「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」(2020米英)
ジャンルアクション・ジャンルサスペンス
(あらすじ) スペクターとの戦いの後、現役を退いたボンドはマドレーヌとイタリアで平和なひと時を過ごしていた。そこで過去と決別するため、かつて愛したヴェスパーの墓を訪れる。ところが、スペクターの罠により負傷してしまう。マドレーヌへの疑いを拭いきれない彼は彼女と決別した。5年後、ボンドの元に旧友であるCIAのフィリックスが訪れる。ロシア出身の細菌学者ヴァルドを救出して欲しいと依頼されるのだが…。
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(レビュー) ダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドの第5作にして最終作。これまでのシリーズを観てきた人にとっては正に大団円と言って良い終わり方となっている。長年続く本シリーズだが、ここまで完全にシリーズにケリをつけたのは初の試みではないだろうか。人によっては賛否あるかもしれないが、個人的には実に潔いと思った。
尚、本作を鑑賞する上で、前作の
「007/スペクター」(2015英米)と
「007/カジノ・ロワイヤル」(2006米)は観ておいた方が良いだろう。何の説明もないまま話は進んでいくので、未見の人は初っ端から置いてけぼりを食らいかねない。
今回も、序盤のカーチェイスに始まり、アクションとサスペンスの連続に飽きることなく最後まで楽しむことが出来た。ただ、上映時間2時間40分越えはさすがに長すぎるという感じがした。本来であればもう少し切り詰めてエンタテインメントとして気軽に楽しめる長さにできたように思う。
例えば、アナ・デ・アルマス演じる女性エージェントとボンドの共闘は、観てて大変興奮させられたが、ストーリー的にはさほど重要というわけではない。彼女のキャラクターがいなくても物語上さして問題になるようなことはなく、むしろいない方がテンポは良くなったように思う。
逆に、今回の適役であるラミ・マレック演じるリュートシファーの魅力が今一つ引き出しきれておらず、ボンドとの戦いも随分とアッサリとケリがついてしまったな…という印象を持った。
「ボヘミアン・ラプソディ」(2018英米)の大ブレイクからの大抜擢だと思うのだが、存在感という点で少し物足りなく感じた。物語の内容を詰め込み過ぎてしまったために割りを食ってしまったという印象である。
そもそも本作は新007の登場や毎度のMI5の御家騒動、マドレーヌの過去の因縁など、全体的にドラマが散漫である。この中で最も大きなドラマとなるのがマドレーヌの因縁だが、確かにそこについては上手く構成されていると思った。しかし、それ以外は、中途半端にされてしまった感じがする。
何はともあれ、クレイグ版ボンドはこれにて最後ということで、お疲れさまでしたと言いたい。当初は今一つピンとこないボンドだったが、観て行くうちに徐々に違和感なくなっていったボンドだった。個人的に、どうしても初代ジェームズ・ボンドのイメージが強いので仕方がないのだが、それでもこれまで演じてきた様々なボンドの中でも、クレイグ版ボンドは初代ボンドに次ぐハマリ役だったように思う。内容的にも
「007/スカイフォール」(2012英米)のような野心作もあり、充実したシリーズだった。
果たして次のボンドは誰が演じるのか、大変気になる所であるが、今後もこのシリーズは延々と続いていくのだろう。次の新シリーズを楽しみにしながら待ちたい。
「リコリス・ピザ」(2021米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 1973年、子役として活躍していた高校生のゲイリーは、ある日カメラアシスタントをしている年上の女性アラナと出会い一目惚れする。ゲイリーの強引さに閉口しながらも、次第に距離を縮めていくアラナ。そんな中、彼女はゲイリーの共演者の方に心が傾ていくようになる。
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(レビュー) 何とも微笑ましい青春ロマンス作品である。いわゆるボーイ・ミーツ・ガール物だが、それを1970年代の音楽とサブカルを織り交ぜながら描いたところに本作の妙味を感じる。ノスタルジックな風情を噛み締めながら、思春期だった頃の自分を重ねながら楽しく観ることが出来た。
