「ファミリー☆ウォーズ」(2018日)
ジャンルコメディ・ジャンルアクション
(あらすじ) 福島家は亭主関白な父を中心に、祖父、母と4人の子供たちが仲睦まじく暮らしていた。ところが、祖父が認知症を発症したことから平和だった家庭は崩壊する。祖父がドライブ中に子供をひき殺して、一家はその死体を巡って奔走することになる。
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(レビュー) 平和な一家が崩壊していく様をオフビートな笑いとシュールで過激なバイオレンス描写で綴ったブラック・コメディ。
作為性丸出しな朝の食卓風景から、見事なまでのうさん臭さだが、本作は全編このテイストが貫かれた怪作である。
物語は福島家の祖父の認知症をきっかけに殺伐とした雰囲気に切り替わるが、どこかコメディ寄りに味付けされているのが特徴的だ。
個々のキャラクターの濃さも特筆すべきで、福島家の長男は無職のギャンブル狂、次男はオナニー狂、長女は売れないアイドルをやっていて、次女は引きこもりのメンヘラ女子といった具合で、一見すると仲睦まじく見える家族も実はそれぞれに問題を抱えたバラバラな家族だったということが分かってくる。
また、猟銃を持って突然挨拶に訪れる隣人や、祖父に引き殺された子供の親と思しきヤンキー夫婦、祖父の認知症を直すために母親が連れてきた霊媒師サークル等、一癖も二癖もある連中が、この物語をより一層カオスにしている。
監督、脚本、撮影、編集は
「スロータージャップ」(2017日)、
「ハングマンズ・ノット」(2017日)を自主制作で取り上げた新鋭・阪元裕吾。本作は彼にとっての初の商業映画である。
これまでの作品同様、非常にエネルギッシュでぶっ飛んだ作品である。商業路線になっても、過激で露悪的な倫理観無視の描写に陰りはない。
ただ、結論から言うと、個人的には前2作に比べると今一つ乗れなかった。
確かに面白い設定で、石井聰亙監督の
「逆噴射家族」(1984日)のような社会批判性も感じられる所に作家としての新たな試みを感じるのだが、いかんせん肝心のギャグが今一つツボに入りきらず全てが空回りしてしいるという感じがした。
また、阪元作品の見所の一つであるバイオレンス描写も、今回はクライマックスに集中した作りになっており、そこに至るまでが少し退屈してしまう。
ラストのどんでん返しは良いと思うし、オチも人を食っていて面白いと思うのだが、今回は見せ場が少ないような気がした。
あくまで個人的な感想だが、阪元監督はこうしたコテコテなコメディよりも、切れ切れでぶっ飛んだバイオレンスを前面に出して作った方が似合っているような気がする。
「ハングマンズ・ノット」(2017日)
ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ・ジャンルアクション
(あらすじ) 暴虐の限りを尽くすヤンキー兄弟シノブとアキラは、傷害事件を起こして逮捕される。一方その頃、コミュ障の大学生柴田は、電車で見かけた女性に一目惚れをする。彼女の気持ちなどお構いなしにストーカー行為を増長させていく柴田だったが…。
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(レビュー) 暴力に取りつかれた若者たちの暴走をエネルギッシュな映像と独特のユーモアで活写したバイオレンス映画。
映画のオープニングシーンから驚かされるが、ここからも分かる通り本作は暴力=見世物という思想に徹した作品になっている。画面上で繰り広げられる凄惨な光景の数々は観客の感情を逆なですること必至だが、どこかで”怖いもの見たさ”のような関心が掻き立てられてしまうのも事実である。正にエクスプロイテーション・ムービーを地で行くような作品と言えよう。
監督、脚本は
「スロータージャップ」(2017日)の阪元裕吾。
前作同様、今回も過激な描写とブラックな笑いが横溢する怪作となっている。公開された時期はほとんど同じであるが、演出は暴走一辺倒だった「スロータージャップ」に比べて幾分工夫の跡が見られる。
例えば、日常の中に不意に訪れる暴力の衝撃性はこの監督の一つの持ち味だと思うが、本作では柴田が警察官の拳銃を奪って撃ち殺すシーンにそれが見て取れる。敢えて淡々と、ある意味では軽薄ささえ感じられるこのシーンには奇妙なリアリズムを覚えた。
あるいは、シノブとアキラ達、ヤンキー集団が道端で拉致した少女を監禁レイプするシーンは1シーン1カットで生々しく切り取られており、やはり日常に隣接する暴力の怖さをドライに切り取っている。
