「花筐/HANAGATAMI」(2017日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンル戦争
(あらすじ) 1941年の春。17歳の青年・榊山俊彦は、アムステルダムに住む両親のもとを離れ、唐津に暮らす叔母の家に身を寄せていた。肺病を患う従妹の美那にほのかな恋心を抱きながら、鵜飼や吉良といった学友たちと楽しい日々を送るが、戦争の影が徐々に忍び寄ってくる。
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(レビュー) 戦時下における若者たちの青春を鮮やかな映像と幻想的なタッチで描いた作品。
原作は壇一雄の短編小説(未読)で、それを大林宣彦監督、脚本で映画化した作品である。
wikiによると、脚本自体はデビュー作「HOUSE ハウス」(1977日)以前に書かれていたらしく、その草稿を基にして今回の映画は出来上がっているということである。長年温めていた企画ということだけあって、氏の並々ならぬ思いが画面から感じられた。
また、本作の製作時、大林監督はすでに余命宣告を受けており、この企画だけはやり通さなければならないという強いもあったに違いない。撮影は闘病の中で行われ、その模様は自分もNHKのドキュメンタリー番組で見たことがある。車椅子に座りながら演出をする監督の姿は正に生涯現役。強く印象に残った。
本作は
「この空の花 長岡花火物語」(2012日)、
「野のなななのか」(2014日)に続く”戦争3部作”の最終章にあたる作品である。いずれも戦争に翻弄された市井の人々に根差したドラマで、大林監督の戦争批判が色濃く反映された連作となっている。
物語は主人公の俊彦の視座で、叔母の圭子、従妹の美那、同級生の鵜飼、吉良、更に美那の女友達である千歳、あきね達を描く群像劇になっている。かなり複雑に入り乱れた人物相関だが、夫々に個性的に造形されているおかげで、とても分かりやすく作られている。
例えば、鵜飼と吉良はまったく正反対な容姿、性格をした者同士ながら、戦争に行けぬ不具者という点でどこかシンパシーを感じてる。友情とまではいかないが、その関係は中々スリリングで、最終的に同じような末路を辿ることも含め、とても数奇な関係に思えた。
複雑に絡み合う恋愛模様も味わいがある。俊彦は美那に恋焦がれるが、当の美那は鵜飼に一目惚れする。しかし、鵜飼は千歳と交際中であり、その千歳は親友であるあきねに同性愛的感情を密かに抱いている。更に、彼女は従兄弟の吉良と幼い頃から因縁めいた関係にある。万華鏡のごとく形を変えて繰り広げられる恋の駆け引きは複雑怪奇にして予測不可能。これだけ入り乱れた群像劇を大林宣彦は何なりと捌いてみせており、改めて氏の手腕には感心させられる。
そんな中、一番印象に残ったのは中盤のピクニックのシーンだった。メインキャストが一堂に集い、戦争への機運を避けようがない現実として受け止めながら、夫々が今ある幸せを楽しもうという無邪気さに溢れていて観てて切なくさせられた。
事実、俊彦たちの担任教師はすでに出兵しており、おそらく生きて帰ってこれないだろうということは、皆が知っている。そんな中でも、彼らは今この瞬間の幸せをかみしめる。この時のニヒルな吉良が美那の可憐さに鼻血を出すというコミカルな芝居が良い。シリアスな雰囲気を一気に壊しかねない演出とも言えるが、逆にここまで大胆に悲喜劇の落差を創り出せるのが大林監督の”したたかさ”だろう。他の監督には到底真似できないところである。
大林監督の演出は、独特の編集リズム、デジタル処理が施された様式美溢れる映像を奔放に繰り出しながら、老いてなお健在。ここまで監督のこだわりを盛り込まれると、観ているこちらの情報処理が追い付かなくなってしまうほどである。戦争3部作はいずれもこうした作風だが、おそらく監督としては2度、3度観て楽しめるように敢えて装飾過多な作風にしているのかもしれない。この最終章はその究極という感じがした。
本作で唯一、腑に落ちなかったのは終わり方である。美那の病の原因が鵜飼の言葉で示唆される。しかし、これは唐突に感じられた。加えて、そこに圭子が一枚嚙んでいたというのは、どう考えても理解に苦しむところである。どうやら原作にも同様のシーンは存在するようだが、それは美那が見た幻想として表現されているらしい。ただ、映画を観てみると、現実なのか幻想なのかよく分からず、戸惑いを覚えてしまった。
キャストでは、吉良を演じた長塚圭史の異様な風貌が印象に残った。彼の容姿に対するコンプレックスがとても人間臭くて魅力的だった。
俊彦役の窪塚駿介は一貫して朗らかな表情を崩さず、戦火に呑まれる周囲の悲劇に明るい灯を照らしているかのようだった。これも大林監督の意図した演出なのだろう。かくしてその演技プランはラストの老いた俊彦の悲痛な叫びに結実するわけだが、ただここは別の老俳優によって演じられている。個人的には特殊メイクを施した窪塚のままでやって欲しかった気がする。