1970年代のアメリカといえば、ベトナム戦争やニクソン・ショックで政治的には混迷の時代を迎えていた頃である。しかし、市井の人々の暮らしに目を向ければ現代に通じるポップカルチャーの基礎が創り上げられていった時代で、本作に登場するウォーターベッドやピンボールマシンなどは正にその象徴だろう。そんなポップでライトなテイストが本作全体のトーンにも通底されている。
監督、脚本、共同撮影を務めたポール・トーマス・アンダーソンも、ここ最近続いていたヘビーな作風を封印し、今回は初期時代を彷彿とさせるようなポップ志向に回帰している。昨今の円熟味を考えると、少し拍子抜けな感じもするが、ただデビュー時から天才と評されてきた彼の演出力はやはり堅牢で一つ一つのシーンに見応えを感じた。
例えば、長い会話劇を1カットの移動カメラで紡いだ冒頭のシーンからして唸らされる。あるいは、ガス欠になった大型トラックをバックで運転するシーンのスリリングさも臨場感が感じられ手に汗握った。その直後、まるでガキのように振る舞うゲイリーと、それを遠目に見るアラナの徒労と虚無の表情のギャップも忘れがたい。二人の決別を劇的に表していると思った。
物語もゲイリーとアラナのつかず離れずの微妙な距離感を、周囲の人間との関係を織り交ぜながら手堅く描いていると思った。
ただ、ウィリアム・ホールデンと思しきショーン・ペン演じるハリウッド俳優や、ブラッドリー・クーパー演じるバーブラ・ストライサンドの恋人など、イケイケで強烈な個性を放つサブキャラが少々クド過ぎて、正直自分はそこに余り乗れなかった。もう少し薄味で描いてくれたら、面白く受け入れられたかもしれない。
ラストの締めくくり方は◎。予定調和な感じもしたが、青春ロマンスの王道を行くような結末で個人的には大変気持ちよく映画を観終わることが出来た。
主演二人の演技も良かったと思う。ゲイリーを演じたクーパー・ホフマンはアンダーソン作品の常連だった故フィリップ・シーモア・ホフマンの息子ということである。父親譲りの冴えないキャラを上手く演じていたように思う。ジャック・ブラックから少しアクを抜いた好青年といった印象である。
アラナを演じたのは3人姉妹のバンドHAIMのアラナ・ハイム。絶世の美女というわけではないが、大変個性的な顔立ちをしており、画面上での存在感は抜群である。アンダーソン監督はHAIMのミュージックビデオを数本撮っているので、その流れから今回の抜擢となったのだろう。
二人とも映画初出演ということだが、演技云々以前にビジュアルがユニークなので個性派俳優として素養は十分に持っていると思った。
「フライト」(2012米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 機長のウィトカーが操縦する旅客機が突如制御不能に陥り、急降下を始める。もはや墜落は避けられないと思われた瞬間、ウィトカーは驚異的な操縦テクニックで機体を不時着させた。犠牲者を最小限にとどめて多くの命を救うことに成功した彼は一夜にしてヒーローとなるのだが…。
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(レビュー) ヒーローになったパイロットの苦悩と葛藤に迫ったヒューマン・ドラマ。
ウィトカーはパイロットの腕は優れているが、アルコール依存症なのが玉に瑕で、事故が起きた日にも酒を飲んでいた。多くの人命を救ったことでヒーローに祭り上げられるが、このことがマスコミにバレたらその名声は一気に地に落ちてしまう。果たして彼の運命やいかに?というのが本ドラマの見所である。
これはいわば人間の二面性について描いたドラマだと思う。誰しも表と裏の顔を持っていると思う。本当の自分を曝け出せれば一番いいのだが、中々そうできないのが人間である。周囲の家族や友達、自らの保身のために、時に人は自分に嘘をつきながら生きているのだ。
本作のウィトカーは正にその瀬戸際に立たされる。つまり、裏の顔、アル中である自分をひた隠しにして英雄を”演じる”ことになる。
物語はその葛藤を描くことをメインにしつつ、彼と別居中の家族との関係、航空会社組合が抱える問題、彼と馴染みのドラッグ中毒の女性のドラマ等が語られる。
