「マウス・オブ・マッドネス」(1994米)
ジャンルホラー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 保険調査員のトレントは、失踪したベストセラー・ホラー作家サター・ケインの行方を追う仕事を請け負う。その頃、巷ではサター・ケインの小説を読んだ人々が暴動を起こす事件が多発していた。その原因を探るために、トレントは彼の小説を読むのだが、次第に幻覚を見るようになり…。
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(レビュー) ベストセラー作家の行方を追う保険調査員の恐怖をシュールなテイストで描いたホラー作品。
現実と幻覚が混沌としていく技巧的な演出が冴えわたり、中々の快作となっている。
例えば、トレントがサター・ケインの小説から得た手がかりを掴んで”存在しない町”を探し求めるシーン。真夜中に自転車に乗った白髪の老婆に遭遇するのだが、日常の中の非日常という不条理さも相まって何とも不気味だった。
あるいは、斧を持った男がカフェで打ち合わせをしているトレントに襲い掛かるシーンも、中々のインパクトである。
ホテルのフロントに飾られた絵がいつの間にか変化しているのも、恐怖を盛り上げるという意味では技アリな演出である。
後半にかけて畳みかけるように恐怖がトレントに襲い掛かってきて。もはや出口の見えない悪夢の迷宮に迷い込んだような感覚になっていく。このあたりの盛り上げ方も良く出来ていると思った。
監督はジョン・カーペンター。言わずと知れたホラー映画界のマエストロであり、その手腕は本作でも十二分に発揮されている。
物語は精神病院に収監されたトレントの回想形式で進行する。この構成も上手いやり方だと思った。というのも、トレントの話の真偽が不確定という所を含め大変ミステリアスに観れるからである。その回答は終盤に提示されることになるが、これも意外な所に結実し面白く受け止めらることができた。
すべてはサター・ケインの掌の上だったということなのか。あるいは、トレントの狂った頭が創り出した幻影だったのか。謎が謎を呼ぶエンディングが余韻を残す。
尚、終盤にかけてラヴクラフトのクトゥルフ神話の影響が見られるが、これは明らかにオマージュだろう。分かる人にだけ分かってくれればいいという作りになっており、自分は思わずニヤリとしてしまった。
キャストではトレントを演じたサム・ニールの好演が光っていた。前半はやり手の保険調査員として顔、後半から恐怖に翻弄されながら徐々に狂気に飲み込まれていく様を堅実に演じて見せている。
「地獄のデビル・ドラック」(1986米)
ジャンルホラー・ジャンルアクション・ジャンルSF・ジャンルコメディ
(あらすじ) 謎の飛行物体が地球に接近し、その影響で次々と機械が勝手に暴走するという怪現象が全米で多発する。ビルたちが働くガソリンスタンドに、ゴブリンの仮面をつけたトラックたちがガソリンを入れろと押し寄せてくるのだが…。
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(レビュー) 余りにもバカバカしい内容に突っ込みを入れながら観るB級作品である。しかし、本作はスティーヴン・キングが監督しており、氏のファンならば一見の価値はあるかもしれない。
内容はトラックやブルドーザー、自販機、ミキサーなどが暴走して人間に襲い掛かるというホラー仕立てで進行する。機械が人間を襲うという設定は「トランスフォーマー」(2007米)も同じなのだが、いかんせんこちらはCGが使えない頃の作品なので全編チープである。はっきり言って迫力不足で緊張感も皆無である。
トラックの暴走と言えば、スティーブン・スピルバーグの「激突!」(1971米)も思い出されるが、そのオマージュも散見される。
正直、モダンホラーの帝王キングも映画監督としての才能には恵まれなかったということが、本作を観るとよく分かる。彼自身もそのことを分かっているのか、映画監督としての仕事は本作1本限りで辞めてしまっている。
ただ、全体的にコメディ調が貫かれており、楽しく観れる作品であることは間違いない。おそらくキング自身もホラー作家という自らのレッテルを裏切る形で、敢えてコメディ・タッチに傾倒しているのかもしれない。
その最たるは、ゴブリンの仮面をつけたトラックの造形である。仮に本気で怖がらせようとするのなら、完全にセンスを疑うようなビジュアルで、完全に笑いを取りに行っていることが分かる。
