この映像美に痺れる!
「津軽じょんがら節」(1973日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 東京でホステスをしていたイサ子は、ヤクザの恋人・徹男と一緒に故郷の津軽海峡の寒村に逃げ込んだ。徹男が組の幹部を刺したのである。イサ子はそこで働きながら徹男を支えた。そして、漁で亡くなった父と兄の墓を立てようとした。一方の徹男は、何もない田舎暮らしに暇を持てあましながら堕落した生活を送るようになる。ある日、彼は盲目の少女ユキと出会い‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 日本海に面した寒村を舞台に男女の愛憎をドラマチックに綴った作品。
監督・共同脚本の斎藤耕一の映像感性が傑出した作品だと思う。
何と言っても、随所に登場する荒々しい海が印象に残った。まるでイサ子たちを呑み込む悲劇的運命を暗示するかのように浩々と画面に広がり、何とも言えぬ寒々しさを覚えた。
また、望遠レンズによるナロウ・フォーカスの多様が、このドロドロとした愛憎をどこか虚無的に見せている。このあたりのスタイリッシュな画作りには惚れ惚れさせられる。派手なきらびやかさは皆無であるが、一つ一つのショットが重厚で、見返したくなるような深みに溢れている。
今作は色彩センスにも卓越したものが見られる。日本海の港町が舞台ということで背景は全編寒色トーンが貫かれている。その中に赤いコートを着たイサ子、黒いスーツを着た徹男等、ポイントの配色の妙技が光る。背景と人物のコントラストがイサ子たちの異端性を強調。更には、彼らがいかにしてこの環境に適合していくことができるのか?という葛藤を見事に表現している。実に計算されつくされた色彩設計だと思う。
一方、物語の方はというと、映像の虚無感とは対照的に実に情熱的なメロドラマとなっている。物語の視点が常にイサ子たちに寄り添っているので、夫々の心情は見ているこちら側によく伝わってきて、イサ子の徹男に対する愛、徹男のユキに対する愛には深い感銘を受けた。基本的にドラマの構成自体は端正に組み立てられている。
中でも、徹男の心理変化は最も興味深く見れる部分だった。
彼はイサ子のヒモとし一日中ダラダラとした暮しを送っている。能天気な彼にこの暮らしは性に合っていた。しかし、それも最初だけである。何しろ田舎には娯楽が少ない。次第に彼は今の”何もない”暮らしに息苦しさを覚え始めていく。そんな時に盲目の少女ユキと出会い、徹男は今の暮らしから逃れるように彼女との交流を重ねていくようになる。
無論、これは徹男の一方的な性的欲望から始まった交流である。しかし、ユキの純真さに触れることで徹男の荒んだ心は徐々に潤っていくようになる。
幼き障害者に対する慈愛と言えば感動的だが、その裏側にイサ子に対する反抗心がかすかに読み解けるのが興味深い。あるいは、惨めな自分よりも更に惨めなユキを労わることで、自分の生きる糧を見出したのかもしれない。いずれにせよ、そのあたりの心理を深読みしていくと、このドラマは面白く見ることが出来る。
一方、イサ子にしてみれば、どれほど献身的に支えても、その愛が徹男に届かないという所が不憫である。それは愛情ではなく、単なる”甘やかし”に過ぎない‥という見方が出来るかもしれない。
そして、そんなイサ子がラストで見せた冷酷な”選択”。これには戦慄を覚えた。その直前の徹男に対するセリフも印象深い。彼女は徹男にこんな言葉をかけて去っていくのだ。
「あんた、故郷が見つかって良かったね」
この時の「故郷」の意味は色々と推察できる。
一般的に「故郷」と言えば、自分が生まれ育った場所ということになろう。しかし、この港町はイサ子が生まれた場所であって、徹男の生まれた場所ではない。なのに、なぜ彼女は徹男に「故郷が見つかって良かったね」と言ったのだろうか?
つまり、こういう事なのではないかと思う。この場合の「故郷」とは出生した場所を指すのではなく、本来自分が生きるべき場所、つまりの己が魂の帰巣を意味しているのではないだろうか。人間はどこから来てどこへ向かうのか?ということを考えた場合、結局は”魂”の世界に始まり、”魂”の世界に終わるのではないかと思う。やや哲学的な言い方になってしまうが、要するに徹男はこの港町に自分の生きがいを見つけることが出来たのだと思う。
逆に、イサ子にとって、これほど皮肉的な結末はない。何故なら自分が本来帰るべき場所だったこの港町に自分の居場所を見つけられなかったからであるから。ラストで、イサ子はこの港町を出て一体どこへ向かおうというのだろうか?それを想像すると悲しくなってしまう。
尚、この時の二人の服装も対照的で面白い。徹男は漁師の恰好で、イサ子はここに戻ってきた時と同じ真っ赤なコート姿である。この町に留まる者と出て行く者。二人の人生の選択がこの服装から読み取れる。
キャストでは、イサ子を演じた江波杏子の演技が絶品だった。