正直、メインのドラマ以外については余り魅力的に思えず、2時間20分弱の上映時間が少し長く感じられてしまった。ウィトカーの葛藤に集中して作ればもっと濃密な映画にすることができたように思う。特にドラッグ中毒の女性のエピソードは、メインのドラマを盛り上げるのにそれほどうまく機能しているとは思えなかったのが残念である。
ただ、ウィトカーを演じたD・ワシントンの演技はやはり見応えがある。全編ほぼ彼が出ずっぱりな映画なため、彼の巧演が十分に堪能できる。特にクライマックスの公聴会での演技は白眉だった。
もう一つ面白かったのは、ジョン・グッドマン演じるドラッグディーラーの存在である。ウィトカーの悪友で、時に親身に世話を焼くのだが、これが中々の曲者である。これをグッドマンはコメディライクに造形にしており、陰鬱になりがちなドラマに一服の清涼剤のような役割をもたらしている。全体のシリアスさを壊しかねない演技ではあるかもしれないが、中々味のある演技を披露しており印象的だった。
監督はR・ゼメキス。もはやハリウッドにおける職人監督としては第一級の監督だと思う。最新テクノロジーに対する飽くなき追及はいかにもこの監督らしく、今回は序盤の旅客機の不時着シーンにかなりのVFX技術がつぎ込まれている。この迫力には驚かされるばかりだ。老いて益々健在という感じである。
「スナイパー・ストリート バグダッド狙撃指令」(2019イラクカタール)
ジャンル戦争・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 米軍占領下のイラク・バグダッド。ハイファ通りはアルカイダの残党による無差別な銃撃で荒廃していた。アーメッドは刑務所の拷問を密かに録画したビデオを持って、恋人をアメリカに連れて行こうとしていた。ところが彼女の家の前で狙撃兵サラームに銃撃されてしまう。
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(レビュー) 邦題だけを見るとアクション映画と勘違いされそうだが、実際には大変地味な作品である。
しかも、狙撃兵サラームの心情を解き明かすシナリオはやや舌っ足らずで、彼の目的や置かれている状況、周囲の人間関係が不明瞭なため大変難解な映画になってしまっている。ある程度、当時のバグダッドの状況を頭に入れてから観ることをお勧めする。最低限、アメリカ軍が介入したイラク紛争についての予備知識くらいは知っておいた方がいいだろう。
そんな地味で難解な映画であるが、演出自体は結構しっかりしていて見応えを感じた。
狙撃物の映画と言えば色々と思いつく。最近ではクリント・イーストウッド監督の
「アメリカン・スナイパー」(2015米)やトム・ベレンジャー主演の人気シリーズ「山猫は眠らない」、第2次世界大戦の独ソ戦を舞台にした「スターリングラード」(2000米独英アイルランド)等が思い浮かぶ。この手の作品は、緊張感みなぎるシチュエーション作りと監督の演出力。これが作品の出来を大きく左右すると言っても過言ではない。そういう意味では、本作は中々健闘していると言える。
顔にたかる蠅をまったく気にすることなく照準を定めるサラームのアップや、照準器越しにターゲット見据える一人称視点のカット、時折挿入されるヘリや銃撃戦といった臨場感をもたらす音の演出等。中々の緊張感を創り出している。
また、彼に銃撃をやめるように説得にやって来る女性キャラも、物語にアクセントをもたらすという意味では中々効果的である。一人は彼が恋焦がれている若い女性、もう一人は彼の組織のリーダーの妻と思しき女性である。彼女たちのやり取りは物語をうまく盛り上げていた。
更に、サラームが幻視する少年の姿は、全体のリアリズムを考えると少し浮いたトーンではあるものの、彼の哀愁を感じさせるという意味では実に上手い演出だと思った。おそらくその少年は彼の幼少時代の幻なのだろう。そこに彼の悲しき過去が色々と想像できる。
このようにスナイパー物としての緊張感は十分に堪能できるし、戦争の悲劇というのも真摯に発せられており、中々骨を持った作品となっている。
ただ、繰り返しになるが、サラームの心情や彼の置かれてる状況が分かりにくい面が多々あり、果たしてどれほどの観客がこの物語を完全に理解し得るだろうか…という疑問は残る。そこがもう少しクリアになれば中々の好編になっていたのではないかと惜しまれる。
「拳銃王」(1950米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 西部一の早撃ちガンマンと噂されるリンゴは常に命を狙われていた。ある日、酒場で自分を撃とうとした若者を逆に撃ち殺し、彼の兄弟から追われる身となる。リンゴは別れた妻子に久しぶりに会うために彼女が住む町を訪れるのだが…。