鵜飼役の満島真之介は正に適役と思った。研ぎ澄まされた精神と肉体を体現するに十分の美青年振りを披露している。
女優陣については、美那を演じた矢作穂香の可憐さが印象に残った。薄幸な美少女というキャラクターは、もはや大林作品における安定のヒロイン像といった感じである。
「野のなななのか」(2013日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 風変わりな古物商“星降る文化堂”の老主人、鈴木光男が他界し、散り散りに暮らしていた鈴木家の面々が葬儀のために集まってきた。そこに清水信子という謎の女性が現れる。実は、光男の孫娘カンナは彼女のことを幼い頃から知っていた。彼女は祖父と信子の関係を回想していく…。
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(レビュー) 一人の老人の死生観を通して、過去の戦争体験、過疎化していく農村社会、離れ離れになった家族の再生をドラマチックに描いた人間ドラマ。
監督、脚本は大林宣彦。本作は氏の
「この空の花 長岡花火物語」(2012日)に続く地方都市を舞台にした”戦争三部作”の2本目にあたる作品である。
今回の物語の舞台となるのは北海道の芦別市である。ここはかつて炭鉱村として栄えた場所だが、今ではすっかり錆びれてしまい、過去の賑わいはすでに失われてしまっている。物語はそこに住む鈴木家の面々を軸にしながら展開される。
まず、映画序盤から短いカッティングと早口のセリフの応酬という大林監督らしい演出で開幕する。前作「この空の花~」の時にも、その若々しい感性に驚かされたが、今回もそれに負けず劣らずエキセントリックな演出が横溢する。とても70代とは思えぬ瑞々しい感性が全体からほとばしっている。
また、明らかに合成と分かる背景のはめ込みや過剰なまでの色彩設計も、いかにも大林流である。特に、時折挿入される音楽隊の行進映像は強烈なインパクトである。メインテーマを奏でる彼らの存在が、映画の世界観をもはや異次元へと誘い、観ているこちらのイマジネーションを喚起してくる。徹頭徹尾、観る側を楽しませようという大林流エンタメの真骨頂を思う存分楽しめた。
映像ばかりに目が行きがちな作品であるが、物語の方も中々ミステリアスに盛り上げられていて最後まで面白く追いかけることが出来た。
ここでキーとなるのは、やはり信子の存在である。彼女と光男の関係は一体何なのか?それを狂言回しであるカンナの目線を通して紐解いていくという構成になっている。
後半から光男の回想で明らかにされる戦時の悲恋が信子という女性の正体を炙り出していくが、この構成も見事である。そこには光男の初恋の女性に対する憧憬が隠されており切なく感じられた。
かつて淡い思春期時代の初恋をノスタルジックに描いてきた大林宣彦らしいタッチがまったく衰えることなく再現されていることに感動を覚える。これぞ大林作品の醍醐味であろう。
また、前作同様、本作は反戦というメッセージが強く押し出されており、そこも十分に伝わってきた。以前見たNHKのドキュメンタリー番組でも氏は熱く反戦を訴えていたが、「この空の花~」、本作、そして次作「花筐/HANAGATAMI」(2017日)の3作品は晩年の”戦争三部作”とも言われており、大林監督の表現者としての最後のメッセージ映画と言える。
ただ、前作「この空の花~」に比べると、物語がかなり多岐にわたって展開されており、やや持て余し気味という印象も持った。今回も3時間弱という大作であり、その長さをもってしても内容の詰め込み過ぎ感は拭えない。もし反戦というメッセージをメインテーマにしたいのであれば、光男の回想を軸にドラマを構成すればいいのであって、そこに鈴木家の悲喜こもごものドラマがどこまで必要だったかは疑問に思う。登場人物を削って構成をスッキリすることで、前作同様の力強さを持った作品にすることも可能だったはずである。現状では残念ながらそこまでのパワーは感じられなかった。
芦別市の過疎化を憂うセリフが終盤に出てくるが、これも当然訴えたいことの一つなのだろう。しかし、ドラマの比重としてはそこまで重視されておらず、どうしてもメッセージとしては弱く感じられてしまった。
前作に続いて語られる反原発も然り。これも監督の主張だということは、前作を観ているから分かるのだが、果たして今回のドラマの中からその主張が自然と発せられているか、というと疑問である。
ちなみに、終戦後もソ連の侵攻で樺太が交戦状態にあったということは、歴史的事実として無視できないものがある。本作ではそれは光男の初恋の中で描かれていたが、過去には
「ジョバンニの島」(2014日)というアニメ映画でも描かれていた。このエピソードもまた、戦争の記憶を後世に残すべく大林監督が努めて描こうとした一つだろう。
