心配して駆けつけるが、元来そりが合わない二人は衝突してばかり。そんな中、アンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられる。アンソニーはショックを受けるのだが…。
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(レビュー) 認知症に苦しむ老人と彼の世話に追われる娘の関係を斬新な手法で綴った人間ドラマ。
基本的に物語の視座は認知症を患ったアンソニーにあり、虚実入り混じったシーンが続いていく。観ているこちらはアンソニーの視点に立たされ、まるで認知症の疑似体験をしているかのような、そんな錯覚に捕らわれた。
例えば、冒頭に出てきた娘のアンが次の瞬間にはまったく別の女性になっていたり、独身のはずのアンの夫を名乗る男性が突然現れたり、新しくやってきた介護人が途中で別の登場人物に入れ替わったり、部屋の扉を開けるとそこは病院に繋がっていたり等々。
一体どれが現実なのか?どれが妄想なのか?観ているこちらは虚実入り混じったアンソニーの世界を疑似体験することになる。これは大変入り組んだ物語構成であるし、また認知症の苦しみをダイレクトに観客に分からせるという意味においても非常に上手いやり方だと思う。
更に、語弊を恐れずに言うなら、もはやこれはサイコスリラー映画だと言うこともできよう。それくらい認知症の疑似体験にある種の不安と恐怖を感じてしまった。
これまでにも認知症について描いた映画は作られてきた。最近ではJ・ムーアの熱演が印象的だった
「アリスのままで」(2014米)、邦画では森繁久彌の妙演が忘れがたい
「恍惚の人」(1973日)、渡辺謙が主演した「明日の記憶」(2005日)等。
これらは認知症の主人公を客観的視点から描いた映画である。本作のように主人公の主観的視点で描いた映画は大変珍しいのではないだろうか。徹頭徹尾それを貫いた本作のスタイルは大変斬新だと言うことができよう。
そして、アンソニーが見る虚実の混濁はドラマを必要以上に難解にしておらず、このさじ加減も大変うまい。確かに観てるうちはこの世界観に翻弄されるのだが、だからと言って理解不能というわけではなく、物語はきちんと整理整頓されている。脚本が洗練されていることに唸らされた。
アンソニーを演じたA・ホプキンスの演技も絶品である。シリアスなドラマでありながら、時に嬉々とした振る舞いで笑いを取りに行く姿勢は実に若々しい。終盤の熱演にも見入ってしまった。
監督、共同脚本はフロリアン・ゼレール。初見の監督さんだが、どうやら本作の元となった戯曲を手掛けた人物らしい。長編映画の演出は初めてということだが、中々どうして。息詰まるような緊張感を創出するのが大変上手いと思った。今後も楽しみな監督である。
「ネッド・ライフル」(2014米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 父ヘンリーは行方不明で母フェイは国際テロリストとして収監されてしまった息子ネッド。18歳になった彼は家族に不幸をもたらした元凶である父への復讐を胸に、彼を探す旅へ出る。途中で年上の文学女子スーザンと出会い、ヘンリー探しの旅に半ば強引に同行してもらうのだが…。
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(レビュー) ハル・ハートリー監督の「ヘンリー・フール」3部作の完結編。
今回は成長した息子ネッドが父ヘンリーに復讐するために旅をする…という物語である。
第1作「ヘンリー・フール」(1997米)は父の物語。第2作
「フェイ・グリム」(2006米独仏)は母の物語。そしてこの第3作は息子の物語となっている。
こうして3作品並べてみると、家族のドラマとして見事に完結していることがよく分かる。果たして、第1作の時点でこの三部作が構想されていたかどうかは分からない。しかし、約9年おきに製作されてきたこのシリーズは、大げさな言い方をすると、ある家族の大河を描いたドラマだったことに気付かされる。第2作がスパイ映画のようになってしまったのは、いささかシリーズの世界観の枠からはみ出た感がしなくもないが、それでも最終的には見事に家族のドラマへと着地させたあたりは流石である。
ハートリー監督の演出もスタイリッシュ且つファッショナブルで、ビジュアルに対するこだわりは相変わらず健在である。
特に、ネッドとスーザンのかすかな恋慕が、時に瑞々しく、時にスリリングに活写されており、このセンスはどこかヌーヴェルヴァーグを思わせる。明らかに意識してのことだろう。
クライマックスにも引き込まれた。かなりあっけない感じも受けるが、このスマートさは逆に物語の結末に深い余韻を残す。
キャストではネッドを演じたリアム・エイケンが印象に残った。「ヘンリーフール」から実に17年の歳月が流れ、すっかり立派な青年に成長している。その姿を見るとなんだか感慨深いものがこみあげてくる。