「三姉妹 雲南の子」(2012香港仏)
ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) 中国で最も貧しい地域といわれる雲南省の村に住む幼い三姉妹を描いたドキュメンタリー。
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(レビュー) 母親が疾走し父親が出稼ぎで家を留守にする中、10歳のインイン、6歳のチェンチェン、4歳のフェンフェンの三姉妹の日常生活が淡々と映し出されるドキュメンタリーである。幼い彼女たちが精いっぱい生きる姿を見ていると、自分などは恵まれた環境で育った方だと自覚してしまう。
昨今、中国は都市部と農村部の経済格差が顕著になっており、インインたちが住む村も実に貧しい暮らしを強いられている。そんな劣悪な環境にめげずに三姉妹は力を合わせて、時に喧嘩をしながら一緒に暮らしている。生命賛歌的な趣を感じるとともに、経済格差という問題も実感される。
監督は
「無言歌」(2010香港仏ベルギー)、
「収容病棟」(2013香港仏日)のワン・ビン。
三姉妹の暮らしぶりを文字通り”観察する”スタイルで淡々と切り取っている。彼女たちにカメラの存在をまったく意識させないあたりは、羽仁進監督の
「教室の子供たち」(1954日)、
「絵を描く子供たち」(1956日)を彷彿とさせるナチュラルさで、ドキュメンタリーであることを忘れさせるような不思議な味わいが感じられる。
夫々のキャラクターも明確に伝わってきた。しっかり者のインインは不在の両親に変わって家事全般をこなす面倒見のいいお姉さん。次女のチェンチェンはそれを手伝いながら時折フェンフェンをからかっていじめる、まだあどけなさを残したおてんば娘。三女フェンフェンは、ひたすら無邪気な天使のように存在している。
そんな彼女たちの暮らしぶりは、貧困と孤独の戦いだ。祖父や叔母といった親戚が近くに住んでいるので、万が一何かあった場合は彼らに頼ることはできるが、それでも幼い子供たちだけの生活は不自由極まりない。したがって、こちらとしてはほとんど保護者目線で本作を観てしまった。
映画は中盤でようやく三姉妹の父親が登場してくる。出稼ぎから帰ってきた父親と久しぶりの一家団欒を過ごす三姉妹。そこで見せる明るい表情はとても印象的だった。いつも険しい表情をしていたインインなどは年相応の子供らしい笑みを浮かべ、何だかホッと安堵させられたりもした。
本作はロケーションも大きな見どころである。雄大な高原がちっぽけな三姉妹の暮らしぶりとの対比で、ことさら過酷に見える。寒い時期は霧がかかり、夏になれば虫や湿気で不快指数が高そうである。
個人的に印象に残ったのは後半、インインが近所の友達と喧嘩になり孤立してしまうシーンだった。ただでさえ孤独な彼女にとって、この一件はどれほど心に深い傷を残しただろう。狭い村社会では密なる人間関係が築かれているが、そんな中でトラブルを起こしてしまうとどうなるのか?疎外され居場所がなくなってしまう。こういうのを見ると、かえって都会の方が、人間関係は空疎な分、暮らしやすいのかな…という気がしなくもない。このあたりにも都会と地方の差が実感される。
「僕が飛びはねる理由」(2020英)
ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) 世界各地の5人の自閉症の少年少女とその家族たちの取材を重ねながら、自閉症の人々が見ている世界を美しい映像とともに描き出したドキュメンタリー。
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(レビュー) 自身も自閉症である東田直樹が13歳の時に執筆したエッセイを元にして製作されたイギリスのドキュメンタリー。「クラウド アトラス」(2012米)などで知られるイギリス人の作家デイヴィッド・ミッチェルによって原作は翻訳され、これが世界的なベストセラーになったということである。
