市川雷蔵の飄々とした演技が映画を軽妙にしている。
「好色一代男」(1961日)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 京都老舗の但馬屋の息子、世之介は女遊びばかりしているナンパ男である。商売一筋の厳格な父は世之介に見合い話を持ってくるが、その相手はかつての遊び相手だった。見合いを断られた世之介は、その後も近所の後家や遊女にのめり込む。そして、ついに父から江戸の出店で一から出直して来いと命令される。ところが、世之介はそこでも放蕩の限りを尽くし、とうとう勘当されてしまった。こうして寺に入ることになった世之介だが、享楽好きな彼に修行などまともに勤まる筈もない。さっさと飛び出して放浪の旅に出た。そこで彼はお町という下女に出会う。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 井原西鶴の代表作である浮世草子を、増村保造監督、市川雷蔵主演で映画化した作品。
「日本中の女を悦ばす」と豪語する世之介のキャラクターは、決して褒められた男ではないが、そこに愛着感を抱いてしまうのは、作劇の妙味と市川雷蔵の飄々とした造形あればこそだろう。
世之介は幸薄い女を見ると放ておけず、金に糸目を付けずとことん貢ぐ粋な男である。
例えば、江戸の遊郭で出会った見ず知らずの男のために、彼は恋のキュービット役を買って出る。その男と相思相愛の仲にある遊女を、全財産はたいて自由にして引き合わせるのだ。しかも、置屋の主人が吹っかけた身請け料を世之介の方から釣り上げて、2千両という大金を支払っている。おそらくだが、この時世之介は3千両持っていたら3千両支払っただろう。要するに値段ではないのだ。彼は自分の全てを差し出して可哀そうな女を救うという、遊び人としての美学を実践したかったのである。
彼の家は裕福である。だからこれほどの大金を自由に都合できる身分にあるわけだが、それにしたってこの行為は誰にでも真似できるものではないだろう。遊びは粋に‥という彼のポリシーがよく表れたエピソードだと思った。
また、その一方で、世之介は心底惚れた女にはとことん尽くす一途な面も持っている。
それを表したのが、港町で出会った下女・町子との恋慕である。世之介は町子の手のしもやけを見て不憫に思い、一緒になろうと求婚する。いつものようにその場限りのプロポーズかと思いきや、その後二人は離れ離れになり、終盤直前で再び再会を果たす。この時の世之介の胸に去来する物。それを想像すると胸が締め付けられてしまう。おそらく、町子との恋こそが自分にとって最初で最後の純愛だったのではないか‥と。女遊びに明け暮れた彼は町子から愛の尊さ、儚さ、残酷さを教わり、初めて終盤で自らの人生を顧みるのだ。実に印象的だった。
この再会を経て世之介は最後に全財産を捨てて、裸一貫で真の愛を見つける旅に出る。このラストも実に印象深かった。商人の子息としての精一杯の反抗。あるいは、男尊女卑の社会に対する抵抗。そういったものが見えてくる。世之介はただの放蕩者ではなく、実は自分の信念を貫く、当時としてはかなり異端なパンキッシュな男だったのではないか‥。そんな風に思った。
自分などはこういう所に共感を抱いていしまう。ある意味で、世之介はこの世の不正を正そうとする
「アイアンマン」(2008米)の主人公トニー・スタークに重ねて見ることも出来る。実に粋なヒーローである。
本作は前半こそユーモラスなテイストで展開されるが、後半からは、町子のエピソードによって徐々に不穏な空気が出てくるようになる。ただ、町子との悲恋にしろ、このラストにしろ、映画はそれほど陰鬱なテイストで描いているわけではない。世之介を演じた市川雷蔵の飄々とした演技が奏功し、特にラストに関してはどこか爽快感すら感じられた。変にメロドラマ色をゴリ押ししなかった所は、個人的には正解だと思った。むしろここで泣かせんばかりの演技をしつこくされてしまうと途端に陳腐に思えてつまらなくなってしまう。このくらいあっけらかんと掬い上げてくれると、見る方としても楽であるし、何より世之介というキャラクターには合っている。
他にも、今作には笑いの場面も多々ある。尼さんのクダリ、実父の死のクダリなどは傑作だった。どちらも真面目に見てしまうと気の毒なエピソードだが、これを艶笑やブラック・コメディに昇華した増村保造の演出は流石である。
ただ、今作の演出で一つだけ気に入らなかったのは、中盤の飲み屋のシーンである。ここで世之介は前半で知り合った侍と再会しているが、これは偶然に偶然が重なり合うようなミラクルで白けてしまった。全体的に軽快なテンポで進むので各所にご都合主義が目につくことは確かなのだが、ここに関しては流石に乱暴な展開である。