「ディザスター・アーティスト」(2017米)
ジャンルコメディ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1998年のサンフランシスコ。俳優志望のグレッグは演技学校でトミーという生徒に出会う。破天荒な言動をする彼に奇妙な魅力を覚えたグレッグは、成功を夢見て共に映画の都ハリウッドへ赴く。ところが、そう容易くスターになれるはずもなく、苛立ちは募るばかり。そんなある日、トミーは「ザ・ルーム」という脚本を書き上げ一緒に映画を撮ろうというのだが…。
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(レビュー) 2003年にトミー・ワイゾーが製作・監督・脚本・主演を務めて作られた「ザ・ルーム」(2003米)の制作秘話を綴った実録映画。
「ザ・ルーム」はカルト映画として一部で熱狂的な支持を得ている作品である。自分は観たことがないため一体どこがそれほど支持されているのかまったく分からないが、色々な記事を見ていると、どうやら余りにも酷い出来で、そこが逆にマニアの間では受けているらしい。何とも不思議な話だが、その心理は何となく理解できなくもない。稚拙さがかえって笑えてしまうというのはよくある話で、不出来な子ほど愛しくなるという心理に似ているのかもしれない。
本作はそんなカルト作の成り立ちを、トミー・ワイゾーと彼の盟友グレッグ・セステロの愛憎を交えて描いた作品である。
監督、主演はジェームズ・フランコ。後から知ったが、彼自身「ザ・ルーム」の大のファンということらしい。その思いは本作を観るとよく分かる。その最たるはエンドクレジットで流れるオリジナル版と本作版のシーンの比較動画である。本当にオリジナル版と寸分違わぬように撮られていて笑ってしまった。トミーを演じるジェームズ・フランコの演技も本人にそっくりであるし、彼の「ザ・ルーム」に対するリスペクトが感じられる。
物語はトミーとグレッグの関係を軸に展開される。トミーの得体の知れぬ怪物性に惹かれながらも、どこか胡散臭さも感じるグレッグ。彼は「ザ・ルーム」を一緒に撮りながら俳優人生を掻き回されていく。
はっきり言って、トミーには監督や俳優としての才能は全くない。そのくせ人一倍プライドは高く、撮影現場では理不尽なワンマンぶりでスタッフや共演者たちに迷惑をかけてばかりいる。そして、これが最大の謎なのだが、彼は大金持ちなのである。一体どこから製作資金を調達しているのか誰も分からず、親友のグレッグにさせその素性は明かされない。
現場は険悪な空気が張りつめスタッフが一人去り、二人去り、撮影はますます困難を極めて行く。グレッグもほとほと困り果て、ついに二人は衝突してしまう。
実話を元にした物語なので、ドラマチックな展開はないのだが、きっと「ザ・ルーム」を観ている人なら、こうしたバックステージは面白く観れるのだろう。未見である自分には今一つその面白さは伝わってこなかったが、ただ世紀のカルト作がいかにして作られたのか?というのを知れたのは良かったと思う。
グレッグ役はジェームズ・フランコの弟デイヴ・フランコが演じている。また
「ディス・イズ・ジ・エンド 俺たちハリウッドスター最凶最期の日」(2013米)でジェームズ・フランコと共演した盟友セス・ローゲンが撮影スタッフ役として出演している。本編の殺伐とした撮影風景とは逆に、おそらく気の合う仲間同士で行われた本作の撮影は大変楽しいものだったことであろう。
「15時17分、パリ行き」(2018米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) アンソニー、アレク、スペンサーの3人は、幼い頃から親友同士である。成長し離ればなれになった彼らは、今でも時々連絡を取り合いながら互いの友情を確かめ合っていた。ある日、3人はヨーロッパ旅行を計画するのだが…。
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(レビュー) 2015年に起こった高速鉄道タリス銃乱射事件に巻き込まれた3人の若者たちの姿を時世を交錯させながら描いた実録サスペンス。
監督はC・イーストウッド。
「アメリカン・スナイパー」(2014米)、
「ハドソン川の奇跡」(2016米)に続き、またしても実話の映画化である。更に
「ジャージー・ボーイズ」(2014米)、
「J・エドガー」(2011米)まで遡れば、ここ最近のイーストウッドはずっとノンフィクション物付いている。中でも「アメスパ」、「ハドソン川の奇跡」、そしてこの「15時17分、パリ行き」は、いずれも主人公がヒーローという所が共通していて興味深い。