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(レビュー) 老境に差し掛かった早撃ちガンマンの悲哀を抒情タップリに描いた異色の西部劇。
本作の主人公リンゴは、西部劇の古典的名作「駅馬車」(1939米)でJ・ウェインが演じたことでも知られるリンゴ・キッドが元ネタと思われる。リンゴ・キッドは実在したガンマンで、ジョニー・リンゴをモデルとしているが、彼を題材にした映画は数本製作されている。「OK牧場の決斗」(1957米)、タイトルもそのものずばり「リンゴ・キッド」(1966伊)等。但し、「OK牧場の決斗」は史実とは異なるキャラクターとなっており、主役のワイアット・アープの宿敵というフィクション性の強い登場の仕方となっている。
そんな西部劇ではお馴染みのリンゴであるが、ここでは中年に差し掛かり、闘いに疲弊した落日の男として描かれている。
これを名優グレゴリー・ペックが演じているのだが、早撃ちガンマンとは程遠いその容姿からして独特である。実は、この映画で彼が銃を抜くカットは一つも出てこない。酒場のシーンで若者を撃ち殺す序盤のシーンと、その直後に彼の三兄弟の追跡をかわすシーンで銃を抜いているが、実際には撃たれる側のカットがあるだけでリンゴが銃を撃つ瞬間は写していないのだ。
これは意図してそういう風にしているのだろう。リンゴに早撃ちガンマンのイメージをつけないように敢えてそうしているのだと思う。リンゴをただの”平凡な中年男”に仕立てるための演出の妙という気がした。
結果、ヒーローという仮面を剝ぎ取られた”平凡な中年男”の焦燥感や、終盤にかけて描かれる別れた妻子との交流場面には哀愁が生まれることになった。彼は無敵でもなんでもなく、人並みに恐怖も感じれば、愛情にも飢えている男なのだということが印象付けられるのだ。こういう西部劇の主人公も中々珍しい。そういう意味でも、今作は異色の西部劇となっている。
更に、本作はクライマックスも西部劇の常道を外している。ドラマ的に言えば当然3兄弟との銃撃戦が用意されているかと思うと、さにあらず。思わぬ伏兵が登場してリンゴの命は狙われてしまうのだ。このサプライズもまた本作を異色にしている。
尚、本作を観て「真昼の決闘」(1952米)を連想した。ゲイリー・クーパー扮する保安官が4人の悪漢と決闘するスリリングなリアルタイムドラマだったが、それとリンゴが馴染みの酒場で3兄弟を待つシチュエーションがよく似ている。
後から知ったが「真昼の決闘」も本作も上映時間は偶然にも同じ84分だった。
「空白」(2021日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 漁師をしている添田充は、妻と離婚して中学生の娘、花音と暮らしている。ある日、スーパーで花音が店長の青柳に万引きを見咎められ、逃げて車道に飛び出した末、凄惨な事故に巻き込まれて命を落としてしまう。突然の娘の死に悲しみ暮れる添田は、彼女の濡れ衣を晴らそうと青柳を激しく責め立て始めるのだが…。
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(レビュー) 観ていてとても辛い映画である。大切な一人娘を突然失った添田の悲しみ、怒りは想像するに難くない。ただ、自分はこうした経験をしたことがないので分からないが、きっと添田のようにはならないだろうと思った。怒りは当然湧くだろうが、それよりも悲しみの方が勝ってしまうだろう。したがって、自分にとっては、この添田というキャラクターに、ある種の異物感というかモンスター性を感じてしまった。
添田は激昂型な男である。それは冒頭の漁のシーンや花音との食事シーン、青柳や学校に対する喧嘩腰な態度からもよく分かる。責めるばかりで、相手の話をまったく聞かない独善的な男である。そのくせ娘の花音のことを何一つ知ろうとしなかった我が身を顧みようともしない。花音が学校でどんな生活を送っていたのか?どうして万引きすることになったのか?そこにはきっと彼女の寂しさや悩みがあったはずである。しかし、そうした花音の気持ちを推し量ることもせず、ただ「うちの娘が万引きなんかするわけがない」と決めつけて、青柳や学校側を批判する。
