「アマンダと僕」(2018仏)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) パリのアパートで住み込みとして働く青年ダヴィッドは、ひょんなことから知り合ったレナと恋に落ち幸せな日々を送る。そんなある日、仲の良かった姉が無差別テロに巻き込まれて亡くなってしまう。悲しみに暮れるダヴィッドだったが、一人遺された7歳の姪アマンダを引き取ることになり…。
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(レビュー) 無差別テロで母を亡くした少女を引き取ることになった青年の葛藤を静謐に描いたヒューマンドラマ。
多民族が共存するアメリカやヨーロッパ、中東アジアでは、こうしたテロ事件は、おそらく身近なものとして捉えられるのだろう。今回の事件も移民によるテロだった。日常生活の中で突然起こる可能性もあり、これは本当に恐ろしいことだと思う。安穏と暮らしている我々日本人には想像しにくいかもしれないが、過去にはサリン事件も起こったわけで、決して他人事ではないような気がする。
ただ、本作では無差別テロ事件の背景については詳しく語られていない。おそらくここを深く突っ込んで描けば社会派作品としての重厚さが出たであろうが、この監督は敢えてそこを軽くスルーすることで、誰にでも起こりうる普遍的なドラマに仕立てている。
演出は非常に淡々としておりミニマルに徹している。地味な印象だが丁寧な作りが好印象で、ダヴィッドとアマンダの微妙な距離感が中々上手く描けていると思った。悲しみを乗り越えて徐々に再生の道を歩もうとする二人の絆が感動的に観れた。
一方、ダヴィッドとレナの関係についてはメインのドラマとは別口で語られており、サイドストーリー的な扱いになっている。こちらも今回のテロ事件に大いに関係するもので、ある意味では事件の副産物、もう一つの悲劇という捉え方もできる。事件の大きさを如実に表したエピソードで、安易に幸せが訪れない所がリアルに感じられた。
本作で唯一不満に思ったのは、ダヴィッドと母親の関係に迫りきれなかった点である。実はこの母子は長年にわたって疎遠であり、その原因が不鮮明で観てて余り関心が持てなかった。おそらくここにも何らかのバックストーリーが隠されているのだろうが、想像できるほどの背景描写がないため、結果的に中途半端なものに感じられてしまった。姉とアマンダ親子の絆の喪失というメインのドラマを味わい深くするための”補完役”として成立させる方法もあったと思うのだが、そこまでの深みに至っていないのが惜しまれる。
「フルートベール駅で」(2018米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 2008年12月31日、オスカーは恋人ソフィーナと幼い娘タチアナに囲まれながら幸せな朝を迎える。前科もある彼だが、根は優しい青年だった。今度こそ良き夫、良き父親になろうと心に誓うオスカーだったが…。
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(レビュー) 黒人青年が白人警官に射殺された事件、”オスカー・グラント三世射殺事件”を元にした実録映画。
自分は本作を観るまで、この事件のことをまったく知らなかった。ただ、アメリカで黒人が警官から暴行を受けるという事件は、これまでにも何度かニュースなどを見て知っている。例えば、1992年に起こったロサンゼルス暴動などは大きく報じられたと記憶している。黒人に対する差別意識が強いアメリカでは、こうした事件は今でも後を絶たないのである。
映画は、事件現場を撮影した記録映像から始まる。サンフランシスコにあるフルートベール駅で複数の黒人青年が白人警官に取り囲まれて殴る蹴るの暴行を受けている映像はかなり衝撃的だ。そして、突然鳴り響く発砲音で映像はブラックアウトする。おそらく電車に乗っていた一般人が携帯電話で撮影した動画だろう。その生々しい映像に、作り手側の本作にかける強い覚悟みたいなものが感じられた。
その後、物語は時間をさかのぼり、事件が起こった日の朝から始まる。殺された青年オスカーの一日を追う日常描写は、後の事件のことを考えると実に尊いものに映る。恋人と娘との温もりに満ちたやり取り。母親の誕生日に駆け付けて楽しいひと時を過ごす一家だんらんの光景。何気ない日常風景だが、その中からオスカーのキャラクターも巧みに醸造されている。
