青春のジレンマをストイックに突き詰めた市川演出が冴えわたる。
「炎上」(1958日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 高校生の溝口吾市は、住職だった父の死後、驟(しょう)閣寺に預けられた。どもり症のせいで惨めな青春を送っていた彼は、そこでようやく生きがいを見つける。亡き父と見た美しい驟閣寺の保全に全精力を傾けていくようになるのだった。その姿を父の旧友・老師は頼もしく見ていた。ある日、吾市は観光に来ていたアメリカ兵の情婦が驟閣寺に入ろうとするのを目撃する。汚れると思った彼は、とっさに彼女を突き飛ばして相手を怪我させてしまった。これをきっかけに吾市は老師の信頼を失ってしまう。
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(レビュー) 三島由紀夫の小説「金閣寺」を巨匠・市川崑監督が映像化した作品。しかし、「金閣寺」という名前が使えず「驟(しょう)閣寺」に改名して映画化された。原作の設定やストーリーも一部で改変されている。尚、脚本は市川の妻であり盟友でもある和田夏十が担当している。
暗く鬱屈した青春を送る吾市が驟閣寺の美しさに惹かれるあまり人生を破滅させてしまうドラマは実に苦々しい。しかし、これも青春‥と思わずにいられなかった。青春のダークサイドををストイックに突き詰めた所に見応えが感じられた。
吾市の驟閣寺への偏愛は、愛する亡き父との思い出に始まる。生前、父との関係がいかなるものだったのか?それはドラマの中で明示されていないが、吾市の回想からほんの少しだけそれが分かる。それは幼い頃に父と一緒に驟閣寺を見た思い出だ。父は国宝である驟閣寺をこの世で一番美しいもの‥と吾市に教える。吾市はその時のイメージを抱いたまま現在に至っている。そして、届かぬ亡き父への愛を驟閣寺の美を保全するという行為で代用しているのである。
この盲信的と言ってもいい愛情は多感な思春期に特有のものだと思う。自分が好きなものは好きだ!と言える自由は、大人にはない若者だけの特権である。その思いは、時としてその人の将来を切り開く原動力にもなりうる。しかし、他方で吾市のように閉鎖的な若者の場合、その愛情が強まれば強まるほど他の物が見なくなってしまう可能性がある。自分の好きな物を"隠れ蓑″にして、他の全ての物を切り捨ててしまい、内省の深みにはまってしまう恐れがある。
夢も希望もない絶望感に打ちひしがれていく吾市の姿には決して共感を覚えられなかった。ただ、この気持ちは何となく理解も出来る。狭い世界しか知らなかった青春時代。背伸びしようとしてもそれが叶わなかった未熟な時代。この鬱屈した精神は、おそらく誰もが経験したのではないだろうか。だから、自分は吾市のことを好きにはなれなかったが、見ていて放っておけないという気持ちになった。
中盤から戸刈という、吾市と同じ学校に通う学生が登場してくる。彼はこの物語の中で非常に重要な役回りを持っている。
戸刈は女たらしのノンポリで金持ちの息子である。純粋で生真面目で貧乏な吾市とは対照的な青年である。しかし、二人は周囲から孤立する者同士、奇妙な友情で結ばれていく。これが吾市の運命を更に狂わせてしまう。吾市は戸刈と自分を比較し、劣等感と虚しさに苛まれていくようになるのだ。
市川崑監督の演出は全般的に堅実に整えられている。時折、技巧に溺れる彼だが、今回は終始奇をてらうことなく堅牢な演出を見せている。
また、宮川一夫のカメラも実に硬質な仕上がりを見せ、全編ストイックと言う言葉がピタリと当てはまるような作りになっている。なんでもシネマスコープの撮影が初めてだったそうで、宮川は撮影中ずっとカメラのファインダーを覗いていたという逸話が残っている。深みのあるモノクロ、安定した構図は流石で、これぞ職人の仕事という感じがした。また、吾市が野良犬を追いかけていくカメラワークの流麗さも見事だった。葬列の幻想シーンにはダイナミックさも感じられた。
キャストでは、吾市を演じた市川雷蔵の好演が際立っていた。当時の彼は時代劇のスターとしてアイドル的存在だった。それがこのようなコンプレックスを持った屈折した青年を演じるというのは実に意外なことだったろう。周囲の反対を押し切っての挑戦だったらしく、そのかいあって彼は本作で演技派として世間にアピールすることに成功した。
今作で唯一難を挙げるとすれば、吾市と母親の関係が少し唐突に映るところだろうか。原作には母との関係が描かれているが、今作ではその描写が薄い。このあたりを補完してくれると、吾市の葛藤に更に奥行きが生まれたと思う。
尚、本作は1950年に起こった金閣寺放火事件をモデルにしたフィクションである。犯人の心理を紐解く作業は本作の原作者である三島由紀夫や水上勉も著書の中で執筆している。犯人は懲役刑を言い渡された後、結核で病死した。そのため事件の動機については様々な言われ方をしていて、今もって謎とされている。