野球少年が、自販機から飛び出してくる缶ジュースをキャッチャーマスクを被って応戦するシーンも笑ってしまった。
音楽は全編にAC/DCの曲がかかり、映画の軽快さに一役買っている。キング本人のたっての希望ということらしい。
主演はエミリオ・エステベス。当時は若手アイドル俳優として人気沸騰中だった。確かに格好いいが、トラックと正面切ってタイマンを張る姿には、やはり笑うしかなかった。
「アフター・ヤン」(2021米)
ジャンルSF・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 茶葉の販売店を営むジェイクは、妻カイラと幼い養女ミカと人型AIロボット、ヤンと幸せな日々を送っていた。ある日、ヤンが故障して動かなくなってしまう。メーカーからは交換を勧められるが、ヤンを失いたくない彼は修理の方法を探って奔走する。
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(レビュー) 人型AIロボットを失った家族の戸惑いと悲しみを静謐なタッチで綴ったSFドラマ。
AIの進化が著しい昨今だからこそ、ここで描かれる物語を観ると色々と考えさせられるものがある。
ジェイクの家庭は少し複雑である。白人のジェイク、アフリカ系黒人のカイラ。そして娘のミカは中国人の養女である。人種はバラバラであるが、彼らは強い絆で結ばれている。そして、おそらくミカが寂しい思いをしないために、ジェイクは同じ中国人型のAIロボット、ヤンを購入したのだろう。ミカはヤンのことを本当の兄のように慕っている。
そのヤンが、ある日突然機能不全に陥ってしまう。様々な思い出が詰まったヤンと別れることなどできない…とジェイクは奔走することになる。
故S・キューブリックの原案をS・スピルバーグが監督した「A.I.」(2001米)は、AIロボットに感情が芽生えるという物語だったが、それと今作のヤンはよく似ているという気がした。
機能を停止したヤンには記憶のメモリが残されており、映画の中盤以降はジェイクがその中身を紐解いていくミステリー仕立てとなっている。その中で、彼は自分の知らなかったヤンのもう一つの過去を知ることになる。他人には打ち明けることが出来なかった孤独、愛する人との思い出、何気ない日常の一コマ、美しい田園風景等。ヤンが何を思い、何を欲していたのか。それを想像すると実に切なくさせられるのだが、これは同時にAIにも感情があったことの証にも思えた。
AIの技術開発はまだ進化の途中である。しかし、本作を観ると、もしかしたらそう遠くない未来に本当にAIは感情を実装することになるかもしれない。そんなことを思ってしまった。
本作は、そんなヤンの死を通して、人とAIロボットの死生観についても言及されている。映画の後半、カイラの回想の中で、思想家・老子の言葉を引用してヤンと死について問答を交わすシーンが出てくる。死は新たな始まりなのか?それとも無なのか?という哲学的な問いなのだが、なるほどAIロボットのヤンにとって”死”とは知識としては理解していても実感の持てない未知なるものなのかもしれない。
このシーンは本作で非常に重要なポイントだと思った。というのも、残された家族がヤンの死をどう受け止めるかという、いわゆる”喪の作業”というテーマに深く結びついているからである。
もし死が新たな始まりだと考えれば、この映画のラストはかすかな希望を灯しているように受け止められるし、逆に死=無と捉えれば実に悲しい結末と言わざるを得ない。
個人的には前者と解釈した。劇中で「グライド」という楽曲が二つのシチュエーションで流れるのだが、その使用の仕方を見てそう確信した。
ちなみに、この楽曲は岩井俊二監督作
「リリィ・シュシュのすべて」(2001日)の中で使用された小林武史プロデュースの曲のカバーソングである。
監督、脚本はコゴナダ。前作「コロンバス」(2017米)は未見だが、全編抑制されトーンが貫かれており、これがこの監督の特徴なのだと思った。
SFとは言っても、ビジュアル的な派手さはなく、現代とさほど変わらない日常が淡々と綴られるのみで、画面もジェイクの邸宅や自動車の中といった屋内シーンが多く、外の世界は極力映し出されない。インテリアなどの装飾品が一々アーティスティックで観てて飽きさせないのだが、メリハリという点では若干物足りなさを覚えた。確かに見ようによっては地味に思えるかもしれない。