「この空の花 長岡花火物語」(2012日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 天草の地方紙記者・遠藤玲子は、東日本大震災の際、被災者をいち早く受け入れた長岡市に取材にやって来た。しかし、彼女をこの地に引き寄せた理由はもう一つあった。それは、かつての恋人・片山健一から届いた手紙だった。そこには、自分が教師を勤める高校の生徒・元木花が書いた『まだ戦争には間に合う』という舞台、そして長岡の花火を見てほしいと書いてあったのだ。玲子は健一の元を訪ねる。
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(レビュー) 長岡花火をモチーフに、過去の戦争と災害の歴史を振り返りながら、現代に生きる我々に平和と生の尊さを訴えかけた作品。
監督、共同脚本は昨年惜しまれながらこの世を去った大林宣彦。老境に差し掛かり大病を患った身で撮り上げた2時間40分に及ぶ大作である。
あの悲惨な戦争を二度と起こさないために我々は何をすべきか。戦争の記憶を決して絶やしてはいけない。そんなメッセ―ジが伝わってくる作品である。余りにもダイレクトに発せられているため少々説教くさく感じる部分もあるのだが、それを大林監督は演劇形式や紙芝居による回想形式といった、ある種エンタメに振り切ったスタイルを用いることで絢爛豪華に見せている。
おそらく大林監督としては、ここまで明確に反戦メッセージを示さなくては今の観客には伝わらない、そう思ったのだろう。逆に言うと、それくらい現在の日本に漂う空気に危いものを感じたのかもしれない。
映画監督は芸術家であり、エンターテイナーであり、一人の表現者でもある。その表現者としての使命がこのような作品を創り出したと考えれば、これは真摯に受け止めねばならない。
物語は玲子と健一のカップルを軸に展開される。二人は長岡という場所に引き寄せられ過去の戦災の歴史を振り返りながら、夫々の進むべき道を見つけ出していく。
かつては瑞々しい青春ロマンスを数多く撮り上げた大林監督だが、ここではそんな甘ったるさが一かけらもない。唯一あるとすれば、戦争の犠牲で現世に蘇った花という少女と現地の少年の間で繰り広げられる淡い恋慕か。ここには過去の大林テイストがかすかに嗅ぎ取れる。しかし、戦争や大震災といった悲劇がメインの話なので全体的にはシビアな内容である。
それにしても、長岡に模擬原子爆弾が落とされたという事実は知らなかった。原爆の被災地と言うと広島や長崎を真っ先に思い浮かべるが、ひょっとしたら長岡に落とされていた可能性もあったということを知り驚かされた。
大林監督の演出は実に奔放で若々しい。
特撮とアニメーションを交えた実験精神あふれる映像。極端に短いカッティングと膨大なセリフの組み合わせで目まぐるしく展開される会話劇。俳優は画面に向かって語り掛け、現在と回想を往来し、フィクションとドキュメンタリーの境界を軽々と越えてみせる。正に変幻自在、自由奔放。本作は2時間40分という長尺な映画だが、その長さをまったく感じさせない。この演出力には脱帽するしかない。
そして、これだけ奔放な作りだと普通であれば作品の印象は散漫になってしまうものだが、本作はドラマがしっかりとしているのでそうしたこともない。これはひとえに花というキーパーソンが全編に渡ってしっかり存在していたからだと思う。現在と過去、現実と虚構が入り混じる中で、ただ一人、花だけは不溶の存在として物語の中で生き続けている。
本作において花に担わされた役割は相当に大きいと思う。玲子と健一という主人公カップルを引き合わすキューピッドであり、戦争の記憶が薄れた現代にその記憶を蘇らせるメッセンジャーでもある。大林作品らしい可憐さと処女性を併せ持った過去の数々のミューズを凝縮したようなキャラクターで一際印象に残った。
「ウエスト・サイド・ストーリー」(2021米)
ジャンルロマンス・ジャンル音楽
(あらすじ) 1950年代後半のニューヨーク。マンハッタンのウエスト・サイドでは、プエルトリコ系移民の“シャークス団”とヨーロッパ系移民の“ジェット団”の対立が激化していた。ある日、シャークス団のリーダー、ベルナルドを兄に持つマリアは、ダンスパーティでトニーという青年に出会い恋に落ちる。しかし、トニーはジェット団の元リーダーだった…。
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(レビュー) 1961年に大ヒットを記録した名作ミュージカル「ウエスト・サイド物語」(1961米)を巨匠S・スピルバーグがリメイクした作品。
物語の大筋はオリジナル版をほぼ踏襲しており、数々の楽曲もそのまま再現されていて、スピルバーグの原作愛がひしひしと伝わってきた。
ただ、この名作を今リメイクした意図というものは余り見えてこなかった。オリジナル版と一緒であればわざわざ作り直す必要はないわけで、現代に合わせた解釈や改変がもっと大胆にあっても良かったような気がする。もっとも、それをやってしまうと確実に賛否が巻き起こってしまうだろうが…。それくらい名作のリメイクというのは難しい。
しかし、スピルバーグはどうしてもこの企画を成功させたかったのだろう。聞けば、インディージョーンズの続編を中断してまで本作の製作に勤しんだらしい。
