「仮面/ペルソナ」(1966スウェーデン)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 女優エリザベートは、ある日突然、舞台上で言語障害を起こして全身麻痺に陥ってしまう。医者に一夏の転地療養を勧められ、看護婦アルマと共に海辺の女医の別荘を訪れた。そこで二人は患者と看護婦という結びつきを越えて親しく接するようになっていく。
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(レビュー) 映画が始まっていきなり古いサイレント映画、子供と老婆と電話の会話、十字架の磔、フィルムの焼き焦げなどの映像が出てきて驚かされる。まったく意味不明なオープニングだが、実はこれらは映画を観終わる頃にはすべて理解できるようになる。全てが計算されつくされた演出だということが分かり溜飲が下がった。
監督、脚本はI・ベルイマン。「神の沈黙」三部作を撮り上げたのちに製作されたのが本作である。神についての直接的言及はないものの、先述した十字架の磔のイメージカット等、かすかにそれらしきものが嗅ぎ取れる。やはりベルイマンの映画では「神」という題材は切っても切れないものであることがよく分かる。
物語は実にシンプルで、ほとんどがエリザベートとアルマのやり取りで進行する舞台劇のような構成になっている。二人は一緒に過ごすうちに次第に姉妹のように仲良くなっていく。ところが、ある時を境に険悪な関係に陥ってしまう。そのスリリングなやり取りが、ベルイマンらしいクローズアップの多用と、どこか寓話的な会話劇の中で表現されている。
そして、その中から徐々にエリザベートが失語症になった原因が明らかにされていく。とはいっても、ほぼアルマがエリザベートの過去を代弁する形で語られるのだが、面白いのはここからで、アルマは彼女に奇妙なシンクロニティを覚えていくのだ。同じ人生を共有したかのようにアルマはエリザベートの人生を背負い被憑依者のようになっていく。
映画の中では、どうして二人が精神を共有できるようになったのかは明確に示唆されていない。ただ、想像するに、これは二人が辿ってきた人生から何となく合点がいく。
おそらくアルマの中ではエリザベートに対する嫉妬や憧れのようなものがあったのだろう。アルマは一時の火遊びから妊娠、堕胎をした過去を持っている。これに対しエリザベートは女優業に専念するあまり我が子を捨てた過去を持っている。子供を産めなかったアルマと子供を捨てたエリザベート。きっとアルマからしてみれば、エリザベートの母性の欠落には許せないものがあったのだろう。可能なら自分が彼女に取って代わりたい。そこまで願ったのかもしれない。だからアルマはエリザベートにあそこまで執着し、そして彼女自身になろうとしたのではないだろうか。
人間の奥底に潜むエゴや憎悪心を露わにして見せるのがI・ベルイマン映画の大きな特徴である。それが今回も、ややオカルトめいた寓話ではあるものの、じっくりと深堀されているような気がした。
そして、人は誰でも仮面をつけて生きている…ということを、この映画はアルマとエリザベートという二人の女性を通して我々に訴えかけているような気もした。女優と看護婦、母親と女。女性には様々な顔があるのだ。
本作は映像も素晴らしかった。ベルイマン作品ではお馴染みの名手スヴェン・ニクヴィストによるシャープなタッチがシーンの緊張感、圧迫感を禍々しく盛り立てている。
キャスト陣の熱演にも見応えを感じた。リヴ・ウルマンの冷徹な表情、ビビ・アンデーションの情熱的な演技。夫々にベルイマン映画の常連であり、見事にミューズとしての輝きを堂々と放っていた。
「鏡の中にある如く」(1961スウェーデン)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 作家ダヴィッドは、息子のミーナスと精神に不安を持つ娘カリン、その夫で医師のマーチンを連れて孤島の別荘に保養に来た。ある日、カリンは父がつけていた日記を盗み見してしまう。そこには自分の病気のことが冷静な文言で書かれていた。ショックを受けたカリンは急激に病状を悪化させていく。
