「最後の誘惑」(1988米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) イエスはユダと出会い彼に促されて洗礼者ヨハネの元を訪れる。神事を通して不思議な力を手にしたイエスは、弟子を連れて各地を訪れ次々と奇跡を起こしながらユダヤの王となっていく。しかし、それがローマ帝国の逆鱗に触れ、彼は拘束されてしまう。
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(レビュー) キリストが十字架のはりつけにされる道程を回想形式で描く本作は、フィクションであることを前置きしている。聖書をそのまま描いた映画ではないという点に注目したい。聖書をなぞったパゾリーニの
「奇跡の丘」(1964伊)と、題材は同じながらも趣を大分異にする作品である。
どちらかと言うと、イエスを奇跡の存在としたのではなく普通の人間として描いており、弟子たちとの旅の中で徐々にカリスマ性を芽生えさせていく一人の青年の物語として描いている。
本作には原作(未読)がある。イエス・キリストの神的な側面と人間的な側面の二面性に着目したということであるが、正にそういう描かれ方をしていて、そこが大変ユニークだと感じた。
イエスが不治の病を一瞬で治したり、手のひらに聖痕を発生させたりする一方で、彼はローマ帝国に反旗を翻す革命の先導者になっていく。大衆をまとめるために、彼は敢えてこれ見よがしなパフォーマンスをひけらかし、その計算高さ、あるいは権力を手にする欲望、迷いといったものが大変人間臭く描かれている。
神の子としての顔、普通の青年としての顔。相反する顔を一人の男の中に同居させることで、純粋に人間ドラマとして観ても大変面白く観れる作品である。
本作でもう一つ印象的だったのは、裏切り者ユダの造形である。彼は聖書でもキーとなるキャラクターであるが、本作では完全に独自の解釈となっている。果たしてこれを敬虔なキリスト教信者が観たらどう受け止めるだろうか?興味深い所である。
監督はM・スコセッシ、脚本はP・シュレイダー。共に敬虔なキリスト教信者である彼らは、この大胆な原作に強く惹かれて本作の製作に至ったという。彼らなりに聖書の翻案を試みようとした熱意が感じられた。
その極めつけは終盤。十字架にはりつけにされたイエスの葛藤を虚実入り混じった演出で描いたシーンである。磔にされた3日後に復活したという奇跡は大変有名であるが、本作はただそれだけで終わらせていない。この翻案は中々に大胆である。
イエス役はW・デフォー。個人的には悪役のイメージが強いのだが、そんな彼がこれほど慈愛に満ちた優しい眼差しをするのか…と驚かされた。体を張った熱演は物語に力強い息吹を吹き込んでいる。
キーマンとなるユダ役はハーヴェイ・カイテルが演じている。こちらもこれまでのユダ象を破壊するような怪演で面白く観れた。
音楽はロックバンド、ジェネシスの元ヴォーカリストであるピーター・ガブリエルが担当している。持ち前のポップなテイストは勇壮なドラマに合っているかどうかはともかくとして、斬新なテーマ同様、音楽もユニークである。
「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」(2023米)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1920年代、オクラホマ州のオーセージ。土地から得られる石油鉱業権を保持した先住民オーセージ族が栄えるこの町に、戦争帰りの青年アーネストが地元の有力者である叔父ウィリアム・ヘイルを頼ってやって来る。やがてアーネストはオセージ族の女性モリーと恋に落ち結婚する。ところが、彼らの周囲で次々と不可解な連続殺人事件が起き始め…。
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(レビュー) 白人の入植者たちによる先住民に対する搾取と弾圧の歴史を、並々ならぬ緊張感とドラマチックな展開で描いた実録犯罪映画。
同名のノンフィクション小説(未読)を巨匠マーティン・スコセッシが映像化した3時間26分に及ぶ大作である。
小さな土地で起こった連続殺人事件であるが、それを改めてこうして掘り起こした意義は大きいように思う。おそらく、ほとんどの人はこのような事件があったことを知らないだろう。
そして、本作には石油に限らず、土地やそこから生み出される利権を巡って繰り返される戦争に対する暗喩も読み解けた。そういう意味では、現代にも通じる普遍的なメッセージが感じられ、ズシリとした鑑賞感が残った。