逆に、暴力を敢えて見せない省略演出も中々スマートで、例えば柴田にストーキングされる女性の殺害シーンは見事にカットされている。柴田のサイコパス感をより強調するのであればここをダイレクトに見せるという方法もあったと思うが、敢えてそれを見せずに物語を流麗に進めた演出は技アリと言いたくなる。
物語は非常にシンプルである。シノブとアキラの極悪コンビとサイコパス柴田の狂気の日常を交互に見せつつ、クライマックスで彼らの数奇な邂逅を描く…というものだ。物語が意外な方向にスケールアップされていき、ややリアリティを失ってしまうのは残念であるが、そこはそれ。きっと阪元監督の中でも、全て承知の上なのだろう。ゲーム感覚でカジュアルに犯罪を繰り返していく彼らの暴走には、見世物に徹した阪元監督の有り余る熱量みたいなものが感じられた。
また、今作には東日本大震災のボランティアや選挙活動を茶化すようなシーンが出てくる。この辺りには社会の偽善に対する監督なりの痛烈な批評が伺え、中々骨太な一面も見せている。
「スロータージャップ」(2017日)
ジャンルアクション・ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 町山永遠は、フジサキ率いるヤンキー集団に目をつけられ、白昼堂々集団リンチされる。更に兄の龍にそそのかされ当たり屋をやって金を稼ごうとするが失敗。車に轢かれて脳に障害を負ってしまう。永遠の仇を討つために龍はフジサキに復讐しようとするのだが…。
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(レビュー) ヤンキー集団に絡まれた兄弟、永遠と龍が、万引き常習者アキフミと出会ったことで過激な暴力の世界に引きづり込まれていく衝撃のバイオレンス作。
監督、脚本、撮影、編集は阪元裕吾。大学在学中に自主製作した短編「べー。」(2016日)で注目された新鋭である。「べー。」も本作に通じるような無軌道な若者たちによる暴力をテーマにした作品だった。そのクールでオフビートな演出には新人らしからぬ大胆さがあり、今回もそのあたりの才覚は見て取れる。
また、物語のトリッキーな構成も目を引く。永遠と龍の兄弟を描くドラマと万引き常習者アキフミのドラマを並行して描きながら、この二つが中盤で予想外の邂逅を見せ驚かされた。個人的には「パルプ・フィクション」(1994米)を連想したが、タイトルのインサートのタイミングや猟奇的なシーンなどから園子音監督の
「愛のむきだし」(2008日)や
「冷たい熱帯魚」(2010日)の影響も感じる。
演出はシュールでオフビートなトーンが横溢し、どこか安手のB級映画のような微笑ましさ、ユーモラスさが感じられた。正直、決してクオリティが高いとは言い難いのだが、かえってこの粗さが独特のチープな魅力を生んでいるという言い方もできる。
例えば、ヤクザたちとヤンキー集団の衝突シーンには笑ってしまった。そもそも拳銃の使い方をその場で教えてもらうというド素人臭からして何とも間抜けで苦笑せずにいられない。
後半のアキフミの暴走っぷりにはブラックなカタルシスを覚えるし、彼の恋人の予想の斜め上をいく活躍ぶりにも爆笑してしまった。
その一方で、アキフミと隣人とのやり取りにはオフビートなユーモアも感じられ、阪元監督の笑いのセンスは硬軟自在、実に多彩である。
ただ、確かにここまでやりたい放題してしまうと、ドン引きしてしまう人がいても不思議ではない。倫理的な観点からすればすれば大ヒンシュクもので、これを受け付け難いという人がいるのは当然という気がした。しかし、それを大胆にやってのけてしまうあたりは、やはりインディペンデントならではの強みであろう。中々やろうとしてもできるものではない。
但し、障碍者に対する悪意のある描写については余り感心しなかった。この度を過ぎたブラックさも阪元監督の狙いなのだろうと思うが、もう少し愛のある配慮がどこかで必要だったのではないだろうかと思う。
「A2」(1998日)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル社会派
(あらすじ) 解散したオウム真理教のその後を追ったドキュメンタリー。
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(レビュー) 前作