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(レビュー) 精神に病を持つ娘が周囲の家族を巻き込みながら破滅の道を突き進んでいくシリアスな人間ドラマ。
ダヴィッドは仕事一筋で余り家族のことを気にしてこなかったタイプの男である。精神分裂症の娘カリンに対しても、親身にケアをしているように見えて、実は心のどこかで冷静に彼女の病状を客観視している。そしてその様子を作品の創作アイディアノートよろしく日記に書き記しているのだ。それを偶然見てしまったカリンは、信頼していた父に絶望し急激に精神を崩壊させていく。
自分には神が見えると言い出したり、実の弟であるミーナスに肉体関係を迫ったり、カリンのエスカレートしていく奇行の数々が異様な雰囲気の中で綴られていく。余りにも常軌を逸したその姿に、自分は目が離せなかった。
監督、脚本はI・ベルイマン。本作は彼の「神の沈黙」三部作の第1作である。
カリンの幻覚や奇行の先に、彼女にしか見えない「神」が存在することは明らかで、それは誰にも理解できないし見ることもできない「幻想」として描かれている。ある意味で一人カルト宗教、自家中毒的なナルシズムの極みとも言えるが、ただ彼女の病状をここまで悪化させた原因はダヴィッドの冷淡さにあるわけで、それを考えると不憫でならない。
やがてカリンの病状の悪化は誰にも止めることができず、いよいよ映画はクライマックスへと突入していく。そして、そこで繰り広げられるのは姉弟の近親愛である。そのおぞましさと言ったら、ほとんどホラー映画である。
そもそもカリンは自分にしか見えない「神」に自らの肉体を捧げ「神」の依り代とも言うべき存在になっており、それは彼女の中で勝手に思い込んでいるだけなので、もはや誰にも手が付けられない。彼女に誘惑される弟ミーナスも然り。抵抗空しく彼女の手のうちに収まってしまう。
このシーンを含め、カリンのエキセントリックさは、同監督作の「叫びとささやき」(1972スウェーデン)を連想させた。周囲の静かなトーンと裏腹にヒロインの異常性が際立つ「叫びとささやき」と、本作のカリンの異常性とそれを見守ることしかできない周囲の家族という構図はよく似ている。
最も印象に残ったのは中盤、カリンの独特な踊りを舞台劇風の1カット1シーンで捉えたシーンだった。周囲からは彼女が何をしているのか分からず(それは観ているこちらも一緒であるが)、この面妖さはある意味で本作最大の”ワケわからなさ”である。
本作は映像も素晴らしい。撮影監督は名手スヴェン・ニクヴェスト。シャープなコントラストを効かせたモノクロ映像は、ベルイマンの異様さを狙った演出意図に実によくマッチしていた。
「沈黙」(1962スウェーデン)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 翻訳家をしている独身女性エステルは妹アンナとその息子ヨハンと汽車で旅行に出かけていた。途中でエステルが身体の不調を訴え見知らぬ町で降りる。ホテルの部屋で休養を取るエステルだったが、孤独に耐えかねて酒と自慰に耽る日々に溺れるようになる。一方、アンナは夜の町で男を探し求めて自室に連れ込むようになる。ある時それをヨハンに見られてしまい…。
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(レビュー) 禁欲的な姉と奔放な妹の愛憎を息苦しく虚無的に描いた人間ドラマ。
スウェーデンの巨匠I・ベルイマン監督による「鏡の中にあるが如く」(1961スウェーデン)、「冬の光」(1962スウェーデン)に続く「神の沈黙」三部作の第3作にあたる作品である。
エステルは持病を患っており、常に倦怠感に捕らわれながら陰鬱な日々を送っている。そのため仕事も上手くいかず、つい酒に溺れるようになってしまう。しかも、身近な妹アンナもそんなエステルの介護そっちのけで外に出て男漁りを始める始末。誰も話し相手になってくれる人がおらず、どんどん自暴自棄になっていく。