正直、陰惨なドラマであるし、上映時間も長いので観終わった後にはドッと疲れる。ただ、実際に観ている最中は全く退屈することはなく、話が進むにつれてグイグイと惹きつけられてしまったのも事実である。これもひとえにスコセッシの演出力のおかげだろう。
スコセッシの演出は流麗且つ端正にまとめられている。
冒頭の石油を浴びるオーセージ族の姿をスローモーションで捉えた映像は圧巻のビジュアル・センスであるし、大自然をバックにした美観も作品に一定の風格をもたらしている。また、幾度か描かれるウィリアムとアーネストの対峙は、じっくりと腰を据えた心理描写に専念し、その余りの緊迫感とシニカルなユーモアに目が離せなかった。
そもそも、このウィリアムという名士。表向きはオーセージ族の味方のように振る舞っているが、その裏では彼らを食い物にしている業突く張りな資本家である。金のためなら他人の命など何とも思わない極悪人で、多くのならず者を手下に抱えている。そんな彼の欲望が渦巻く本ドラマは、さながらマフィア映画のような怖さで大変スリリングに観ることができた。
但し、ラストの処理の仕方については、いささか凝り過ぎという気がしなくもない。普通であればテロップで処理しても良いと思うのだが、それを”ああいう形”で締めくくった狙いが自分には今一つ理解できなかった。
また、本作は事件の関係者を含め、登場人物がかなり多く、しっかりと物語を把握しながら観進めていかないと後半あたりから混乱するかもしれない。
モリーには3人の姉妹がいて、彼女たちは夫々にウィリアムによって命を狙われていく。そのあたりの事件のからくりがFBI捜査官の登場によって後半から怒涛のように白日の下に晒されていく。物語がかなりの重量級で、結果として上映時間もこの長さになってしまった。
おそらく興行的な事情を考えるのであれば、設定の刈り込みなどをすることによって、もっと観やすい時間に収めることができただろう。しかし、スコセッシは敢えてそうしなかった。この歴史的悲劇の重みを観客に伝えたいという思いから、なるべく事実を端折らないで映画化したのだろう。その心意気は買いたいが、今回はかなり欲張ったな…という印象も持った。
キャストではスコセッシの新旧に渡る盟友レオナルド・ディカプリオとロバート・デ・ニーロの共演が大きな見どころである。
アーネストを演じたディカプリオの熱演、ウィリアムを演じたデ・ニーロの表裏を使い分けた貫禄の演技、夫々に見事だった。自分もスコセッシ映画を随分と観てきたが、この盟友の共演には感慨深いものがあった。
「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 貧しい家に生まれ育ったジョーダンは、ウォール街で証券マンとしての人生をスタートさせる。しかし、不幸にも株価暴落の憂き目にあい会社は倒産。寂れた田舎町で仕切り直しを図る。その後、類まれなるセールストークで頭角を現すと26歳という若さで会社を設立。瞬く間に社員700人の大企業へと成長させる。その一方で、ドラッグとパーティに明け暮れ、徐々に生活は荒んだものとなっていく。
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(レビュー) ウォール街の風雲児ジョーダン・ベルフォードの波乱に満ちた人生をシニカルな笑いで綴った実録映画。
ジョーダン・ベルフォードは実在する人物で、今作は本人が書いた原作を元にして作られている。ドラッグとセックスにまみれた私生活が赤裸々に描かれていて驚かされてしまう。果たしてどこまで真実に寄せているのか気がかりではあるが、エンタテインメントとして見れば大変面白く、3時間の長丁場をまったく感じさせない作りで最後まで楽しめた。
監督のマーティン・スコセッシの手腕も冴えわたっている。「グッドフェローズ」(1990米)や
「カジノ」(1995米)を想起させる早いテンポでグイグイと展開させながら、ジョーダンの栄光と挫折を活写している。しかも、ジョーダンを含め多くのキャラが全編ハイテンションで、この”祝祭感”はただ事ではない。映像とセリフと音楽の洪水に飲み込まれながら気付いたら3時間経っていたという感じで、終始面白く観れた。
