1年の総決算、恒例の俺デミー賞を発表をしたいと思います。
一昨年はパンデミックの影響で余り映画館に行けず、この俺デミー賞もベスト10を敢えてつけませんでしたが、今回は久々にベスト10の発表と個別賞の発表をしたいと思います。
とはいっても、昨年も前半は余り映画館に行けず、トータルで26本の鑑賞に留まってしまいました。後半から少しずつ足を運べるようになったとはいえ、結果的には少し名残惜しい1年となってしまいました。
尚、本家アカデミー賞は色々なハプニングがありながらも無事開催され、
「コーダ あいのうた」(2021米仏カナダ)が作品賞、脚色賞、助演男優賞を受賞。
「DUNE 砂の惑星」(2021米)が最多6部門受賞。そして日本映画としては久しぶりに
「ドライブ・マイ・カー」(2021日)が国際長編映画賞を受賞しました。日本人としては嬉しい限りです。
1.異端の鳥
2.ファーザー
3.プロミシング・ヤング・ウーマン
4.由宇子の天秤
5.ドライブ・マイ・カー
6.MONOS 猿と呼ばれし者たち
7.ライトハウス
8.ミナリ
9.ノマドランド
10.アイダよ、何処へ?
作品賞 「異端の鳥」
監督賞 ヴァーツラフ・マルホウル(「異端の鳥」)
脚本賞 クリストファー・ハンプトン、フロリアン・ゼレール(「ファーザー」)
主演男優賞 アンソニー・ホプキンス(「ファーザー」)
主演女優賞 フランシス・マクドーマンド(「ノマドランド」)
ジャンル俺アカデミー賞
「ボーイフレンド」(1971英)
ジャンル音楽・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1920年代のイギリスの場末の劇場。雑用ばかりさせられている引っ込み思案なポリーは、主演女優が怪我をして公演に出られないため代役で出演することになる。戸惑いながらもステージに立つポリーだったが、そこにはハリウッドの一流監督が見学に来ていて…。
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(レビュー) バックステージの雑用係の女性が夢と希望を求めて奮闘する姿を軽快な音楽とダンスで綴ったミュージカル映画。
監督、脚本は鬼才ケン・ラッセル。キッチュなアールデコ調のメイクと衣装、絢爛豪華な舞台美術等。独特な見世物小屋観が浩々と画面に展開されており、まさしくケン・ラッセルにしか作りだせないミュージカル劇になっている。
ただ、巨大なレコード盤のセット上の群舞など、華やかりしMGM的ミュージカルを意識したような演出も散見される。本来のケン・ラッセルらしい毒々しさはかなり薄みで、そういう意味では他の作品に比べると随分と取っつきやすくなっている。
一方、物語自体はステージ上の演目と舞台裏を交互に描くリアルタイムドラマで、存外シンプルである。女優志望のポリーの奮闘を、周囲の人間模様を絡めながら描くというバックステージの物語は適度にユーモアを交えながら肩の力を抜いて観ることができた。
しかし、見所はやはりステージ上でのパフォーマンスとなろう。
メイン所のキャストはイギリスの舞台で活躍している俳優も含まれているそうなので、歌もダンスも見応えとしては十分である。特に、背の高いタップダンサーのパフォーマンスが印象に残った。
ポリー役はモデル出身のツィッギー。本作が映画初主演ということで、どうなるかと思ったが中々どうして、健闘している。さすがに周囲の舞台俳優陣と比較してしまうと厳しいものがあるが、逆に新人女優らしい初々しさがあって良かったと思う。
ただ、60年代後半の彼女のスチールなどを見ると、本作よりもずっと若々しく魅力的に撮られている。時代の流れもあるので仕方ないかもしれないが、それらと比べると本作の彼女は少し老けてるように見えた。本来の魅力を引き出せなかったことは少し悔やまれる。
尚、本作は劇場公開時は110分だったが、その後135分の完全版がリリースされた。今回は完全版での鑑賞である。
「アメリカン・ユートピア」(2020米)
ジャンル音楽・ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) デヴィッド・バーンのブロードウェイのショー『アメリカン・ユートピア』を収めたライブ映画。