では、原作をほぼ変えないまま作られた今回の製作意図がどこにあったか、と想像すると、自分はこういうことじゃないかとおぼろげに考える。おそらくスピルバーグはこの名作の存在を新しい世代の観客に伝えたかったのではないだろうか。
たとえ名作と言えどこれだけ古い作品になってしまうと、今の観客が鑑賞する機会というのはそうそうないと思う。であるならば、リメイクすることで新しい観客に知ってもらおう、と考えるのはありそうな話である。
気が付けばスピルバーグも75歳。もはやハリウッドの重鎮と言える存在にまで登り詰めている。そんな彼がこれから先の映画界のことを考えて、過去の名作を現代に甦らせて今の世代に伝えていく、と考えるのは何ら不思議なことではない。本作にはそんなスピルバーグの”映画愛”が込められているような気がした。
オリジナル版は移民や貧困といった社会問題を取り入れたストーリーで、それまでの華やか一辺倒だったミュージカル映画に新風を吹き込んだと言われている。今回のリメイク版もそこはかなり重視されており、今のアメリカ社会に通じる風刺性が感じられた。60年以上も前の作品が、現代でも違和感なく受け取れてしまう所に、これらの問題の根深さが窺い知れる。
尚、オリジナル版ではプエルトリコ系のシャーク団は白人俳優が黒塗りをして演じていたが、本作ではリアリティを追求するために南米系の俳優に演じさせている。このあたりはオリジナル版にはない本作ならではの”こだわり”だろう。オリジナル版から大きくアップデートされた点だと思う。
もう一つ、本作にはアップデートされたことがある。それはジェット団の中にトランス・ジェンダーのメンバーがいることだ。このキャラクターはメインのドラマにそれほど大きく関わってくることはないが、昨今のハリウッドの潮流である”多様性”を体現するキャラクターになっている。こうした所に目配せしたのも今回のリメイク版の新味だ。
映画自体の出来は、絢爛豪華な映像、ダイナミックな演出、心に響く歌唱の数々など、全てにおいてエンタテインメントとしての完成度が高く、大変満足できた。
特に、前半のダンスパーティーのシーン、中盤の『アメリカ』の群舞シーンは圧巻である。映像の作り込みと迫力はおそらくオリジナル版を超えているだろう。
但し、唯一、ジェット団とシャーク団の決闘シーンの後に挿入される装飾店のミュージカルシーンは、それまでのシリアスなトーンが壊された感じがして興を削がれた。オリジナル版ではどうだったか?随分以前に観たので覚えていないが、ここはカットしてそのまま終盤に繋げてもらった方が、観ているこちらとしては気持ちよく乗って行けたかもしれない。
また、恋愛ドラマとして見た場合、説得力という点でやはり苦しい面はある。元々が古いミュージカル映画であるし、それをそのままリメイクしているのだから仕方がないかもしれないが、トニーとマリアの恋愛感情が上滑り気味で、どこか稚拙さを感じてしまうのだ。愛に犠牲は付き物と言うが、身近な人が次々と犠牲になってもまだ彼らは愛を貫くのか…と。
キャスト陣は実力派揃いで申し分なかった。特に、アニータ役のアリアナ・デボーズは力強い歌声とダンスが大変魅力的だった。ブロードウェイではすでに主演経験もあり、実力は折り紙付きである。
また、本作にはオリジナル版でアニータを演じたリタ・モレノが出演している。しかも、トニーの保護者という重要な役どころで、往年のファンにとっては感慨深いものがあるに違いない。
「光のほうへ」(2010デンマーク)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) アルコール依存症の母親に代わって赤ん坊の面倒を見る幼い2人の兄弟がいた。しかし不幸にも赤ん坊は死んでしまい、兄ニックは心に深い傷を負う。それから数十年後、彼は刑務所の出入りを繰り返していた。一方、兄と疎遠になっていた弟も麻薬に溺れ、そのせいで最愛の息子との暮らしを危険にさらしてしまう。
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(レビュー) 過去のトラウマを引きずって生きる兄弟の葛藤をシリアスに綴ったヒューマンドラマ。育児放棄や薬物中毒、DVといった問題が出てくる中々骨太な作品である。
ニックと弟は、幼い頃に赤ん坊を放置して死なせてしまったことから心に深い傷を負っている。ニックは恋人と別れて刑務所に服役している。刑期を終え出所すると、元恋人の弟イヴァンに誘われる形で再び更生の道を閉ざしてしまう。
一方の弟は妻を亡くして幼い息子と暮らしているが、こちらも過去のトラウマからドラッグに溺れ、仕事もなく薬物ディーラーにまで落ちぶれている。
映画は過去の幸せそうだった風景から一転、赤ん坊の死で幕開けする。その後は成長した兄弟の日常を交互にスケッチしながら二人の絆の再生をじっくりと描いて見せている。
観てて非常に重苦しい作品である。しかし、ラストに訪れるかすかな希望にはホッと安堵させられた。このラストを導くためにこれまでのドラマがあったのか、と考えると鑑賞感も決して悪くはない。
