憎しみで覆われた世界をまざまざと見せつけられる1本。何故ソフト化されないのか?
「ヘヴンズ ストーリー」(2010日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 一家を惨殺された幼い少女サトは、事件を忘れるために祖父と引っ越すことになった。丁度その頃テレビでは、妻子を殺された男トモキが犯人の少年ミツオに憎しみを激白していた。それを見たサトは彼に共鳴する。一方、復讐代行屋をしている警官カイジマは、雪に覆われた廃鉱村である男を殺害した。彼がそんな仕事をしているのは、過去に犯した"ある事件”の罪滅ぼしからだった。カイジマは、ひょんなことで出会った女性・直子にそのことを告白する。一方、ある雨の日。バンドをしている少女タエは鍵屋のトモキに出会う。孤独なタエは彼と次第に不倫関係に溺れていく‥。時は経ち10数年後----。成長したサトは、ある港町の団地を訪ねる。あの時テレビで見たトモキに会うためだった。サトは、何故ミツオに復讐を果たさなかったのかを訪ねた。その頃、犯人のミツオはすっかり更生し、自分を救ってくれた人形造形師・恭子と新しい生活を始めていた。
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(レビュー) 復讐の悲しさ、無為を様々な人間模様を交えながら描いた4時間38分に及ぶ大作。
大河ドラマのようなスケール感は無いが、様々な人間関係が絡み合う群像劇として大変見応えが感じられる作品である。一つの殺人事件が別の殺人事件を引き起こし、更にその被害者が再び事件を起こす‥という復讐の連鎖。人間の性(サガ)というものを、ある種寓話的なテイストの中で描いている。
冒頭とラストで山の神の民俗伝承が登場してくるが、これが今作のテーマを端的に言い表していると思った。ここにおける山の神とは、人間の運命を左右する超然たる存在、神そのものと言える。かなり幻想的な作りになっているため、受け取り方は人それぞれになると思うが、俺がこのシーンから読み取れたことは、運命の残酷さ、人間の愚かさである。つまり、人は神という呪縛から永遠に逃れられない生き物であること、悪に染まって悲劇を歩んでしまう愚かな生き物であること。そんなメッセージが読み取れた。
監督は瀬々敬久。これほどの長尺を一気に見せきった力量には素直に感服してしまう。彼の演出は、基本的には手持ちカメラによるロングテイクだが、桜が咲き誇る公園や雄大な海の風景、退廃感漂う廃坑村の風景等、印象的なロケーションを活かしたダイナミックな演出も見せている。いたずらにカットを細分化しないためドラマに臨場感も感じられた。見ようによっては不格好に見えるシーンもあるが、中々の歯ごたえが感じられる。
但し、若干臭い演出も幾つか見られた。今作はライヴ感漂う即興的な演出が多いため、演出が過剰になってしまうと余計にそこだけが浮いてしまう。例えば、桜が舞い散る演出、紅葉が面会室に入ってくる演出、アニメーションの挿入などには違和感を覚えてしまった。また、第3章の浜辺のシーンにおけるタエのエキセントリックな芝居、第6章の人形を使ったミツオの芝居も臭く感じられ自分には合わなかった。
一方、ストーリーの方だが、こちらは構成を評価したい。
個々の視点と時制を交錯させながら展開していく物語は、A・G・イニャリトゥ監督&G・アリアガ脚本の一連の作品、「バベル」(2006米)、「21グラム」(2003米)、「アモーレス・ペロス」(1999米)といった群像劇スタイルに非常によく似ている。意外な所で意外なものが結びつく。意外な接点から意外なものが見えてくる。そういった驚きがこの構成の醍醐味のように思う。それがストーリーをドラマチックにしている。
たとえば、第1章「夏空とオシッコ」に登場したトモキは、第三章「雨粒とRock」で再登場する。ここでのトモキは第1章の前の彼として登場してくる。実は、彼は家族に隠れてロック少女と親密な関係になっていたということが分かり驚かされる。
あるいは、第2章「桜と雪だるま」のラストシーン。カイジマ親子が公園で和むシーンは、第6章「落ち葉と人形」の1シーン、恭子がミツオの手紙を読むシーンの背景として再び登場してくる。これも、あのシーンの裏ではこういうドラマがあったのか‥という事が分かって面白い。
このように、映画は登場人物を様々な場面で交錯させながら、時間軸を往来させて1本の長大なドラマとして構成している。これをまとめあげた構成術は見事と言えよう。
尚、今作で最も印象に残ったエピソードは、カイジマの誤射事件告白と、ミツオと恭子の恋愛であった。
前者は”罪滅ぼし”の意味について考えさせられた。
カイジマは自分が犯した事件の遺族に補償金を支払うために、手っ取り早く大金を稼げる復讐代行屋をしている。しかし、彼は復讐を代行することで、更に悲しむ者が増えていくということを分かっていない。贖罪の意識から始めた復讐代行業が、余計に彼の罪を膨らませてしまういうのが皮肉的だ。その結果、彼は悲劇的な運命をたどる。彼は罪滅ぼしの意味を完全に間違えてしまったのだと思う。
後者は”善意”の意味について考えさせられた。
殺人罪で逮捕されたミツオは、「これから生まれてくる人にも僕のことを覚えておいてほしい」とマスコミに発表する。それを聞いた恭子は、獄中のミツオに興味を抱き手紙を出すようになる。恭子は若年性アルツハイマー病である。おそらくだが、彼女にとってこの言葉は、記憶を残せない自分に対する挑戦状のように聞こえたのかもしれない。いずれにせよ、ミツオは恭子から届く手紙によって、次第に救われていくようになる。
これは恭子の善意を描いたエピソードである。やがて彼女のこの善意は愛情へと変わり、出所したミツオと同棲生活を始めるようになる。ところが、時が経つにつれて恭子の病は深刻化していく。ミツオは介護の責を負うようになっていくのだ。互いの愛情は次第に重荷になっていく‥。
元々は善意で始まった二人の関係だが、ラストは実に救いのないエンディングを迎えてしまう。果たして二人は幸せだったのだろうか?こうなるために引き合わせられたのだろうか?運命の残酷さを感じずにいられない。
映画は最後に冒頭の山の神のシーンに戻って締め括られる。先述したように、運命の残酷さ、人間の愚かさを痛感させられてしまうが、しかし人間はその運命をはねのけて力強く生きていかなければならない‥という思いも一方で強くさせられた。人が人を貶め、憎しみを繰り返していくのがこの世界である。もしそこに明るい未来を見出すとすれば、それは新しい生命の誕生に他ならないだろう。その新しい生命が世界の復讐の連鎖を断ち切ってくれるはず‥そんな希望を信じたい。その意味からも、ラスト前段で描かれた新しい生命の誕生には救われた。