ことほどさように、この添田という男は他者を思いやる気持ちに欠ける薄情な男なのである。
したがって、観ている最中は彼に感情移入するどころか、彼に怒りの矛先を向けられる青柳や担任教師、そして彼のことを気に掛けながら邪険にされる漁師見習の青年の方に同情してしまった。
観てて決して気持ちのいい映画ではない。しかし、ここに登場してくる人々の苦悩はよく理解できるし、果たして自分も添田のように他者に対して冷たい態度をとっていることはないだろうか…と考えさせられた。
テーマは「寛容」ということになろうか。添田が怒りを鎮めて、他者を、そして自分自身を許すというドラマ自体、少々ありきたりという感じもするが、「寛容」というテーマは実に重厚に描けている。
ただ、この映画にはもう一つテーマがあると思っていて、それは映画のタイトルにもなっている「空白」である。これは何を指しているのだろう?と映画を観終わって考えてみたが、色々と想像できる。孤独だった花音の心の「空白」。花音を喪失した添田の心の「空白」。そして、今回の事故で人生のすべてを失ってしまった青柳の心の「空白」。大切なものを失った時に人は「心にぽっかり穴が開いたよう」と言うが、本作に登場する主要人物たちも皆そうである。
そして、その空いた心を埋めるのは、他者の「思いやり」なのではないだろうか。残念ながら添田にはそれが欠けていた。花音に対しても、青柳に対しても、そしてドラマのキーパーソンとなる事故の加害者である女性に対しても、彼は怒りに任せて思いやりに欠ける言葉をぶつけるばかりだった。それによって周囲を傷つけ、自分自身も更に苦しむことになってしまった。
更に言えば、青柳のスーパーで働く寺島しのぶ演じる女性従業員は、一見すると「思いやり」に溢れた慈善的な女性に見える。しかし、これも人によっては、偽善的なおせっかいでしかなく、逆に自分が惨めになるだけで何の助けにもならない場合がある。例えば、彼女は落ち込む青柳を少しでも元気づけようと必要以上に明るく接するが、当の青柳は少々困った顔をしていた。添田と同様、彼女も他者の気持ちを推し量れない女性なのである。ここはこの映画の鋭い所だと思った。
監督、脚本は
「ヒメアノ~ル」(2015日)や
「愛しのアイリーン」(2018日)の吉田恵輔。これまで観た作品はいずれもコミック原作ということもあり喜劇と悲劇のバランスの上に成り立ったバラエティに富んだ作品だったが、本作はオリジナル脚本でテイストも完全にシリアスに振り切っている。
マスコミの事故に対する下卑た報道描写に浅薄さを覚えたり、普通であれば裁判に訴えるという方法もあると思うがそうした司法上の描写が一切ない所に不満を感じたものの、基本的にはこれまでに見られたようなヒリヒリとした緊張感を上手く創出しながら全体的に上手くまとめていると思った。
また、重苦しいトーンが続く中に、添田と漁師見習の青年の温かみのある交流を挿話したところに味わいがあった。
キャストでは、やはり添田を演じた古田新太の熱演が突出していて、全編出ずっぱりということもあるが、完全に彼の映画になっている。これまではどちらかと言うとバラエティ番組やコメディのイメージが強かったが、ここではそれを完全に封印してシリアスな演技に徹している。
「愛しのアイリーン」(2018日)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 42歳になる独身男・岩男は、パチンコ店で働きながら年老いた母と認知症の父と暮らしていた。同僚のシングルマザーに手痛い失恋を食らった彼は、一念発起してフィリピンの嫁探しツアーに参加する。そこでアイリーンという少女を見つけて帰郷する。ところが、彼のいない間に父はすでに他界していた。母ツルは勝手気ままな岩男たちを見て怒りを爆発させる。
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(レビュー) 冴えない田舎暮らしの男とフィリピン人女性の壮絶な愛憎を独特のユーモアで綴った作品。同名コミック(未読)を
「ヒメアノ~ル」(2015日)の吉田恵輔監督が実写映画化した作品である。
「ヒメアノ~ル」も負のパワーに満ちた作品だったが、本作も鬱々とした感情を抱えた男が主人公という点で共通する。ただ、「ヒメアノ~ル」は負の感情が暴力という形で外に向かって発散されていたのに対し、今作はひらすら内向きで見てて非常にストレスがたまる作品だった。いずれも人間のネガティブな感情を描いた作品であるが、鑑賞感は大分異なる。