「A」(1998日)に続いて、森達也監督がオウム真理教の内部にカメラを持ち込みながら信者たちの声を引き出していくというスタイルであるが、今回は解散後に各所に散らばった信者たちを焦点を当てた、一種の群像劇風な作りになっている。
また、オウムと対立する右翼団体の内部にもカメラは潜入することで取材の範囲を広げた所に、森監督のジャーナリストとしての”したたかさ”を感じた。
オウム真理教解散後に残された信者たちは住む場所を求めて地方に散らばり、かつての規則に縛られた生活とは程遠い、随分と気の緩んだ日常を送っているのが意外であった。
ただ、オウムの元信者ということで、その暮らしは不自由を強いられる。地域住民から疎まれ、小さな部屋の中で日陰のように生活している。あれだけ大きな事件を起こしたのだから、住民の不安や憤りが収まらないのも無理はない。
中には住民と顔を突き合わせていくうちに徐々に打ち解けていく者もいて、喉元過ぎれば何とやら。本当にこれがあのオウム信者なのか?と驚かされる場面もあった。
もちろん、それは一側面に過ぎないのだろう。しかし、元カルト信者とは言っても相手は一人の人間なわけで、交流が増えれば自然と打ち解けていくのも人の心理として分からなくはない。彼の場合はそこまで洗脳が強く残っていなかったというのも幸運だったように思う。一概には言えないが、話せばいつかは偏見の目も解けていくというケースである。
また、ある信者はかつての親友と再会し、しみじみと昔を懐かしんでいた。オウム真理教の入信をきっかけに、その関係は壊れてしまったが、こうして再び旧交を交わすまでに修復されるのを見ると、元信者の社会復帰は徐々に進んでいくのだな…としみじみとこみ上げてくるものがあった。
他に、本作では元オウム真理教の幹部上祐史浩氏も登場してくる。
彼は刑務所から出所した後に、アレフと名を変えて団体を存続していくことになるが、悲しいかな。周囲の見る目は変わらない。そもそも麻原彰晃の教義をそのまま引き継いでいる時点で、彼らがいくら出直しを図ろうとしても理解は得られないだろう。
尚、現在もアレフはAlephと名称を改名し存続している。そして、上祐氏は新たにひかりの輪を結成して活動を続けている。そのあたりのことは今では、ほとんど報道されなくなってしまった。しかし、昨今の旧統一教会然り。新興宗教の中には必ず社会の脅威となるものがあるということを、我々は常に忘れてはいけないように思う。
「「A」」(1998日)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル社会派
(あらすじ) オウム真理教の荒木浩広報副部長を中心に信者達に密着取材したドキュメンタリー。
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(レビュー) オウム真理教が犯した犯罪については断罪して然るべきである。しかし、当たり前のことであるが、どんな組織でも、その中には一人一人の「個」がいるわけで、麻原彰晃に師事し教団の教えを守った信者でも、一皮むけばやはり一人の人間なのである。そんなことを改めて教えてくれるという意味で、本作は非常に興味深く観れる作品だった。
監督はドキュメンタリー作家としてのみならず様々なメディアで活動している森達也。以前観た
「FAKE」(2016日)もそうだったが、彼は被写体の深部に客観的に迫りながら、どこか冷めた眼差しで見つめているようなところがある。また、観客に回答を委ねる姿勢は、”観察映画”を自認する相田和弘と通じるような所があると思った。
中心となるのはオウム真理教の広報副部長・荒木浩に対する取材である。信者としてマスコミの対応に追われる荒木氏。両親の反対を押し切って出家した一人の若者としての荒木氏。公私にわたる両方の顔を捉えながら、マスコミ、公権力、教団を非難する一般市民との対峙に明け暮れる日々をカメラは淡々と記録している。そこから見えてくるのは、強引なマスコミの取材態勢や、公安の行き過ぎた捜査などだ。森監督はそこに問題を提起している。
注目したいのは、中盤で登場する公安による不当逮捕のシーンである。歩道で信者が刑事と押し問答になり、刑事を押し倒したとして公務執行妨害で逮捕されてしまう。しかし、押し倒したのはむしろ刑事の方だったということは、カメラに記録された映像を観れば一目瞭然である。ご丁寧に刑事は足を引きずる”作り演技”までしており、カメラはそれもしっかりとフィルムに収めている。