最も印象に残ったのは、ジョーダンと盟友ドニーが期限切れのドラッグを吸ってしまい、意識朦朧の状態に陥ってしまうシーンだった。ドニーにFBIの罠が仕掛けられていることを知らせようと地面を這いつくばりながら車に乗ろうとするジョーダンに爆笑。更に、心肺停止に陥ったドニーを助けようと、テレビ画面に映る”ポパイ”よろしくコカインでエナジー充電するジョーダンに爆笑。ラリッた醜態をスペクタクルのように見せてしまうスコセッシの力業とも言える演出が凄い。
ジョーダンがナオミと出会うシーンも、まるで中学生のような青臭さに笑ってしまった。それまで人目もはばからずオフィスで堂々と腰を振っていた男が、美人の転校生に心をときめかせるウブな少年ようなリアクションを見せるのである。このギャップが可笑しい。
更に、ジョーダンとFBI捜査官の対峙を描くボートのシーンにはスリリングさが、マネーロンダリングのためにスイスの富豪と対面するシーンにはキツネの化かし合いのような滑稽さが感じられた。
このように今作は、微に入り細に入りスコセッシの職人芸が光る映画で、氏のフィルモグラフィーの中でも”手数”の多さでは一、二を争うのではないだろうか。非常に濃密な1本である。
キャスト陣の熱演も作品のテンションをパワフルに支えている。
ジョーダン役は、もはやスコセッシ映画の常連といった感じのレオナルド・ディカプリオが熱演。いわゆるピカレスクロマンを地で行くようなダークな側面をすべからく取っ払った演技が、本作の底抜けに明るい作風に上手くマッチしていた。リアルに見てしまえば共感性0の主人公だが、それをここまでぶっ飛んだキャラクターに造形した功績は大きい。
ナオミを演じたマーゴット・ロビーは惜しげもなく裸体を披露し、本作の輝きを独り占めするような魅力を見せている。隙あらば女性のヌードを見せびらかす本作において、やはり彼女の美しさは群を抜いていた。ディカプリオとの痴話げんかにおけるコメディエンヌ振りも見事である。
ジョーダンの上司役を務めたマシュー・マコノヒーは出番こそ少ないながら、激ヤセした姿に驚かされた。おそらくこれは同年に撮影された
「ダラス・バイヤーズ・クラブ」(2013米)の役作りのためだろう。
「ミュージック・ボックス」(1989米)
ジャンルサスペンス・ジャンル戦争
(あらすじ) 第二次世界大戦後、ハンガリーからアメリカへ移民したマイクは、ある日突然、ハンガリー政府からユダヤ人虐殺の容疑者として身柄を拘束される。彼の娘で弁護士アンが弁護を務めることになるのだが…。
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(レビュー) ハンガリーで行われたユダヤ人虐殺事件をモティーフにしており、自分はこの歴史を知らずに観たこともあり最後まで興味深く観れた。
物語は父マイクの嫌疑を晴らそうとする娘アンの視点で綴られる。彼女は当時の証拠品や虐殺を生き延びた証人を突きつけられ、不利な立場に追い込まれていく。特に、マイクが特殊部隊に所属していたことを示す身分証が決定打となり敗訴が濃厚となってしまう。
…が、ここでこの身分証の信ぴょう性を覆す”ある証人”が登場する。この辺りはややご都合主義という気がしなくもないが、それによって形勢は一気に逆転。アンの攻勢が始まっていく。
監督は
「Z」(1970アルジェリア仏)や
「戒厳令」(1973仏伊)で知られる社会派コスタ・ガヴラス。
法廷におけるスリリングな駆け引きが大変面白く観れる。ガヴラスらしいきびきびとした演出も快調で、最後まで緊張の糸が途切れないあたりは見事である。
また、単にエンタメとして安易に料理しなかった所も如何にもガヴラスらしい。裁判を通して明るみにされる戦争の悲劇。それが重厚に語られ、観終わった後にはズシリとした鑑賞感が残った。
更に、この悲劇的歴史を通じて真実を見抜くことの難しさ。あるいは真実を見ようとしない人間の心の弱さもガヴラスは問うている。何とも言えない皮肉的な終わり方で締めくくられるが、そこには氏からの訓示が読み取れた。
本作で最も強く印象に残ったのは、検事の「青いドナウ川が赤い血で染まる」という言葉である。
ドナウ川と言えば観光名所にもなっている大変美しい川である。しかし、そこには戦争によって無残に殺されてしまった老若男女の魂も眠っているのだ。
アンはドナウ川の傍を通った時に、検事のその言葉を受けて立ち寄る。果たして彼女にはその美しい川がどのように映ったのだろうか。きっとまったく別の景色に見えたに違いない。
コスタ・ガヴラスの映画はとかく政治的なものが多く難解と言われることもあるが、本作に関してはそこまで深い予備知識が無くても楽しめる作品になっている。