監督、脚本はトマス・ヴィンダーベア。
ヴィンダーベアは、同郷のラース・V・トリアーと共に「ドグマ95」を共同で設立した作家である。ドグマ95は、照明の不使用、手持ちカメラによる撮影、オールロケ等の決まりごとがあり、デンマークの独立系映画界に強い影響を与えた一派である。ただ、現在ではトリアーは規則に捕らわれない映画作りをしており、もはやその存在は形骸化してしまった感がある。とはいえ、既存の商業映画と一線を画した撮影、演出を原則としたそのスタイルは今でも様々な映画作家に受け継がれている。もちろんヴンダーベアもその一人である。
本作では照明を使用しない、手持ちカメラによる撮影というスタイルが貫かれており、かつてのドグマ95の作風を彷彿とさせる作りになっている。
最も印象的だったのは、兄弟が刑務所で再会するシーンだった。中庭を挟んでお互いに鉄格子越しに声にならないコミュニケーションを取ろうとする。何年も会ってないのにこんな偶然の再会などあるのか?と思うものの、神様が授けた粋な計らいと考えれば中々味わい深いシチュエーションだ。
また、ラストも印象に残った。オープニングをラストで反復させる構成の妙に痺れた。
「光」(2017日)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 東京の離島、美浜島。中学生の信之は同級生の美花と付き合っていた。父親から虐待を受けていた小学生の輔は信之を慕い、いつも彼の後をついていた。ある日、信之は美花が男に犯されているのを目撃し衝動的に男を殺してしまう。その後、島は津波に襲われ全てが流されてしまった。それから25年後、東京で夫々の人生を歩んでいた3人は数奇な再会を果たす。
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(レビュー) 過去の殺人事件を巡って繰り広げられる3人の男女の愛憎を異様な雰囲気を交えながら描いたヒューマン・サスペンス。
三浦しをんの原作を
「さよなら渓谷」(2013日)、
「ぼっちゃん」(2012日)、
「まほろ駅前多田便利兼」(2011日)、
「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(2009日)の大森立嗣が映像化した作品である。
非常に陰鬱で凄惨なドラマであるが、要所に寓話的なイメージ映像が入り込むため不思議な鑑賞感を残す映画である。正直シビアさを求めると少し興を削がれる向きがあるが、これもまた大森監督が考えるエンタテインメント志向なのだろう。
まず、アバンタイトルの美浜島のシーンから物語は劇的な展開で始まる。地方の村社会特有の土着的な匂いと言えばいいだろうか…。ダークな雰囲気を醸し出しており、1970年代のATG映画を観ている自分からすると何となく懐かしい匂いが感じられた。
ただし、ここで起きる殺人現場の描写、大地震によって起こる津波の描写は完全にリアリティを失する演出で余り感心しなかった。あまりにも簡素で味気ない。
その後、時代は一気に25年後に飛ぶ。ここから物語の視座は信之の妻に切り替わり展開されていく。先述の殺人事件に関わった3人の少年少女はどのように成長しているのか。あの事件とどう向き合っているのか。そのあたりの所がミステリアスに紐解かれていく。
そこから分かってくるのは、津波によってかき消されたはずの25年前の殺人事件は未だに3人の人生に重くのしかかっているという事実だ。
信之は社会的には成功しているが、心のどこかであの事件のことを引きづっている。輔は社会的に落ちぶれ果て、かつて兄のように慕っていた信之に未だに依存してる。美花は芸能界で華々しい成功を収めるが、常に自分の本当の顔が暴露されるのではないかと疑心暗鬼に駆られている。
この3人の関係で面白いと思ったのは、信之と輔の、ある種ホモセクシャルな愛憎劇である。過去の殺人事件が無かったかのように幸せな家庭を築いている信之を見て、輔が嫉妬と憎悪を抱くのは当然であろう。しかし、その一方で輔の信之対する依存体質は幼い頃からまったく変わっておらず、どこかで愛情も抱いている。この両者の微妙な関係は実にスリリングで面白く観れた。
しかして、終盤では凄惨な展開になっていくのだが、これには実にやるせない思いにさせられた。ここまで徹底してネガティヴに人間の心の”闇”を照射した所に凄みが感じられた。
大森監督の作品は、いわゆる明快なエンタメとは一線を画したダークな作風が多い。時々「まほろ駅前」シリーズのような一般大衆向きな作品を撮ることもあるが、根本には今作のような反商業主義的な作家性を持っているのだろう。好き嫌いがはっきり分かれる作家かもしれないが、今の邦画界では貴重な存在だとも言える。
キャストでは、輔を演じた瑛太の熱演が印象に残った。独特で個性的な笑い方に、彼なりの創意が感じられた。