いわゆる”転び公妨”と呼ばれるものであるが、自分は映画やドラマといったフィクションの中ではよく目にしていたが、実際にそれが行われた映像は初めて見た。日常的にこんなことが行われていること自体、異常なことであるし、普通に考えて恐ろしいことである。
結局、森監督とプロデューサーは、そのビデオテープを弁護士に供託することにして信者は無事に釈放されたそうである。しかし、もしこの証拠がなかったらと思うとゾッとする。
映画は、荒木浩以外にも複数の信者について取材をしている。いずれも逮捕された麻原彰晃を未だに信奉しつつも、事件についての感想を聞かれると口ごもり気まずそうな表情になるのが印象的だった。そこから夫々の葛藤のようなものが透けて見えてくる。きっと内心では後ろめたい気持ちもあるのだろう。
そして、荒木氏本人も見るからにファニーフェイスで宗教に染まっていなければいたって普通の青年に見える。彼は頭が切れるので、他の信者のように悩める心情を決して表に出したりはしない。だからこそ、広報副部長としてスポークスマン的な役割を担わされているのだが、しかし冷静に考えてみれば、これは恐ろしいことじゃないかと思う。人当たりが良くどこか頼りなさげなこの青年に、うっかり同情してしまいそうになるからだ。実際には彼も麻原彰晃の教えにドップリと浸かった信者である。その事実を見落としそうになってしまう。
これは宗教の勧誘にも言えることだと思う。人当たりの良い面を見せて警戒心を解いて付け込むというのは、この手の勧誘の常套手段だ。ここに出てくる信者たちも、きっとそこに引っかかってしまったのだろう。
「解放区」(2014日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) ドキュメンタリー作家になることを夢見ながら小さな映像制作会社で働くスヤマは、引きこもり青年、本山の取材現場で先輩ディレクターに反抗したことから部署を外される。一念発起して新たな企画を立ち上げるスヤマだったが…。
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(レビュー) ドキュメンタリー作家を目指す青年の苦悩をドライヴ感溢れるタッチで描いた作品。
まるでドキュメンタリーを観ているかのような生々しさに驚かされる。スヤマは新しい企画を立ち上げ、取材のために大阪の西成に入るのだが、そこで映し出されるロケーションが奏功している。炊き出しの風景などの実際の映像を交えながら、現実とも虚構ともつかぬ不思議な雰囲気が漂っている。
西成と言えば、日本で有数のドヤ街で治安も悪いとされている街である。最近でこそ再開発が進み、かつての風景とは大分趣を異なるという話を聞くが、映画が撮影された頃はまだ近寄りがたい雰囲気が漂う街であった。そんな西成にカメラを持ち込んで撮影した本作は半分ドキュメンタリーと言ってもいいかもしれない。
尚、本作は当初、大阪アジア映画祭に出品するために大阪市から支援を受けて製作された。ところが、劇中に出てくる映像が不適切として編集を要請され、監督、脚本、主演を務めた太田真吾はこれを拒否したということだ。結果的に助成金を返納して、彼は自主製作で完成までこぎつけた。
路上に寝転がる酔っぱらい、日雇い労働者のブローカー、ジャブの売人、炊き出しに集まるホームレスの群れ、粗末な宿泊場等が赤裸々に映し出されている。市からすればイメージダウンに繋がりかねないネガティブな表現に難色を示すのも無理からぬ話である。
ただ、純粋にドキュメンタリーとして作られているのならともかく、本作はフィクションである。いくらリアルな光景が映し出されているからと言って、一方的に編集を要請するというのは如何なものであろうか。
太田監督の作品は今回初見となるが、元々はドキュメンタリーを撮っていたということである。なるほど、それを知ると本作の独特のテイストも合点がいく。いたずらに話題性だけを狙って西成を舞台にしたというわけではなく、西成の実情を知って欲しいという気持ちから製作に至ったのであろう。
そして、自らスヤマを演じていることから、太田監督はこの主人公に少なからず自己投影している節も見受けられる。
スヤマは自分の撮りたいイメージすら掴めないでいる中途半端なドキュメンタリー作家である。同棲中の恋人とはうまく行かず、新しく立ち上げた企画も通らないまま、見切り発車のような形で西成に取材に入った。その際、一人では心細いので、かつて取材した引きこもり青年、本山を協力者として引き連れて行く。まず、ここからして問題である。どうして引きこもりの彼を連れだしたのか?当然、本山の家族は心配し、大事に発展してしまう。