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(レビュー) デヴィッド・バーンについてそれほど詳しく知っているわけではないが、彼が在籍していたバンド、トーキング・ヘッズのライブ映画「ストップ・メイキング・センス」(1984米)は観たことがある。その時の彼はまだ30代前半で、独特のダンスを踊りながら軽快な歌声を披露していた。それから40年近く経ち、60代になった彼は今でも精力的にソロ活動を行っている。そんな彼が2018年に発表したアルバムが「アメリカン・ユートピア」である。本作は、それを元にしたブロードウェイのショーである。
純粋にライブ・パフォーマンスのみに迫った構成で、小細工を一切排したことでパフォーマンスの熱量がダイレクトに伝わってきた。正統派なライブ映画という感じである。
監督は
「ブラック・クランズマン」(2018米)、
「ジャングル・フィーバー」(1991米)等のスパイク・リー。主に社会派的な作品を撮る黒人監督だが、そんな彼が白人であるデヴィッド・バーンと組んで本作を製作したことは意外である。
ただ、実際に映画を観てみると、なるほどと思えるところはある。実はスパイク・リーが好みそうなメッセージがあちこちから見て取れるのだ。
例えば、ステージ終盤でジャネール・モネイの「Hell You Talmbout」が歌われるが、この曲ではこれまで警官に殺害された黒人たちの名前が連呼される。スパイク・リーはこれをプロテストソングと言っており、おそらくこの辺りに強く惹かれるものがあったのかもしれない。
圧倒的なパフォーマンス、それ自体は実に楽しく観れるのだが、終盤に行くにつれてこうしたメッセージ性が浮かび上がってくるあたりは実にしたたかである。デヴィッド・バーン自身も本作をただのエンタメとして上演しているわけではないとハッキリと証言している。
もちろんエンタメとしても十分に完成された作品になっているので、デヴィッド・バーンのファンならずとも楽しめるだろう。生のブロードウェイの迫力には及ばないかもしれないが、それに近い体験はできるのではないかと思う。
本作は新型コロナが猛威を振る以前に撮影された作品である。したがって、マスクをしていない観客が楽しそうに歌って踊る様子が映し出されている。本来のライブとはこうあるべきなのだが、残念ながら今もってコロナは収束する気配はない。こうした日常が早く戻ってきて欲しいものである。
「愛の嵐」(1973伊米)
ジャンルロマンス・ジャンルエロティック
(あらすじ) 1957年のウィーン。ナチスのSS隊としてユダヤ人を迫害したマックスは、現在はホテルのフロント係として働いていた。そこにかつて肉体関係を強要したユダヤ少女ルチアが客としてやって来る。彼女は今では高名な指揮者の妻となっていた。
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(レビュー) 性愛に溺れた男女の末路を退廃的な雰囲気で綴ったエロティック・ロマンス。
物語は現在と過去を交錯させながら静かに進行する。とりとめもないメロドラマと言えるが、ルチアを演じたS・ランプリングの体を張った熱演が素晴らしく、彼女のおかげで最後まで面白く観ることができた。
特に印象深かったのは、ランプリングが上半身裸にサスペンダーのズボンを履いた格好で歌い踊るシーンである。ナチスの将校の視線に晒されながら堂々とした振る舞いを見せるその姿は、迫害されたユダヤ人のささやかなる”抵抗”に見えた。と同時に、ランプリングのあばら骨が浮くほどのスレンダーな体型に哀れさも覚える。何とも言えない残酷さと隠微さが漂うデカダンな雰囲気が本作を象徴している。
ランプリングは映画公開時には27歳という年齢だった。この年齢でこの妖艶さと少女時代の儚さを自然に演じ分けていることに驚かされる。正に本作は彼女なしに語れない作品と言って良いだろう。
終盤にかけてマックスとルチアの関係は徐々に破滅の一途をたどっていくようになるのだが、そこで見せるランプリングの空虚な表情も悲しみに溢れていて素晴らしかった。
この頃になると、おそらくルチアの中には人としての感情と言ったものはほとんど無くなっていたのかもしれない。マックスに対する愛だけが彼女を生かしている。そんな気がした。
そして、本人たちにとってこのラストが本望だったかどうかは分からないが、少なくともどこかでこうなることを気付いていたのではないか…という気もしてしまう。