単純に法廷ドラマとしてみても十分に楽しめるし、ラストのどんでん返しも含め、よく出来た一級のサスペンス映画になっている。ガヴラス映画初心者にはうってつけの入門編ではないだろうか。
キャストでは、アンを演じたジェシカ・ラングの熱演が素晴らしかった。父の無罪を信じる実娘としての顔。本当は父は虐殺に加担していたのではないか?と疑心暗鬼に駆られる弁護士としての顔。その複雑な葛藤を見事に体現していた。
「最前線」(1957米)
ジャンル戦争
(あらすじ) 1950年、戦闘が激しさを増す朝鮮半島でベンスン中尉率いる小隊は孤立していた。そこに敗走するモンタナ軍曹がジープに乗ってやって来る。彼は戦場のショックで口がきけなくなった大佐を乗せて撤退するつもりでいた。しかし、ベンスンはそのジープを徴用し、モンタナに共に進軍することを命じる。
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(レビュー) 過酷な戦場をサバイブする兵士たちの運命を非情なタッチで描いた戦争映画。
大規模で派手な戦闘シーンも無ければ、ヒロイックな活躍もない地味な作品である。しかし、兵士たちの生々しい生態を時に繊細に、時に熱度高く描いた所に魅力が感じられる異色の戦争映画である。
監督はアンソニー・マン。西部劇の名匠というイメージが強いが、戦争映画を手掛けたのは少なく、フィルモグラフィーを見る限り今作と「テレマークの要塞」(1965米)の2本のみのようである。
緊張感を漂わせた序盤のシーンを皮切りに、随所にベテランならではの手練れた演出を披露しており、クライマックスまでダレることなく一気に観ることができた。開幕からベンスン率いる小隊は孤立無援の状態に陥っており、この絶体絶命なシチュエーションがスリリングで目が離せない。
部隊の面々も夫々に個性的に造形されており、病弱な若い兵士、彼を気遣う心優しい黒人兵士、臆病で少し間の抜けた通信兵といった曲者が揃っている。そこに、横柄なモンタナ軍曹と戦闘の後遺症で心身薄弱に陥り口がきけなくなった大佐が同行することになる。ベンスンとアウトロー体質なモンタナはことあるごとに対立するようになり、この関係がドラマを面白く見せている。
尚、個人的に最も印象に残ったシーンは、黒人兵士が野菊の花輪をあしらえたヘルメットを被るシーンだった。彼はその直後に、背後から敵兵に刺されて死んでしまうのだが、戦場の理不尽さを美醜のコントラストを用いて衝撃的に描いている。テレンス・マリック監督の詩情溢れる戦争映画「シン・レッド・ライン」(1998米)が想起された。
また、モンタナは大佐を献身的に支え続けるのだが、その理由も終盤で明らかにされる。これには胸が熱くなった。大佐が呟く本作唯一のセリフは要注目である。
他に、地雷原を突破するシーンや、敵兵の処遇を巡って言い争いをするシーン等も手に汗握るトーンで描かれていて見応えを感じた。
クライマックスは本作で最も盛り上がる戦闘シーンが用意されている。しかし、冒頭で書いたようにヒロイックな活躍など一切ないリアルな戦場を描いており、このあたりの冷徹さにはアンソニー・マン監督のこだわりが感じられる。
もっとも戦勝国アメリカの視点で描いている以上、最後はやはり勝利で締めくくられる。戦争の虚しさを描くのであれば、この結末は今一つ押しが弱いという感じがした。
「ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画」(2013米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) アメリカ西部のオレゴン州。環境保護を訴える環境論者のジョシュとディーナは、水力発電のダムの爆破を目論みボートを入手する。元海軍だったハーモンを引き入れて爆弾を製造すると、早速計画を実行に移すのだが…。
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(レビュー) 過激な環境保護論者たちがダム爆破計画を実行していくサスペンス作品。
いわゆる通俗的なエンターテインメントを期待すると肩透かしを食らう作品である。低予算のインディーズ映画なので派手さもないし、カタルシスもない。
前半はダム爆破計画を着々と進めていく様をドキュメンタリータッチで見せていく社会派サスペンスのような作りになっている。ただ、途中から物語は犯行に及ぶ男女3人の愛憎ドラマへと発展し、最終的には刹那さとほろ苦さを感じるビターな人間ドラマへと昇華されていく。