オスカーはかつてマリファナの売人をしていて刑務所に入っていた過去がある。しかし、出所後は愛する家族のために更生の道を歩もうと決心する。困っている人を見ると助けてやる良心の持ち主でもある。そんな彼が理不尽な死を遂げたことを考えると、実にやるせない思いに駆られる。
監督、脚本は本作が長編デビューとなるライアン・クーグラ。オスカーを演じるのはマイケル・B・ジョーダン。この二人は本作をきっかけにして、後に
「クリード チャンプを継ぐ男」(2015米)で大ヒットを放つことになる。更にマーベルスタジオに招かれて「ブラックパンサー」(2018米)も製作することになった。そう考えると、本作は彼らにとって記念碑的作品と言えるだろう。
ライアン監督の演出は実に軽快で初監督作とは思えぬ手腕を見せている。特に、オスカーと娘の幸福な一場面を、今わの際で挿入する演出には自然と涙があふれてしまった。終始オスカーの視座で展開される本作において、それは彼が最後に観た走馬灯のようなものなのだろう。
ただ、一つ疑問に思ったのは、今回の脚本を書くにあたって、どこまで真実性が徹底されているのかという点である。これは実話の映画化の際、常に付きまとう疑問だが、それが本作にも若干感じられた。wikiによれば、ライアン監督は関係者から話を聞いて書き上げたらしいが、映画を観る限り幾つかのエピソードで創作と思しきものが見受けられる。
例えば、オスカーが車にひかれた野良犬を看取るシーン。これは後の自身の運命を暗示しているかのようなエピソードなのだが、実際にこのようなことが本当にあったのだろうか?現場を目撃した第三者がいるならまだしも、そうした人物もいないようである。やや作りすぎな感じは否めない。
もちろん映画はエンタテインメントの素養もあってしかるべきなので、多少の脚色はあっても良いと思う。ただ、もしこれが創作だとしたら少しやりすぎという感じがしてしまった。
マイケル・B・ジョーダンの造形は素晴らしかった。善良さと不良性を併せ持った難役を見事に体現している。
また、オスカーの母親を演じたオクタヴィア・スペンサーの巧演も見逃せない。すでに大ベテランの域に達しているだけあってさすがの貫禄を見せている。特に、終盤の堂々とした演技は大きな見せ場である。
「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」(2017米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルスポーツ
(あらすじ) トーニャ・ハーディングは幼い頃から、母ラヴォナの元でスケート選手になるべく毎日厳しい練習をさせられていた。やがてその才能が開花すると、瞬く間に世間の注目の的となっていく。そしてジェフという青年に出会い恋に落ちるのだが…。
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(レビュー) オリンピックにも出場したことがあるフィギュアスケーター、トーニャ・ハーディングの半生を綴った伝記映画。
彼女は1994年のリレハンメル・オリンピックに出場する際、当時ライバルだったナンシー・ケリガンに対して妨害工作をしたという事で起訴され、世界的に大きなニュースになった。その真相に迫る内容は興味深く観れた。
また、それ以外に母親との確執、夫ジェフからのDV行為といったプライベートな問題も赤裸々に描かれている。誤解を恐れずに言うなら、ある種ゴシップネタ的な楽しみ方ができる作品だと思う。
ただ、一つ気になったのは、果たしてこの映画で描かれていることはどこまで真実なのだろうか?という点である。普通この手の伝記映画の場合、たいてい関係者の手記や原作小説が存在するものだが、本作にはそうした元となる素材がクレジットされていない。おそらくだが、関係者の証言などを元にストーリーを作っていったのだろうが、その検証はどこまで徹底されているのだろうか。ある程度娯楽としての面白さが上積みされているような気もしたが…。
実際、映画を観てみると予想以上にユーモラスな味付けが施されている。トーニャのバックストーリーは悲惨極まりなく、件の妨害工作も大変陰惨な事件だが、そうしたシリアスさを感じさせないくらいに周囲の関係者は能天気だ。
監督は
「ラースと、その彼女」(2007米)のクレイグ・ギルスピー。「ラースと~」はリアルドールを恋人だと思い込んだ青年をユーモラスに描いた作品だったが、本作でもそのタッチは継承されている。毒のあるドラマをコミカルに仕上げることで大変取っつきやすい作品に仕上げている。軽快な演出とポップな映像センスは「ラースと~」の頃に比べると随分と垢抜けた印象を持った。