そもそもマックスにとってルチアは最愛の女性であると同時に、元SSだった自分の立場を危うくする”生き証人”でもある。元来、愛してはいけない女性だったのだが、それでも彼はルチアに対する想いを捨てきれなかった。愛してはいけない女性を愛してしまったのだから、どういう末路を辿るかは承知していたことだろう。したがって、このラストは当然の帰結という感じがした。
尚、この映画を観終わって
wikiを調べてみたところ、映画を観ただけでは気付かなかった解説があったので、興味があればぜひ読んでみて欲しい。まさかマックスがイタリア現代史を体現したキャラだったとは思いもよらなかった。
一見するとソフトポルノを売りにした作品という見方ができるが、かなり政治的な暗喩も込められているようである。
「希望の灯り」(2018独)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 内気な青年クリスティアンは、深夜の巨大スーパーマーケットで在庫管理担当のバイトを始める。そこで彼は菓子部門で働く年上の女性マリオンに出会い惹かれていく。
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(レビュー) 深夜のスーパーマーケットを舞台にした青春恋愛映画。
内向的で寡黙な青年クリスティアンと彼の周囲に集う人々の悲喜こもごもと、別部署で働く訳あり女性マリオンとの恋模様がオフビートなタッチで描かれる。
時代設定が東西ドイツ統一直後というのが本作の妙味のように思う。舞台となるスーパーマーケットは旧東ドイツの郊外に位置し、まだ共産主義時代の名残を残している。無機質で広大な倉庫で黙々と働く従業員の姿はどこか全体主義的なイメージを連想させる。その一方で倉庫の中は大量の商品で溢れていて、統一直後の資本主義社会の流入を思わせる。まずはこの舞台特異な設定が秀逸だと思った。
そこにやって来るのが主人公クリスティアンである。寡黙で朴訥とした風貌とは裏腹に身体中にタトゥーが施されており、何か曰く付きの過去を持っていそうである。それは後半で明らかにされるが、このキャラクターギャップが物語の吸引力に一役買っている。
彼以外の周囲の人々も夫々に魅力的に造形されている。
クリスティアンの上司ブルーノはぶっきらぼうだが心根は優しい中年男。別の部門で働くマリオンはどこか愁いを帯びたクールな中年女性。こうしたサブキャラとの交友を育みながらクリスティアンの物語は展開されていく。
中でも、マリオンとの間にかすかに芽生える恋心は微笑ましく観れた。お互いに掴みどころのないキャラクターなので、どこかスリリングな関係に見えてくる。相手の過去を探り合いながら徐々に距離を縮めていく過程が丁寧に綴られていて中々味わい深かった。
また、ブルーノとの関係は終盤で”ある事態”が発生することで急展開を迎える。そこには東西統一後の人々の苦悩や葛藤が透けて見え、実に切なく感じられた。
監督は初見の新進監督である。抑制された演出は中々堂に入っていて、オフビートなトーンでユーモアを創出するあたりはA・カリウスマキ作品が連想させられた。クリスティアンが寡黙でポーカーフェイスを貫くキャラなので、一層そう感じるのかもしれない。
ただ、序盤の方でクリスティアンたちが職場の教習ビデオを見せられるのだが、その内容がスプラッタ映画顔負けのゴア表現が連発し少し驚かされた。このブラックユーモアは、この監督独特のものなのか?次作以降を観てみないと何とも言えない。
また、本作はほとんどがスーパーマーケットの館内で展開されるのだが、それを飽きなく見せ切った撮影監督の手腕も特筆に値する。クリスティアンたちが棚に陳列された商品を検品する様子を幾何学的構図で捉えたり、倉庫の中をアイスショーよろしく縦横無尽に移動するフォークリフトを流麗に捉えたり、限られた空間を実に多彩に捉えており感心させられた。
「THE BATMAN-ザ・バットマン-」(2021米)
ジャンルサスペンス・ジャンルSF
(あらすじ) 両親を殺された孤独な青年ブルース・ウェインは、腐敗したゴッサム・シティを浄化すべく“バットマン”として自警活動に当たっていた。ある日、権力者を狙った連続殺人事件が発生する。バットマンはゴッサム・シティ警察のジェームズ・ゴードン刑事に協力し、一緒に捜査を進めていくのだが…。
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(レビュー) DCコミックの「バットマン」をダーク且つハードボイルドなタッチで映像化した作品。