アンナもアンナで、気難しい性分のエステルの面倒をずっと見てきて嫌気がさしたのだろう。ここにきて我慢も限界に達したのか「早く死んでほしい」とまで愚痴るほどである。そして、エステルを放ったらかしにして一夜のアバンチュールで気分を晴らす。
犬猿な姉妹の間に挟まる幼いヨハンもまた不幸と言えば不幸である。母アンナと叔母エステルに構ってもらえず、仕方なくホテルの住人たちとの交流で寂しさを紛らすしかない。
三者三様、ひたすら孤独の殻に閉じこもる陰鬱なドラマである。観てて非常に辛い気持ちにさせられるが、ベルイマンは生涯通して人間の孤独をテーマにしてきた映画作家である。そのライフワークがこの「神の沈黙」三部作で結晶化したと思えば、氏の表現者としての思いは存分に感じ取れる。
ただ、「神の沈黙」シリーズと言われても、作中には具体的に神についての言及は一切出てこない。そこには少々戸惑いを覚えた。
物語の舞台は言葉が通じない東欧の某国で、エステルたちは周囲とボディランゲージでコミュニケーションを取っている。エステルとアンナもほとんど言葉交わさない。タイトルの「沈黙」(原題:「TYSTNADEN」)とは言い得て妙だと思うが、ではそれが「神の沈黙」だと言われても今一つピンとこなかった。
また、本作では姉妹の対比を描く一方で、ヨハンのホテル内での行動が挿話される。ホテルに滞在する客たちとの交流が微笑ましく描かれており、姉妹の隠滅なドラマとは対照的で一服の清涼剤的な役割りを果たしていて面白く観れるのだが、これもテーマを語る上でどこまで必然だったかは疑問に残る。
尚、ラストが実に意味深で印象に残った。果たしてアンナはあのメッセージを受け取ってどう思ったのだろうか?そしてそんなアンナを見つめるヨハンの冷たい眼差しの意味とは?これらが作品に奇妙な余韻をもたらしている。色々と考察のしがいがある映画だった。
「沈黙 -サイレンス-」(2015米伊メキシコ)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 17世紀、日本で布教活動をしていたポルトガル人宣教師フェレイラが、キリシタン弾圧を進める幕府の拷問に屈して棄教したという知らせがローマに届いた。弟子のロドリゴとガルペが真相を確かめるべく日本へと向かう。マカオで出会った日本人キチジローの手引きで長崎の隠れキリシタンの村に潜入した彼らは、村人たちに匿われながら調査を進めていくのだが…。
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(レビュー) 遠藤周作の小説「沈黙」を巨匠M・スコセッセが映像化した作品。
同原作の映像化は約30年前から熱望していたということで、氏にとっては念願の企画と言えるだろう。彼は元々敬虔なカトリック信者なので、この題材には一方ならぬ思いがあったに違いない。その思いは画面から熱量高く伝わって来た。宗教と人間と政治の関係に大胆に切り込んだ意欲作のように思う。歴史劇ならではの説得力も十分に備わっており、ラストには何とも言えない感動をおぼえた。
最終的にはああいう結末になってしまったが、人の心までは支配できないという希望のようなものが感じられたのは良かった。
尚、同原作は1971年に日本でも篠田正治の手によって「沈黙 SILENCE」(1971日)のタイトルで映画化されている。自分はそちらを先に鑑賞済みである。そちらも中々の力作であり、とりわけ馬を使って棄教を迫るシーンはトラウマシーンとして脳裏に焼き付いている。
本作は日米の名優が顔をそろえる豪華キャストも見応えがある。
特に、ロドリゴを演じたA・ガーフィールドの熱演が素晴らしい。周囲の信徒が次々と倒れていく中、自らの非力さに心を痛め神に助けを求める姿が胸を打つ。彼は同年製作の
「ハクソー・リッジ」(2017米)にも主演しており、決して銃を持たない戦場衛生兵という難役を好演している。ストイックなまでの宗教観に捕らわれた悲劇の英雄というキャラクター性は、ある種本作のロドリゴにも通じるような役所で、両作品の彼を見比べてみると興味深いかもしれない。