監督、共同脚本はインディーズで独特の才能を発揮しているケリー・ライカート。ある程度予想はしていたが、本作も決してウェルメイドな作りになっておらず、少し意外性を持った作品となっている。
脚本にはライカートの盟友ジェイ・レイモンドも参加している。これまでにも彼女の作品では原案を担当したり、脚本を執筆している。
もはやお馴染みのコンビという感じだが、前作
「ミークス・カットオフ」(2010米)あたりから、社会派的な視座を持ち込んでいるのが特徴的である。「ミークス・カットオフ」では人種差別の問題、今回は環境破壊の問題。私的な作品から社会的な視野を持った作品へと創作のモティーフを広げることは、作家としての成長であるし、個人的には良いことだと思う。
ただし、それがプラスの方向に働けばいいのだが、かえって作家性を中途半端にしてしまう可能性もあるように思った。
あくまで個人的印象であるが、ラーカイトはやはり私的な人間ドラマを得意とする作家のような気がする。例えば、レイモンドは参加していないが長編デビュー作の
「リバー・オブ・グラス」(1994米)は衝撃的な作品だった。放浪女性と飼い犬の暮らしぶりを描いた
「ウェンディ&ルーシー」(2008米)にも深い感銘を受けた。これらに比べると、今回はどうにも散漫な印象を持ってしまう。社会派的なテーマを描きたいのか。それとも人間ドラマを描きたいのか。今一つはっきりせず、結果この両者が上手くかみ合っていない印象を持ってしまった。
そんな中、キャスト陣の好演には見応えを感じた。
特にジョシュを演じたジェシー・アイゼンバーグの目の演技が素晴らしい。
「ソーシャル・ネットワーク」(2010米)の時もそうだったが、神経質で非モテな役をやらせると、本当にこの俳優はハマる。例えば、ディーナとハーモンの深い仲を知った時に見せる寂しく惨めな姿。爆破犯だと疑われることに怯える表情、オドオドした眼差しは絶品だった。
「ミークス・カットオフ」(2010米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 西部開拓時代のオレゴン州。移住の旅に出たテスロー夫妻ら3家族は、道を熟知しているという男スティーブン・ミークにガイドを依頼する。旅は2週間で終わるはずだったが、予定を過ぎても目的地にたどり着かず、飲み水も底を尽きかける。そんな時、一人の先住民に出会うのだが…。
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(レビュー) 荒野をさすらう家族の過酷な旅を雄大なロケーションの中に描いた異色の西部劇。
監督、編集はケリー・ライカート。脚本は盟友ジョナサン・デイモンド。これまでミニマルな現代劇を撮ってきた彼らが今回挑んだのは西部劇である。少々意外な感じもするが、そこで描かれるテーマは人間の生き方であったり、他者との関わり合いの中に芽吹く希望だったり、これまでの作品に通じるものが感じられる。
何と言っても印象の残るのはロケーションの美しさである。どこまでも続く広大な荒野、地平線の果てまで広がる湖、全てを包み込む大きな空。もはやこの世の果てを思わせる中にちっぽけな3家族が馬車を引きながら並んで進む姿がスケール感タップリに切り取られている。
撮影を務めたのはクリストファー・プロヴェルト。以後、ライカートは彼とコンビを組んで作品創りを行うことになるが、本作の美しい映像を見ればよく分かる。ライカートもよほどプロヴェルとの撮影を気に入ったのだろう。
物語は、前半は淡々としており平板で面白みに欠けるが、先住民と出会う中盤から物語は急展開する。一行は彼に水がある場所を案内させようとするのだが、ミークは先住民なんか信用できないと批判する。一方、心優しいエミリーは彼を信用する。先住民の扱いを巡って二人は意見を対立させていくようになり、果たして一行はどういう決断を下すのか…という所が見所となる。
つまり、偏見と差別を巡るヒューマニックなドラマになっていくのである。
一見すると遠い過去の西部開拓時代の物語に思えるが、実は現代にも通じる普遍的なメッセージがそこから読み解ける。
後で調べて分かったが、スティーブン・ミークという人物は実在した人物ということだ。元々は狩猟業を生業としていたが、それだけでは食っていけなくなり、土地勘のあった彼はガイドの仕事を始めたということである。果たして、本作のミークがどこまで忠実に造形されているのか分からないが、おそらくこの時代だと資料もそこまで残っていないだろうし多分に脚色されている部分はあるように思う。