もっとも、今回の主人公3人組は前2作に比べると、知名度はかなり低いし、事件そのものを知っている人はいても彼らのことまで知っているという人はそれほどいないであろう。実際、自分はこの事件のことを知らなかった。
今回の主人公アンソニー、アレク、スペンサーはごく平凡な若者である。確かに多くの乗客の命を救った英雄かもしれないが、スケール感という意味では前2作の主人公に比べると地味な印象は拭えない。
本作で目を引くのはキャスティングであろう。驚くべきことに、主人公の3人を演じたのは、実際に事件に遭遇した本人たちということだ。プロの俳優ではない彼らを起用した意図は一体どこにあったのだろう?残念ながら、映画を観終わっても自分はその意図が今一つ掴めなかった。
仮にリアリズムを追求したかったということであれば、3人の馴れ初めを描く過去パートの挿入はリアリズムを壊す構成であるし、逆に単に再現映像を撮りたいのであればプロの俳優をキャスティングした方が断然いいわけである。それをわざわざ本人たちに演じさせるというのは、どうしても合点がいかない。商業的にも演出的にも非常にリスクが高いだけなのではないだろうか。
もっとも、主役の3人は決して演技が下手というわけではない。好演というほどではないが、中々健闘していると思った。
ちなみに、3人が事件に遭遇するまでの間、ひたすら観光地巡りが続くが、おそらくこれもイーストウッドは狙ってやっているのだろう。平和な日常を破壊してしまうテロの”怖さ”を強調すべく、こうした構成にしているのだと思う。
普通のハリウッド映画であればこうはならないだろう。おそらく見せ場となるテロのシーンをメインに据えてサスペンスとアクションで見せる映画になっていたと思う。しかし、イーストウッドは敢えてその法則を外し、彼らの日常の美しさ、楽しさを存分に見せることに注力している。
したがって、キャスティング同様、物語の構成も非常に歪な作品となっている。
「屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ」(2019独)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 1970年代のハンブルク。安アパートの屋根裏に暮らす孤独な中年男フリッツ・ホンカは、夜な夜なバーに繰り出しては酒をあおり、目を付けた女に声をかけて自宅に招き入れて殺害していた。そんなある日、彼の前に美しい少女が現れ…。
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(レビュー) 1970年代にドイツに実在した連続殺人鬼フリッツ・ホンカの実像に迫った犯罪ドラマ。
映画はいきなりホンカが女性の死体を切り刻むシーンから始まる。相手が誰なのかさっぱり分からず度肝を抜かされるが、要はこの連続殺人鬼は何か理由があって人を殺しているわけではない。ただ単にむしゃくしゃしたから相手を殺すのであって、そこに理由や動機は一切ないのだ。快楽殺人というわけでもないし、極めて思考が屈折した偏執的狂人という感じがして大変気味が悪かった。
ただ、ホンカの置かれてる状況を考えてみると、どうしてここまで屈折した人間になってしまったのか?その理由は何となく想像できた。
貧困生活や容姿に対するコンプレックス。何の希望も持てない孤独な中年男の憐れさはどこか物悲しい。しかも中年娼婦にしか相手にされないというのも惨めである。出口の見えない鬱屈した生活がこれからもずっと続くと考えると、自暴自棄になってしまうのは無理もないない話である。彼が意味もなく殺人を繰り返す背景にはこうし心理が働いているからであろう。だからと言って、彼がやっていることを擁護することはできないが、非常に気の毒な男だと思った。
本作を観ていると、何となく現代の格差社会、高齢化社会について考えさせられてしまう。決してダイレクトにそうしたメッセージが発せられているわけではないが、ホンカを取り巻く社会的状況から現代の閉塞感が透けて見えてくるのが興味深い。
監督、脚本はファティ・アキン。
「女は二度決断する」(2017独)、
「そして、私たちは愛に帰る」(2001独トルコ)等、主に社会派的なテーマを描く作家だが、そんな彼がこの連続殺人鬼を題材に取り上げたことは意外である。
ただ、先述したようにホンカの置かれているバックストーリーを考えてみると、もしかしたらファティ・アキンは事件そのものよりも、事件が起こった社会的土壌を描こうとしたのではないか…そんな風に想像できる。やはり彼は生粋の社会派な作家なのだ。