日本側のキャストでは通辞役を演じた浅野忠信が良かった。彼は海外の作品に多数出演しているので英語のセリフも自然に聞ける。外国人俳優に交じっても堂々とした演技を披露している。
キチジローを演じた窪塚洋介も印象に残った。命欲しさに踏み絵を何度も繰り返す、ある意味で人間の弱さを体現したようなキャラクターである。普通であれば見下げ果てた愚者と一蹴すべきだが、どこかユーモアがあって捨て置けない存在で印象に残った。
逆に、井上筑後守を演じたイッセー尾形は大仰で受け付けなかった。ほとんどコメディのようにしか見えず残念である。
スコセッシの演出は軽快でとても観やすい。2時間40分を超える長尺な作品だが、その長さを感じさせないほどストレスフルに観ることができた。正にベテランの妙味といった所だろう。
しかも今回は多くの日本人俳優を起用しており、撮影現場ではコミュニケーションもままならなかったのではないかと想像する。大変難しい演出だったろうが、そうした障害を一切感じさせないあたりは見事である。
尚、劇中に溝口健二監督の名作「雨月物語」(1953日)を彷彿とさせるシーンが登場してクスリとさせられた。具体的には、ロドリゴが霧の中を船で渡って五島へ赴くシーンである。スコセッシは過去に溝口監督の「雨月物語」(1953日)、「山椒大夫」(1954日)、「近松物語」(1954日)の4Kデジタル修復版に協力した経緯がある。おそらく相当、溝口監督をリスペクトしているのだろう。そんな二人の関係を知っていると、このオマージュは微笑ましく観れる。
強いて不満を挙げるとすれば1か所だけ。茂みに隠れたロドリゴとガルペが、長崎奉行の取り調べを受ける村人たちを遠目に眺めるシーンである。存外近い距離で見つかりそうだったので、もっと距離を置いたほうが良かったのではないかと思った。
「瞼の母」(1962日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 幼い頃に母と生き別れになった番場の忠太郎は、母を求めて二十年間、博徒として旅を続けていた。ある日、弟分の半次郎を逃がすために飯岡一家を斬ってしまう忠太郎。その後、追われる身となって江戸に流れ着くのだが…。
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(レビュー) 長谷川伸の同名戯曲を映画化した人情ドラマ。
原作は浪曲や歌謡曲、テレビ、映画で何度も映像化されている名作である。
今回は娯楽映画の名手加藤泰が監督、脚本を務め、中村錦之助が忠太郎を演じ、非常に熱度の高い佳作に仕上がっている。
ストーリーはお馴染みの物である。特に捻りはないが安定した人情物で、娯楽作として誰でも楽しめる内容となっている。
特筆すべきは、やはり加藤泰の演出の妙である。
クライマックスにおける母子の別れのシーンは実に味わい深い。生き別れの母おはまが去っていく忠太郎を追いかけようとして湯呑茶碗を倒してしまうシーン。ハッと我に帰り茶碗が転がった畳をそっと撫で、今しがたまで座っていた忠太郎の温もりを確かめるようなしぐさは秀逸である。
また、本作には印象的な長回しが幾つか登場する。
例えば、忠太郎が盲目の老婆に母の行方を尋ねるシーン。ここでのやり取りはカットを切らずに1シーン1カットで描いて見せている。果たしてドラマ上、ここまで長くする必要はあったのかどうかは分からないが非常に印象に残る。
あるいは、忠太郎とおはまが再会するシーンも忘れがたい。二人のやり取りを延々と1カットで切り取っている。夫々の戸惑い、興奮が直に伝わってきて非常に臨場感溢れる名シーンとなっている。
元々が戯曲ということもあり、加藤泰はこうした長回しを意図的に用いたのだろう。その要望に応えたキャストの力量も素晴らしい。
忠太郎を演じる中村錦之助は言わずと知れた東映の看板スターで、コッテリ系の芝居が大衆の琴線を突いてくる。