ミーク役は様々な作品で名脇役ぶりを発揮しているブルース・グリーンウッドが演じている。
エミリー役はライカート作品では
「ウェンディ&ルーシー」(2008米)に続いてミシェル・ウィリアムズが続演している。
夫々に好演と思った。
「ウェンディ&ルーシー」(2008米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ウェンディは愛犬ルーシーと一緒に旅をしながら暮らしていた。ある日、車が故障で立ち往生し、スーパーで万引きをはたらいたウェンディは逮捕されてしまう。どうにか釈放されるが、その間にルーシーはいなくなってしまった。ウェンディはルーシーをあてもなく探し回るのだが…。
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(レビュー) ルーシーとの絆を取り戻そうと懸命に奔走するウェンディのひたむきな姿に感動を覚える。ルーシーはただのペットではなく、彼女にとっては人生のパートナーであり、大切な家族なのだろう。そんな彼女の愛がひしひしと伝わってきた。
監督、共同脚本は
「リバー・オブ・グラス」((1994米)、
「オールド・ジョイ」(2006米)のケリー・ライカート。
ウェンディの喪失感を丁寧に綴るタッチは、まるでダルデンヌ兄弟のような静謐さと繊細さに溢れている。ウェンディのバックストーリーを極力伏せた作りは賛否あるかもしれないが、徹底したリアリズムで突き放した所に見応えを感じた。ラストのほろ苦さも決して後味が良いとは言えないが、ライカート監督の眼差しが貫通されているので有無をも言わせぬ説得力が感じられ、これはこれで当然の帰結と言う感じがした。
また、本作のウェンディを見ていると前作「オールド・ジョイ」(2006米)に登場したカートを思い出してしまう。カートはヒッピー上がりの流浪の男だったが、ウェンディもまた家を持たずに旅を続ける女性である。どうしてそういう生き方を選んだのか、その理由は分からないが、ともかく常識に捕らわれながら”せせこましく”生きる現代人のアイロニーとも取れるキャラクターである。最近観た
「ノマドランド」(2020米)にも通じるメッセージ性が感じられた。
前作との共通点はもう一つある。それは、犬が重要な役回りで登場するということである。前作ではマークの愛犬が旅に同行していた。本作も犬のルーシーが相棒のように旅に同行している。こうしたアイディアの流用とも取れる要素から、両作品を姉妹作のように鑑賞することもできよう。
ライカートの演出は、前作のような沈滞したトーンは弱まり、デビュー作に近いメリハリをつけた演出に戻っている。
ただ、要所では独特のトーンを出しており、例えば焚火で映し出されるクローズアップの不穏さや、ウェンディが暗闇の中に引きずり込まれそうになるシーンなどは、さながらホラー映画のような怖さも感じられる。こうしたダークなトーンは、これまで余り見られなかった演出で新鮮だった。
また、ウェンディが歩くストリートの壁に「終わってるヤツ」という落書きが書かれていたが、これなどは正に彼女のことを指しているのだろう。こういうポップな”毒”も実に上手いと感心させられた。
尚、ラストのウェンディを見ると、どうしてももう1本思い出してしまう映画がある。それはリー・マーヴィンが主演した「北国の帝王」(1973米)だ。ホーボー映画の代表作のような作品であるが、本作はそこに連なる新たなホーボー映画という言い方ができるかもしれない。
「オールド・ジョイ」(2006米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) もうすぐ一児の父親になろうとするマークの元に旧友カートから電話がかかってくる。彼に誘われてマークは山奥の温泉場に一緒に行くことにするのだが…。
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(レビュー) もうすぐ父親になる男と未だに根無し草な男の友情をしみじみと描いたロードムービー。
ほぼ二人のみの芝居で展開される物語は非常に心地よく、何とも言えない抒情感を味わわせてくれる。
監督、共同脚本、編集はケリー・ライカート。前作
「リバー・オブ・グラス」(1994米)に比べると随分としっとりとした作品である。
男二人の旅を意味深な演出で語っており、何となく「ブロークバック・マウンテン」(2005米)の再現か…と思ったのだが、そういうわけではなく純粋に旧交を蘇らせるゆる~いロードムービーだった。
