唐十郎が残した唯一の監督作品。
「任侠外伝 玄海灘」(1976日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) チンピラ青年・田口は近藤というヤクザに拾われ、沢木組の仕事を手伝うことになった。それは韓国人を密航させる仕事だった。ある日、田口は密航中の韓国人女性がレイプされそうになっていた所を助ける。偶然にも彼女・李は、近藤が25年前に出会った女と瓜二つだった。25年前----近藤と沢木は米軍の死体処理施設で働いていた。その後、韓国へ渡り二人は女性を犯して殺害した。そのうちの一人に李がそっくりだったのである。何も知らない田口は李に惹かれていく。そして、近藤も過去の事件を思い起こして李に惹かれていく。
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(レビュー) 1人の韓国人女性を巡って凄惨な争いを繰り広げるヤクザたちを、独特の映像美で描いたミステリアスな作品。
監督、共同脚本は劇作家・唐十郎。ちなみに、チョイ役で登場もしている。
唐十郎と言えば状況劇場の開祖として有名であるが、映画に出演しているのは数本のみで、監督業は今作1本だけである。自分の小屋で自由な表現活動が出来る舞台と、様々なしがらみを強いられる映画では、やはり表現手段として大きな違いがあるのだと思う。おそらく本人の中では、コマーシャリズムに流されてしまう映画界との付き合い方に何かしらのラインを引いているのかもしれない。
ちなみに、出演作には、大島渚監督の
「新宿泥棒日記」(1969日)や松本俊夫監督の
「修羅」(1971日)といった、かなり尖った作品がある。他に、若松孝二や寺山修二の作品等、やはり劇団活動と同様にアングラ臭がする作品ばかりである。
さて、そんな舞台を主戦場とする唐十郎の初めてにして唯一の監督作品は、やはり映画と言うよりもどこか舞台劇らしいものとなっている。演出はもちろんのことシナリオもかなり大仰なところがあり、シーンの急展開が目立つし、キャラクターの心理の機微も深くまで掘り下げられていない。舞台と映画の決定的な違いはここで、観客の対象の広さである。舞台は広い空間で芝居をするものであり、映画は狭い空間に向けて芝居をするものである。それがこの映画の”大仰さ”に繋がっているように思った。
ただ、逆に言うと、細かいことを気にしない堂々とした所には、処女作ならではの勢いも感じられた。現に、強烈なインパクトを残す映像が幾つかあった。
例えば、ラストの田口の李に対する痛切な愛の叫び。ここは印象に残った。童貞青年(現に彼は女を抱けない不能者だった)の精通できない悲しみが臆面もなく画面に叩きつけられており、脳裏に刻み付けられる。
この映画には、ヤクザの抗争や韓国人密航者の悲惨な運命といったドラマが織り込まれているが、主となるストーリーは田口と李の純愛ドラマだと思う。それがこのラストでテーマとして明確に打ち出されている。乱暴な展開など、色々と突っ込み所はあるのだが、最後にきちんとテーマに着地させた所にカタルシスを覚えた。
他にも、公道を背景にしたゲリラ撮影と思しきファースト・シーン。ここにも野心溢れる唐十郎の”勢い”が感じられる。また、乱闘シーンやレイプ・シーン等、人間のエゴを生々しく切り取った所にも見応えを感じた。いずれも剛直一辺倒な演出であるが、エロとバイオレンスをここまでごった煮にしたような演出には熱気と情熱が感じられる。
尚、一部でゲロやスカトロ、ヘドロ等の汚物映像も出てくるので、見る人によっては注意した方が良いかもしれない。美しい物も汚い物も関係なく、全てを真正面から捉えようとする唐十郎の創作姿勢なのだと思う。普通だったらこういう物には蓋を閉じてしまうだろう。しかし、彼はそこも正直に描いている。
また、今作は田口を主人公にしたドラマであるが、彼の相棒となる近藤の視点に立ってみると、ある種の不条理ドラマのようになってくる所も面白い。言わば、李という女性は、近藤がかつて韓国で殺した女の生まれ変わりでもある。つまり、一度死んだ女が蘇って復讐を果たす‥という心霊ドラマのようになっていくのだ。少しシュールなタッチが入ってくるのもそのせいで、いかにもATG配給らしい不思議なテイストを持った作品になっている。
キャストでは、田口を演じた根津甚八のトッポイ感じが中々上手くハマっていた。また、李役を演じた李礼仙の身体を張った熱度の高い演技も見応えある。他に、小松方正の怪演、嬉々として悪役を演じた宍戸錠の際どいコメディ演技が目を引いた。特に、宍戸に関しては相当笑えた。