前半はコメディライクで後半はシリアスというのも、両作品に共通するテイストだ。観ようによっては統一感がないという意見もあろうが、予想できない面白さがあるのも事実で、自分は最後まで興味深く観ることが出来た。
主に前半は田舎あるある的な面白さで観れた。隣近所に噂話は筒抜け。縁談の話を持ってくる世話焼きばあさん。行きつけのスナック。そうした閉塞的な地方社会が、やや紋切り的ながらよく描けていると思った。
但し、楽しく観れるのも中盤までで、移民女性に売春の仕事を斡旋するヤクザが登場してからは、ハードなサスペンスに切り替わる。
しかして、悲しい結末へとドラマは向かっていくのだが、これは見ようによってはバッドエンドともハッピーエンドとも取れる終わり方となっている。表面だけを捉えれば悲恋のラストなのかもしれないが、岩男のアイリーンに対する愛が完遂されたと捉えれば、これは実にロマンティズム溢れるエンディングと言えよう。恋愛ドラマとしてみれば中々骨のある結末で、いわゆる通俗的な作品とは一線を画したエンディングになっている。
敢えて難を言えば、後半のサスペンスに余りリアリティが感じられない点だろうか…。ある重大な刑事事件が起こるのだが、いくら小さな田舎町とはいえ余りにも緊張感が薄く、岩男たちの切迫した状況がうまく伝わってこなかったのが残念である。
もう一つは、母ツルの口から出る”姥捨て山”というのフレーズにも唐突な感じを受けた。そのための伏線は中盤で張られているのだが、それだけでは不十分な感じがした。
吉田監督の演出は前作同様、テンポが良く小気味よい。エネルギッシュな暴力描写も流石に上手く、クールに突き放した演出や毒を利かせたオフビートなユーモアも堂に入っている。
例えば、岩男のオナニーを覗き見するツルの罪悪感と切なさは、その後の岩男とアイリーンのセックスを覗き見する行為へと継承されている。息子を想う母の複雑な感情を見事に表現しているわけだが、更に自身に思いがけず生理が訪れるという奇跡まで起こり、何とも言えぬ笑いがこみ上げた。
キャストではアイリーンを演じたナッツ・シトイの熱演が素晴らしかった。彼女は自国ではすでに数多くの作品で活躍しているとのことだが、日本映画に出演するのは今回が初めてである。
ツル役の木野花は終始オーバーアクト気味で、確かに面白いことは面白いが、少しやり過ぎという気がした。
「ヒメアノ~ル」(2015日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 清掃会社で働くお人好しの青年・岡田は、退屈で孤独な日々を送っていた。ある日、職場の先輩・安藤と行きつけのカフェを訪れる。すると、そこで高校時代の同級生・森田と再会する。かつて酷いイジメに遭っていた彼はすっかり別人のようになっていた。
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(レビュー) かつての同級生と再会したことで思わぬトラブルに巻き込まれていく様を独特のユーモアと過激なバイオレンス描写で描いた犯罪青春映画。
「ヒミズ」(2011日)の古谷実の同名コミック(未読)を実写映像化した作品である。
映画は前半と後半でかなりテイストが異なる。前半は割とコメディタッチが横溢し楽しく見れるのだが、後半から凄惨なシーンが出てくるようになりほとんどサイコサスペンスのような作りになっていく。
また、ストーリーも2本のドラマが存在し、それが中盤で邂逅することでテイストもコメディからシリアスへと一変する。そのタイミングでタイトルも表示され、中々凝った構成で面白いと思った。
原作は未読なので分からないが、こうした特異な構成は映画独自のものなのではないだろうか。人によって賛否あるかもしれないが、個人的には一粒で二度美味しいという感じで楽しめた。
ただ、原作準拠なのか前半のリアリティのなさは、後半のシリアスさと比較するとやや陳腐に映ってしまう。安藤の造形、カフェの店員ユカを巡る色恋沙汰はほとんど高校生レベルのお遊戯のようで観ててなんだか苦笑せずにいられなかった。
思うに、安藤を演じたムロツヨシのクセの強さが大いに関係しているような気がする。無論それが彼のキャラであることは分かるのだが…。
逆に、森田を演じた森田剛がシリアス演技を貫き、ただ一人浮いているという状況にもなっている。本作における彼の存在感は圧倒的で、彼なくして作品の強度は保てなかっただろう。だからこそ余計に前半のリアリティのなさが惜しまれた。