音楽に関しては中々ユニークだと思った。テクノビートを要所でかけながら、作品の寓話性を一層引き上げているような印象を持った。但し、音量が大きすぎるのが難である。セリフは小声が多いため音楽が耳障りに感じられたのは残念である。
「光」(2017日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 美佐子は目が不自由な人のための音声ガイドを製作する仕事をしている。ある日、弱視の天才カメラマン中森と出会い、彼の不躾で遠慮のない物言いに反発を覚えた。ところが、彼が撮った夕日の写真を見て今までに感じたことがない感動を覚える。以来、美佐子は中森と交流を育みながら次第に惹かれていくようになる。
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(レビュー) 映画の音声ガイドの仕事をしている女性と視力を失いつつある元カメラマンのロマンスを感動的に描いた作品。
監督、脚本は河瀨直美。カンヌ国際映画祭の常連にして、審査委員も務めたこともある女流監督である。長編監督デビュー作である「萌の朱雀」(1997日)がカンヌに注目され、
「殯(もがり)の森」(2007日)で見事にグランプリに輝いた経歴を持っており、正にカンヌの申し子のような存在である。尚、本作もカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出された。
中々ユニークな設定のドラマだと思った。ヒロイン美佐子は目が見えない人のための音声ガイドのシナリオを書いている。まだまだ仕事を始めたばかりで上手くいかない。その現場を描く一連の描写は実に興味深く観ることができた。と同時に、その苦労もよく分かった。画面の情報をどこまでシナリオに書き込むかは、受け取り方の問題もあるので非常に難しいと思う。説明不足でも困るし、逆に説明過多でも観客の想像力を奪ってしまう。このギリギリのラインを見極めるのがこの仕事の大変な所だ。
これは映画監督の仕事にも言えることだと思う。映画監督とは常に、描くべきか描かざるべきか、その葛藤の中で作品を撮っているものだ。観客それぞれの感動のポイントが異なので、その線引きは非常に難しい。つまり、それが「演出」ということになると思う。
おそらく河瀨監督自身も、常にその狭間で格闘しながら映画を撮っているのではないだろうか。そう考えると、本作の美佐子というキャラクターに彼女の創作者として自己投影があったのではないかと興味深く推察できる。
物語は美佐子が視力を失いかけているカメラマン中森と出会うことで展開される。二人ともそれぞれに仕事に悩みを抱える者同士、交流を育みながらお互いに成長していく。美佐子は弱視の中森の『目』になっていくことで弱視者の立場を知り、それを仕事にフィードバックさせる。一方の中村も美佐子の献身的な愛に支えられながら、カメラマンとして再生していく。実に美しい愛のドラマである。
本作のもう一つのポイントは、美佐子の認知症の母親の存在である。この母子は少し複雑な関係にあり、決して良好な間柄とは言えない。そんな母のことを、美佐子は中森が撮った一枚の写真を通して受け入れていくようになる。
全体的にそつなく作られており、非常に完成度の高い作品になっている。もはやベテラン監督の領域に入っていると言ってもいいが、その鋭い人間観察眼に裏打ちされた確かな演出力には唸らされるばかりだ。
キャストでは、河瀨監督の前作
「あん」(2015米)に引き続き出演の永瀬正敏が素晴らしかった。弱視者という難役を繊細に演じており見事である。
「ゴーストバスターズ/アフターライフ」(2020米)
ジャンルホラー・ジャンルコメディ・ジャンルアクション
(あらすじ) 亡き祖父が遺した古びた屋敷に引っ越してきた少女フィービー。地下室に謎の研究室を発見した彼女はそこで祖父の知られざる過去に触れる。実は祖父は今から40年前に活躍した”ゴーストバスターズ”の一員だった。フィービーは祖父の死と町で頻発する地震の原因に関係があることを知り、人類存亡の危機に立ち向かっていく。
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(レビュー) 1980年代に大旋風を巻き起こしたホラーコメディ「ゴーストバスターズ」(1984米)の続編。シリーズ通算では第4作目となる。
第1作から実に約40年ぶりとなる本作は、オリジナル版にオマージュを捧げつつ、かつてのメンバーの孫を中心とした”新生ゴーストバスターズ”の活躍を描いている。
本作単体でも楽しめるが、あらかじめ第1作を観てから鑑賞すると色々な発見があってより楽しめると思う。往年のファンには感涙必至な場面も用意されている。
尚、2016年にシリーズのリブート化を目して製作された第3作(未見)はメインキャストを全て女性に一新した意欲作だったが、公開されるや賛否両論を巻き起こし、その1作だけで終了してしまった。本作は第3作とはまったく無関係の話となっている。
監督、脚本は
「JUNO/ジュノ」(2007米)、
「マイレージ、マイライフ」(2009米)、
