映画作家の苦悩をひたすらアイロニカルに突き放した懐古映画。
「汽車はふたたび故郷へ」(2010仏グルジアロシア)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 旧ソ連時代のグルジア共和国。少年ニコは幼馴染と悪戯をしながらすくすくと育っていった。そして、青年になったニコは彼らの協力を得ながら念願の映画監督になる。ところが、初めて撮った作品が反政府的な内容として上映禁止を食らってしまう。失意のニコは祖父に勧められてフランスへ渡り一から出直しを図る。
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(レビュー) グルジア出身の巨匠O・イオセリアーニ監督の半自伝的映画。自身の青春時代を投影したかのような主人公ニコの悪戦苦闘を独特のユーモアで切り取っている。
こういう私的な映画は、その当人に余程興味があるか、何かしらドラマチックで共感できるようなテーマが用意されていなければ入り込むのは中々難しいと思う。自分はこれまでにイオセリアーニの作品は前々作「月曜日に乾杯!」(2002仏伊)しか見ていない。その時は、正直なところ余りにも淡々としすぎていて眠りそうになってしまった。また、作品のテーマも一定の理解はできるのだが、「だから?」的なものに思えてしまい、余り楽しむことができなかった。
今作もやはり淡々とし過ぎていて、自分には今一つ肌に合わなかった。そもそも、半自伝的な内容というわりに、展開がご都合主義で随分とリアリティに乏しい。また、キャラクターも感情移入できず見ていて退屈感する映画だった。
というか、劇中に登場するニコが撮った映画が、まるで学生映画のような陳腐さでとてもじゃないが才能の片りんすら感じられない。まだ駆け出しの彼がどうやって資金を調達して映画を撮ることができたのか?その経緯がまったく描かれていないので不思議でしょうがなかった。しかも、案の定出来上がった作品は製作サイド、つまり政府の検閲に引っかかってしまいお蔵入りになってしまう。当然である。若い彼に任せたのが間違いなのである。
その後、フィルムはニコ自身の手によって国外に持ち出され一定の評価を得たのだろう(その描写自体がないのであくまで想像するほかないが‥)。フランスへ渡った彼は映画プロデューサーに見初められて再び映画を撮るチャンスを貰う。え?あの映画の出来で‥?と信じがたいが、更にこのプロデューサー。あろうことか彼に金になる映画を作れと要求するのだ。オイオイ、ちょっと待てよ‥。駆け出しの亡命作家、しかもアート系作家である彼にその注文は無理だろう‥と思ってしまった。そして、案の定、再びこれも失敗作に終わってしまう。出来上がったフィルムはプロデューサーたちの手によって再編集されてしまうのだ。繰り返しになるが、それなら最初から彼に撮らせるなよ‥という突っ込みを入れてくなってしまった。
ここまでくると、もはやこのストーリー自体が支離滅裂、リアリティがまったく感じられなくなってしまった。
このように本作は理屈や理論を伴わない展開が余りにも多すぎる。ベタなコメディならナンセンスとして片づけることも出来るが、本作はそこまでの喜劇ではない。これではドラマへの関心が削がれるのも無理がなかろう。
ただ、シナリオ自体はヘナヘナだが、この映画でイオセリアーニが何を描きたかったのか?映画のテーマについては一定の解釈を得ることは出来た。
長年映画界に君臨してきた彼は、映画がどうやって作られ、どうやって人々の前に届けられるのかをよく知っている。ニコが撮ったフィルムが検閲でズタズタに切り裂かれ、本来の目的とは違った物に改変されてしまうことは、モノを作り出す作家としては絶対に許せないことなのだろう。その理不尽さをこの映画で訴えたかったのではないだろうか。編集室から追い出されてヤケ酒を飲むニコの姿が見ていて辛かった。イオセリアーニ自身にもそうした経験があったのかもしれない。
そして、後半から画面にはニコにしか見えない"ある物体″が登場し寓話化されていく。おそらくこの"ある物体″とは、映画という空想の産物に憧れる青年ニコの絶望と孤独が生み出した幻想だったのだと思う。だとすると、このラストは余りにも物悲しい。映画監督というのは好きな物だけを撮っていけるわけではない。自分の希望とそぐわない物も撮らなければならない時がある。映像作家としての愚痴、苦悩みたいなものが伝わってきた。
演出は基本的には自然主義に徹したオーソドックスなものを見せてくれている。ロングショットにおけるカメラワークにベテランならではの手練が感じられた。しかしながら、この端正さは良くも悪くも淡々としすぎている。自分がこの映画を退屈に感じてしまう最大の原因はそこにある。映画が平板に感じられてしまった。