とはいえ、実際に二人の間に何もなかったのかと言うと、そうとも言い切れない感じがした。既婚者のマークはともかくカートの方には特別な感情があったと匂わせる演出があり、例えば温泉に入っているマークの肩を揉んでマッサージをしたり、マークの結婚指輪に目をやったり、それが友情を超えた感情という風に想像できなくもない。カートのバックストーリーには不明な点が多くミステリアスである。彼の心中が容易に掴めず、この辺りの意味深な演出が面白く解釈できた。
ライカート監督は、演者の些細な表情や無人ショット、長回しを使いながら、観る側に様々な想像をさせる演出を仕掛けてくる。前作にはない野心的な演出の数々に改めて彼女の才覚が感じられた。
また、カートのたとえ話で出てくる”悲しみは使い古した喜び”という言葉も意味深なセリフで印象に残った。喜びも時間がたつといつの間にか悲しみ変わってしまうと…いうことを言っているのだろうが、確かに現実にはそういうことはたくさんあるように思う。
音楽はアメリカのロックバンド、ヨラ・テン・ゴが担当している。朴訥としたメロディは本作ののんびりとした作風に上手くマッチしていると思った。彼らはジョン・キャメロン・ミッチェル監督の「ショート・バス」(2006米)でも音楽を担当しており、映画音楽方面へと活躍の幅を広げている。中々多才である。
「リバー・オブ・グラス」(1994米)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) フロリダ郊外で暮らす30歳の主婦コージーは、退屈な日々に不満を募らせていた。ある日、地元のバーへ出かけた彼女は、うだつの上がらない男リーと出会い親しくなっていく。
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(レビュー) 平凡な主婦がヤクザな男と逃避行を繰り広げる異色のクライムドラマ。
コージーは幼い頃に母を失い、現在は警官をしている父親と幼い子供と暮らしている。夫や子供に対する愛情はなく、夢や希望もなく、ただ漫然とやり過ごすだけの日々を送っている。そして、いつかこんな退屈な日常から抜け出そうと、未だ見ぬ世界を夢想している。
物語は主に3つの視点を交錯させながら展開されていく。
一つ目はヒロインのコージーの視点。二つ目は、拳銃を落とした彼女の父親の視点。そして、三つ目はその拳銃を拾ったリーの視点である。最初は物語の視点が定まらず取っつきにくい印象を受けたが、拳銃をきっかけに夫々のドラマが繋がるあたりから徐々に面白く観れるようになった。
そして、ある晩、事件は起こる。リーと一緒にコージーが誤って、その拳銃を発砲してしまうのだ。こうして二人は警察に追われる身となる。
コージーはこの銃が父親の物であることを全く知らないというところがミソで、おそらくこの銃には父親の呪縛というような意味が込められているのだろう。
こうして、二人は故郷を出て逃避行の旅に出るのだが、その先でコージーは更なる皮肉的な運命と対峙することになる。
監督、脚本は新鋭ケリー・ライカート。本作は彼女の長編監督デビュー作である。現在まで精力的に活動しているが、基本的にはインディペンデントを主戦場とした作家である。
本作は話の筋からしていかにもアメリカン・ニューシネマ的な匂いを感じさせるが、演出自体はカラッとしたテイストでまとめられており、余り湿っぽくないところが観やすい。
また、物語の舞台が陽光溢れる南フロリダというのも関係しているだろう。作品の雰囲気を必要以上に暗くしていない。
そんな中、印象に残ったのは、コージーが自らの過去や鬱屈した感情を語るモノローグ演出だった。
本来こういう演出は余り好みではないのだが、今作の場合は不思議と余り嫌な感じは受けなかった。それは映像が全体的にミニマルに構成されているからなのかもしれない。回想はドキュメンタリー風なモノクロ映像で表現され、そこに被さる彼女の告白は、どこか詩的にさえ感じられた。
そして、本作でもっと印象に残ったのは終盤のコージーの”決断”だった。普通であればそこに至るまでに、彼女の葛藤をじっくりと描いてしかるべきであるが、本作は実にあっけらかんと処理している。観ているこちらとしては、彼女の感情の動きが何も分からないまま、その”決断”を目の当たりにするわけで、これはかなり大きな衝撃である。
更に、ラストの拳銃のカットも、それが父親の呪縛と捉えるならば、多分に暗喩が込められたカットと言えよう。コージーの旅を切れ味鋭く締めくくっていて見事と言うほかない。