キャストでは、ホンカを演じたヨナス・ダスラーの怪演が印象に残った。初見の俳優だが、実はまだ若いイケメン青年であることを後で知り驚いた。今回は特殊メイクを施して醜悪な中年男を堂々と体現している。R15+作品ということで性的な描写も多く、この役を引き受けた所に彼の役者としての気概を感じた。今後どういった役に挑戦していくのか、注目していきたい。
「ファイティング・ファミリー」(2019米)
ジャンルスポーツ・ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) イギリス北部の小さな町で暮らすナイト家は筋金入りのプロレス一家。18歳のサラヤもプロレスを心から愛し、いつかは世界で活躍する選手になりたいと夢みていた。そんなある日、彼女は兄のザックとともに憧れの世界的プロレス団体WWEのトライアウトに参加するチャンスを得る。
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(レビュー) WWEで活躍した実在の女子プロレスラー、ペイジの半生を描いた青春スポ根ドラマ。
自分は少し前にWWEを見ていた時期があったのだが、その時にはペイジは華々しい活躍を見せていた”ディーバ(女子レスラーのこと)”だった。いわゆるヒール(悪役)としての立ち位置を確立し、男性ばかりが目立つWWEにおいて女子部門の復権に一役買った選手だったように思う。
そのペイジの半生を描いたドキュメンタリー映画が2012年に「The Wrestlers: Fighting with My Family」というタイトルで製作された(未見)。本作はそれを元に作られたフィクション作品である。
”フィクション”ということからも分かる通り、本作には色々と事実と異なる点がある。例えばロック様とペイジの初対面はここで描かれている時期よりもずっと後であるし、そもそも彼女はWWEのトライアウトを一度落ちている。
このように事実の改ざんは確かにある。ただ、基本的には彼女の辿ってきた半生は概ね忠実に再現されており、個々の改ざんはドラマを面白くしようとするための工夫、演出という認識で、自分は特に気にならなかった。
物語はテンポよく展開されている。サラヤの葛藤もきちんとツボを押さえられており、全体的にはそつなく仕上げられていると思った。非常にオーソドックスなサクセスストーリーと言えよう。
個人的には、サラヤと一緒にプロレスをしてきた兄ザックの姿にしみじみとさせられた。彼はサラヤと一緒にWWEのトライアウトを受けるのだが、自分だけ落ちてしまう。WWEは選手にスター性やカリスマ性を求める団体であり、それがないとバッサリと切り捨てられてしまう。残念ながらザックにはその素養がないと判断されたのだろう。結局、彼は田舎に戻ってインディー団体で細々と活躍し続けることになる。サラヤに差を付けられたという悔しい思いは痛いほどよく分かる。そして、そんな彼が落ち込んで帰ってきたサラヤを勇気づける姿にはジーンと来てしまった。
このように本質的にはプロレス映画という体を取っているが、その中身は兄妹の愛憎を描いた良質なドラマになっている。只のスポ根映画とは違い、一定の味わいを持った好編で中々の見応えを感じた。
サラヤを演じるのはフローレンス・ビュー。
「ミッドサマー」(2019米)や「ストーリ・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語」(2019米)、「ブラック・ウィドウ」(2020米)等、今や話題作に引っ張りだこの若手女優である。そんな彼女が、ここでは体を張って慣れないプロレスに挑戦しており、そこも大きな見どころである。
「フォックスキャッチャー」(2014米)
ジャンルスポーツ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1984年のロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得したレスリング選手、マーク・シュルの元に大財閥デュポン家の御曹司ジョン・デュポンの連絡が入る。彼が結成したレスリング・チーム“フォックスキャッチャー”への参加をオファーされた。メダリストとは言っても苦しい生活を強いられるマークにとってそれは願ってもないチャンスだった。マークはこの申し出を受け、早速、最先端トレーニング施設を有するデュポンの大邸宅を訪れるのだが…。
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(レビュー) レスリングのオリンピック金メダリストと彼を支えた大富豪の愛憎をシリアスに綴った人間ドラマ。実話の映画化である。