ともかく、良し悪しはあるにせよ、これほどまでにバラバラな演技陣を1本の作品としてまとめ上げたのは奇跡的とすら思う。
ラストは良かった。かなり残酷な結末と言えるが、同時にかすかな安堵も感じられる不思議なテイストとなっている。岡田と森田の過去がフラッシュバックされることで、時間が巻き戻るというドラマチックな演出に鳥肌が立った。見事な締めくくり方である。
監督、脚本は昨今メキメキと頭角を現している注目の俊英・吉田恵輔。元々は塚本晋也監督の下で経験を積んできた作家である。師匠譲りのコミックタッチな演出が特徴的で、ラディカルさの中に毒々しい笑いが入り混じる独特のテイストを持っている。今回が初見だが今後も気にしてチェックしていきたい。
「彼女がその名を知らない鳥たち」(2017日)
ジャンルサスペンス・ジャンルロマンス
(あらすじ) 8年前に別れた男・黒崎のことが忘れられない十和子は、現在は年上の中年男・陣治と仕方なく一緒に暮らしている。不潔で下品な陣治に嫌悪感を抱きつつも、彼の少ない稼ぎを当てに怠惰な日々を送る十和子。ある日、妻子持ちの男・水島と出会い彼との情事に溺れていくのだが…。
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(レビュー) 年の離れた中年男と同棲する女が衝撃の事実に翻弄されていくロマンスサスペンス。ベストセラーの同名小説(未読)を
「凶悪」(2013日)、
「孤狼の血」(2017日)、
「ロストパラダイス・イン・トーキョー」(2009日)の白石和彌が映画化した作品である。
過去の男を引きずりながらダメ男・陣治と同棲する十和子の怠惰な日常が冒頭から延々と描かれるため、前半はやや間延びした展開である。しかし、中盤で黒崎の失踪が分かると俄然ミステリー色が出てきて面白く観れた。黒崎の失踪に十和子は何か関係しているのか?彼女を影ながら見守る陣治の不可解な行動にどんな意味があるのか?そういったところに注目しながら最後まで興味深く観れた。
それにしても、十和子も陣治もウジウジとした性格で、観てて決して共感を得られるキャラとは言い難い。そのあたりで本作は確実に観る人を選ぶ作品のように思う。
ただ、リアリティということで言えば、こういった人たちは現実に居そうである。失恋の傷心を引きづる十和子は仕事をするでもなく、建築現場で働く陣治から小遣いをもらいながら、ストレス発散と言わんばかりにあちこちで迷惑なクレームをつけて回っている。実に陰気でネガティブなヒロインである。おそらく現実にいたら大層迷惑だと思うが、ドラマとしてみれば中々面白いキャラクターだ。
一方で、十和子に甲斐甲斐しく仕える中年男・陣治も卑小極まりない性格で、これまた共感しずらいキャラである。なんでも十和子の言いなりになる情けなさは、観ててどんどん気の毒になっていく。しかし、それでも彼女から離れられない彼は心底、彼女に惚れこんでいるのだろう。もはや病的と言っても良いほどだが、逆にここまで芯を通されると感動的ですらある。
後半から頭角を表してくるサスペンスで、彼らのこの関係性は徐々に変化していく。本作はこのあたりが実に面白く観れる。クライマックスで、それまでの伏線が怒涛のように回収され、二人の関係が完全にひっくり返るのだが、そこに自分は只ならぬ高揚感を覚えた。それまでのネガティブな感情を全て払拭してくれたような、そんな爽快感が得られた。
唯一、不満があるとすれば、タイトルの「彼女がその名を知らない鳥たち」の意味が今一つよくわからなかったことである。おそらくラストシーンにその意味が込められているのだろうが、何せ唐突過ぎて理解が追い付かない。どうやら原作ではそのあたりの詳しい描写が書かれているらしいのだが、ここは重要な部分なので、ぜひ脚本の中に落とし込んで欲しかった。
また、サスペンスとして厳しく観てしまうと、ミスリードが今一つ弱いというのもやや物足りなかった。
尚、クライマックス以外にも白石監督の演出で幾つか印象に残ったシーンがあったので付記しておきたい。
一つは、電車の中で十和子と陣治が二人きりになるシーンである。それまで満員電車だったはずが、いつの間にかたった二人だけになるという少しシュールな演出だが、孤独な二人の心象を見事に表現していると思った。