おはまを演じるのは小暮実千代。ドラマ上、後半からの出演となるが、初期の松竹時代から人気女優として活躍しているだけあって安定した演技を見せている。
「斬、」(2018日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 江戸時代末期。杢之進は食うために藩を離れ、農村で農家の手伝いをしながら糊口を凌いでいた。そんなある日、剣の達人である澤村が村にやって来る。彼は仲間を集めて京都の動乱へ参加しようとしていた。杢之進は澤村に剣の腕を見込まれ一緒に行こうと誘われるのだが…。
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(レビュー) 「鉄男 TETSUO」(1989日)や
「野火」(2014日)の塚本晋也監督が、自ら製作を務めて撮り上げた作品。氏にとっては初の時代劇となる。
とはいえ、セリフは現代語であるし、映像もツルツルとしたデジタルビデオ撮影なので余り時代劇っぽくない作品である。敢えてそうしているのかどうか分からないが、せっかくの時代劇であるのだからセリフくらいは文語調でも良かったのではないかと思った。
物語はシンプルである。平穏な日々に生きる道を見つけた若い侍が、剣の達人に出会うことで再び戦いに身を投じて行く…というドラマである。
興味深いのは、本作が同監督の前作「野火」と非常に近いメッセージ性を放っているという点である。
「野火」は明確な反戦映画になっていたわけだが、本作にもそれは通ずる。時代劇というスタイルをとっているものの根っこの部分ではやはり本作も反戦映画になっていると思った。戦いが嫌で藩を出た杢之進が澤村に強引に戦いに連れ戻される…という物語の構図からして、それはよく分かる。これはまるで戦時下における徴兵制のようである。ここに戦争の恐ろしさ、無意味さが強く感じられた。「野火」も戦争の恐ろしさ、理不尽さを説いており基本的には同じメッセージが読み解ける。
塚本監督の演出はアクションシーンにこそ本領を発揮する。本作でも何度か斬りあいのシーンが登場してくるが、相変わらずエクストリームっぷりを見せつけている。余りにも戯画調なハッタリゆえ、苦笑してしまう部分もあるのだが、やはりバイオレンスを”見世物”として描かせたらこの人の右に出る者はいないだろう。これぞ塚本作品の醍醐味である。
また、本作は音響もかなり凝っており、鞘から刀が抜かれる時の音や刀がぶつかり合う瞬間の音など、これまで観てきた時代劇にはない音の設計が図られていた。今回はテレビでの鑑賞だったが、映画館ではさぞ迫力のある音が味わえただろうと、少し後悔してしまった。出来れば劇場で体験したかった。
キャストでは、杢之進を演じた池松壮亮の浪人っぷりが板についていて中々に良かった。これまでは現代劇のイメージしかなかったので新たな魅力を発見した次第である。
一方、杢之進に恋する若い女性ゆう役を演じた蒼井優は、上手い所はものすごく上手いのだが、演技のトーンが一定しないのが惜しまれた。実は、
「スパイの妻<劇場版>」(2019日)でも同様のことは感じられた。ここまでくるとおそらく監督の演出云々ではないのだと思う。
「黒衣の刺客」(2015台湾)
ジャンルアクション・ジャンルロマンス
(あらすじ) 唐代の中国。幼き頃より女道士のもとで刺客になるべく育てられた隠娘(インニャン)は、13年後、両親のもとに帰ってくる。彼女に課された使命は、暴君の田季安(ティエン・ジィアン)を暗殺することだった。しかし、標的である田季安はかつての許婚でもあった。
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(レビュー) 暗殺者として育てられたヒロインが呪われし運命に翻弄されていく武侠映画。
ドラマ自体はいたってストレートである。しかし、人間関係が複雑に入り組んでいるため、やや分かりづらい面があった。あらかじめ歴史的な設定を頭に入れてから見たほうが理解しやすいだろう。
監督は台湾の巨匠ホウ・シャオシェン。シャオシェンと言えば、ミニマルで静謐な作風が特徴の作家であるが、それがこうしたジャンル映画を撮ることは大変意外である。