しかも、そもそも計画性皆無の取材であるから当然撮影も上手くいかず、やがて資金は底を尽き、太田は怠惰で荒んだ”西成”の街にドップリと浸かりながら堕落の一途をたどってしまう。理想と現実のギャップにもがき苦しむその姿は、きっと監督自身の姿なのではないか…そんな風に想像できた。
作家の自己投影映画というのはフェリーニや園子温、北野武等、割と自己顕示欲が強い監督がこれまでにも撮っているが、彼もまたそういったタイプの監督なのかもしれない。
個人的には、本山を巡って展開されるサイドストーリーの方も面白く観ることが出来た。彼はスヤマにそそのかされて一緒に西成に入るが、いつの間にか彼もまた西成の街に馴染んでいってしまう。引きこもりの彼が、期せずして外の世界に出ていくという所にドラマを感じる。そして、そんな彼を家族が心配し連れ戻そうとするのが何とも皮肉的だ。
また、本山が終盤で吐露する言葉も印象に残った。彼を連れ戻そうと兄がやって来て喧嘩になるのだが、そこで初めて自分の思いをカメラに向かってぶつける。それは現代の格差社会に対する痛烈なアンチテーゼであり、その現実を何も伝えようとしないマスメディアに対する怒りにも聞こえた。
本作は一人のドキュメンタリー作家スヤマの葛藤を描くドラマであるが、それは同時に太田真吾監督自身の内省のドラマでもあり、更に言えばメディアに携わるドキュメンタリー作家としての使命を問うた作品のようにも思った。
「シン・仮面ライダー」(2023日)
ジャンルアクション・ジャンル特撮・ジャンルSF
(あらすじ) ショッカーのアジトから脱出した本郷猛と緑川ルリ子はクモオーグの攻撃により窮地に追い込まれていた。本郷は本能的にバッタオーグへと変身し、その危機を回避する。ところが、戦いの最中で恩師・緑川弘を目の前で殺されてしまう。父を失ったルリ子はショッカーとの戦いに執念を燃やし、本郷もそれに協力するようになっていく。
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(レビュー) 1971年にテレビ放送された特撮作品「仮面ライダー」を、
「シン・ゴジラ」(2016日)、
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」(2020日)の庵野秀明が50年ぶりにリブートしたSFアクション作品。
庵野監督にとって念願の企画だったらしく、その思い入れは十分に伝わってくる作品だった。原作に対するリスペクト、マニアであればクスリとできるような小ネタがふんだんに詰め込まれていて、旧作ファンなら十分に楽しめるのではないだろうか。
自分も後追いではあるがオリジナルのテレビ版を見ているし、石ノ森章太郎氏の原作コミックスを読んだことがあるので色々な発見があって面白く観ることができた。
但し、オリジナル版や原作マンガを知らない仮面ライダー初心者が観た場合はどう映るだろうか?大変入り込みづらい作品のように思う。
映画は何の説明もなくいきなりカーチェイス・シーンから始まる。確かにテンション高めでワクワクさせられるが、同時にこの世界観を全く知らない人にとっては唐突過ぎて付いていけないのではないだろうか。
世界観や人物の説明も意味深な固有名詞が乱発するので何が何やらである。庵野作品ではお馴染みの例のアレなのだが、その耐性がない人にとっては難解に思えるかもしれない。
物語自体は1本芯が通っているのでそれほど難しいわけではない。ただ、枝葉の部分がどれもこれも中途半端なのが問題で、ネタとしては面白いものの、それ以上でもそれ以下でもないというのが困りものである。
総じて、”遊び心”に溢れたオマージュ作として良く出来た映画という印象である。但し、良くも悪くも庵野監督の思い入れが強すぎて、かなり歪な作品になってしまった感は拭えない。
もう一つ、見せ場となるアクションシーンについても書いておきたい。今回はPG12のレーティングなので、多少の流血シーンが出てくる。旧作は子供向けらしからぬ禍々しいトーンが一つの魅力であったので、そのあたりを意識してのことだろう。そういう意味では、原作の良い所を取り入れてると思った。
ただ、「シン・ゴジラ」同様、iPhoneやGoProを使って庵野監督本人が撮影を務めており、妙に凝ったアングルや早いカット割りが目につく。暗い場所でのアクションシーンになると何をやっているのかサッパリ分からないという始末で、もう少し見やすくしてほしかった。
また、CGアクションの出来もやや物足りず、個人的には