登場するのは、インド、イギリス、カナダ、シオラレオネの自閉症の子供たちである。自分の内面を上手く言葉で表現できない子供たちばかりだが、夫々に秀でた才能を持っていて、ある者は絵画の才能に溢れていたり、ある者は記憶力が人並外れていたりする。彼らを見ると、ひょっとすると普通の人よりも感受性が強く繊細な人間が多いのではないか…という気がした。
中でも印象的だったのは、文字盤を通して会話をする自閉症の男女だった。この方がコミュニケーションがスムーズに行くというのである。どういう論理でこの手法が成功しているのか、そのあたりは映画の中では余り詳しく紹介されていなかったのだが、この試行は大変興味深く観れた。
但し、映画を観終わって他の方の感想を読んで知ったのだが、この文字盤を使ったコミュニケーション、ファシリテイテッド・コミュニケーションは科学的に否定されている文献もあるということである。詳細は
wikiにも書かれているので、興味のある方はお読みいただきたい。したがって、このエピソードをどこまで信用して観たらいいのかよく分からないというのが正直なところである。
映画は夫々の子供たちを紹介しながら、時折、原作のエッセイをバックに日系人少年のイメージショットが挿入される。この少年は、本作にも登場するデイヴィッド・ミッチェルの自閉症の息子ということだ。
この演出が作品に幾分和らかい印象を与えていて、どこか救われる感じがした。美しい自然の中で自由気ままに飛び跳ねる少年の姿に無限の可能性、明るい未来を見てしまいたくなる。
自閉症、発達障害についてはまだ十分に世間に認知されているとは言い難い状況にあると思う。本作を観て少しでも理解が深まればいいなと思う。
「さらばアフリカ」(1966伊)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル社会派
(あらすじ) 白人社会から脱却していくアフリカ黒人の姿を描いたドキュメンタリー。
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(レビュー) 「世界残酷物語」(1962伊)や「続・世界残酷物語」(1963伊)で注目されたモンド映画の巨匠グァルティエロ・ヤコペッティが、白人の支配から解放されていくアフリカ大陸を圧倒的スケールで3年という歳月をかけて捉えたドキュメンタリー映画。
ヤラセもたくさんあるのがこの監督の作品の特徴で、そういう意味では純粋にドキュメンタリーという括りに入れにくい作品である。しかし、「世界残酷物語」や「続・世界残酷物語」によって確立された彼の作風は、本作ではよりシビアに風刺を効かせており、たとえヤラセと言えど強い意思表示が感じられる。エンタメ精神が旺盛で、つい盛ってしまうのが玉に瑕だが、白人による支配がアフリカ大陸にもたらした功罪を真摯に問うているような気がする。ヤコペッティは根本的にジャーナリスティックな姿勢を持っていることは間違いない。
実際、虚実入り混じった映像の数々に最後まで面白く観れる作品である。思わず笑ってしまうような、明らかなヤラセもあれば、どこまで本物でどこまでが偽物かハッキリとしないような箇所もある。それらすべてをひっくるめて、いかにもヤコペッティ印な作品になっている。
例えば、ザンジバルでアラブ人の村を焼き払って大量虐殺するシークエンスなどは、ほとんどの死体がうつぶせになっていることを考えればヤラセではないかと思われる。もしそうだとしたら、これだけの大量のエキストラを使って本気で捏造映像を作ったヤコペッティのエンタメ精神には、賛否は置いておくとして、参りましたというほかない。
他にもこの映画の中には色々とヤラセらしきものがあって、模擬キツネ狩りのシーン、村人たちによる西洋楽器の演奏シーン、ケープタウンの海岸で戯れる白人女性のシーン、マウマウ団の裁判なども映像やシチュエーションを考えるとヤラセと思われる。