「ヤング≒アダルト」(2011米)のジェイソン・ライトマン。第1作を監督したのは父親であるアイヴァン・ライトマンということで、奇しくもシリーズのバトンを父から渡された格好となった。
これまではヒューマン系の作品を多く撮ってきたジェイソンなので、こうしたエンタテインメントに振りきった企画はどうだろう?と心配したのだが、そんな心配は無用だった。かなり奮闘している。
家族ドラマ風な前半はやや退屈するものの、ゴースト退治に奔走する後半から画面は一気に派手になり面白さも加速していく。各所に忍ばされた第1作に対するオマージュも絶妙な塩梅で配されており、新しくシリーズに入ったファンにも、かつてのファンにも楽しく観れる娯楽作品に仕上がっている。
例えば、「ゴーストバスターズ」と言えば巨大なマシュマロのお化け”マシュマロマン”が有名である。その愛らしいルックスからシリーズのアイコンと化していったが、そのマシュマロマンが本作にも登場してくる。しかも、今度はミニサイズになって大暴れする。
もちろん、あの有名なテーマソングや、あの秘密兵器も当然登場してくる。
こう書くとまるで本作はオリジナル版におんぶに抱っこの作品のように聞こえるかもしれないが、少年少女たちで編成された新生ゴーストバスターズのメンバーも中々に魅力的だった。
フィービーは祖父の血を受け継ぐ物理学オタクな少女。彼女のクラスメイトのポッドキャストはオカルトマニアのお調子者。兄のトレヴァーは背伸びしたい年頃の純情少年。そのガールフレンド、ラッキーはサバサバした性格な今時の少女。明確に個性化された若者たちが集う。
脚本に関しては所々の粗さが惜しまれた。例えば、あるドラマが起きている時に別の場所で起こっているはずのドラマが放置されがちである。これは編集の問題でもあるのだが、こうなってしまうと映画は散漫な印象になってしまう。
面白そうな設定が用意されている割に上手く活かされていない個所もあった。例えば、ラッキーの父親が警官という設定は、後に何かの伏線になっているのかと思いきや、そういうわけでもない。オスカー俳優J・K・シモンズも一体何のために出てきたのかよく分からず困惑してしまった。
活気にあふれた後半の映像やオリジナル版に対するオマージュ等、見所の尽きない作品であることは間違いないが、脚本の練り込みを含め、もう少し良くなる余地があったのではないかと思う。
とはいえ、かつての作品を観てきた者からすると、クライマックスの展開には自然と涙腺が緩んでしまうし、何より40年という時を経てこうして新作が作られたことは率直に喜びたい。
ホラー映画のマスターピース「ハロウィン」(1978米)も約40年ぶりに続編が製作されたばかりである。しかもオリジナルキャストを擁しての続編ということで、昨今こうした原点回帰の波がハリウッドに来ているのかもしれない。
「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」(2021米)
ジャンルコメディ・ジャンルサスペンス・ジャンルロマンス
(あらすじ) アメリカの新聞社のフランス支社が発行する雑誌「フレンチ・ディスパッチ」は、名物編集長アーサーが率いる一癖も二癖もある記者たちが書くバラエティに富んだ記事で世界中に愛されていた。ところが、アーサーが急死してしまう。彼の遺言によって雑誌は廃刊となり、アーサーの追悼号にして最終号が発行されることになる。
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(レビュー) 人気雑誌の編集者たちの日常と、彼らが執筆した原稿を劇中劇という形で再現したオムニバス形式のコメディムービー。
監督、脚本は独特の映像世界でファンを魅了するW・アンダーソン。
整然と構成された構図と幾何学的なカメラワーク、ポップでパステル調な色彩設計、飄々とした表情の人物たち、シュールでシニカルな事象。正にW・アンダーソンにしか作りだせない世界観が構築されている。
物語は「フレンチ・ディスパッチ」の編集部に集う人々の日常を起点に、彼らが書く原稿を再現した劇中劇で構成されている。編集部のシーンは軽めの描写に終始し、本作のメインとなるのは再現ドラマの方である。
序盤に紹介される自転車のレポートをプロローグとして、全部で3つのエピソードが登場してくる。
1話目は、殺人罪で収監された画家と美術商、絵のモデルとなった女性看守の物語である。いわゆる現代アートとは何ぞや?という皮肉が込められているような物語で、そこをW・アンダーソンが持ち前のアーティスティックな感性で描いている所が面白い。モノクロとカラーを使い分けた映像も刺激的である。
2話目は、学生運動のリーダーと彼に恋する女性活動家、それを取材する記者の愛憎渦巻く関係を描いたロマンス劇である。記者の実体験という形で書かれる逸話だが、明らかに”五月革命”を想起させるあたりが興味深い。W・アンダーソンは当時の闘争を茶化すかのように軽妙に描きながら、革命は所詮「夢」に過ぎなかったということをメルヘンチックに描いている。