もう一つは、十和子が携帯電話で黒崎に電話をかけるシーンである。暗い現実から過去の輝かしい思い出への場面転換は劇的である。おそらくCGを使用していると思うのだが、背景の部屋の壁が倒れて、その奥から海辺の風景が浩々と表れ、まるで寺山修司の「田園に死す」(1974日)を想起させる衝撃だった。
白石和彌監督は普段はこうした超然とした演出をしない作家だったので意外である。
「止められるか、俺たちを」(2018日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 1969年、21歳の吉積めぐみは、ピンク映画の旗手・若松孝二率いる若松プロダクションの門をたたき映画の世界に入った。周囲の若い才能に囲まれながら助監督としての日々をこなすうちに、自分も映画を撮りたいという衝動に駆られていく。
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(レビュー) 映画の世界に飛び込んだ一人の女性の生き様を、周囲の人間模様を交えて描いた青春群像劇。
若松孝二は様々な問題作を撮り上げたことで知られる日本のインディペンデント映画界の雄である。彼の元には本作で監督を務めた白石和彌や脚本を手掛けた井上淳一もいた。その他にも様々な映画人を輩出しており、氏の日本映画界における貢献度は相当に大きいように思う。
そんな若松監督は2012年に不慮の事故で亡くなってしまった。享年76歳。本人の中ではまだやり残したことはたくさんあっただろう。その無念の思いを考えると実に残念である。
ただ、こうして彼の死を偲んで集まったかつての弟子たち、スタッフによって作られた本作を観ると、彼のDNAは確実に受け継がれているような気がする。ある意味で、本作は若松孝二追悼の意味合いも込められた作品のように思う。
その証拠に、劇中には若松作品のオマージュがふんだんに登場してくる。自分は彼の作品をすべて観ているわけではないので、分からないものもあったが、
「ゆけゆけ二度目の処女」(1969日)が出てきて嬉しくなった。
物語は、めぐみの目線を通して描かれる群像劇となっている。先述したように、監督の白石和彌も脚本の井上淳一も若松監督に師事していたので、今回の物語には多分にリアルな事情が織り込まれていることは想像に難くない。ただ、まさかめぐみ自身にもモデルがいたということを後で知って驚いた。てっきり白石監督が自己投影した想像上のキャラクターだと思っていたので、これは意外だった。それくらい、めぐみの半生はドラマチックなものである。
他にも本作には実在の人物がたくさん出てくる。赤塚不二夫、大島渚、足立正生、大和屋竺、沖島勲、荒井晴彦等々。夫々に個性的で、いわゆるバックステージ物として見ても大変面白い映画になっている。
例えば、若松孝二が大島渚に政治映画製作の相談を持ち掛けるシーンや、ATGのプロデューサーから勧誘されるシーン。足立正生が連合赤軍に合流していった過程、大和屋竺が「ルパン三世」の脚本を書いて若松プロと距離を置いた経緯等、どれも興味深く観れた。若かりし荒井晴彦が若松孝二と行動を共にしていたというのも意外であった。
周囲の人間模様ばかりに目が行きがちだが、主人公めぐみのドラマも後半から熱を帯びてくる。
映画を撮る情熱は誰にも負けない彼女は、若松にチャンスを貰いピンク映画を撮らせてもらうことになる。しかし、残念ながら作品の出来栄えは、師匠の期待を大きく裏切るものだった。次第に自信を無くしていくめぐみ。やがて”ある事情”によって、その苦悩は更に深まっていく。しかして、その顛末には実にやるせない思いにさせられた。
めぐみを演じた門脇麦の好演も素晴らしかった。彼女を初めて見たのは
「愛の渦」(2014日)だが、その時の体当たりの熱演は実に見事なものだった。今回のバイタリティ溢れる役柄もそれに近いものが感じられ、改めて彼女の力量に唸らされた。
一方で、若松孝二役を務めた井浦新の造形はかなりカリカチュアされてしまった印象を受ける。敢えてユーモラスに造形している節も見受けられ、それが作品全体にフィクショナルなトーンを持ち込んでいるような気がした。
ATGの映画などを観ると分かるが、60年代末から70年代初頭という時代は、ある種若者たちにとっては暗く鬱屈した時代だった。今回の井浦新による造形が、この物語をどこか屈託なく観れる爽やかな青春映画にしている面があり、それはそれで大変観やすくて良いのだが、時代を描くという意味においては、これは功罪あるように思った。