虚実を不明のシーンとしては、ルワンダのフツ族によるツチ族の弾圧は少し判断に迷う所である。大量に切り落とされた手の映像が映し出されるのだが、これなどは作り物にも見えるし、本物のようにも見える。
終盤で描かれるコンゴの動乱も、どちらか分からない。傭兵によって二人の男が銃殺されるシーンをカメラはすぐ近くから捉えている。引きづられる死体を見る限り本物の映像のように見えるのだが、実際にこれが本物だとしたら、すぐ近くで本物の殺人を記録したということで大問題になるだろう。実際、ヤコペッティと撮影クルーは、このシーンで殺人教唆として告訴された。その後、イタリア司法省により却下されたということであるが、それくらい真に迫ったシーンである。
一方で、広大なアフリカの大自然を捉えた美しい景観の数々には、率直に感動を覚えた。幌馬車に乗ったボーア人の旅を捉えた映像、シマウマの子供を吊るしたヘリコプターが夕焼けをバックに飛行する映像等、ネイチャー・ドキュメンタリーのような壮大で美しい映像が心に残る。
また、本作には動物を狩るシーンがたくさん出てくる。象やシマウマ、カバ、鹿、ハゲタカ等、様々な動物が残酷に殺されていく。これらはほぼ実際の映像だろう。動物愛護団体が見ると卒倒するような代物で、自分も見てて嫌な気持ちにさせられたが、これが文明の歴史であるということは否定しようがない事実である。正直な所、言葉も出ない。
ヤコペッティは本作を最後にドキュメンタリー映画を撮るのを辞めて劇映画へとシフトチェンジしていった。おそらく先述の告訴の件もあり、本人の中ではやり切ったということなのだろう。
ただ、彼が残した功績は意外に大きいのではないかと思う。今やヤラセを使ったフェイクドキュメンタリーは続々と作られており、一つのジャンルとして確立された感がある。これら純粋なフェイクドキュメンタリーとヤコペッティのモンド映画は、その意味合いは全く異なるため同列に並べることはできない。しかし、少なくとも彼の一連の作品がなければ、その後の流れは変わっていたかもしれない。そう考えるとモンド映画、とりわけ本作は映画史において大変重要な1本ではないだろうか。
「コヤニスカッティ」(1982米)
ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) 自然と文明の営みを雄大な音楽にのせて綴った壮大な映像コラージュ作品。
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(レビュー) 息を呑むような美しい映像の連続と、壮大なテーマソングに心奪われるドキュメンタリー作品である。
雄大な山々、大海原といった大自然を捉えた映像から、石油採掘、高層ビルが立ち並ぶ街の風景、巨大な自動車工場、マーキュリー計画等、文明の軌跡を辿るような映像が次々と映し出され、その圧倒的なスケール感に打ちのめされてしまう。
その一方で、人類が文明を発展させた弊害として、気候変動やエネルギー問題といった負の部分も本作は鋭く指摘してる。
タイトルの「コヤニスカッティ」とは、ホビ族の言葉で“平衡を失った世界”を意味しているということだ。映画のラストでその意味と共に表示されるが、なるほどこれは本作のテーマをよく表していると思った。繁栄の先に待ち受ける絶滅という未来、ある種黙示録的な含意を読み取ることができる。
ナレーションは一切なく映像のみのコラージュであるが、決して難解というわけではない。次々と流れていく映像を見ていれば、自ずとこうしたメッセージは明確に汲み取れよう。
個人的に最も印象に残ったのは、高層ビルの影に徐々に隠れていく満月の映像だった。仮にこれがトリック映像ならそれほど驚きもしないのだが、ここに映し出される映像はどれも本物ということらしい。そう考えると、これがいかに神秘的で幻想的な光景か。
尚、本作は製作にフランシス・F・コッポラの名前がクレジットされている。ただ、実際には彼は作品に関わっているわけではなく、本作をいたく気に入り名前を貸しということらしい。また、本編中に本人が少しだけ登場してくる。自分はまったく気づかなかったが、どうやらエレベーターに乗り込む姿が見れるらしい。