ティム・バートン版、クリストファー・ノーラン版等、これまで何度も映像化されてきたが、これほどダークで陰鬱なトーンが徹底された「バットマン」は無かったのではないだろうか。
今作のブルース・ウェインはひたすら内省的である。遺された大邸宅に引きこもりながら、両親を殺害された復讐だけを生きがいに、夜な夜な街に出て悪人たちを成敗して回っている。戦う意味を自問自動するヒーローは、これまでに無かったわけではないが、ここまで悶々と内に閉じこもる主人公もそうそうない。
今回のヴィラン、リドラーは、そんなバットマンの心の弱さに付け込み挑戦状を叩きつけてくる。権力者を次々と殺害しながら、バットマンに”世界はウソにまみれている…”といったメッセージカードを残して彼の正義を惑わしていくのだ。ブルースは自分の正義がこのウソの上に成り立っている”欺瞞”であることをやがて知っていくことになるのだが、その心情を察すると実に気の毒に思えた。
クリストファー・ノーランの
「ダークナイト」(2008米)では、バットマンは宿敵ジョーカーの策に陥り自らの戦いに疑問を感じながら、やがて予想だにしない結末へと向かっていった。それと今回の話は似ている部分があると思った。
リドラーもジョーカー同様、バットマンに心理的な圧迫をかけて正義の脆さ、危うさを啓蒙する。信じていた正義はいとも簡単に裏切られ、一体何を信じていいのか分からないこの状況。自分がしていることは本当に正解なのか?単なる自己満足に過ぎないのではないか?そんな葛藤がバットマンの戦う姿には常に付きまとう。
相手が肉体的な暴力で向かってくるのであれば容易に対応もできようが、リドラーは中々尻尾を出さない上に、バットマン=ブルースの生い立ちや家庭事情のことを知り尽くしており、心理戦でジワジワと追い詰めてくる。これはジョーカー以上に質が悪い。
このように今回のヴィランのキャラクタリゼーションは大変特異であるため、映画の作りもアクションで見せるというよりも、ミステリー仕立てで引っ張っていく構成になっている。そして、これこそが本作の最大のチャームポイントとなっている。例えるなら探偵小説を読むような、そんな感覚で楽しめる作品だと言える。
物語もかなり綿密に構成されていて感心させられた。原作でもお馴染みのキャラクター、ペンギンやキャットウーマンも登場して物語は複雑に展開されていくが、夫々のピースが有機的に結びついていくあたりが中々心憎い。それをバットマンは、リドラーが残した一つ一つのメッセージを頼りに解き明かしていくわけだが、この語り口は正に探偵小説のソレである。そこにグイグイと引き込まれた。
監督は名作「猿の惑星」(1968米)の前日弾となる新・三部作を見事に完結させたマット・リーヴス。新・三部作でもマット・リーヴスは猿たちの英雄シーザーの戦いを通して、種族の繁栄と没落、融和と対立を重厚的に描いて見せた経歴を持っている。単なるアクション映画を超えた神話的深みを持ったサーガに仕立てた手腕は見事であり、その素養は本作でも確認できる。氏は本作では脚本も共同で手掛けており、勧善懲悪なヒーロー映画という枠組みを超えて、善と悪の相克という普遍的なドラマを紡ごうとしているように感じられた。
ビジュアル面では特にこれといった際立った特徴は見られないが、とにかくダークな世界観を地道に突き詰めるという志向が伺えた。雨が降り注ぐ薄暗い夜が延々と続き、ブルースの悲しみを表しているかのようだった。
アクション的な大きな見せ場は、中盤のカーチェイスシーンとクライマックスの銃撃戦である。特に中盤のカーチェイスの迫力に圧倒された。
一方で、観てて気になったことが1点だけある。幾つかのシーンで同じシチュエーションが反復されるのだが、それが悉く同じ撮り方で変化に乏しいことが残念だった。
例えば、バットマンとゴードン警部補が密会するのは決まってビルの屋上なのだが、これらのシーンは常に同じ構図、同じ方向からの撮影で物足りなく感じた。後で分かったが、実はこの屋上のシーンはロケーションを利用せず全てセットで撮影されたということである。
あるいは、ブルースは事件に関係するナイトクラブに何度か訪れるのだが、その際のガードマンとのやり取りも冗漫である。ここは省略しても良かったように思った。
本作は3時間弱という大作である。確かに長すぎるという意見もあろうが、こうした所をカットしていけば更に引き締まった映画になったかもしれない。
とはいえ、この長尺が退屈かと言えばそういうわけではなく、このサスペンスフルな語り口は従来のアクション優位なヒーロー映画と一線を画しており、個人的には新鮮に楽しむことが出来た。間違いなく今回の「バットマン」はこれまでになかった意欲作のように思う。
