「台風騒動記」の学園版?絶望と欲望の衝動が炸裂した傑作!
「台風クラブ」(1985日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 台風が接近したある日、中学生の理恵は何か得体の知れないモヤモヤとした感情に襲われていた。それは近所に住む幼馴染・三上も同じだった。彼らのクラスには他に、三上の親友・明、三上に憧れる美智子、美智子に恋焦がれる健、そして演劇部の少女・泰子、由利、みどり達がいた。翌日、いよいよ台風が上陸し学校は閉鎖される。三上たちは校内に取り残されてしまう。一方、理恵は学校を休んで一人で東京行きの電車に乗った。
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(レビュー) 中学生と言えば、性に対する興味、将来に対する不安、親からの独立、精神的にも身体的にも悩み多き年頃である。ここに登場する若者たちも皆、不安、焦燥、欲望に捕われ鬱屈した感情を抱えながら生きている。大変悩ましい時期だが、しかし人はそれを乗り越えることで大人になっていくものである。そして、この時期はもう二度と戻ってこない尊い時間のように思う。
同世代が見れば主人公たちの心情にシンクロできるかもしれない。大人が見れば、過去の自分を思い起こしながら懐かしむことができるかもしれない。すべからく青春映画というものは、こうありたいものである。
映画は三上たちの学園生活を粛々とスケッチしながら進行していく。恋愛に悩む者。進路に悩む者。親との関係に悩む者。様々な若者たちが登場してくるが、その一つ一つが丁寧に描かれている。そして中盤、台風の到来を機に、彼らはそれまで抑圧していた感情を外に向かって爆発させていく。そこが本作のハイライトとなる。映像的カタルシスにドラマのカタルシスが伴い、彼らの苦悩が解放されていく姿には素直に感動させられた。
そして、この映画には計算され尽くされた”お行儀の良さ”が余り無い。全てが直情的で赤裸々に描かれており”作られた”感がない。とりわけ、性に対する欲望は包み隠さず描写されている。
そもそも、このストーリーの肝は、夫々が内包する”性衝動”にあると思う。三上は幼馴染の理恵のことが好きである。理恵は大人の階段を踏み出そうと都会の大学生と仲良くなる。クラスのアイドル的存在・美智子は三上のことを一途に想いつづけるが、その想いは伝わらず、逆に三上の親友・健に付きまとわれる。
ちなみに、この健の愛情は実に屈折している。中盤、台風で誰もないくなった校舎の中で、美智子を犯そうと執拗に追い回すシーンは、まるでサイコホラー並みの怖さで撮られている。S・キューブリック監督の「シャイニング」(1980英)を想起した。ほとんど健=J・ニコルソンである。
また、演劇部の部員達は同性愛の関係にある。製作された時代を考えれば、この設定も実に衝撃的だったろう。思春期特有の倒錯した世界が感じられる。
このように本作には、彼らが抱える悶々とした性の悩みが臆せず登場してくる。しかも、表現が実に直接的だ。それは見ようによっては滑稽にも写るかもしれないが、しかし同時にこのリアリティには驚かされるし、同時に愛おしさも覚えてしまう。
そして、本作には”性衝動”以外にもう一つ重要なテーマが隠されているような気がする。それは三上が抱える問題。”将来に対する漠然とした不安”である。
このエピソードのキーマンとなるのは担任教師の梅宮である。彼は交際中の恋人といつまでたっても結婚しようとしない、言わゆる甲斐性なしである。三上は彼を見て不安に思う。自分もいつかこんな大人になってしまうのだろうか‥と。
映画のクライマックスで三上は唐突に”ある行動”に出るのだが、それは梅宮のような大人に対する失望と将来に対する不安からくる落胆であろう。その手前で交わされた梅宮との会話も大いに関係している。
思うに、三上は繊細な少年なのである。健のように感情を外に爆発させたり、明のように物事を楽観的に捉えることが出来ず、すべての悩みを自分の中に抱えてしまったのである。大人になることへの不安、”将来に対する漠然とした不安”。それが三上のエピソードから伺える。
監督は相米慎二。脚本はディレクターズ・カンパニーのシナリオ募集コンクールで準入選になった作品である。
ストーリーは実にシンプル、且つ個々の葛藤も過不足なく詰め込まれていて中々よく出来ていると思った。
ただ、幾つか突っ込み所があるは残念である。例えば、美智子にあれだけの暴行をした健は、普通であれば何らかの処分を受けて当然であろう。しかし、そういった描写は無く、そこは不自然に思った。また、三上は理恵の家出をどこで知ったのだろうか?それも劇中では語られていない。
ただ、こうしたシナリオ上の穴はあるにせよ、この映画の素晴らしさは相米慎二の演出、そして天真爛漫な若いキャストの魅力。この二点で支えられている。
まず、相米監督と言えば長回しである。今回もそれが随所に登場し、各キャラの感情を上手く拾い上げている。特に、暴風雨の中を裸で踊るシーンの鮮烈さといったらない。いわゆる理屈を抜きにした祝祭感に愛おしさを感じずにいられなかった。
その手前、体育館で泰子たちが歌いながら制服を脱いでいくシーンも忘れがたい。遠巻きに眺める三上の虚無感との対比が移動カメラで克明に切り取られていて印象に残った。
また、クライマックスの三上の決意と表明を捉えたロングショットには、目を晒すことが出来ない緊迫感があった。見ていて思わず引き込まれてしまった。
逆に、オカリナを吹く謎のコンビだけは狙いすぎて白けてしまった。一体彼らは何者だったのだろうか?変に凝り過ぎて混乱させられる。
キャストでは、理恵を演じた工藤夕貴の体当たりの演技が印象に残った。
例えば、母親の布団の中で自慰にふけるシーンがある。これなどは、今のアイドル女優には到底真似出来まい。工藤はその後、本格派女優としてハリウッドへ渡り立派に成功した。若い頃のこの度胸を見ると、さもありなんという気がする。
ちなみに、理恵の家庭の実態は劇中に一切登場してこない。しかし、このシーンだけで何となくそれが想像できてしまう所は相米監督の上手さであろう。おそらくだが、彼女の母親はあの布団に男を連れ込んだに違いない。だから理恵はその残り香を嗅いで自慰行為にふけったのだろう。母一人、子一人の家庭でありながら、そこに家族の温もりは一切感じられない。
もう一つ、彼女の姿が強烈に印象に残るシーンがある。それは土砂降りの雨の中を歌いながら彷徨う姿だ。若い新人俳優をずぶ濡れにして放り出すというのだから、これも相当過酷な撮影である。しかし、同時に相米監督は、そうやって俳優は成長していく‥ということを、ちゃんと分かっているのだと思う。
「ションベン・ライダー」(1983日)の永瀬正敏然り、「セーラー服と機関銃」(1981日)の薬師丸ひろ子然り。彼らもまた相米監督の下で俳優としてワンステップ成長した者達である。