かつてアン・リーが「グリーン・デスティーニー」(2000米中国)を撮り、チャン・イーモウが「HERO」(2002香港中国)を撮り、ヒューマンドラマの作家というイメージを払拭した時期があった。その後もアン・リーは「ハルク」(2003米)や「ジェミニマン」(2019米)を、チャン・イーモウは「LOVERS」(2004中)や「グレートウォール」(2016中国米)といった大作を立て続けに作り、今やハリウッドで活躍する職人監督になった。中には興行的に失敗した作品もあるが、初期時代の作風を一新した感がある。そういう意味ではアン・リーもチャン・イーモウも大変器用な作家だと言える。
それに対してホウ・シャオシェンはどうかと言うと、これはあくまで個人的な感想だが、彼らとは少し違うような気がした。本作は確かに武侠映画のジャンルに括れる作品だが、同時に苦悩するヒロインの心中に迫った骨太なロマンス作品でもある。おそらくシャオシェンはそちらの方を描きたくて本作を撮ったのではないだろうか?
ただ、アクション演出はお世辞にも上手く出来ているとは言い難い。先述した2名の監督たちは周囲でサポートするスタッフに恵まれたのかもしれないが、夫々にアクションシーンは板についていた。彼らに比べると、シャオシェンが描くアクションは今一つキレが足りない。
一方、映像はすべからく完成度が高く、鮮やかな色彩設計、深みのある陰影等、大いに見応えがあった。
撮影監督は名手リー・ピンビン。数々の作品で素晴らしい映像美を創出してきた氏の真骨頂がここでも存分に堪能できる。
また、奥行きを意識した室内構図、部屋の奥で風に揺らぐ透明なカーテン、蝋燭の火に照らされたロウキーな画面等。プロダクションデザインの仕事ぶりも随所に光っていた。
尚、キャストで日本人俳優の妻夫木聡と忽那汐里が出演している。妻夫木聡は傷ついたインニャンを助ける鏡磨きの青年としてキーパーソン的な役回りを任されている。中々美味しい役所だった。
「イエスタデイ」(2019英)
ジャンルファンタジー・ジャンル人間ドラマ・ジャンル音楽
(あらすじ) 売れないミュージシャン、ジャックは幼なじみのマネージャー、エリーといつか大舞台で立つ日を夢見ながら場末のクラブで演奏していた。ある夜、世界規模で12秒間の大停電が起きる。その瞬間、交通事故に遭ったジャックは、ビートルズの存在しない世界に飛ばされてしまった。彼はそこでビートルズの曲を奏でながら瞬く間に人気者になっていくのだが…。
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(レビュー) ビートルスの存在しない世界に飛ばされた売れないミュージシャンの悲喜こもごもをユーモアを交えて描いたハートフル・ファンタジー。
監督は
「スラムドック$ミリオネア」(2008英米)、
「127時間」(2010米英)、
「T2 トレインスポッティング」(2017英)のダニー・ボイル。スタイリッシュな映像と軽快なテンポで見せる話運びが特徴の監督であるが、その資質は本作でも存分に発揮されている。最後まで飽きなく観れた。
共同原案・脚本にはリチャード・カーティスがクレジットされている。こちらは「ノッティングフィルの恋人」(1999米)や「ブリジット・ジョーンズの日記」(2001米英)、「ラブ・アクチュアリー」(2003英米)といった洒落たラブコメを得意とする作家である。非常に手練れたベテラン・ライターで、今回はファンタジックな要素を盛り込みながらジャックとエリ―の恋の行方を軽妙に料理している。
ただ、これはシナリオの問題かもしれないが、二人の破局→復縁の流れが余りにも安易で、恋愛ドラマとしては個人的には乗り切れなかった。
そもそもエリーがジャックにそこまで惹かれる理由がよく分からなかった。ジャックは容姿はそれほど良くないし人間的な魅力も余り感じられない。大体によって他人の曲で売れようという姑息な考えが自分には好きになれなかった。そんな彼のどこにエリーは惹かれたのだろうか?