ただ、そんな中、オープニングのアップテンポなダンスシーンはアイディアが斬新で一際印象に残ったし、ヤンのメモリにアクセスする映像演出はスピリチュアルなテイストも感じられ新鮮に見れた。真っ暗な空間にたくさんの光が星のように輝いており、その一つ一つからヤンの記憶を再生するという仕掛けが面白い。まるでアルバムのページをめくるような感覚を覚えた。そして、おそらくAIのメモリにも容量があるのだろう。それぞれ数秒程度の断片的な映像というところが何だか切なくさせる。
「すずめの戸締まり」(2022日)
ジャンルアニメ・ジャンルアクション・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 震災の被害で母を失った17歳の女子高校生すずめは、今は叔母と平穏な暮らしを送っている。ある日、すずめは扉を探しているという青年・草太と出会う。彼は廃墟の中にある災いの扉を閉めて鍵をかける“閉じ師”だった。すずめはそうとは知らず、災いの扉で取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう。
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(レビュー) 震災で母を失った少女と、災いを封じ込める”閉じ師”の青年の旅を、美麗な映像で綴ったファンタジーアニメ。
大ヒットし社会現象まで巻き起こしたアニメ
「君の名は。」(2016日)、
「天気の子」(2109日)の新海誠の新作ということで誰もが注目するところであるが、今回も安定のキャッチ―さ、ポップさでエンタテインメントとしてそつなく作られており、改めてその手腕に唸らされた。
ただ、今回は3.11というデリケートな問題を取り上げており、そこはこれまでにない挑戦に思えた。
結論から言うと、すずめのトラウマ克服というテーマは、かなりしっかりと語られていたように思う。災いをもたらす扉がいかにして廃墟に現れるのか?そのあたりの説明がなおざりだったので腑に落ちなかったが、扉の向こう側に見る過去の震災の記憶に正面から向き合うことで未来へ歩み出す、すずめの姿に素直に感動することが出来た。
ちなみに、同じテーマを描いた作品で、諏訪敦彦監督の
「風の電話」(2020日)という映画を思い出した。あれも震災で家族を失ったヒロインが叔母の元で暮らしているという設定で、本作のすずめとよく似ている。故郷を目指す旅の中で震災のトラウマを払拭していくというドラマも一緒である。
さて、本作にはもう一つ見所がある。それは、すずめが草太に淡い恋心を抱くというロマンスだ。草太は途中からある事情ですずめの思い出の品、椅子の姿に変えられてしまうため、過去の新海作品と比べるとコメディ・ライクな仕上がりになっている。ただ、すずめのトラウマ克服というドラマと併走させてしまった結果、こちらは今一つ弱く映ってしまった感が否めない。
また、物語は災いの扉を守ってきた”要石”を追いかけるロードムービーになっていくが、その道中ですずめたちは様々な人たちの優しさに触れていく。これらのエピソードも楽しく観ることができたが、惜しいかな。ドラマ上、余り有意義なものとなっていないのは残念であった。
例えば、母親代わりになって育ててくれた叔母の苦労を知るとか、草太への思いを改めて強くするなど、すずめの成長を促し前に進む”きっかけ”になってくれていれば更に良かっただろうと思う。
そして、終盤に行くにつれて、こちらの理解が追い付かない状況が次々と起こり、個人的には今一つノリきれなかった。
例えば、もう一つの”要石”が如何にして出てきたのか?そして、叔母になぜ憑依したのか?そのあたりのことがよく分からない。考察する材料があればまだいいのだが、そうしものが劇中では余り見つからなかった。結局、作り手側だけで自己完結してしまっているのような気がしてならない。
映像はスケール感のあるアクションシーンを含め、十分に楽しむことが出来た。今回は前作までのビスタサイズから横長のシネスコに変わっている。そのためより一層の迫力が感じられた。序盤の廃墟の中に佇む扉の映像も大変神秘的で印象に残る。
キャスト陣は、皆それぞれ好演していたように思う。旅の途中で出会う個性的なサブキャラも活き活きと表現されていて良かった。
尚、本作には魅力的な女性キャラが多く登城するが、逆に男性キャラは少ない。すずめが旅の途中で出会うのは、旅館を切り盛りする女将とその娘、神戸ではスナックを営むシングルマザー。そして、すずめの父親についての言及はほとんどなされていない。もちろん草太や彼の友人・稔など、男性キャラがいないわけではない。しかし、圧倒的に父性不在のドラマになっており、そこは何か意図してのことなのかどうか?観終わった後に少し気になった。