「ザ・スイッチ」(2020米)
ジャンルホラー・ジャンルコメディ
(あらすじ) 地味で冴えない女子高生ミリーは、凶悪な殺人鬼“ブッチャー”に襲われる。一命をとりとめるも、翌朝目が覚めると心が入れ替わっていた。ブッチャーの体になった自分を見て驚くミリー。一方でミリーの体に入ったブッチャーは、学園に侵入して次なる獲物を狙う。
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(レビュー) 殺人鬼と心が入れ替わってしまった女子高生の奔走をスピーディーな展開で描いたコメディ・ホラー。
「君の名は。」(2016日)や「転校生」(1982日)等、これまでも心と肉体が入れ替わる男女逆転の映画は色々とあったが、本作もそれらと同じ系譜に入る作品である。
そもそもこの手の入れ替わりコメディは古くからあるプロットで、それこそシェイクスピアの時代から存在する。SFやファンタジーの要素を用いることで、昨今このひな形は更に華やかさを増してきているが、基本的にこの手のプロットは今でも全然通用する魅力的なものである。
本作では、曰く付きの呪われし短剣によってミリーとブッチャーの心が入れ替わってしまう。入れ替わる当事者のギャップが大きければ大きいほどこの手のストーリーは面白くなるのだが、そこを今回は地味で平凡な女子高生と凶悪な連続殺人鬼にすることで面白く見せている。
監督、脚本を務めたクリストファー・ランドンの演出も冴えわたっている。一部ゴア表現もあるので観る人を選ぶが、基本的には軽妙な作りに徹しており終始楽しく観ることができた。やっていることは
「ハッピー・デス・デイ」(2017米)と
「ハッピー・デス・デイ2U」(2019米)と同じ殺人鬼との鬼ごっこで余り変わり映えはしないのだが、安定した面白さを堪能できる。
そんな中、ミリーの心を持ったブッチャーと彼女の母親が試着室で語らうシーンは印象に残った。試着室なので当然お互いの姿は見えない。声だけで会話をするのだが、母親は相手がミリーとは知らず、一方のミリーは相手が母親だと知っている。ここでミリーふんするブッチャーとミリーの母親がイイ感じになって笑ってしまうのだが、一方で亡き夫との思い出、ミリーに対する愛などが語られ幾ばくかセンチメンタルに演出されている。シチュエーションの巧みさも相まって中々の名シーンになっているのではないだろうか。
また、昨今何かと話題のジェンダー問題をさりげない形で忍ばせているのも中々周到である。男女の性差、体力差という如何ともしがたい現実がミリーとブッチャーの戦いの中で表現されている。
もう一つ、本作の貢献者として挙げたいのが、ブッチャーを演じたヴィンス・ヴォーンである。彼の好演なくして本作は成り立たなかっただろう。見た目は凶悪な殺人鬼の大男、中身は女子高生。この複雑なキャラクターを実に楽しそうに演じている。乙女走りがツボにはまって何度も笑ってしまった。
本作で惜しいと思ったのは二点ある。
一点目はミリーの姉の扱いである。内気で落ちこぼれなミリーと違って彼女は優秀でクールな警官である。その対比自体は良いのだが、これが物語の中で上手く活かされておらず勿体なく感じた。警官という設定も今一つ機能していない。
もう一つは、そもそも事の発端となった”曰く付きの短剣”の扱いである。劇中ではそれらしく説明されていたが、なんだかアッサリと片付けられてしまった印象である。この辺りをサスペンスフルに物語に絡められたら、本作は更に面白くなったように思う。
「ハッピー・デス・デイ 2U」(2019米)
ジャンルホラー
(あらすじ) ようやく恐怖のループから抜け出すことができたツリーだったが、今度はカーターのルームメイト、ライアンが死のタイムループに巻き込まれてしまう。そこにはライアンが研究している謎の実験装置が関係していた。ツリーとカーターはライアンを救出しようとするのだが…。
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(レビュー) 全米でスマッシュヒットを飛ばしたホラー映画
「ハッピー・デス・デイ」(2017米)の続編。
監督・脚本は第1作と同じクリストファー・ランドンが務めている。