また、この物語には大きな欠陥があるように思う。それはビートルスのいない世界というパラレルワールドの話だけで終始してしまったという点だ。
ビートルズの曲で売れたジャックが自戒するのはドラマの流れとして当然と思うが、それはあくまでパラレルワールドの中での話である。映画はそのまま完結してしまっており、元の世界がどうなったのか分からずじまいである。最後にジャックが現実世界に目を向けることでこのドラマはしっかりと完結すると思うのだが、そうすることなく物語は安易に夢想の中で埋没してしまっている。自分にはこれが非常に違和感を持った。
音楽については良かったと思う。馴染みのあるビートルズの名曲が次々と流れてくるので親しみが湧いた。
個人的にはビートルズのいない世界にはオアシスもいないというのが洒落が効いていて面白いと思った。オアシス自体、決してビートルズの影響下にあるバンドではなかったが、世間が両バンドを比較していたことは事実である。
キャストではジャック役にアフリカ系の俳優を起用している。飄々とした演技は中々上手かったが、有色人種である必然性がドラマ上、余り感じられなかったのは残念である。白人の音楽をアフリカ系俳優が歌うという所の面白さを狙ったのだろうか?だとすると製作サイドの考えは浅薄すぎる。ドラマ上の必然性が欲しかった。
尚、ミュージシャンのエド・シーランが本人役として登場してきたり、終盤にはアッと驚く人物(ノンクレジット)も登場してきてゲスト陣は豪華で良かったと思う。
「ラブリーボーン」(2009米英ニュージーランド)
ジャンルファンタジー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 14歳の少女スージーは、優しい両親とかわいい妹弟に囲まれながら幸せな日々を送っていた。初恋の予感に胸をときめかせていたある日、近所の男に無慈悲に殺されてしまう。天国と思しき地で、彼女は残された家族の姿や逃げ延びた犯人のその後を目撃していくようになる。
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(レビュー) 不幸な死を遂げた少女の数奇な運命をファンタジックに描いたサスペンス作品。
原作は同名のベストセラーで、それを「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを成功させたピーター・ジャクソンが最先端の映像技術で映像化した作品である。
本作は何と言ってもCGで表現された天国の世界が素晴らしい。温もりに満ちたカラフルな世界観が、悲惨な死を遂げたスージーの魂を癒しているかのようだ。ドラマ自体は実に陰惨だが、この辺りの陰と陽のコントラストが作品を味わい深くしている。
くしくも同じピーター・ジャクソン監督の「乙女の祈り」(1994米ニュージーランド)を連想した。「乙女の祈り」もドラマ自体は非常に陰惨だったが、映像は時にクールで瑞々しいトーンが横溢し、ある種少女趣味的なカラーをも匂わせ、鑑賞感は余り嫌な感じがしなかった。本作と「乙女の祈り」は作品全体に漂うトーンに違いはあるものの、ドラマ的な部分では大変似ていると思った。
物語は、魂になったスージーのエピソードと、彼女に先立たれた家族のエピソードを交互に描く構成になっている。その中で物語を盛り上げる要素としてスージーを殺害した犯人探しのサスペンスが用意されている。
ただ、犯人は最初から正体が明らかにされているため謎解きとしての楽しみ方は期待できない。犯人はスージーの家のすぐ近所の男なのだ。ありがちな話であるが、逆に言うと犯人の正体があらかじめ分かっていることで、例えば家族の身に危険が及ぶといったサスペンスフルな展開は上手く描けていると思った。