監督のゴッドフリー・レジオは今作を含め”カッツィ”三部作を製作したほか、ミュージッククリップなどでも手掛ける寡作家である。機会があれば残りの2本も鑑賞してみたい。
「TAR/ター」(2022米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 女性として初めてベルリンフィルの首席指揮者に就任したリディア・ターは、同性のパートナーで楽団のリーダー、シャロンと幼い養女と充実した日々を送っていた。ところが、順風満帆に見えた彼女のキャリアに次第に”影”がちらつくようになる。楽団のオーディションに、かつてリディアと関係のあった女性がエントリーしてくる。
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(レビュー) 自分はクラシック音楽に明るくないというのもあるが、指揮者というともっぱら男性というイメージを持っていた。しかし、本作で描かれているように、数は少ないながら女性の指揮者もいるということである。古い伝統と格式が重んじられる世界なので指揮者=男性というイメージを抱きがちだが、確かに今の時代であれば、彼女のような天才的な女性の指揮者が登場しても不思議ではない。
リディア・ターは女性で初めてベルリンフィルの首席指揮者になった才女である。このキャラクターには、男尊女卑的な組織に対するアンチテーゼが込められているように思った。
序盤の公開対談や音大における講義のシーンからも、そのことは伺える。彼女はレズビアンのリベラリストである。そんな彼女がクラシック音楽の世界でトップの座に就いたというのは、強い女性像を象徴しているとも言える。
ただ、こうしたジェンダー論は、物語が進行するにつれて、それほど重要な要素ではなかったということが分かってくる。
結局、この映画は栄光からの転落を描く、よくあるドラマだったのである。
トップに輝いた者が背負う宿命と言えばいいだろうか。嫉妬や恨み、陰謀によって徐々に精神的に追い詰められ惨めに落ちぶれていくという破滅のドラマで、映画の冒頭で期待していたものとは異なる方向へドラマが展開されていったことにやや肩透かしを食らってしまった。主人公を女性にするのであれば、もう少し違ったアプローチの仕方があったのではないだろうか。
もちろん、女性にしたことによって、本作は一つの特色を出すことには成功していると思う。これが男性だったら、更に俗っぽいドラマになっていただろう。そういう意味ではケイト・ブランシェットをキャスティングした意義は大いにあるように思う。しかし、ジェンダー論はこの場合はノイズになるだけで、かえってドラマの芯をぼかしてしまっているような気がした。
そのケイト・ブランシェットの熱演は見事である。彼女を含めた周囲のキャストも全て魅力的で、とりわけ後半から登場するチェロ奏者オルガは一際印象に残った。演じたソフィー・カウアーは本職がチェリストで今回が映画初出演というのを後で知って驚いた。若さと才能に溢れた奔放なキャラクターは短い出番ながら強烈なインパクトを残す。
製作、監督、脚本を務めたトッド・フィールドも円熟味を帯びた演出を披露している。すべてを容易に”ひけらかさない”語り口が緊迫感を上手く醸造し、上映時間2時間半強を間延びすることなく見せ切ったあたりは見事である。寡作ながら改めて氏の演出力の高さが再確認できた。
音の演出も色々と工夫が凝らされていて面白かった。チャイムが鳴る音やメトロノーム、冷蔵庫のコンプレッサー、ドアをノックする音がリディアの不安定な精神状態を上手く表現していた。実際に鳴っているのか?それとも幻聴なのか?彼女の中で判然としないあたりがサイコスリラーのように楽しめた。
怖いと言えば、リディアの強迫観念が生み出した悪夢シーンも不条理ホラーさながらの怖さで、画面に異様な雰囲気を創り出していた。
