芸人の狂気をパワフルに描いた怪作。
「鬼の詩」(1975日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 明治の末期、桂馬喬は大阪の寄席で芸の道を究めんと精進していた。ところが、彼はひたすら自尊の塊で、その言動が同門の仲間たちからの反感を買う。ある日、仲間の悪戯で毒薬を飲まされ馬喬は高熱で倒れてしまう。下宿先の下女・露が付きっきりで彼を看病した。これがきっかけで二人は結婚し一緒に旅に出た。しかし、無名の馬喬はどこでも相手にされず、結局大阪に戻ってくる。二人は心機一転、再び芸の道に励もうとするのだが‥。
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(レビュー) 「鬼の詩」とはまた仰々しいタイトルである。鬼とは何だろうか?見る前から少しホラーっぽいものを連想したのだが、後半は正にホラー映画のようになっていく。馬喬の芸にかける思いがほとんど狂気と化していく様は圧巻だった。
馬喬は芸人としては半人前で何をやっても成功しない落ちこぼれである。自分なりの落語論を尊大に語るが、口ばかりで全然実力を伴っていない。それゆえ周囲の反感を買ってしまう。ならばと、愛する露と一緒に自分の芸を証明して見せようとするが、それも中途半端に終わってしまう。そして、改心した彼は一から出直しを図る。師匠の芸を盗んで自分の物にしようと必死になって勉強し始めるのだ。ここまでは至ってストレートな上昇志向の成長ドラマである。しかし、本作はここから意外な方向に進んでいく。
馬喬は師匠の家の隣に住み、師匠の一挙手一投足を真似し始めるのだ。ここで「あれ?」という疑問が湧いてくる。これは芸を盗むのではなく、ただ単に師匠のコピーになろうとしているだけなのではないか?という疑問である。このあたりから馬喬の表情は徐々に狂気を帯び始めていく。
そして、中盤である悲劇的な事件が起こり、それを境に彼の狂気はいよいよ表面化していく。「芸」という悪霊に取りつかれたかのような表情に変貌していくのだ。これはほとんどホラー映画並みの恐ろしさで、例えるなら「シャイニング」(1980英)におけるJ・ニコルソンの形相か‥。タイトルにもなっている「鬼」そのものとも言える。
芸の本質とは色々と考え方はあろうが、自分は良くも悪くも"見世物″なのだと思う。芸人は自分の芸を披露して大衆を喜ばせ、驚かせ、楽しませ、そこに命を懸けている。但し、見世物は見世物でも、馬喬のような怪奇趣味的な芸は、芸の何たるか?という真髄を見誤った邪道のように思う。
本来の芸は長年にわたって培われてきた技術があってこそ成立するものである。しかし、馬喬は自分の"惨めさ″をひけらかすだけで客の笑いを取ろうとした。邪道は一時は物珍しさで受けるが、長い目で見るとやはり正道に叶わないと思う。"かくし芸大会″よろしく表面的な見世物だけに徹してしまうと、客から飽きられまいと益々エスカレートしていくしかない。しかし、それではいずれ行き詰まってしまう。悲しいかな、才能がない馬喬は邪道でしか客を喜ばすことができず、結果として生き急いだわけである。
ただ、映画は割と馬喬を突き放した感じで描いているが、自分は彼の凄まじい行動力、怨念がこもった一つ一つの芸に不思議と魅力された。アウトローの哀愁と言えばいいだろうか‥。そこに魅了される。
ともすれば芸に溺れた悲劇のドラマとして、ひたすらジメジメした映画になりそうなところを、極めてホラー的に形而下した所にも魅力を感じる。映画のルックを面白くしている。
また、馬喬を演じた桂福團治の怪演も特筆すべきで、目に宿る狂気。そこに大いに惹かれた。
個人的には、寒々とした雪原で繰り広げれられる馬喬と露の旅芸のシーンが印象に残った。ここだけは開放的なロケーションで展開されており、しみじみとさせられた。
尚、冒頭に原作・脚本の作家・藤本義一が登場してくる。わざわざ顔出しとは‥。こういうのは作品を台無しにしかねないので、なるべくなら控えていただきたい。
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> 鬼の詩はどこでご覧になってのですか?ビデオですか?探しています。
日本映画専門チャンネルで見ました。現在ビデオは絶版となっていますので難しいかもしれません。
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