今度はヒロインの恋人カーターのルームメイト、ライアンが死のタイムループに巻き込まれてしまう。ただ、前作と全く同じでは芸がないと思ったのか、今度はそこにパラレルワールドの要素を持ち込み、二転三転する物語を組み立てている。
もっとも、パラレルワールドのアイディア自体は隠し味的な使用に終始し、最終的には前作同様、ベビー・マスクの殺人鬼との追いかけっこで盛り上げられておりマンネリ感は否めない。どうせやるのであれば、D・ヴィルヌーヴ監督の
「複製された男」(2013カナダスペイン)くらい徹底してくれればよかったが、あそこまで複雑になってしまうと観る方も頭が混乱してしまうか。
前作ではタイムループの原因に釈然としないものを感じたが、今回はそこを明らかにしている点は良かったと思う。とはいっても、かなり安易な気がして面白みに欠けるのが難点だが…。
この手のお気楽エンタメ作品にSF的な考証など求めてはいないが、ラストで再び言及されているので、せめて何らかの”それらしい”説明は欲しかった気がする。
全体的には二番煎じな感がしてしまうのはアイディアの枯渇と言って良いだろう。そもそも一発ネタ的な所があるので、それも致し方なし。
ただ、前作にはない面白みは確実にある作品だと思う。
その一つは、ツリーの葛藤である。今の世界に留まるか、別の世界へ行くのか?あちらを取ればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、というジレンマに彼女は思い悩まされる。前作にないウェット感も感じられ、この葛藤には見応えを感じた。
尚、今回のオチを見る限り、ひょっとしたら製作サイドは第3作の構想でもあるのかもしれない。
ツリーやカーター、ライアンといったメンバーの息の合ったチームプレイが楽しく描けていたので、第3弾があればぜひそのあたりのドタバタ劇を見てみたいものである。
「ハッピー・デス・デイ」(2017米)
ジャンルホラー
(あらすじ) 高飛車でビッチな女子大生ツリーは誕生日の夜にベビー・マスクをかぶった何者かに殺されてしまう。ところがそれは夢だった。目を覚ますと再び誕生日に戻っていてツリーは同じ日を何度も繰り返すようになっていく。
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(レビュー) いわゆるタイムループ物だが、最後にどんでん返しが用意されていて面白く観れる作品だった。ホラー映画であるが、そこまで残酷な描写もないのでライト層でも十分に楽しめると思う。
自分は本作を観てビル・マーレイが主演した「恋はデジャ・ブ」(1993米)を連想した。劇中にもセリフとして登場してくるので、製作サイドはある程度確信犯的に狙ってやっていると思うが、こういうループ物は如何にして主人公がそこから抜け出すか?そのアイディアとラストの爽快感が大切だと思う。
ツリーはシミュレーション・ゲームよろしくリセット→チャレンジを繰り返しながら、犯人に殺されないルートを模索する。しかし、相手はどこに逃げても追いかけてきて結局殺されてしまう。そうこうしながら、彼女は犯人に繋がる手がかりを探り当ていく。ここから彼女の反撃と相成るのだが、二転三転する展開が待ち受けていて中々面白かった。
監督は新鋭のクリストファー・ランドン。名作ドラマ「大草原の小さな家」の主演兼プロデューサーを務めたマイケル・ランドンの次男である。これまでは脚本家として活躍しており、例えば「パラノーマル・アクティビティ」シリーズや、以前このブログでも紹介した
「ディスタービア」(2007米)等のシナリオを手掛けている。いずれも設定のユニークさが際立つシチュエーションスリラーで、この手のジャンル映画の中ではよくできた作品だった。
本作ではユーモアを交えながら繰り返される日常を飽きなく見せており、脚本の構成力、演出の力量は中々の物だと感じた。二転三転するクライマックスも予想外で面白かった。
ただ、どうしてタイムループするのか?その理由付けが今一つ説得力に欠けるのは残念だった。SF映画ではないのでそこは軽くスルーすればいいのだが、気になる人には気になるだろう。自分は少し釈然としないものが残った。
製作は
「ゲット・アウト」(2017米)や「インシディアス」シリーズ、「パージ」シリーズ、「パラノーマル・アクティビティ」シリーズ等、昨今のホラー映画界を牽引する名プロデューサー、ジェイソン・ブラム。活きの良い新人監督を起用しながらホラージャンルに新風を吹き込む手腕はここ最近冴えわたっている。本作も全米でスマッシュヒットを記録し続編が製作された。