但し、実話とは言っても、この映画の中で描かれていることは必ずしも全てが真実とは言えない。そのあたりはこの記事に詳しく描かれているので参照されたし
(映画『フォックスキャッチャー』では描かれなかった17の真実!)。
監督は「カポーティ」(2005米)、
「マネーボール」(2011米)のベネット・ミラー。これまで撮ってきた映画はいずれも実話物であり、ジャーナリスティックな視線が感じられる問題作ばかりである。その彼が今回取り組んだのがスポーツ界の”闇”というのは当然と言えば当然かもしれない。この監督は徹底してドキュメンタル志向なのだろう。
とはいえ、先述したように実際の事件背景とはかなり違っている点もあり、このあたりは映画を観て戸惑いをおぼえる所である。しかも徹底したリアリズムで演出するから余計にたちが悪い。本作を観て全てを真実と受け取る人もいることを考えると、今回の創作姿勢は余り感心しない。
ただし、映画自体は困ったことに実に面白い。人間の欲望、嫉妬、虚栄、様々なエゴがドラマチックに描かれており、たとえ脚色されているとはいえ一時も目が離せないスリリングな作品になっている。
物語は、孤独な金メダリスト、マーク、彼をサポートするデュポン、更にはマークの兄で同じレスラーであるデイヴ。この三人の愛憎劇となっている。マークはデイヴに対するコンプレックスを抱いており、いつか兄を超えたいと思っている。そこにデュポンが現れて、お前をもっと強くしてやると指南していく。
普通のスポーツ映画であればここから一気に上昇志向のドラマに転換していくのだろうが、本作は違う。確かにマークは一時は栄光を掴みとるが、その座に満足し徐々に堕落していくようになっていく。デュポンはそんな彼を奮起させる理由から、ジムに新たにデイヴを招き入れて二人を切磋琢磨させようと画策する。ところが、これがかえってマークの心を傷つけることになってしまう。
三者三様、それぞれの思惑が濃密に描かれていて面白い。特にデュポンのキャラクターは秀逸である。
やはり彼もマーク同様コンプレックスの塊のような男で、そのコンプレックスの対象が母親にあるという点が出色だ。幼い頃から何不自由なく暮らしてきた御曹司だが、厳格な母との間には長年に渡って確執があり、その反発が今の彼を形成している。母に認められたいという自己顕示欲とも言える。例えば、トレーニング場に母親が見学しにやって来るシーンがあるが、ここで彼は得意気に彼女に自慢する。このように本作はデュポンの目線に立って観てみても面白い物語になっている。
一方でマークとデイヴの軋轢も濃密に描かれていて見応えがあった。こちらは主にマークに感情移入しながら観れるように構成されており、個人的にはモーツァルトとサリエリの愛憎を描いた傑作「アマデウス」(1984米)を連想した。
キャスト陣の好演も見逃せない。
デュポンを演じるのはスティーヴ・カレル。
「40歳の童貞男」(2005米)等、主にコメディ映画で活躍していたが、今回は徹頭徹尾シリアスな演技を貫いている。特殊メイクも奏功しているとはいえ、何を考えているのか分からない不気味さが加わり、ある種得体のしれないモンスター感を醸しキャリア最高の演技を披露していると言って良いだろう。
マークを演じるのはC・テイタム。
「マジック・マイク」(2012米)、
「21ジャンプストリート」(2012米)等、彼もどちらかと言うとコメディ作品を得意とする俳優だが、ここでは終始シリアスな演技に徹している。
そして、デイヴを演じるのはマーク・ラファロ。すでに数々の作品で芸達者ぶりを見せいている彼だが、本作は一見して彼と分からぬような禿げあがり方をしていて、これも特殊メイクの妙だろう。安定した功演を披露している。
「クリード 炎の宿敵」(2018米)
ジャンルスポーツ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 世界チャンピオンベルトを勝ち取ったアドニスは、恋人ビアンカとの結婚も決まり幸せの絶頂にいた。そんなアドニスに、過酷な環境から勝ち上がってきた男ヴィクターが挑戦状を叩きつけてくる。彼の父はアドニスの父アポロの命を奪った、あのイワン・ドラゴだった。かつてドラゴと激しい戦いを繰り広げたトレーナーのロッキーは、この対戦に否定的だったが、父の復讐に燃えるアドニスはその挑戦を受ける。
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(レビュー) 「ロッキー」シリーズの続編である
「クリード チャンプを継ぐ男」(2015米)の第2作。