また、モキュメンタリー風に登場キャラのインタビューシーンを挿入するのも中々凝った構成で面白かった。ただ、これも本人でない以上、どこまで信用して観ていいのかは判断しかねる所である。
キャストでは、トーニャを演じたマーゴット・ロビーの熱演が素晴らしかった。後から知ったが、彼女は元々アイスホッケーの経験があるらしく、本作でもその経験を活かして華麗なスケーティングを披露している。もちろんCGや吹替えでカバーしている部分もあろうが、それを差し引いても見事な身体能力の高さを発揮していて感心させられた。
中でも、オリンピックの大舞台に立つ直前、鏡の前で泣きながら無理やり笑顔を作るシーンは印象に残った。これまでの道のりを思い出して感極まったのか、それとも夢にまで見た舞台を前にして感情が高ぶったのか。その真意は色々と想像できるが、自分は何だかその笑顔を見てとても憐れに感じた。
「ストックホルム・ケース」(2018カナダスウェーデン)
ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 1973年、スウェーデンの首都ストックホルム。何をやっても上手くいかないラースは銀行強盗を決行する。幼い娘を持つ行員のビアンカら3人を人質に取って立てこもり、警察との交渉で旧知の仲間であるグンナーを刑務所から釈放させることに成功するが…。
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(レビュー) 実際に起こった銀行襲撃事件をユーモアを交えて描いた実録クライムサスペンス。
人質がいつしか犯罪者にシンパシーを覚えていくようになる”ストックホルム症候群”は、今回の事件から来ているということである。
実際はどうだったのか分からないが、かなりユーモア色が強い作品である。この手の作品と言えば真っ先にシドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演の「狼たちの午後」(1975米)が思い出されるが、それと比べてみると随分と安穏とした雰囲気で、銀行強盗の緊迫感は薄みである。それはひとえに主人公ラースのキャラクターからくる”緩さ”であろう。事実はどうだったのか?そこが少し気になってしまった。
もっともエンタテインメントとして割り切って観れば中々楽しめる作品である。ワンシチュエーションで展開されるドラマ、上映時間約90分というコンパクトさは大変観やすい。この手の事件に付き物の警察権力やマスコミに対する皮肉も適度に盛り込まれていて風刺性も感じられた。
そして、本作最大の見所となるのが強盗犯のラースと銀行員ビアンカの交流である。粋がって銀行に押し入ったものの、相棒のグンナーがいなければ何もできない半人前なラース。平凡で退屈な夫にどこか満たされないでいるビアンカ。二人は今回の立てこもり事件をきっかけに次第に惹かれあっていく。その過程が殺伐としたシチュエーションにほのぼのとした味わいをもたらしている。
ただ、ラースの少しドジで情けないキャラにビアンカが自然と心を許してしまうのは分かるのだが、果たしてそれが恋愛感情までに発展するのは流石にどうだろうか?映画を観る限り、説得力という点で今一つ弱い気がする。夫々のバックストーリーに深く踏み込めていないせいで安易に思えてしまった。
キャストでは、ビアンカを演じたノオミ・ラパスの地味な出で立ちが新鮮だった。漫画みたいな大きな丸メガネは時代性を考えるとアリだろう。役柄という点でも、この造形は説得力を与えていると思った。
また、グンナー役を演じたマーク・ストロングは珍しく長髪姿を披露している。
「キングスマン」(2014米)等のイメージが強すぎてどうしてもスキンヘッドのイメージが強いのだが、今回の意外な風貌は新鮮であった。
「リムジン LIMOUSINE」(2016スペイン)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 人気女優アマンダは映画賞の授賞式に出席するために豪華なリムジンに乗って会場へ向かった。ところが、突然ドアがロックされて見知らぬ土地に連れていかれてしまう。リムジンに監禁されたアマンダは、不気味な声の主に淫らな行為を強要される。
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(レビュー) リムジンに監禁された女優の恐怖を緊張感みなぎるタッチで描いたシチュエーション・スリラー。