「さがす」(2021日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 大阪の下町で父の智と2人暮らしをしている中学生の楓。ある日、智が300万円の報奨金が出る指名手配中の連続殺人犯を見つけたと言った後、そのまま姿を消してしまう。警察に相談するも相手にされず、たった一人で智を探し始める楓。やがて日雇い現場に父の名を見つけるが、そこにいたのは父の名を騙る別人だった。
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(レビュー) 失踪した父を捜索する少女が、やがて恐ろしい真実に辿り着いていく衝撃のクライム・サスペンス。
物語は前半と後半でざっくりと切り分けることが出来る。
楓の捜索を描く前半は、正直な所、割とコメディライクな演出があり、今一つ本腰を入れて観るという所までいかなかった。
ただ、後半から物語の視点は楓から失踪した父・智に切り替わり、時間軸も過去に遡って彼の失踪後の足取りがサスペンスフルに解き明かされていく。ここから画面にグイグイと引き込まれ、結果的に最後まで面白く観ることが出来た。
実はこの映画、オープニングからして奇妙な始まり方をするのだが、この場面を含め前半のストーリーは全て後半の伏線になっていたことに気付かされる。まずは、この巧みな構成に唸らされた。
また、今回の事件の裏側からは、ネット社会の闇、格差社会の弊害、介護ケアの限界といった問題が透けて見えてくる。ある種ジャンル映画でありながら、そのカテゴリーに収まらない、社会派的なテーマを扱った所に見応えを感じた。作品に奥行きがあり鑑賞後に色々と考えさせられた。
監督、脚本は
「岬の兄妹」(2017日)で鮮烈な長編監督デビューを果たした片山慎三。前作は社会から疎外されながら生きる障碍者兄妹の悲惨な日常を描いたインディペンデント作品だった。好き嫌いがはっきりと分かれる問題作だったが、その彼が本作で本格的に商業映画デビューを果たしている。
前作ほどのインパクトはないものの、人間の業や社会の病巣に迫ったところは前作同様、野心的である。商業映画だからといって作風をマイルドに収めるのではなく、描きたいテーマをとことん追求した所に氏の作家性が感じられた。おそらくこの作家的資質は、自身が助監督を務めたポン・ジュノや山下敦弘といった映画作家から強い影響を受けているのだろう。
演出は粗削りだった前作よりも洗練されており、進化の一途をたどっているという印象を持った。
例えば、序盤で楓が万引きをした智を迎えにスーパーに駆け付けるシーン。監視カメラの画面を巧みに使いながらさりげなく表現して見せるあたりは中々スマートだ。
あるいは、智の尋ね人のチラシを剥がすと、その下に連続殺人犯の指名手配のポスターが現れる、といった演出も中々心憎い。
ラストのロングテイクも見せどころを分かっているという感じで引き込まれた。
一方で、前作「岬の兄妹」の学校のシーンのように、明らかにギャグとして演出しているようなシーンも散見される。
例えば、自殺願望者ムクドリが中々死ねないというのは、シリアスな場面を壊すような破壊力に満ちているし、連続殺人犯の青年を保護した島の老人のキャラクター造形、並びにその顛末はほとんど悪ノリに近いユーモアが感じられた。ある種ブラックなテイストと言えるのだが、このあたりはポン・ジュノ監督譲りかもしれない。
加えて今回は抒情性を漂わせた演出もわずかに見られる。楓と智の父娘の情愛もさることながら、個人的には智とムクドリの関係にそれを強く感じた。特に、トイレで智がムクドリに服を着せてやるシーンには思わず涙腺が緩んでしまった。なぜなら、その手前で描かれた智と妻の関係性が、このシーンに重なって見えてしまったからである。これは作劇の上手さも奏功しているよう思う。
一方、唯一本作で不満に思ったのは楓と母親の関係である。劇中に楓と母親が絡む描写は一切なく、果たして母の死を楓がどう受け止めたのかよく分からない。おそらくひどく悲しんだのだろうが、具体的な描写がないため、その心中は推し量るしかない。ドラマの根幹を成す一つだと思うので、ここはぜひ描いて欲しかった気がする。
ともかくも、このように片山監督の演出は更に洗練されており、それによって作品の重厚感も前作より数段増しているという印象を持った。確かに万人受けする映画とは言い難い。しかし、今後の氏の活躍がますます期待できそうなクオリティの高い作品であることは間違いない。