また、当時のフランス映画界と言えばヌーベルヴァーグである。これまでW・アンダーソン作品でそれを意識したことはなかったが、今回のこのエピソードにはそれが強く感じられた。例えば、バスタブに入って煙草を咥えながらメモを書く活動家リーダーは、ジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」(1965仏)のジャン=ポール・ベルモンドを連想させた。あるいは、彼に恋する女性活動家のコケティッシュな造形などはゴダールのミューズ、アンナ・カリーナにどことなく雰囲気が似ている。
3話目は、美食家の警察署長とお抱えシェフが誘拐騒動に巻き込まれるアクション・コメディとなっている。本来であれば凄惨になってもおかしくない話だが、ユーモラスなアニメーションを交えながら屈託なく描いており、これまた唯一無二な快作となっている。
特に、クライマックスとなるカーチェイス・シーンは、過去にも
「グランド・ブタペスト・ホテル」(2013英独)で似たようなことをやっており、氏のサイレント映画に対する敬愛が感じられた。
それぞれの話には関連性がなく完全に独立しているため、映画全体を通してのテーマやメッセージと言ったものは感じられない。そのため確かに物足りなさも残るが、軽い気持ちで観る分には十分に楽しめるエンタテインメントに仕上がっている。ヒューマン、ロマンス、コメディ、サスペンス、アクション。様々な要素をまんべんなく盛り込んでいるので、上映時間約100分という短さながら意外に濃密な映画体験をすることが出来た。画面の情報量の多さも特筆すべきで、2度、3度観て楽しめる映画ではないだろうか。
キャスト陣も豪華で見応えがあった。ベニチオ・デル・トロ、レア・セデゥ、F・マクドーマンド、T・スウィントン、エイドリアン・ブロディ、T・シャラメ、ジェフリー・ライト、B・マーレイ、O・ウィルソン、クリストフ・ヴァルツ、M・アマルリック、W・デフォー、シアーシャ・ローナン、E・ノートン等々。主演級の俳優がこぞって参加している。中にはほとんど端役という扱いで実に勿体ない人もいるが、意外な所で登場してくるのでそれを見つけるのも楽しかろう。
「バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ」(2021米)
ジャンルホラー・ジャンルアクション
(あらすじ) アメリカ中西部の街ラクーンシティにある製薬会社アンブレラ社で何らかの流出事故が発生した。ラクーンシティ出身のクレアは、兄クリスを訪ねて5年ぶりに帰郷する。その最中、人肉を求めてさまよう凶暴なゾンビと化した住民たちに遭遇する。
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(レビュー) 世界的にヒットしたホラーゲーム「バイオハザード」を実写映画化した作品。
ミラ・ジョヴォヴィッチ主演で映画化したシリーズもあったが、あちらは映画独自のストーリーで展開する、ある種二次創作的な内容だった。シリーズの1作目こそ原作の世界観に沿った作りだったが、続編が製作されるたびにアクション性とSFの要素が強まり原作からかけ離れて行った印象がある。それに比べると本作は原作ゲームにかなり準拠した内容となっている。具体的にはゲーム版の「1」と「2」を抱き合わせたような物語になっている。
監督、脚本は
「海底47m」(2017米)をスマッシュヒットさせたヨハネス・ロバーツ。彼自身、原作のゲームをこよなく愛しているということで、元々が持っている不気味でダークなトーンがうまく反映されていると思った。実際にゲーム画面と比較してみても、中々の再現度で、ロバーツ監督の映像に対するこだわりが感じられる。
ただ、2つのストーリーラインを1本のストーリーにまとめようとした結果、散漫な印象になった感は拭えない。クリスが特殊部隊の仲間とゾンビで埋め尽くされた洋館を探索するシークエンスと、クレアが警察署でゾンビの襲撃を受けるシークエンス。この二つを同時並行で描いている。当然クライマックスではこの二つが結びつくわけであるが、大きく盛り上がるまでには至っていない。原作を忠実に再現しようとした結果、夫々の物語が持つパワーが半減してしまったという印象である。
また、映像に対する再現度が高い一方、キャストについては原作との乖離がより強調されてしまった感じがする。このあたりはミラ版のキャスティングと比較すれば一目瞭然である。どちらにもゲームに登場するキャラクターが登場してくるが、再現度ということで言えば明らかにミラ版の方がクオリティは高い。
もっとも、本作は薄暗い場面でのアクションシーンが多いので、この違和感は観て行くうちに段々と慣れて行ったが…。
尚、エンディングで続編を匂わすようなおまけが付いている。おそらく製作会社であるコンスタンティン・フィルムは同社製作のミラ版「バイオハザード」の興行的な成功を鑑み、今回もリブート版という形でシリーズ化を狙っているのだろう。すべては数字次第だが、果たして?