「LAMB/ラム」(2021アイスランドスウェーデンポーランド)
ジャンルホラー
(あらすじ) 人里離れた土地で牧羊をして暮らす夫婦イングヴァルとマリア。2人はある日、いつものように羊の出産に立ち会う。すると普通とは違う姿をした子羊が生まれて驚く。子供がいなかった二人は、それを“アダ”と名付けて大切に育てるのだが…。
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(レビュー) シュールでナンセンスでブラックな怪作。
オープニングから得体のしれない”何か”の主観映像で始まり、完全にホラーテイストで開幕する。しかし、実際に物語が進行すると、単純にホラージャンルに括ることが出来ない、独特のタッチを持った作品であるとことが分かる。
そもそも、このアダとは何なのか?その正体については様々なメタファーが込められており、観た人によって解釈が分かれそうである。
自分は、この物語は人間に対する自然の驚異を描いた寓話と捉えた。いわゆる日本昔ばなしのような訓話である。
子供がいないマリアとイングヴァルはアダを自分たちの子供にするために、ある大罪を犯してしまう。これは自然を搾取する人間の業を端的に表していると思った。最終的にその罪はマリア達に返ってくるのだが、その因果に自然の驚異という教えを見てしまう。
もちろんこれとは違う解釈をする人も当然いるだろう。母親の名前がマリアであること、アダの誕生がクリスマスの夜だったこと、羊飼いはキリスト教では聖職者を意味していること等。これらを併せ考えれば教義的なメッセージを見出すことができるかもしれない。
いずれにせよ、本作は説明ゼリフのようなものは一切なく、主要な登場人物もたったの3人という少なさで、作中には多くの”余白”が用意されており、そこを観客はを色々と想像させなければならない。そのあたりを楽しむことが出来れば、大変歯ごたえが感じられる作品である。
監督、脚本は本作が初長編の新人ということらしい。
物語の舞台を活かした幽玄的な大自然を捉えた映像が非常に印象的で、それがある種ゲテモノ映画的な側面を持つ本作に一定の風格を与えていると思った。抑制された演出もシーンに上手く緊張感をもたらしており、アダの全容を容易に見せない焦らした演出も観客の関心を惹きつけるという意味では中々上手いやり方だと思った。
また、本作には羊や犬、猫といった動物が出てくるが、その調教もよく行き届いていて感心させられた。
ただ、終盤のビジュアルに強く訴え出た演出は、それまでの静謐でミステリアスな語りからするといささか凡庸に感じた。丁寧に積み上げられた階段からストンと落とされたような、拍子抜けするようなオチである。
「戦争と女の顔」(2019ロシア)
ジャンル戦争・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1945年、終戦直後のレニングラード。多くの傷病軍人が収容された病院で働く看護師のイーヤは、PTSDに苦しみながら戦友の子供パーシュカを育てていた。ある日、パーシュカの母マーシャが戦地から帰還するのだが…。
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(レビュー) 悲惨な運命を強いられる元女性兵士たちの愛憎をシリアスに綴った作品。
イーヤが発作に苦しむ冒頭から一気に画面に釘付けになった。しかもイーヤはかなりの長身で、周囲の登場人物と比較すると明らかにサイズが一回りくらい大きい。そのビジュアルに一瞬ギョッとしてしまうほどである。彼女はマーシャから”のっぽ”の愛称で呼ばれており、本作の原題も”のっぽ”だ。
以降はイーサの置かれてる状況やパーシュカとの仲睦まじい様子が微笑ましく描かれていく。しかし、そんな和やかなシーンもここまで。発作を起こしたイーヤは、ある晩”取り返しのつかない事件”を起こしてしまう。それによって彼女の運命は過酷を極めていくようになる。
本作の監督はこれが長編2作目の新鋭らしい。ロングテイクと俳優のクローズアップを多用する豪胆無比な演出は新人らしからぬ大胆さに溢れている。ネタバレを避けるために書かないが、先述の”取り返しのつかない事件”を描くシーンもかなりねちっこく撮られており鬼気迫る迫力が感じられた。一体どういう演出をしたらこのようなカットが撮れるのだろう?