リムジンという限定された空間。主要人物が3人。80分弱というランタイム。低予算な映画であることは間違いないが、その制限を逆手にとったミニマルな語りが奏功し中々面白く観れる作品だった。
言ってしまえば、逆恨みを受けたセレブの受難という物語で、特に捻りもなく犯人の正体も容易に想像できてしまうのだが、本作の面白さはそこだけではないような気がする。最大のチャームポイントは、アマンダを演じた女優が一人二役で犯人役も演じているという点にあるように思う。
様々な顔を演じ分ける女優という職業を、ある種シニカルに具現化したのが、この一人二役というキャスティングにあるのではないだろうか。
華やかな舞台で活躍するアマンダ。彼女の影で泥水を飲まされた犯人。これは正に女優という職業の”明”と”暗”を示唆している。同じ外見をした二人が立場を分け隔てた原因は、ちょっとしたタイミング、偶然の積み重ね、人脈やスポンサーといったところにある。そう捉えると、この物語は残酷なショウビズ界を実に皮肉的に描いていると言える。
監督、脚本は本作が長編デビューの新鋭らしい。取り立てて目立った作家性は感じられないが、リムジンの内装を独特の色彩感覚で見せた映像センスは中々のものである。
難を言えば、ラストにもう少し余韻が欲しかったか…。割とアッサリと終わってしまったのが勿体なかった。
尚、本作を観て、D・クローネンバーグ監督の
「コズモポリス」(2012仏カナダ)を連想した。実業家青年がリムジンに乗ったまま物語が展開される変わった構成の映画だったが、シチュエーションが本作とよく似ている。
「TITANE チタン」(2021仏ベルギー)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 幼い頃に交通事故で頭部を負傷し、頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれたアレクシアは、モーターショーのセクシーダンサーとして活躍していた。ある夜、彼女は言い寄ってきたファンの男を殺害してしまう。
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(レビュー) 車に異常な愛着を持つ女性が辿る戦慄のサスペンススリラー。
機械と人間の融合という意味では塚本晋也監督の「鉄男 TETSUO」(1989日)を連想させる。また、車をモティーフにした異常性愛という意味ではD・クローネンバーグの「クラッシュ」(1996カナダ)の要素も見受けられる。まるで意志を持ったかのように展示車がアレクシアを犯すシーンにはJ・カーペンターの「クリスティーン」(1983米)のような恐ろしさも感じられた。おそらく意図的な拝借ではないかと思うのだが、いずれにせよこの手のジャンル映画好きな自分にとっては、こうしたオマージュも含め、本作は中々楽しめる作品だった。
そして、ただのオマージュ映画に堕していないところも特筆すべき点である。物語後半から本作ならではのオリジナリティの要素が強く打ち出されていくことで、唯一無二の作品となっている。それは昨今の潮流とも言える多様性の肯定である。純粋にジャンル映画を楽しみたい人にとっては賛否あるかもしれないが、個人的にはそこに見応えを感じた。
監督、脚本は
「RAW 少女のめざめ」(2017仏ベルギー)で鮮烈なデビューを飾った新鋭ジュリア・デュクルノー。
序盤から急展開の連続でグイグイと惹きつけられた。どうしてこうなった?という疑問に対する答えがないまま話がどんどん進むので、人によってはこの時点で乗れない人もいるかもしれないが、個人的には先の展開の読めなさもあってかなりスリリングに観進めることが出来た。
また、要所のバイオレンス描写が痛々しく撮られているのもこの監督らしい。中には目を覆いたくなるようなシーンもあった。前作でも感じたことだが、明らかに監督の特異な性癖から来ているものと思われる。ゴア描写を売りにしたホラー映画とはまた違った生理的不快感が感じられた。
ただ、映画を観終わってみると、脚本全体の作りは前作「RAW」に比べるとやや粗いという感じがした。論理性に欠ける部分があり今一つスッキリとしない。
例えば、アレクシアがどうして殺人を犯すようになったのか?その経緯がまったく語られていない。ただのサイコパスと安易に片付けられない問題であり、そこは観る方としてはどうしても気になってしまう。