「シン・ウルトラマン」(2022日)の方がよく出来ていると感じてしまった。
キャスト陣の演技は押しなべてクールあるいは道化的な演技が目につき余り面白みを感じなかったのだが、そんな中、ルリ子を演じた浜辺美波だけは後半から良くなっていく。主人公は本郷猛だが、一方で本作はルリ子が自らの運命に立ち向かっていくドラマにもなっており、本郷との関係性を含め、彼女の心情変化に見応えを感じた。
「NOPE/ノープ」(2022米)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 映画やテレビのために馬の調教を行っていたヘイウッド家は、父の急死で経営の危機に陥ってしまう。後を継いだ息子のOJと娘エメラルドは、元子役のリッキーが経営するテーマパークに馬を売りに出した。そんなある夜、OJは上空に不思議な物体を目撃する。
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(レビュー) 空に浮かぶ不思議な物体に翻弄される兄妹の運命を予測不可能な展開で見せるSFサスペンス作品。
監督、脚本は
「ゲット・アウト」(2017米)、
「アス」(2019米)のジョーダン・ピール。
ナンセンス且つユニークな設定が、いかにもこの監督らしく、演出力も抜群に高い人なので今回も最後まで面白く観ることが出来た。
彼はテレビシリーズの新「トワイライト・ゾーン」の企画・製作総指揮も務めており、今回の物語はどちらかと言うとそれに近い印象を持った。
ただ、今回はこれまでの作品と比べて社会派的なメッセージがやや後退していると感じた。純粋にエンタメに振り切っており、そこに個人的には少々物足りなさを覚えた。
これが良いのか悪いのか分からないが、もはやハリウッドのヒットメーカーを担う存在となった以上、作家性よりも大衆が好むエンタメに傾倒していくのは無理からぬ話である。
作中に様々なオマージュが見つかるのも本作の楽しみの一つである。
例えば、大友克洋の「AKIRA」(1988日)、スピルバーグ監督の「未知との遭遇」(1977米)、ジョン・カーペンター監督の「ゼイリブ」(1988米)、更には「新世紀エヴァンゲリオン」などからの引用も見られる。
また、本作は映画の原初に対するピール監督の敬愛も感じさせる作品で、それは冒頭の”動く馬”の連続写真からもよく分かる。これは実在した写真家エドワード・マイブリッジによる世界初の動く映像であり、ある意味ではリュミエール兄弟に先駆けて発表された”活動写真”とみなすことが出来る代物である。
実は、これが本作における重要なモティーフとなっており、頭上に浮かぶ得体のしれない”何か”をカメラに収めようとするOJとエメラルド兄妹の奔走を描く本ドラマのキーワードにもなっている。
余り情報を入れないで観た方が楽しめる作品だと思うので、これ以上のネタバレはしないが、そうした作品に忍ばされたメッセージを受け取りながら観ると本作は更に味わい深く鑑賞できる。
尚、本作はIMAXカメラを使って撮影された作品である。撮影監督はホイテ・ヴァン・ホイテマ。彼はクリストファー・ノーラン監督とよく組んでおり、
「インターステラー」(2014米)や
「ダンケルク」(2017米)、
「TENET テネット」(2020米)でもIMAX撮影を行った名手である。一説によると本作では約4割がIMAXで撮影されたと言われている。特に、ロケーション撮影における迫力はIMAXならでは効果が十分に発揮されていて、これはぜひとも映画館で観てみたかった。今回は配信での鑑賞になってしまったことが惜しまれる。
今年のアカデミー賞は
「エブエブ」の圧勝という感じで終わりました。こういうのは流れというのがあって、賞レース序盤こそ
「イニシェリン島の精霊」が先行していた印象でしたが、後半からの「エブエブ」の巻き返しが凄まじかったです。
また、一昔前ではこうしたジャンル映画が受賞するというのも考えられない事でした。そういう意味ではアカデミー賞も大分変って来たという感じがします。
さて、個人的に昨年観たベスト10を発表したいと思います。昨年観た映画は40本。コロナ渦が日常化し映画館に行く機会もいつもの頻度に戻った1年でした。そんな中でのベスト10。個人的には中々の当たり年だったと言えます。
1.
戦争と女の顔
2.
ベイビー・ブローカー
3.
コーダ あいのうた
4.
RRR
5.
トップガン マーヴェリック
6.
ケイコ 目を澄ませて
7.
さがす
8.
パワー・オブ・ザ・ドッグ
9.
英雄の証明
10.
フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊
作品賞 「戦争と女の顔」
監督賞 S・S・ラージャマウリ(「RRR」)
脚本賞 是枝裕和(「ベイビー・ブローカー」)
主演男優賞 ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ(「
ニトラム NITRAM」)
主演女優賞 ヴィクトリア・ミロシニチェンコ、ヴェシリサ・ペレリギナ(「戦争と女の顔」)
ジャンル俺アカデミー賞
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「ベネデッタ」(2021仏オランダ)
ジャンルサスペンス・ジャンルエロティック
(あらすじ) 17世紀のイタリア。ベネデッタは幼い頃から聖母マリアと対話することが出来る不思議な少女だった。両親はそんな彼女を修道院に入れる。その後、成長したベネデッタは修道院に逃げ込んできた若い娘バルトロメアと出会う。やがて2人は禁断の関係で結ばれていくようになるのだが…。
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(レビュー) 17世紀に実在した修道女ベネデッタの数奇な人生を描いた作品。
同性愛者として裁判にかけられたという記録から、鬼才ポール・ヴァ―ホーベンが着想して撮り上げた問題作である。
カトリック教会を舞台に同性愛、魔女狩り、拷問、権力闘争を描いており、かなり挑発的な内容の作品になっている。しかも、事実を元にしているという前振りをわざわざクレジットする大胆さで、このあたりに鬼才ヴァ―ホーベンの気骨が伺える。
これまで宗教という物に余りこだわりを見せてこなかった氏が、ここにきてそれを題材にしたというのは少々意外だった。「4番目の男」(1982オランダ)に若干、聖母のイメージが嗅ぎ取れるが、
「トータル・リコール」(1990米)にしろ「インビジブル」(2000米)にしろ実存主義の作家という印象を持っていたからである。このあたり、一体どういう心境変化があったのだろうか?
ともあれ、今作もかなりスキャンダラスな内容であることは間違いなく、宗教に狂わされていく人々の姿をシニカルに表しており、いつものヴァ―ホーベンらしさは感じられる作品である。
映画は、キリストの幻視を通して修道院でのし上がっていくベネデッタの姿を、バルトロメアとの愛欲を交えながら描いている。ベネデッタは本物の聖女なのか?それとも只のペテン師なのか?そのあたりの真偽を敢えてぼかしている所が面白い。
例えば、ベネデッタがキリストの復活を再現して見せる所などは理屈では考えられないシーンである。少女時代のベネデッタが倒れたマリア像に押しつぶされそうになるシーンも、普通に考えたら起こりえない現象である。こうしたオカルト的な事象に加え、彼女の周囲には様々な事が偶発的に起こる。したがって、全てを彼女の狂言というふうに片付けられない所がミソで、彼女のミステリアスな存在感にグイグイと引きつけられた。
そして、ヴァーホーベンと言えばエロスとバイオレンスの作家というイメージがある。本作の製作時、齢80を超えていたが、それでもなお衰え知らずといった感じで、刺激的なベッドシーンや残酷な拷問シーンが登場してくる。このあたりの作家性も健在である。
本作で残念だったのは、終盤にかけて作りが若干雑になってしまった点だろうか。バルトロメアの心理変化が省略されてしまったことと、ベネデッタが町の外へ出た理由がよく分からなかった。それまで丁寧な描写に徹していたのに、終盤はひどく無頓着な演出になってしまったことが残念でならない。
また、後半はベネデッタとバルトロメアの愛欲関係を断罪する審問会が見所となるのだが、ここも”ある証拠品”を巡る取り扱いが安易に感じられた。推理物では、もはや使い古されたトリックで、もう少し捻りが欲しい。
キャスト陣では、何と言ってもベネデッタを演じたヴィルジニー・エフィラの堂々たる演技が印象に残った。悪魔に取りつかれように激昂するシーンは、ほとんどホラー映画のような恐ろしさであった。
修道院長を演じたシャーロット・ランプリングは複雑な胸中を深みのある演技で体現し、こちらも貫禄の巧演を見せている。
尚、本作には一つだけ大きなミステリーが残されている。それは終盤でベネデッタが修道院長の耳元でささやいた言葉である。劇中では無音なので聞き取れなくなっているが、果たして彼女はどんな言葉をかけたのだろうか?その後の修道院長の行動を考えると興味が尽きない。そこを探ってみると、本作の味わいは一層増すだろう。