その後、パーシュカの実母であり戦友のマーシャが帰還し、映画は常にヒリつくような緊迫感が持続し、寸分もタルむことなく進行する。
緑と赤を巧みに配した色彩センスにも唸らされた。やや狙い過ぎという個所もあったが(例えば緑のペンキなど)、要所で鮮烈な印象を植え付けることに成功している。
上映時間2時間20分弱。正直、観終わった後にはどっと疲れた。と同時に、元女性兵士の悲惨な運命には色々と考えさせられるものがあった。
本作は戦争で心身を壊されてしまった女性たちが「死」の世界に「生」を見出すというドラマである。そこに母性讃歌のような深い感動を覚える。しかし、イーヤとマーシャの愛憎を見てると、単純に感動だけで片付けられない側面もあるような気がした。
イーヤは完全にマーシャに精神的に依存しており、それどころか友情以上の愛情を抱いている。マーシャのためならどんな犠牲も払うという献身ぶりは、観てて非常に辛かった。
一方のマーシャはイーヤの愛を知りながら、その思いを裏切り、踏みにじり、身勝手に振る舞う。彼女の凄惨な過去を知ると同情せずにいられない面もあるが、それとイーヤに対する無下なる態度とは無関係である。余りにも愚劣と言えよう。
こうしてみると、イーヤとマーシャの主従関係は、まるで上官の命令に絶対服従の”軍隊”のようでもある。
一見すると戦時下に芽吹いた女性たちの固い絆を綴った作品のように思えるが、冷静に考えるとそこには愛に盲従する人間の依存性といったものが見えてくる。人はこうも残酷になれるのか…人はこうも弱い生き物なのか…と悲しい気持ちになってしまった。
キャスト陣の熱演も素晴らしかった。
イーヤとマーシャを演じた女優は馴染みがなかったが、IMDbを見ると今回が映画初出演らしい。それでこの演技とは恐れ入った。凄まじい情念をほとばしらせながら夫々のキャラクターに生々しい息吹を吹き込んでいる。
他に、院長や全身麻痺の英雄ステパン、マーシャに入れ込む青年サーシャといったサブキャラが物語を上手く掻き回しており、夫々に上手く存在感を出していたように思う。
「ライフ・アフター・ベス」(2014米)
ジャンルホラー・ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 恋人のベスを事故で失ったザックは悲しみの真っ只中にいた。ところが、死んだはずのベスが墓地から這い出し家に帰ってくる。もう二度と離さないと誓うザックだったが、次第にゾンビとして化していくベスに戸惑いを隠せず…。
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(レビュー) 以前観た作品で
「ウォーム・ボディーズ」(2013米)という映画があったが、あれに近い物語である。どちらも一風変わった設定のロマコメとして面白く観れるが、こちらはいささかペーソスに重きを置いた作りになっていて、そこが鑑賞感を味わい深いものにしている。
前半は、ゾンビになったベスとその家族を交えながら、ザックの恋の奮闘がコメディライクに描かれている。ベス自身が自分がゾンビだということに気付いていないのがミソで、それを隠そうとするザックと家族の奮闘が面白おかしく描かれている。
ただ、正直前半は今一つ面白く観れなかった。ザックたちの奮闘も空回り気味で笑えるまでに至っていない上に、この手のアイディアはこれまでにも出尽くしてしまっているので、余程大仰に演出するか、更に何か新しいアイディアを盛り込むなどしないと間が持たないと思う。
後半に入ってくると若干シリアス色が強くなってきて、個人的にはここから面白く観れるようになった。いわゆるよくあるゾンビ・サバイバル物になっていくのだが、ただここでも映画はあくまでザックとベスの関係に注視し、人間とゾンビの禁断の愛という、ある種メロドラマ的な切なさを提示し続ける。風呂敷を広げたくなる場面だが、敢えてミニマルな作りに徹しており、そこがかえって作品のテーマを堅牢にし愛すべき小品にしている。
次第に人間らしい心を失っていくベスに残された最後の言葉がザックとの約束の言葉だった…という所に切なくさせられた。
演出はユーモアを前面に出しつつも、基本的にはオフビートに処理しており、そのあたりのさじ加減も良い。
例えば、冷蔵庫を背負った終盤のベスの姿は笑いを誘う。本来であればここはいくらでも感動的にすることが可能だと思うのだが、そこにこのような”ふざけた”演出を施すセンスがたまらない。
難はラストの処理だろうか。本当にこれでいいのか?という感想を持ってしまった。
キャストでは、ザックを演じたデイン・ディハーンの頭髪が益々後退しておりちょっと心配になってしまった。