今回のアドニスの敵は、「ロッキー4/炎の友情」(1985米)に登場したドラゴの息子ヴィクターである。アドニスの父アポロの命を奪った憎き宿敵の息子ということで、彼はこの戦いに復讐心を燃やしていく。ところが、ロッキーはこれに反対する。憎しみだけでは戦いに勝てない…と説得するのだ。
物語はアドニスの葛藤を軸に展開されているが、その傍らではロッキーの心情も丁寧に描写されており、自分はそちらの方に感情移入してしまった。盟友アポロを目の前で救えなかった贖罪に捉われ続けているロッキーは、また同じ過ちを犯すのではないか?という不安に駆られ今回の挑戦を受けるなとアドバイスする。その胸中を察すると、この物語はまた別の角度から楽しむことができると思う。
一方のドラゴ親子にもドラマは用意されている。国の威信をかけて米ソ代理戦争のようになった過去のロッキー戦に敗れ、彼はどん底のような人生を送っている。そして、自分が成し遂げなかった夢を息子ヴィクターに賭ける。ドラゴ親子の思いも痛いほどよく分かる。
この「クリード 炎の宿敵」はアポロとドラゴ、夫々の親子二世代に渡る因縁のドラマとなっている。
非常にストレートなドラマだが、そこにロッキーの心情が巧みに混入されており、全体的には良くできている作品となっている。
惜しむらくは、ドラゴ親子の心情にもう少し寄り添うようなシーンがあると更に良かったかもしれない。最後のアッサリとした退場も少し物足りなく感じられた。
監督はこれが長編映画2作目となるスティーヴン・ケイブル・Jr.。前作で監督・原案・脚本を務めたライアン・クーグラが今回は製作総指揮に回っている。監督は変わったが、本シリーズの肝となるS・スタローンが引き続き原案と脚本を書いていることもあり、シリーズ上の破綻はない。堅実にまとまっている。
尚、スティーヴン・ケイブル・Jr. の次作は「トランスフォーマー」シリーズの新作ということだ。
キャストでは、マイケル・B・ジョーダンの鍛え抜かれた肉体が相変わらず健在で、逞しきクリードの戦いを熱く再現している。
スタローンも相変わらずいい味を出している。
そして、ドラゴ役に復帰したドルフ・ラングレンの再登場も嬉しい。「ロッキー4」をきっかけにスタローンのパートナーとなったB・ニールセンがドラゴの妻役として再登場している。
「クリード チャンプを継ぐ男」(2015米)
ジャンルスポーツ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) かつてロッキーとライバル関係にありながら不遇の死を遂げたボクサー、アポロ・クリード。彼にはアドニスという隠し子がいた。荒んだ幼少期を過ごしたアドニスは、養護施設に入っていた所をアポロの妻に引き取られる。数年後、すっかり更生したアドニスだったが、父が命を賭けたボクシングに対する情熱を捨てきれず、家を出て単身フィラデルフィアへと渡った。そこで父のライバルだったロッキーに出会うのだが…。
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(レビュー) 不屈のボクサー、ロッキーの活躍を描いた「ロッキー」シリーズは
「ロッキー・ザ・ファイナル」(2006米)を最後に終了となった。しかし、主演したS・スタローンのシリーズへの情熱は消えることなく、ロッキーの宿敵アポロの息子を主役に据えてこうして新たなシリーズを出発させた。
本作の後に続編「クリード 炎の宿敵」(2018米)が作られている。
物語はストレートなスポ根物で全体的によくまとまっていると思った。
但し、序盤のアドニスの成長がやや性急に映った。果たしてアドニスは父をどう思っていたのか?そのあたりの所をもっと丁寧に拾い上げて欲しかった。少々物足りない。
物語が本格的に動き出すのは、アドニスがロッキーの元を訪ねてからである。ここから物語はジックリと腰を据えて展開されていくようになる。
アドニスはロッキーの元で様々な試練を受けながら徐々に強いボクサーへと成長していく。そして、父と同様に世界チャンピオンを目指していくようになる。
ロッキーとアドニスの関係を考えると、この物語は実に感慨深く観れる。ロッキーは目の前でアポロの死を止められなかったという後悔の念に捕らわれている。そんなロッキーにとってアドニスはいかなる存在だったのか?劇中でそこは明確に示されていないが、色々と想像すると興味が尽きない。
あるいは、ロッキーには実の息子がいる。このことは前作「ロッキー・ザ・ファイナル」で紹介されていたが、そのことを併せ考えるとアドニスとの関係は更に味わい深く観れる。というのも、息子はかつてボクサーを目指していたが、現在ではその夢をあきらめて普通のビジネスマンになり幸せな家庭を築いている。ある意味で、ロッキーにとってアドニスは、自分の夢を託せなかった息子の代わりという見方もできる。