尚、音の演出で重要だと思ったのはチャイムの音である。リディアは部屋の中でその音を度々耳にするが、どこから鳴っているのか分からずそのままにしてしまう。実はその音はチャイムの音ではなく、隣人が発する救命コールだった。映画を観た人なら分かると思うが、彼女がその音を気にかけていたなら、隣人は”ああいう事態”にはならなかったかもしれない。
このエピソードから分かる通り、彼女は基本的に他者の意見、声には耳を貸さないタイプの人間なのである。この情にほだされない非情さゆえに、彼女は現在の栄光を手に出来たのかもしれない。しかし、同時にそのせいで彼女は恨みや嫉妬を買い自身の立場を危うくしてしまった。このチャイムの音のエピソードは、そんなリディアの人間性を見事に表しているように思う。
「ラビッド・ドッグズ」(1974伊)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) ”博士”をリーダーとした強盗一味は現金輸送車を襲撃するが、警察に追われ逃走する羽目になってしまう。道すがら女性を人質に取り、病気の子供を抱えた父親が運転する車に乗り込んで、どうにか警察の追撃をかわすのだが…。
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(レビュー) 強盗一味の逃走劇を息詰まるタッチで描いたクライム・サスペンス作品。
ほとんど車内だけで展開されるミニマルな作品でありながら、限定されたシチュエーションを巧みに利用したスリリングな作品になっている。次第に内部対立を起こし始める強盗一味。人質の女性。運転手の中年男。病気の子供。警察に追われながら、彼らの逃避行は続く。緊張感みなぎる演出で最後まで飽きなく観れた。
監督、撮影はイタリアン・ホラーの父マリオ・パーヴァ。ホラー作家というイメージだが、こうしたサスペンスも撮っていたとは知らなかった。
車中という設定上、顔のクローズアップが多いため、画面から伝わってくる息苦しさ、追い詰められる切迫感は中々のもので、この辺りの演出力はさすがはマリオ・パーヴァと唸らされる。
また、逃走中に起こるアクシデントも物語をスリリングに見せていて、最後まで目が離せなかった。
病気の少年はかなりの重病らしく危険な状態である。早く病院へ連れて行きたい父親は強盗犯に抵抗するが、その駆け引き、心理戦に見応えを感じた。
また、バーヴァと言えば露悪的な見世物演出が一つの特徴であるが、本作にもそうした作家性はよく表れている。例えば、逃走を試みた女性に対する強盗犯たちのセクハラは大変えげつなく、その陰険なやり方も含め、実に生々しい描写が徹底されている。
ユーモアを凝らした演出も見られる。自家用車が故障したと言って乗り込んでくるおしゃべりな女性が後半から登場してくるのだが、車中の微妙な空気にブラックな笑いが感じられた。
一方、”博士”をはじめとした強盗一味は一癖も二癖もある連中が揃っていて、特に”32”と呼ばれる男は、女を見ると我を忘れてしまうトラブルメーカーで存在感が抜群だった。
ラストも意外なオチで面白かった。そうくるかと1本とられた次第である。
本作で1点だけに気になったのは、多くの一般人に目撃されているにも関わらず、誰からも通報されなかったことである。プロット的には当然あって然るべき展開だと思うが、そこが完全にスルーされてしまったのが残念である。
「リサと悪魔」(1973伊)
ジャンルホラー
(あらすじ) 観光に来ていたリサは、古い建物に描かれた死体を担ぐ悪魔の壁画を見た後、その絵にそっくりの男と遭遇する。路地に迷い込んでしまった彼女は、偶然通りかかった旅行者夫婦に助けられ、宿を求めて古い屋敷に泊まる。そこにはどこか怪しい母子と、街で見かけたあの男が召使として住んでいた。
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(レビュー) 悪魔の絵にそっくりな男に出会ったことで、複雑怪奇な事件に巻き込まれていく女性の恐怖を、ゴシック・ムード満点に描いたホラー作品。