アレクシアが車に異常な愛着を持つに至った経緯も明確に説明されていない。おそらく幼少時代の自動車事故が原因でそうなったと思われるが、事故を起こす前から彼女はエンジン音を口ずさんでいた。だとすると、生来的なものなのかもしれない。これも今一つ判然としなかった。
父親との冷え切った関係の原因についても明確に描かれていないので想像するしかない。映画後半の展開を考えると、ひょっとしたら児童虐待的な行為が日常的に行われていた可能性も考えられる。
こうした不明瞭な点が幾つもあり、今回の脚本は個人的には余り感心しなかった。敢えてドラマに不条理性をもたらせるべくそうしている節も感じられるが、少なくとも普通の観客が観たらサッパリ分からないということになりそうである。
もっとも、後半に入ってくると徐々にドラマに芯が立ち始めていくので、そのあたりから大分理解しやすくなってくる。暴力性に溢れた前半からは想像もつかないような抒情性も見せつけ、このギャップには良い意味で期待を裏切られた。終盤にかけてテーマも上手く醸造していたと思う。
キャストではアレクシアを演じた女優のインパクトが際立っていた。前作「RAW」のヒロインもそうだったが、今回も演技経験のない新人というから驚きである。
「シン・ウルトラマン」(2022日)
ジャンルSF・ジャンル特撮・ジャンルアクション
(あらすじ) 巨大生物・禍威獣(カイジュウ)の出現に悩まされた日本政府は、禍威獣対策の専門チーム禍特対(カトクタイ)を設立。班長の田村を中心に神永、滝、船縁らが対応に当たっていた。ある日、禍威獣の危機がせまる中、空から銀色の巨人が現れて救われる。巨人の調査が始まる中、新たに禍特対に着任した分析官の浅見は神永とコンビを組むことになるのだが…。
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(レビュー) 現在もシリーズが続いている特撮ヒーロー「ウルトラマン」。その第1作目をリメイクしたSFアクション作品。
庵野秀明が総監修、脚本を担当し、樋口真嗣が監督を務めた作品である。
オリジナル版から設定が色々変わっているが、基本的な物語は前作を踏襲した形で展開されいている。人によっては賛否あるかもしれないが、個人的にはオリジナル版に対するリスペクトが感じられたので特に違和感は持たなかった。むしろ庵野秀明のウルトラマン愛が全開で、どこか愛おしさも覚えたくらいである。懐かしいBGMやSEにも心躍らされた。
ただ、内容を詰め込み過ぎたせいで、若干ドラマが弱くなってしまった感は否めない。ウルトラマンこと神永と禍特対メンバー、特に浅見との関係性は本ドラマの大きな見どころであるが、いかんせん次々と現れる禍威獣や外星人との戦いにストーリーが追われてしまい人物描写がなおざりになってしまった。肝心の神永(ウルトラマン)と浅見の関係を深く掘り下げることが出来ず、本来であればそこから生まれるはずの神永(ウルトラマン)の葛藤もクライマックスを盛り上げるまでに至っていない。
また、禍特対のメンバーは夫々に個性的に確立されていたが、果たして神永はどうだったか?と言うと、最速ウルトラマンに憑依されてしまうので掴み所のないキャラクターとなってしまった。彼らの間で果たして本当に同僚以上の仲間意識はあったのか?その絆が弱く感じられたのは残念である。
一方、映像的な見せ場には事欠かない作品だと思う。冒頭から驚かされる幕開けだったが、次々と登場する特撮シーンのオンパレードに自然と胸躍らされた。以後もウルトラマンと禍威獣の戦いは続き、そのどれもがオリジナル版を意識しつつ確実に現代風にアップグレードした迫力あるシーンになっている。
パースを強調した構図や物越しのショットなど、いわゆる”実相寺アングル”の多用は流石にどうかと思ったが、これもまた庵野氏のカラーだろう。彼が自主制作した「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令」でもそうだった。彼の実相寺昭雄監督に対する敬愛が感じられた。
ここまで書き連ねてみると、まるでオリジナル版を観ていなければ楽しめない作品のように思えるかもしれないが、決してそういうわけでもない。もちろん知っていれば色々とマニアックに楽しめる作品ではある。しかし、単純に巨大ヒーロー映画として十分に完成された作品になっているので、一見さんでも楽しめる作品になっていると思う。
尚、庵野秀明と樋口真嗣のコンビと言うと、どうしても
「シン・ゴジラ」(2016日)を連想してしまうが、作りからして完全に違うので比較するのはあまり意味がないような気がする。