このように本作は前作「ロッキー・ザ・ファイナル」はもちろん、記念すべき第1作とアポロが壮絶な死を遂げる第4作「ロッキー/ 炎の友情」(1985米)。この3本を観ていると一層味わい深く鑑賞できると思う。
原案・監督・共同脚本はライアン・クーグラー。初見であるが、演出はテンポがよく、全体的に上手くまとめられていると思った。
特に、クライマックスでアドニスは自らの戦う理由を探り当てていくのだが、ここなどは実にエモーショナルに演出されており、図らずもで涙が出そうになってしまった。実に熱い展開である。
また、過去作を観ている者からすると、墓参のシーンにもしみじみときた。
もう一つ。アドニスと恋人のラブシーンにさりげなくロッキーのペットの亀を配した演出も粋である。この亀は第1作でロッキーとエイドリアンのロマンスをユーモラスに盛り上げていた名脇役(?)だったので知っている人もいるだろう。
このようにライアン・クーグラーは「ロッキー」シリーズのことをよく分かっている監督…という印象である。実に好感が持てる。
正しい続編というと変な言い方だが、世の中に期待はずれな続編が色々とある中、本作は成功している方だと思う。次作も期待して観たい。
「チャンピオン」(1949米)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルスポーツ
(あらすじ) ミッジは足の不自由な兄コニイとカリフォルニアに流れ着く。2人はカフェを経営しようとするが、店はすでに他人の手に渡り路頭に迷ってしまう。その時、ミッジはエマという女性と出会い、そのまま結婚する。そして、持ち前の腕っぷしを買われてボクサーとしてめきめきと頭角を現していくようになるのだが…。
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(レビュー) ボクシングに命をかけた青年の姿を周囲の人間模様を交えて描いたスポーツドラマ。
田舎出の青年がボクサーとして成功していく話だが、その裏側では愛する人や肉親との別れ、成功と挫折、青春の光と影が内容濃く描かれている。ミッジがすべての人生をかけて上がる最後の戦いはドラマチックで見応えがあった。
とはいえ、全体的に演出にタメが少ないせいで、今一つ感情を揺さぶられるまでは至らなかった。
ラストもあっけなくて拍子抜けした。ある意味では、このあっけなさが虚無的で良いと言えるのかもしれないが、個人的には物足りなさを覚えた。
ただ、それを補って余りあるミッジを演じたカーク・ダグラスの熱演。これは一見の価値がある。
当時まだ無名だった彼を主役に起用し、一躍スターダムに乗せたのが本作だと言われている。ダグラスは無鉄砲で強気で傲慢な若者像を体現し、強烈なインパクトを残し、本作で見事にアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた。本作以降、彼はマッチョのイメージを確立させることになる。ある意味で本作は彼の俳優としての特性を決定づけた作品と言って良いだろう。
「オリ・マキの人生で最も幸せな日」(2016フィンランド独スウェーデン)
ジャンルロマンス・ジャンルスポーツ
(あらすじ) 1962年のヘルシンキ。オリ・マキはフィンランドで初めて開催されるボクシングの世界タイトルマッチに挑戦することになった。試合の日が迫る中、彼はライヤという女性に出会い恋に落ちる。
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(レビュー) 世界タイトル戦に挑む孤独なボクサーの葛藤を16ミリのモノクロ映像で静謐に綴った作品。実話の映画化である。
オリ・マキというボクサーのことを全く知らずに鑑賞した。実際に彼がこの映画で描かれていたような人物だったのかどうかは分からないが、かなり変わった男だと思った。
国で初めて行われる世界タイトルマッチに挑戦するのだから相当なプレッシャーがかかったのは分かる。取材陣には付きまとわれるし、人前ではしたくもない作り笑いをしなくてはならないし、それだけで相当なストレスがかかる。それは十分に理解できるのだが、だからと言って試合の練習そっちのけでライヤの元へ走るのはプロとしてどうだろう?と思ってしまった。
ボクシングの試合は興行である。世界タイトル戦ともなれば、多くの金と人間が関わってくるし多方面に大きな影響を及ぼすことになる。それらを自分の我がままで全て台無しにしてしまっていいのだろうか。自分などにはちょっと理解しがたかった。