また、ベスの恋敵になるもう一人のヒロインをアナ・ケンドリックが演じている。登場場面がそれほど多くないので、少し勿体なく感じた。彼女が存在感を出していれば、前半をもっと面白くすることが出来たかもしれない。
「カンニバル!THE MUSICAL」(1993米)
ジャンルコメディ・ジャンル音楽
(あらすじ) 19世紀後半のアメリカ西部。ゴールドラッシュに沸くコロラドを目指して旅をするパッカーとその一行は、無謀にも真冬のロッキー越えを計画する。ところが、その道中でパッカーが盗賊一味に愛馬を盗まれてしまう。それを取り戻そうと追跡を開始するが、冬山の厳しさは想像を絶するもので…。
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(レビュー) 「サウスパーク」で有名なトレイ・パーカーが学生時代に撮った実写ミュージカル映画。オープニングにB級ゲテモノ映画専門のトロマ社の名前がクレジットされており、いわゆるその筋の人に受けそうな内容である。
尚、今作は実話を元にしているということである。wikiを読む限り、カニバル(人食)というセンセーショナルさもあり凄惨な事件として知られているようだ。しかし、そうは言っても本作はミュージカルな上にブラック・ジョークがふんだんに飛び出てくるので、実際の事件とはかけ離れた内容となっている。
物語は殺人罪で逮捕されたパッカーの回想で展開されていく。実話が元になっているという前振りはあるが、一体どこまで信用していいのか分からないホラ話のようなテイストが面白い。
まず、冒頭で「残酷な描写をカットしてます」というテロップが出てくるが、その直後にいきなりゴアシーンが炸裂するという不意打ちである。
しかも、パッカーの愛馬に対する執着心がほとんど異常で、まるで恋人の尻を追いかける未練タラタラ男のようで笑える。
更に、旅の途中で出会うインディアンは日本語を喋る東洋人で、空手の修業をしたり日本刀を振り回すという考証無視のデタラメさ。
揚げ句に、死刑執行当日を描くクライマックスの投げ槍とも思える”いい加減”な収集の仕方など、どこからどう見ても実際の凄惨な事件の再現性など鼻からする気など無い徹底したエンタメ趣向な作りになっている。
肝心のミュージカルシーンもチープではあるが、音楽が中々に良く耳に心地よく入って来た。雪だるまの歌とパッカーの愛馬に捧ぐ歌がバカバカしく笑えた。
また、個人的に最も傑作だったのは、パッカーが歌おうとすると死んだと思っていた仲間が何度も蘇ってそれを邪魔をするシーンである。ほとんどドリフのようなノリだが爆笑してしまった。
このようにカニバルという際どいネタを、あっけらかんとした笑いと音楽、下ネタやブラックジョークで包み込んでおり、改めてトレイ・パーカーが只者ではないということが良く分かる作品である。
「秘密の森の、その向こう」(2021仏)
ジャンルファンタジー・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 大好きだった祖母を亡くした8歳の少女ネリーは、両親と一緒に祖母が住んでいた森の中の一軒家を訪ねる。母はやがてネリーと父を残したままどこかへ去って行ってしまった。そんな中、ネリーはかつて母が遊んだ森を散策し、そこで自分によく似た8歳の少女マリオンと出会う。
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(レビュー) 孤独な少女が森の中で不思議な体験をしながら失踪した母との絆を取り戻していくファンタジードラマ。
物語の視座がネリーに固定されており、スタイル自体は児童映画のように捉えられる。しかし、実際にはそう簡単に割り切れない不思議な作品である。祖母の喪失、母の不在によるネリーの不安や戸惑い、孤独がリアルに表現されており、大人が見ても十分に堪能できる作品となっている。
森の中で育まれるネリーとマリオンの交流もどことなくシュールである。そう思わせる最たる要因は、ネリーとマリオンを双子の少女に演じさせた点にあろう。一応着ている物や髪型などで差別化はされているが、同じ容姿の少女が並んで遊んでいるのを見るとなんだか不思議な気持ちになる。
そして、映画を観ていれば容易に想像がつくが、マリオンはネリーの母親の幼き頃の姿なのである。ネリー自身もそれは知っていて、それでも尚、自然とマリオンを求めてしまう。それは母の不在からくる寂しさなのであろう。
