ロングテイクに込められた葛藤に魅せられる。
「郊遊<ピクニック>」(2013台湾仏)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 中年男シャオカンは、郊外の空き家で幼い二人の子供と暮している。不動産の看板持ちをしながら、家族で近所のスーパーで試食巡りをするのが日課だった。傍から見れば貧しい暮らしだったが、子供たちにとっては毎日がピクニックのようだった。ある日、長女がいつものように食品売り場へ行くと、衛生管理をしているパートの女性に呼び止められる。こうして二人はささやかな交流を始めるのだが‥。
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(レビュー) 大都会の片隅で暮らす貧しい親子の情愛を静謐なタッチで描いた人間ドラマ。
監督、共同脚本は台湾の異才ツァイ・ミンリャン。1シーン1カットのロングテイクを信条とした作家で、人によっては退屈、眠くなるという意見もあろう。しかし、完璧に設計された画面、何も起こってないように見えて実は人物の葛藤表現に執心するロングテイクは大変見応えがある。そこを深読みしていけば退屈するどころか、逆にグイグイと画面に惹きつけられてしまう映画である。
特に、終盤のロングテイクは見てて”じれったくなる”ほどの長回しで、少々やり過ぎな感じも受けたが、ツァイ・ミンリャンの真骨頂が極まったシーンだと思う。どんどんスピード化していく最近の映画にはない、氏の”こだわり”が感じられた。
ただ、ストーリーに関しては少々ベタで、これと言って大した捻りが無い。いわゆる家族愛をストレートに綴ったドラマで、大体予想通りの展開に終始する。
また、ストレートなドラマとは別に、今作に登場する3人のヒロイン。これが説明不足で、彼女らが一体何を表しているのかが今一つ掴めないという難題さもある。
ここからは想像だが、3人のヒロインの”意味する所”を独自に解釈してみたい。
まず、一番最初に登場した女は、寝ている子供たちの傍で”髪をすく”という行動をとっている。その所作から「女」を表しているものと思われる。最初は彼女が子供たちの母親だと思ったのだが、見進めていくとそうじゃないことに気付かされた。後述するが、子供たちの母親は別にいる。
二番目に登場したスーパーの女は、シャオカンの長女を気に掛けている所から、「母親」の象徴のように思えた。シャオカンから子供たちを守るという所にも強く優しい母性が伺える。彼女のバックストーリーは全くもって不明であるが、退屈した日常を送る孤独な女性だと思う。生活感の無さ。不愛想な表情、深夜に野良犬に餌を与えるという奇行からして、おそらく既婚者ではないだろう。その彼女が母性に目覚めるという所が中々面白い。
そして、終盤に登場する3人目の女。これが子供たちの母親であり、シャオカンの別れた「妻」なのではないだろうか。
この終盤はちょっと変わったな作りになっているので、見ててかなり当惑した。それまで現実感のあった空き家がここで一気に幻想的なトーンに切り替わり、部屋の中には高価なマッサージ器があったり、電気やガス、水道まで通っていて、まるで高級住宅のような暮らしになる。普通に考えたら、明らかに歪な生活空間である。おそらく、これはシャオカンの狂気が作り出した過去の幻想なのではないだろうか。
更に、三番目の女は長男に「家も人間と同じだ」と語っている。そのセリフの意味を汲み取れば、禍々しく腐食した壁に囲まれたこの暮らしは、家族その物の現状を表現しているのだと思う。つまり、家族の崩壊、夫婦関係の崩壊を意味しているのだろう。
そこから、三番目の女はシャオカンの別れた「妻」なのではないか‥と想像できるのだが、どうだろうか‥。
このように、登場する3人の女たちについては色々と深読みできて面白い。また、この終盤の展開から、シャオカンのバックストーリーも様々に推理できる。
積極的に解釈していかなければならない映画は取っつきにくくてどうしても敬遠されがちだが、後で見返してみると色々な発見ができるものである。そういう意味でも、本作は噛みしめたくなるようなタイプの映画と言えよう。
尚、残念ながらミンリャンは今作をもって映画監督を引退してしまうそうである。この独特の作家性は、先日引退表明をしたタル・ベーラー然り。実に惜しい存在である。
キャストではシャオカン役のリー・カンションの熱演が印象深かった。特に、中盤でキャベツを使った”あるシーン”があるのだが、笑えると言えば笑えるし、泣けると言えば泣ける。そんな微妙な感情を誘発する中々の名シーンとなっている。彼はミンリャンの作品の常連であり、長きにわたりタッグを組んできた盟友でもある。