トランスジェンダーの葛藤をスタイリッシュな映像で綴った野心作。
「わたしはロランス」(2012仏カナダ)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 1980年代末、カナダのモントリオールで国語教師をしているロランスは、映像ディレクターの恋人フレッドと幸せな暮らしを送っていた。実は彼には秘密があった。男でありながら心は女になりたいと思っていたのである。ある日、彼はそのことをフレッドに打ち明ける。初めは戸惑うフレッドだったが、愛する彼の支えになるべく理解しようと努めた。その日から、ロランスは学校でも街でも女性の恰好で出かけるようになった。しかし、中にはそんな彼を奇異の目で見る者達もいた。一方、フレッドの身にも異変が起きる。ロランスの子供を身ごもってしまったのだ。考えあぐねた彼女は一つの決断を下す。
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(レビュー) 性同一性障害の男と彼を愛した女の10年に渡る愛の軌跡を、ファッショナブルな映像で綴ったロマンス作品。
今となっては性同一性障害は広く一般にも知れ渡っているが、このドラマの時代設定である1980年代末~90年代頃はまだそれほど浸透していなかった。今回のロランスも家族や周囲から冷たい目で見られるようになる。しかし、彼は自分自身には嘘つけないと、フレッドとの愛を貫こうと格闘する。
以前、このブログでC・マーフィー主演の
「プルートで朝食を」(2005アイルランド英)という作品を紹介したことがある。あれも本作のロランス同様、性同一性障害で苦悩する青年のドラマだった。時代背景もアイルランド紛争が激化する1970年代で、この病気がまだ公に認知されていなかった頃である。今回の作品からも「プルートで朝食」からも、性同一性障害者の憤りと悲しみが切々と伝わってくる。異端者である自分の居場所をどこにも見つけられず彷徨う姿は、正しくマイノリティーの苦しみを代弁している。今敢えてこの題材を取り上げた意義は正にここにあると思う。いつの世にも存在するマイノリティ。彼らの生き様。そこに自分は作品の普遍性を見た。
対する、ロランスの恋人フレッドだが、こちらはこちらで更に深い問題を抱えている。彼女はロランスを愛しているが、やはりどうしても受け入れがたい物も感じてしまう。更に、彼女自身が妊娠し、それによって精神に追い詰められていくようになる。これは大きな問題である。その葛藤は女としての、もっと言えば母親としての葛藤と言えよう。これも実に深刻な問題として受け止められた。
フレッドはその後、元同僚から誘われたパーティーで、ロランスよりも経済的にも社会的にも裕福な男性に出会い恋に落ちる。しかし、それでも彼女はロランスと過ごした日々を忘れられず、時折空虚な表情を滲ませる。おそらくだが、彼を選択したのは、母親になりたいという願望がもたらした”合理的な選択”でしかなかったのだと思う。二人の私生活が酷く表層的にしか描かれていないのが何よりの証拠である。彼女はロランスと別れても、彼への愛をずっと忘れられずにいたのだ。彼女のこの葛藤は、今作のもう一つの大きな見所となっていて、その一途な思いには感動させられた。
このように今作は、マイノリティの葛藤と、マイノリティを受け入れる側の葛藤。その両方をディープに捉えることで、愛に障害は付き物というメロドラマ的な構造を見事に形成するに至っている。
この手の”性のマイノリティ”を描いたものでは、過去に「ボーイズ・ドント・クライ」(1999米)や「ブロークバック・マウンテン」(2005米)といった作品が思い出される。いずれも傑作と評されているが、今作もそれらに引けを取らないくらい重厚に、そして丁寧に作られており、当事者の苦しみや迷いが切々と伝わってきた。
尚、個人的にはラスト直前のカフェのシーンでホロリときた。あそこで二人が背を向けたのはどうしてだろうか?セリフで明示されてないので、想像するしかない。すでにかつてのような情熱が無いことを二人とも悟ってしまったからなのか?相手が追いかけてくると思って強がってみせたのか?色々と考えられる。
また、この時フレッドはトイレに入って、鏡に写った自分の顔を暫く見つめていた。ここで彼女は一体何を考えていたのだろうか?ここも見た人それぞれが想像するしかない。
欧州映画は単純明快なハリウッド映画と比べて煮え切らない作品が多いから苦手‥という人がいる。しかし、そこを観客一人一人が噛みしめながら答えを導き出すことによって、その作品は何倍にも味わい深くなってくるものである。映画は観客の思考と共に完成されるものであることを忘れてはならない。確かに単純明快でスッキリする映画は見ているだけで楽しいが、本当の意味での『作品』とは心に何かを残してくれる映画のように思う。
ラストシーンも胸にこみ上げてくるものがあった。中盤で二人が決別するシーンがあるが、この時に少し奇抜な”蝶々”の演出が出てくる。見ている最中はこれに一体何の意味があるのかさっぱり分からなかったのだが、それがこのラストシーンで判明する。これにはグッときてしまった。
今作の難は上映時間が長すぎることだろうか‥。このテーマをじっくり描くならある程度長くなるのは仕方がないが、それにしても2時間50分弱は長すぎである。もっとスリムに出来る話だと思った。
監督・脚本は今作が長編3作目となる若干23歳のグザヴィエ・ドラン。この若さでこの重厚なテーマを取り上げた所に驚かされる。しかも、映像はドキュメンタルであったり、幻想的であったり様々なスタイルを見せ、すでにベテランのような技量を見せている。
特に、ロランスとフレッドが憧れの土地を旅行するシーンで、空からカラフルな色の洗濯物が降ってくるシーンはファンタスティックで印象に残った。まるで2人の幸せを神様が祝福しているかのようである。その前段で洗濯物は2度ほど登場してくるが、それらはいずれも現実の描写であり、ここのファンタジックな描写とは正反対である。この対比が実に上手く効いていた。
また、画面の構図がシンメトリックだったり、色使いがグラフィカルだったり、映像に対しては卓越した美的センスも感じられた。今後どういう作品を撮っていくのか非常に楽しみである。
キャスト陣も好演している。ロランス役を演じたメルヴィル・プポーは、F・オゾン監督の「ぼくを葬る(おくる)」(2005仏)で末期がん患者を印象的に熱演していた。今回も難しい役どころをペーソスを交えながら演じている。そして、フレッドを演じたスザンヌ・クレマン。こちらは初見だが、これも見事な熱演である。特に、カフェでの激昂、ロランスにずっと隠していた”秘密”を打ち明ける終盤の演技。これらには震撼した。