長い、難しいと言われる原作を分かりやすく映像化した作品。
「カラマーゾフの兄弟」(1968ソ連)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) カラマーゾフ家には3人の兄弟がいた。長男ミーチャは直情的な性格の軍人、次男イワンは無神論者の秀才、三男アリョーシャは教会に仕える修道僧だった。それぞれに父フョードルとの関係は芳しくなかった。特に、ミーチャは愛するグルーシェンカを巡って父と対立していた。元々ミーチャにはカテリーナという婚約者がいた。しかし、彼女に多額の借金をしていた負い目があり、中々別れを切り出せずにいたのである。業を煮やした父は、戦地のミーチャを呼び戻し、早速口論となる。こうしてミーチャは父と絶縁し、周囲の反対を振り切ってグルーシェンカと一緒になる決意する。
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(レビュー) ドストエフスキーの世界的名著を全三部作で映画化した作品。
原作は未読なので一体どこまで映像化されているのか分からないが、どうやら随分と端折られているらしく、一部の原作ファンからは余り芳しくない評価を得てるようである。ただ、それでもあの長大な原作を4時間という大作に仕立て上げたのだから結構見応えはある。基本のドラマはしっかり押さえられている。
物語はミーチャとグルシェーンカのロマンスを中心にしながら、兄弟たちの確執、父との対立といったドラマが繰り広げられていく。第2部では一家に更なる波乱が起こり、第3部ではある殺人事件が起こる。そこから3人の運命も悲劇的なクライマックスへと向かっていく。実に重厚なドラマで見応えがあった。
ただ、先述の通り原作の設定が一部で省略されている。そのせいだろう。感動という所までは至らなかった。
原作ではアリョーシャは腹違いの息子という設定らしいが、映画の中ではそのあたりについては詳しく描かれていない。その設定にこだわらなくとも物語は不都合なく進行させることができるが、あるとないとでは大きく違う。この設定を踏まえることで更にこの物語はドラマチックな展開を見せることが出来たような気がする。また、彼はこの物語の中では狂言回し的な立ち位置になっているので、若干葛藤も弱く映ってしまった。
演出は全編、演劇的なアプローチが続き大仰な感じを受けた。おそらくだが、長い原作を切りつめるための苦肉の策なのだろう。一つ一つの演出に抑揚をつけていては時間が延びるだけである。ならばより軽快に、ストレートに演出すれば時間の削減にもつながる。見る方も入り込みやすい。そう考えたのだと思う。
現に、神の存在について家族が意見を対立させる冒頭のシーンはセリフが理屈っぽいし、演技も過剰である。まず、ここで違和感を覚えてしまうと、以後もこの映画には入り込むことはできないだろう。全編この調子で続くからである。自分も見ていて少し引いてしまったが、ただこれだけドロドロとした愛憎ドラマならむしろこのくらいのハイテンションな演出の方が合っているとも言え、多くの戯曲の映画化がそうであるように、本作もまた原作重視のスタンスを取っているのだろう。そういう意味では、こうした演劇的なアプローチの演出は納得できるところである。
そんな中、個人的に最も"映画的″な感動が味わえたのは第2部の終盤、ミーチャとグルシェーンカが束の間の幸福に浸るシーンだった。ここは楽隊の使い方や映像的な艶やかさによって、非常にロマンチックに仕上げられている。セリフに頼るような演劇的な理屈っぽさもなく、二人が寄り添っていく過程がごく自然に描かれていた。また、どちらかと言うとロシアの寒々しい風景が続く中、ここだけは温かみのあるトーンで描かれているので、それも良かった。
本作は映像も一つの見所と言えるだろう。この頃のソ連はトルストイ原作の「戦争と平和」(1966~1967ソ連)に代表されるように、国家的規模で映画作りが行われていた。「戦争と平和」も4時間半弱という大作で、あそこまでのスケール感は古今東西どこを見渡しても早々お目にかかれるものではない。本作も雄大な自然を所々に挟みながら作品にスケール感をもたらしている。
ところで、このドラマは最後に"ある謎″を残して終わるのだが、これについては色々と想像を掻き立てられた。第3部で頭角を現すキャラで、カラマーゾフ家に仕える使用人スメルジャコフという人物がいる。彼の真意を探ってみると、このドラマが訴えるテーマは深く探究できよう。
そこには同じドストエフスキー原作の「罪と罰」に通じるようなテーマが読み取れる。それは、宗教と人間の非力さの関係についてである。
本作の殺人事件も「罪と罰」で描かれる殺人事件も、結局は人間の心の弱さが生んだ事件だと思う。では、何故人は罪を犯すのか?何故、罪の意識に苛まれるのか?このあたりを探っていくと興味が尽きない。
人間はエゴを持った生き物である以上、罪を犯すことからは逃れられない運命にある。では、避けがたい罪を「悪」と決めつけるのは誰だろう?「神」である。では、その「神」を作ったのは誰だろう?「人間」である。「人間」の弱き心が「神」という存在を作り、結果、「人間」はそれに縛られて生きることを運命づけられているのだ。例えが正しいか分からないが、これは「鶏が先か、卵が先か」という問題に似ているような気がする。要するに、「罪」を犯すから人は「罪人」なのか、あるいは元々が「罪人」であるから「罪」を犯すのか?「神」という概念を作った時から、人間はこの問題に捉われてしまったような気がする。
本作のスメルジャコフも「罪と罰」のロージャも、宗教との関係の中で葛藤した人物たちである。しかし、こうした「罪」の意味という所については、結局答えは得られなかったのではないだろうか‥。