「シン・ゴジラ」はゴジラ第1作を元にその概念を現代的に再解釈した映画だったのに対し、こちらはウルトラマンという概念をそのまま引き継いだ、昔ながらの勧善懲悪な物語である。言い方を変えれば、元の料理の美味しい所をかいつまんで創り上げたサービス精神旺盛な寄せ鍋風な味付けになっており、ストイックに素材の味を煮詰めていった「シン・ゴジラ」とはまったく異なる作品のように思う。
「クエシパン~私たちの時代」(2019カナダ)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) カナダのケベック州、先住民インヌ族の少女ミクアンとシャニスは幼い頃から一緒に育った親友同士。ミクアンはクラブで出会った白人男性フランシスと付き合い幸福な日々を送る。その一方で、シャニスは粗暴な夫グレッグと幼な子を抱えて辛い日々を送っていた。そんなある日、グレッグが暴力事件を起こして逮捕されてしまう。
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(レビュー) ケベックの先住民保留地で暮らす二人の少女の友情と成長を描いた青春映画。
カナダの先住民居留地を舞台にした映画というと、二人のシングルマザーが違法密入国に手を染める
「フローズン・リバー」(2008米)という作品が思い出される。白人から搾取されてきた先住民の歴史が垣間見れる骨太な社会派サスペンス映画だった。
本作にはそこまでの強い人種偏見は見られない。ミクアンたちは学校でも町のコミュニティでもあからさまな差別を受けていないし、何となく上手くやっている。とはいえ、この手の差別は中々消えることはないというのが実情だろう。表向きは白人との共同生活を円満に送っているように見えて、実は彼らの中には明らかに白人に対するコンプレックスが存在している。本作はそれを物語の端々で観る側に突きつけている。
ミクアンは大好きなフランシスと一緒にケベックの大学に進学することを約束する。しかし、彼女の両親はそれに反対する。インヌ族の娘が白人ばかりの都会で上手くやっていけるはずがない…と勝手に決めつけて娘の独立を認めないのだ。この年頃の子によくある都会への憧れ、それを阻害する親との対立というドラマ自体はありふれたものであるが、そこに人種問題を絡めたところが本作の妙味となっている。
ミクアンが高台に上って自分が住む保留地を眺めるシーンが印象に残った。「昔より小さくなった気がする」と吐露する彼女に成長の一途が感じられ感慨深く観れた。
もう一つ本作の見所と言えば、ミクアンとシャニスの友情である。映画は彼女たちの幼少時代から始まる十数年に渡る半生のドラマとなっている。その友情はクライマックスで大きな転換を迎えるのだが、これまでの二人の友情が反芻され切なく観れた。
本作で残念だったのはラストの締めくくり方である。ハッピーエンドにしようというのは決して悪いことではないが、余りにも唐突、且つメロウすぎて白けてしまった。そこに至る過程が説得力を持って描かれていれば納得できるのだが、そこを完全にすっ飛ばしてしまっているため素直に受け入れがたいものがある。
キャスト陣は実際にインヌ族の居留地に住んでいる人々でキャスティングされているということである。馴染みの俳優は一人も登場して来ないが、リアリティという点で言えばこのキャスティングは奏功している。
ミクアン役の女性も決して美人とは言えないが、そこがかえってこの物語に説得力をもたらしている。シャニス役の女性のパンキッシュな造形もキャラクターの生き様が反映されていて良かったと思う。
リアリティということで言えば、本作にはインヌ族の日常も生々しく再現されている。調べてみて分かったのだが、彼らはトナカイを狩猟して暮らしているということだ。台所でトナカイを当然のように解体するので驚いてしまったが、実際にこうしたことがあるのかもしれない。
「マンディンゴ」(1975米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 19世紀半ば、ルイジアナ州の農園主マクスウェルと息子ハモンドは黒人奴隷を従えて裕福な暮らしを送っていた。ある日、ハモンドは名門の娘ブランチと結婚する。しかし、彼女が処女でなかったために愛情を持てなくなり、代わりに彼は奴隷の黒人女を抱くようになる。
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(レビュー) 裕福な白人一家に起こる悲劇的運命を鮮烈なシーンを交えて描いた問題作。同名ベストセラーの映画化である。