目くるめく迷宮世界に主人公リサ同様、観る者も誘われてしまう幻想奇談である。
リサが辿り着いた古い屋敷には”ある秘密”があり、そのカギを握るのが屋敷の子息マックスである。実は、彼は過去に愛した女性がいたのだが、ある理由でその愛は終わりを告げてしまう。それでも彼女に対する愛は未だ冷めやらず、病的なほどの未練に戦慄すると同時に、彼の境遇を考えるとどこか哀愁も覚えた。人間の悲しき情愛が透けて見えくる所に、単なるホラー映画とは一線を画した味わいが感じられる。
監督、共同脚本はマリオ・パーヴァ。独特の様式美を今回も如何なく発揮しているが、今回は割と物語を追いかけることに専念しており、見せ場となる恐怖シーンは終盤に集中している。そのせいか他の作品と比べると地味な印象は拭えないが、終盤の盛り上がりは中々のものである。
例えば、死んだはずの登場人物たちがテーブルに勢ぞろいする光景は何とも言えないシュールさがあるし、彼らにそっくりなマネキン人形が無造作に転がる絵面も不気味で印象に残る。極めつけは、ラストのどんでん返しである。このインパクトは衝撃的で忘れがたい。
また、今回は珍しくソフト・フォーカスな映像が要所でロマンチックな雰囲気を醸しており、いつものパーヴァ作品にはないテイストが伺える。少し面食らってしまったが、このチャレンジングな表現は面白い試み思えた。
キャストでは、リサを演じたエルケ・ソマーの熱演が印象に残る。彼女は本作で一人二役を演じており、そこがこの物語の幻想性に一役買っている。
悪魔役のテリー・サバラスは、持ち前の造形で嬉々とした怪演を披露。飴をなめるという愛嬌のある役作りが、キャラクターにユーモアを与えていて面白かった。
「処刑男爵」(1972伊)
ジャンルホラー
(あらすじ) かつて蛮行の限りを尽くした残虐なクライスト男爵が眠る墓地に、彼の子孫ピーターがやって来る。男爵は魔女エリザベスの呪いによって封印されていたが、それをピーターが古紙に書いてあった呪文を唱えて蘇らせてしまう。
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(レビュー) 300年前の亡霊が現代に蘇り次々と殺人を繰り返していくオカルトホラー。
元をただせば好奇心から男爵の霊を蘇らせたピーターが一番悪いということになり、物語自体に共感を覚えることはできなかった。
また、シナリオは前半のテンポの悪さが致命的で、盛り上がりに欠けるのが難点だ。クライマックスの男爵退治もあっけない仕掛けで、またその伏線の張り方も安易で落胆させられる。この物語のキーパーソンとなる少女グレッチェンの存在が今一つ理解しがたく、お化けを見たと言ったり、男爵の弱点を知っていたり、果たして何者だったのか?劇中ではそれについて何も触れられてらず、観終わってもモヤモヤしてしまった。
一方、映像については要所で惹かれるものがあった。このあたりは監督を務めたマリオ・パーヴァの面目躍如といった所だろう。古城の怪しい雰囲気は申し分ないし、森の中の霊気が漂うような不気味さも良い。魔女によって封印されたクライスト男爵の醜悪な容姿もインパクトがある。
パーヴァ作品の見所の一つ、残酷描写は今回は薄みである。ただ、針が敷き詰められた棺桶の中で男が串刺しになるシーンは中々のエグさで印象に残った。
キャストでは、ピーターと行動を共にするエヴァを演じたエルケ・ソマーのコケティッシュな魅力が、陰鬱とした作品に華を添えている。また、中盤から登場するアルフレッド・ベッカー役のジョセフ・コットンの悪役振りも見もので、こういう役が本当によく似合うと思った。
「血みどろの入江」(1971伊)
ジャンルホラー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 海辺の屋敷に住む老婦人が何者かに殺される。その直後、彼も何者かに殺された。近くには昆虫研究家と女占い師の夫婦、タコ釣りの男が住んでいた。そして、そんな彼らを監視する男女がいた。数日後、殺害現場の屋敷を空き家だと思って若者たちがやって来る。バカンスを楽しむ彼らだったが、次々と何者かによって惨殺され…。
