禍々しトーンが貫通された異色のロマンス・サスペンス作品。
「修羅」(1971日)
ジャンルサスペンス・ジャンルロマンス
(あらすじ) 今やすっかり貧乏浪人に落ちぶれた源五兵衛は、主君の仇を討つために虎視眈々とその機会を伺っていた。しかし、時が流れるに連れてその思いも次第に萎んでいっ た。その上、芸者の小万に惚れ込み自堕落な生活に甘んじている。ある晩、仇討ちに必要な資金百両を忠僕八右衛門が調達してきた。これでいよいよ敵の懐に飛 び込める‥。そう思った矢先、小万が身請けされるという話を聞き付ける。居てもたってもいられず源五兵衛は飛び出していった。そして、小万を身請けしよう とその百両を差し出してしまう。
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(レビュー) 「東海道四谷怪談」(1959日)等で有名な鶴屋南北の「盟三五大切」を異才・松本俊夫が監督した時代劇。
人物関係、事件の背景について説明不足な所があるが、松本俊夫が作り出す毒々しい雰囲気は鶴屋南北の世界観に上手くマッチしていて見応えがあった。映像、演者については文句なしの出来栄えである。
また、これは原作が持つストーリー的な力強さだろう。人間の愛憎をこれほど大胆に突きつけたところに凄味が感じられた。特に、凄惨な場面の連続で畳み掛ける後半は白眉である。臆せず表現しようとした製作サイドの意気込みには素直に拍手を送りたい。
物語自体は男女の愛憎のもつれから始まる悲劇の運命‥といったもので、実に鬱傾向が強いドラマである。好き嫌いがはっきり分かれそうなドラマだ。ただ、悲劇であることは確かなのだが、要所に人間の愚かさを見透かしたようなコメディトーンが織り込まれるところは注目したい。
例えば、後半で復讐の鬼と化した源五兵衛を見た時の三五郎のリアクションなどにはクスクスとさせられた。他にも、源五兵衛の秘策が失敗に終わるクダリにも意地の悪いユーモアが感じられる。正に因果応報。これらのシーンには人間の些末さがよく表れておりブラック・コメディ的な可笑しさがある。
また、この物語にはサスペンスの要素も欠かせない。いわゆる騙し、騙されるというサスペンスが多いのだが、そこも興味深く見ることが出来た。
例えば、源五兵衛が小万を身請けしようと乗り込むシーンがある。これは誰が見ても明らかに仕組まれた罠である。知らないのは源五兵衛当人だけで、見ている方としては彼がいつこの罠に気付くのか?あるいはこのまま本当に騙されてしまうのか?そういった目線で追いかけることが出来る。
また、後半の毒の入った酒を巡るやり取りも、一体いつ誰の手によって酒桶の栓が開けられるのか?そういったハラハラドキドキが感じられる。ちなみに、この毒酒については意外なオチが用意されていて面白かった。
このように、今作は他人を貶めようとする悪心がサスペンスを盛り上げ、物語を上手く転がしている。人間は本来エゴイスティックな生き物であるという性悪説は、見ていて決して気分が良いものではないが、一時も気を緩めることが出来ないスリルに満ちていて面白い。
松本俊夫の演出は所々でアヴァンギャルドであるが、前作
「薔薇の葬列」(1969日)ほどのラジカルさは見られない。
冒頭のシーンと源五兵衛が見る妄想シーン以外は、なるべく原作の世界観に沿うように映像化されている。また、セリフ回しや演技も原作のテイストを意識して舞台劇っぽくなっている。
舞台劇っぽいと言えば、源五兵衛が襖の間から小万の身請け話を覗き見するシーンがあるが、ここなどは完全に源五兵衛の視点が客席、つまり映画を見る観客の視点と一致しており、意識的に舞台劇的演出を取ろうとしているのがありありと見て取れる。
そして、こうした舞台劇を意識した演出がある一方で、アクションシーンにおけるスローモーションや、凄惨なスプラッタ描写については、いわゆる映画的な映像カタルシスが感じられる。これらは舞台上の演劇では到底再現不可能な映画ならではの表現であろう。全体を通して一際目を引くのは、やはりこうした映画的映像表現だ。おそらく松本監督もそこは分かって敢えて過剰に演出しているのだと思う。
キャストでは源五兵衛を演じた中村賀津雄、三五郎を演じた唐十郎の好演が光っていた。中村賀津雄で思い出されるのは大島渚監督の
「悦楽」(1965日)で演じた愛に溺れる流浪の主人公である。ここでも同じように愛した女に翻弄される情けない男を演じている。そして、後半は復讐の権化になってひたすら鬼気迫る演技を見せている。この迫力には圧倒された。