黒人奴隷を家畜のように描いているということで、当時はかなり物議を醸したということだが、確かに今見ても衝撃的な映像が次々と出てきて驚かされる。ただ、今もって消えることのない黒人差別を考えれば、これは氷山の一角にすぎないのではないかという思いにもさせられた。それだけ黒人差別に関する問題は根深い。
物語はマクスウェル家の日常を中心にした華族のドラマとなっている。とはいっても、彼らは凋落真っただ中にあり、長男ハモンドは借金返済の肩代わりとして名門の娘ブランチと結婚させられる。ところが、これが更に一家に不幸をもたらすことになってしまう。ハモンドは黒人奴隷エレンと関係を持ち、それに嫉妬したブランチも当てつけと言わんばかりにハモンドが買い入れた逞しい黒人奴隷を誘惑し始める。
華族の崩壊というありふれた物語だが、先述したようにそこで行われる黒人に対する差別は凄惨極まりない。
例えば、マクスウェルに仕えるメイドは24人もの子供を出産させられている。そして、彼女が生んだ赤ん坊は新しい奴隷として育てられるのだ。黒人奴隷には人権などどこにもなく、彼らは家畜と一緒で幾世代にも渡って奴隷としての宿命を背負わされているのである。生まれてきた赤ん坊を『黒い虫』呼ばわりするのには流石に自分も引いてしまった。
他にも、黒人は臭いという理由で2週間も風呂に入れたままにされられたり、リウマチに悩まされるマクスウェルは病を移すために両足を黒人の子供の腹の上にのせたり、文字が読めるという理由で逆さづりで鞭を打たれたり等々。観てるだけで非常に辛いものがある。
そんな中、物語はハモンドの葛藤を軸に展開されていく。
彼は親が決めた結婚相手ブランチに愛情を持てず、衝動的に黒人奴隷エレンを抱いてしまう。初めはただの性のはけ口のつもりだったが、いつしかそれは本物の愛情へと変わっていく。そして、白人としてのアイデンティティー、父からのしかかるプレッシャーと格闘していくようになるのだ。
監督はR・フライシャー。「トラ!トラ!トラ!」(1970米日)や「ミクロの決死圏」(1966米)といったエンタテインメントを撮らせれば随一の職人監督であるが、その一方で本作のような社会に一石を投じる問題作も撮り上げる名匠だ。T・カーティスの怪演が印象的だった「絞殺魔」(1968米)も連続殺人鬼の内面に意欲的に迫った衝撃作だった。
尚、フライシャーは本作を表して「この映画をウェディングケーキのように美しくロマンチックに描きたかった。でも近寄ってよく見るとケーキは腐ってウジだらけなんだ。」と語ったそうである。このコメントから、彼は相当の皮肉を込めて本作を撮ったことがよく分かる。
本作は映画公開時のポスターもかなり物議をかもしたそうである。検索をすればすぐに出てくると思うが、明らかに「風と共に去りぬ」(1939米)のポスターのパロディである。フライシャーの「風と共に去りぬ」に対する批判がそこから読み取れる。
誰もが認める歴史的名作「風と共に去りぬ」だが、最近、意外な形で大きくクローズアップされたことは記憶に新しい。2020年に全米で起こった黒人抗議デモ運動をきっかけに一時配信停止に追い込まれてしまったのだ。要は、この映画は黒人奴隷の悲惨な実態を無視して白人に仕えることがさも当然であったかのように描いている…ということが問題視されたらしい。その後、劇中の描写について説明のテロップを出すことで公開が再開されることになった。
この事例が示すように、今もって黒人差別は現在進行形で続いている問題なのである。かつての名作がこうした形でやり玉に挙がってしまったことは何とも残念なことだが、その問題提起をフライシャーはこの「マンディンゴ」ですでにやっていたわけである。
製作はイタリアの重鎮ディノ・デ・ラウレンティス。大作からB級映画、センセーショナルな話題作まで、様々な作品を手掛けてきた名物プロデューサーである。初期時代こそフェリーニの「道」(1954伊)などの名作を手掛けていたが、後年になるほど「映画」=「興行」というスタンスで山師的なプロデュースに傾倒していった。その流れからすると、本作もある種見世物映画的なスタンスで捉えることが可能である。
それを最も強く感じるシーンば、後半の黒人奴隷同士を戦わせる格闘場の場面である。ここはドラマ的にはさほど重要というわけでもないのだが、必要以上に過激なバイオレンス描写にこだわって撮られている。
こうしたことから、一部の人々の間では、テーマに真摯に向き合っていないという意見が出ている。確かにそうした向きもなくはない。