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(レビュー) 海辺の屋敷を舞台にしたスラッシャー映画。
登場人物が次々と殺されていく後半の展開は中々魅せるが、いかんせん物語は散漫である。屋敷に入り込む若者たちや怪しい昆虫研究家と女占い師といったキャラを物語の中で有効的に使い切れておらず、シナリオは残念ながら上手く出来ているとは言い難い。
また、犯人探しのミステリとして見た場合も、肝心の謎解きの過程が安易に処理されてしまっており余り面白みが感じられなかった。
ただ、映画の結末は意外なもので、これには度肝を抜かされた。果たしてどこまで計算したことなのか。余りにも能天気な終わり方に良くも悪くも苦笑してしまうしかなかった。
しかも本作は劇伴の使い方が非常に面白く、このラストにかかる陽気な曲調や、殺害シーンにかかるメロウな旋律などがシーンをより印象深いものとしている。音楽は甘美なメロディを得意とするステルヴィオ・チプリアーニが務めている。
また、この手の作品の見所である殺害シーンもかなり奮闘していて、質量ともに十分に満腹感が味わえた。
若者たちがベッドでいちゃついている所を串刺しにするシーンは、後の「13日の金曜日」(1980米)のケヴィン・ベーコン演じる青年の殺害シーンに影響を与えているのではないだろうか。他にも、斧で顔を割られたり、死体の顔にタコが張り付いたり等、ビジュアル的なショック度、気色悪さはかなりのものである。
監督、共同脚本、撮影はマリオ・パーヴァ。この辺りの露悪的な残酷描写は流石としか言いようがない。
ただ、今回は自ら撮影監督を務めているものの、独特な映像美は控えめである。他の作品に比べると映像演出は今一つ精彩に欠く内容である。
「呪いの館」(1966伊)
ジャンルホラー
(あらすじ) イタリアの片田舎で女性の変死体が発見される。連絡を受けて駆け付けたクルーガー警部だったが、村人たちは事件について口を紡ぐばかり。彼は検死官のポールを呼び寄せて本格的に調べようとするのだが…。
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(レビュー) シンプルな亡霊物だが、随分と登場人物が入り乱れ、とっ散らかった印象を持った。物語自体がまとまりに欠け、シナリオも余り上手く作られているとは思えなかった。
ただ、監督、脚本マリオ・パーヴァの映像演出が素晴らしく、城のプロダクションデザインも含め、画面作りに関しては実にクオリティが高い。
例によって、強烈な照明効果で城の外観や内装を異空間のごとき特異な舞台に見せた演出は、いかにもパーヴァらしいセンスで、このあたりは後のダリオ・アルジェント監督の「サスペリア」(1977伊)や「インフェルノ」(1980伊米)に継承されているような気がした。
他に、長いらせん階段を効果的に使った演出も見事であるし、まるで迷路のような城の地下のセットも素晴らしい。
恐怖演出としては、メリッサの霊が窓の外から覗いてるカットがインパクト大である。ゾッとするような不気味さがある。また、人形の中にこっそりとメリッサの霊が混ざっていたり、悪夢から目覚めると夢に出てき人形が足元にいたり等、シンプルなアイディアながら工夫を凝らした演出が冴え渡っている。
物語は後半にかけて、一連の殺人事件に関与していたメリッサの霊の秘密が解き明かされていく。しかし、事件の真相を関係者に全て喋らせてしまった所に安易さを覚える。
また、ヒロインであるモニカも今回の一連の事件とは無関係ではなかったということが分かってくるのだが、ここはもう少し余韻を持たせて抒情的に盛り上げても良かったような気がした。ラストもアッサリと終わってしまい、少し物足りなく感じた。
余談だが、ポールが出くわすドッペルゲンガーには驚かされた。結局、その正体については最後まで不明なままで、観終わっても悶々としてしまった。