また、スージーの父親が犯人探しに没頭するあまり家族から見放され徐々に自暴自棄になっていく、という転落のドラマも用意されている。すぐそばに犯人がいるのに捕まらないという歯がゆい状況。そしてバラバラになっていく家族の姿を、スージーは天国から見守ることしかできずその胸中を察すると実に不憫極まりない。
このように話の筋書きだけ追っていくと非常に悲惨な物語なので、好き嫌いがハッキリわかれる作品だと思う。
ただ、先述したようにスージーがいる天国の映像が非常に美しいのであまり陰惨さは感じられない。「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを手掛けたジャクソン監督にしては、ダークファンタジーというわけでもなく、これはこれで少し中途半端な感じも受けた。余りにも煌びやかに輝く天国の映像が、かえってスージーの悲しみや苦しみを薄みにしてしまった感じがする。
スージー役は、今やハリウッドを代表する若手女優シアーシャ・ローナン。初々しくあどけなさが残る顔立ちで薄幸の美少女役には上手くはまっていた。
「イレブン・ミニッツ」(2015ポーランドアイルランド)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ある日の午後5時。一人の男が慌てて家を飛び出して妻の元へと向かった。その頃、女優をしている彼の妻はホテルの一室で映画監督の面接を受けていた。そのホテルの前ではホットドッグ屋の主人がヤクの売人に電話をかけていた。夫々の11分間が偶然の軌跡を呼び起こす。
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(レビュー) ある日の5時から5時11分の間に起こる様々な出来事を実験精神あふれる作劇で描いた群像劇。
主だった登場人物は、妻を追いかける男、その妻と映画監督、ホットドッグ屋の主人、ヤクの売人、強盗犯の少年、町の救急隊員、ビルのガラス清掃員、ポルノビデオを見ている一組のカップル等である。夫々の11分間を映画はモザイク状に描きながらクライマックスで見事に収束させている。実にしたたかに計算されたシナリオと言って良いだろう。
ただ、観ている最中は一体これは何について描いている映画なのか分かりづらい構成となっている。じっくりと根気強く観てあげないと余り面白みを感じられない作品かもしれない。映画を観終わる頃にはすべてがスッキリできるように作られているので、そこまで痺れを切らさずに観れるかどうか。ある種忍耐力が試されるような作品である。
また、このオチをどう捉えるかは観た人それぞれだろう。膨大な監視カメラの中でたった一台だけブラックアウトして終わるという結末は果たして何かの暗喩なのか?おそらく根気強く観続けていた人には興味深く考察できるエンディングだろう。
監督、脚本はポーランドの鬼才イエジー・スコリモフスキ。
「エッセンシャル・キリング」(2010ポーランドノルウェーアイルランドハンガリー)、
「ライトシップ」(1985米)、
「ザ・シャウト/さまよえる幻響」(1978英)等、一癖ある作品を撮ることで有名な監督であるが、今回もかなり変わった構成の作品となっている。
スコリモフスキの軽快な演出はすこぶる快調で、実験的なカメラワークを駆使しながら一瞬も飽きさせない作りに徹している。
例えば、散歩中の犬の目線で歩道を映したり、ドラッグに溺れる人間の朦朧とした意識を再現して見せたり、齢80になろうというベテラン監督とは思えぬ若々しいタッチが随所に見られる。
ただ、今回は実験的な意味合いが多い作品なためドラマは薄みである。仕方がないことだが過去作に比べると重厚さという点では物足りなく感じられた。