「英雄の証明」(2021イラン仏)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 元看板職人のラヒムは、借金を返済できなかったために服役を余儀なくされた。ある日、恋人から金貨の入ったバッグを偶然拾ったと告げられる。一時休暇を得たラヒムは金貨を換金して借金の返済に充てようと考える。ところが、債権者からは全額返済以外は応じないと断られてしまう。思い改めたラヒムは換金を諦めてバッグを持ち主に返そうとするのだが…。
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(レビュー) 金貨が入ったバッグを持ち主に返したことで一躍時の人となった男の数奇な運命をサスペンスフルに描いたヒューマンドラマ。
監督、共同製作、脚本は
「彼女が消えた浜辺」(2009イラン)、
「別離」(2011イラン)、
「セールスマン」(2016イラン仏)のアスガー・ファルハディ。人間の欲望と悪心、イラン社会に根付く独特の秩序を巧み絡めながら展開される物語は今回も健在で、改めて氏の手腕に心酔してしまった。
ただし、今回はイランの法制度についての予備知識がないと少し分かりづらい内容かもしれない。主人公のラヒムは借金を返済できず債権者から訴えられて服役している。全額返済すればその罪は直ちに許されるらしいが、これは日本の法律では考えられないことであろう。
あるいは、服役囚のためのチャリティー団体が登場してくるが、これも日本では馴染みのないシステムではないだろうか。集められた寄付金は囚人たちのために使用することが可能なようである。
これまでにもファルハディはイラン社会に根付く独特の慣習や不文律をドラマの大きな要素として取り入れてきた。例えば、女性蔑視の歴史的な文化や、婚姻関係の司法上の複雑な問題等。我々からすると想像もつかないような規範と習性が、主人公たちの運命を翻弄していく。
今回ファルハディはイランの法制度や警察権力の闇、あるいはSNSが持つ社会的影響力といった所に着目し、それらをある種シニカルでナンセンスなユーモアとして描いて見せているような気がした。明らかにこれまでとは違った目付をしていて、自分はそこが新鮮に観れた。
それにしても、本作の主人公ラヒムは余りにも情けない男である。映画は彼の視座で進行するので、彼の境遇を同情的に見せているが、しかしよくよく考えてみると彼は小さな嘘をたくさんついているし、多くの人間を傷つけてきた。それらの罪に目もくれず、拾った金貨入りのバッグを持ち主に返したということだけを注目して善人のようになっていくこの状況は、どう見ても何かがおかしい。こういう状況を作ってしまったことの最大の原因は彼を祭り上げたマスコミや彼を利用した警察関係者にあることは間違いない。しかし、主体性がなく周囲に流されるがままになるラヒム自身にも原因があったのではないだろうか。彼は決して根っからの悪人というわけではない。しかし、決して善人というわけでもない。要は人が良すぎるのであろう。
中盤から、ラヒムを訴えた債権者が姿を見せるようになる。彼は借金を全額返済すれ罪を不問に付すと言っている。しかし、これも果たして本当だろうか?映画の中では描かれていないが、彼は裏でラヒムを陥れるような工作をしていた可能性は否定できない。ラヒムの再就職を邪魔したのは誰か?ということを考えれば、そう想像するしかない。
しかして、紆余曲折ありながら、二人の対立は深まっていくのだが、終盤で大きな事件が起こりラヒムの運命は決定的に暗転してしまう。こうなる前にどこかで歯止めがきかなかったのか…と考えてしまうが、やはりそれは無理だったのだろう。何しろラヒム自身が、至る所で選択ミスを犯してしまっているのだから…。すべては彼の心の弱さが生んだ結果なのだ。
ラストカットが印象深かった。この映像構図はラヒムの顛末を余りにも残酷に提示して見せている。観終わった後に色々と考えさせられた。
過去のファルハディ作品のセルフオマージュらしきものが散見できたことも、本作を観る上では楽しめた。
例えば、ラヒムの幼い息子が登場してドラマ上重要な役割を果たしているが、ファルハディ映画における子供の存在の大きさは「別離」や「セールスマン」を観るとよく分かる。子供は常に大人たちの醜い争いの犠牲となっている。本作も然りである。
また、本作ではバッグの持ち主を巡る謎解きドラマが挿話されるが、これなどは「彼女が消えた浜辺」のヒロインや「セールスマン」の”前住人”のごとく、終始ミステリアスである。”不在”が創り出すスリリングな作劇はファルハディ作品の魅力の一つだと思うが、そこに今回も引き込まれた。