確かに彼は自分に正直生きた男なのかもしれないが、それと引き換えに大きなものも手放してしまった。なんて馬鹿な男…。そんな感想しか出てこなかった。
ただ、世間や巨大な組織に真っ向から抗ったアウトローであることは間違いない。感情移入はできなかったが、彼が辿ってきた人生は確かにドラマチックで、こうして映画化されるのも分かるような気がした。
監督は本作が長編デビュー作の新人監督らしい。同じフィンランド出身というとA・カウリスマキというベテラン作家が思い出されるが、この監督も演出のタッチはとても似ていると思った。オフビートで静謐で淡々と紡ぐ手法は、明らかにカウリスマキ風である。
また、夜のナイトクラブでオリ・マキが目撃する”水槽ショー”には、この監督の独特のセンスが感じられた。客からボールを投げつけられた踊り子が巨大な水槽に落ちるというショーなのだが、それを見てオリ・マキはいたたまれない表情を見せる。おそらく惨めに水槽に落ちた女を見て、マスコミや大衆の餌食になる今の自分を重ねたのだろう。ある種D・リンチ的な悪夢感と言えばいいだろうか。それが妙に印象に残った。
「泳ぐひと」(1968米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 日曜日の午後、友人宅で水泳を楽しんでいた会社重役ネッドは、突然、ここから自宅まで各家庭のプールを泳ぎながら帰宅すると言い出す。驚く友人たちをよそに、彼は海パン姿のまま次の家へと向かうのだが…。
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(レビュー) 中年男が次々とプールを泳ぎ渡りながら、様々な人々と出会っていく不条理劇。
出だしからしてかなりシュールな映画であるが、途中から更に奇妙な世界へと迷い込んでいくようになる。そもそも何故ネッドは友人宅のプールを泳いで帰ろうとしたのか?その理由が最後まで明らかにされないので観終わった後にチンプンカンプンになってしまう人もいるだろう。
この映画には原作がある。ジョン・チーヴァーという作家が書いた短編小説である。自分は原作を未読なのだが、どうやらこの作家は本作のようなアメリカ東部郊外に住む中産階級についての小説を数多く手掛けた人物らしい。
中産階級の人々は一見すると何の不満もない幸福な暮らしを送っているように見える。しかし、彼らも人間である。実際には様々な影を抱き、複雑に絡み合った感情に悩まされながら生活している。普通の人々と何ら変わらない人生を送っている。それを暴いて見せたのがチーヴァーだと言われている。その作家性を知ると、本作のネッドの心情は何となく想像できるだろう。
つまり、彼は裕福な暮らしと愛する家族に囲まれて生きてきた過去の思い出の中を、ただひたすら”泳ぎ続ける”人だったなのではないだろうか。
ネッドは泳いで訪れたセレブたちを相手に、失われた家族との思い出話に花を咲かせながら郷愁に浸る。落ちぶれた孤独な我が身を昔話で慰めながら家路につくのだ。これは、まさしく当時の中産階級の”姿”を言い表しているように思う。
ドラマとしては非常に後ろ向きで、観てて居たたまれない気持ちにさせられる映画である。しかし、これが当時の中流階級の心の闇、不安を表現していたとすれば、これは時代の一つの証憑と言えなくはないだろうか。チーヴァーの原作。そして、それを元にした本作は1960年代のアメリカ文化を語る上では非常に重要な1本に位置づけられる作品だと言える。
終始、不条理で不安な気持ちにさせる作品だが、そんな中、ネッドの心を晴れやかにする出会いが二つ用意されている。そこだけは観てて救われた。
一つは彼の家でベビーシッターとして働いていた少女との出会い。もう一つは水の入っていないプールで遊んでいた少年との出会いである。
前者では、ネッドは若い頃に戻ったかのように一緒に野原を駆けながら我が身の自由を謳歌している。まるですべてのしがらみから解放されたような清々しさが実感された。
後者は、過去の自分の幻との邂逅とも捉えられる。温もりに満ちたトーンで描景され、何とも言えない切なさが味わえた。
監督は西部劇の佳作「ドク・ホリディ」(1971米)等で知られるフランク・ペリー。中々味わい深い作風を身上とする作家である。
ただ、本作では撮影中にネッドを演じたB・ランカスターと度々対立し、最終的に解雇されてしまったそうである。データによると、その後に名匠シドニー・ポラックが呼ばれて一部撮り直しをしたということである。尚、ポラックの名前はクレジットされていない。