自分は最初、これは孤独に病んだネリーが創り出した妄想の世界なのではないか…と思った。しかし、どうやらそうではないということが中盤の父親との会話から分かってくる。父親にもマリオンの姿が見え、実在する者としてそこに存在しているのだ。こうなってくると益々このシュールな世界観に惹きつけらてしまう。
こんな感じでネリーとマリオン、同じ容姿をした少女の交遊が続いていくのだが、やがてそこから一つの真相が明らかにされていく。この計算されつくされた構成にも唸らされてしまうばかりだ。最終的に母娘の絆という所に帰結させた脚本も見事である。
監督、脚本は前作「燃ゆる女の肖像」(2019仏)が評判を呼んだセリーヌ・シアマ。残念ながら前作は未見なのだが、本作を観る限り演出は淡々としていながらも、ヒリつくような緊張感漂う映像にグイグイと惹きつけられた。また、終盤におけるBGMの使用もドラマチックな効果を生んでおり、中々の手練れという感じがした。
ただ、個人的には1点だけ気になったことがある。それは、あれだけ祖母のことが大好きだったネリーが、生前の祖母にそれほど執着していなかったことである。マリオンとの交遊に焦点を当てた描かれ方をしているので、祖母の存在が希薄に映ってしまった。これについてはどう捉えたらいいのだろう。少しだけ不自然に感じてしまった。
「RRR」(2022インド)
ジャンルアクション
(あらすじ) 1920年、英国植民地時代のインド。イギリス軍に連れ去られた村の少女を奪還すると心に誓ったゴーンド族の男ビーム。ある大義を胸に秘め、英国政府の下で警察官として働くラーマ。互いに対立する2人は運命に導かれるように出会い、強い絆で結ばれていった。そんなある日、ついに二人は相手の素性を知ってしまい…。
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(レビュー) インドの大ヒット娯楽作「バーフバリ」シリーズのS・S・ラージャマウリ監督の新作ということで期待して観たが、ドラマチックな展開、ケレンミ溢れる映像演出に今回も興奮させられっぱなしだった。インド映画史上最高の製作費ということらしいが、それも納得のド派手さである。
物語はイギリス軍を徹底的に悪役に仕立てた勧善懲悪で進む。植民地時代の物語ということなので、かなり図式化されてしまっているが、エンタメ優先に振り切った潔さはいかにもインド映画らしい。その中で育まれるビームとラーマの友情は胸アツな展開で、やがて判明する互いの素性、そこからの友情崩壊というドラマも定石通りとはいえ自然と感情が揺さぶられた。
映画は中盤にインターミッションを挟み、前半部がビーム、後半部がラーマの視点で展開される。この構成も中々に上手い。一見するとビームの使命に理があるかと思いきや、実はラーマにも凄惨な過去があったということが分かり、権力に支配される者たちの苦しみと悲しみがダイレクトに伝わってきた。
約3時間という長丁場ながら、まったくダレることなく最後までスピーディーな演出で見せ切ったラージャマウリ監督の手腕に脱帽である。
見所は何と言っても各所のケレンミ溢れるアクションシーンとなろう。全編に渡って観客を楽しませようというサービス精神に溢れていてエンターテインメントかくあるべし!と言いたくなるようなアイディアと興奮に満ちている。
例えば、”水”のイメージを背負ったビームと”火”のイメージを背負ったラーマ、好対照な二人の登場を示したアバンタイトルからして新鮮なアクションシーンの連続で興奮を覚える。すでにこの時点で通常のアクション映画の半分くらいのカロリーを消費した気分になるのだが、更にここからタイトル画面へとつながる二人の邂逅のシーンが描かれる。夫々にバイクと馬を使いながらアクロバティックなアクションを披露し、度肝を抜かされた。
また、二人の友情が決定的に崩壊する中盤の英国人屋敷を舞台にした戦闘、クライマックスとなる森の中の戦闘は、いずれもダイナミズム溢れるアクションで楽しめた。
更に、インド映画と言えば歌とダンスである。いわゆる旧来のマサラ・ムービーと比べるとそれほど多くはないものの、こちらも十分に見せ場が用意されている。パーティー会場でビームとラーマがナートゥーダンスを披露するシーンは、力強い躍動感に溢れていて興奮させられた。
本作で唯一引っかかりを覚えたのは、ラーマのドラマの締めくくり方であろうか。征服者に抵抗する手段として武器を持つというのは確かに有効かもしれないが、それですべて解決ということにもならないように思う。この結末を見る限り、製作サイドはそのあたりのことをどう考えていたのか気になる。ビームのドラマがスッキリとしたハッピーエンドを迎えたので、余計にこちらの結末にある種の訝しさを覚えた。