捕虜を巡ってカオスに陥っていく村の様子が恐ろしい。
「飼育」(1961日)
ジャンル戦争・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 太平洋戦争末期、ある貧しい村に米軍機が墜落し、黒人兵士が村人たちによって捕らえられた。地主の鷹野一正は、彼を納屋で管理することにする。そして、あわよくば彼を捕虜として差し出して報奨金をせしめようとした。一方、村の子供たちは、初めこそ兵士を奇異の目で見ていたが、次第に慣れて交友を育んでいく。そんなある日、村の少年・次郎に召集令状が届く。その出征祝いの夜、兵士の身に事件が起きる。
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(レビュー) 大江健三郎の同名小説を鬼才・大島渚が監督した作品。
閉塞的で理不尽な村社会の実態を描きながら、戦争の無慈悲を皮肉的に訴えた傑作である。
今作は大島が
「日本の夜と霧」(1960日)で松竹を退社した後に、初めて撮った作品である。大島らしい政治色はあるものの、象徴主義、観念主義なところがなく割と突っつきやすい作品になっている。彼の映像感性が今一つ大人しめであるが、所々に登場する長回しや、ラストショットの荘厳さ、埋葬シーンの厳粛さは特筆に値する。特に、長回しに関しては、前作「日本と夜と霧」の失敗を反省してか、安定感のあるフレーミングと演者の好演によって見応えが感じられた。例えば、土砂降りの雨のシーンは印象深い。二郎の失踪は一正の姪・幹子のせいだと咎めたことで八郎が木に縛られて放置されるのだが、その絵面の凄まじさは撮影の過酷さを物語っている。
ストーリーは、捕虜を囲った村の混乱を様々な局面で描くことで展開されていく。戦時下における捕虜の扱いは他の映画でも描かれているが、今作のように民間人が捕虜を捕まえるという設定は中々面白い。このシチュエーションで真っ先に思い浮かべるのは、チェチェン紛争を描いた「コーカサスの虜」(1996カザフスタンロシア)という作品である。あれもチェチェンの村人たちがロシア兵を捕虜にする話だった。軍隊と違って、彼らは捕虜の扱いに慣れていない。生かすも殺すも個々の感情次第ということで中々スリリングである。そこに軍事物のドラマにはない面白さがある。
今作でも、村人たちは黒人兵士をどうするかで言い合う場面がある。食糧不足で苦しんでる時に、捕虜を養うほどの余裕はないと言う者。報奨金を貰うまでは生かしておけと言う者。意見は様々だ。また、大人たちが言い争いをしている一方で、子供たちは外国人など見たことが無いので物珍しさで近寄っていく。こうした対比も面白い。
やがて、軍から正式な命令がきて、村人たちはその捕虜を暫く管理することになる。これがタイトルの「飼育」という言葉に繋がっていくのだが、いくら敵とはいえ仮にも人間を「飼育」とは実に酷いタイトルである。
ここまで聞くと多くの人は、捕虜の扱いを巡って展開されるヒューマン・ドラマのように思うだろう。ところが、今作のテーマはまた別の所にある。村に起こる様々な問題。そこをを中心に映画は描いているのである。
村には富める者、貧しい者、様々な人間が住んでいる。貧困に喘ぐ者は他人の畑を荒らす。中には、東京から疎開した者もいて、彼らなどは村人から反感を買っている。エゴをむき出しにしながら争いを始める人々。映画の本文はそこになる。
こうした問題に地主の一正は進んで解決を試みる。しかし、強権的な彼のやり方には反発も少なくなく、問題は余計ややこしいことになっていく。更には、出征するはずの二郎が直前になって逃亡したり、一正の過去の蛮行が明るみになったり、人々は熱病にでもかかったかのように冷静さを失っていく。そして、彼らは一つの解決策を見出す。全ての問題を捕虜である黒人兵士に転嫁するのだ。怒りの矛先が、何の関係もない彼に向けられていくのである。この集団心理は実に恐ろしい。
映画は終盤である悲惨な事故が起こる。ここから畳み掛けるようにして憎しみの連鎖が発動し、最後は皮肉的な結末で締め括られる。一連の事件は正に人間の憎しみが生んだ悲劇であり、見終わった後には暗澹たる気持ちにさせられた。戦争は醜いものである。しかし、本当に酷いのは人間の憎悪に満ちた心である‥と、この映画は語っているような気がした。
この事は我々の日常に引き寄せて考えてみても当てはまる。
例えば、昨今の魔女狩り的なバッシングは良い例である。事情もろくに知らないまま、周囲に乗っかる形で他者を批判する傾向はどうにかならないものだろうか。それでしか日々の鬱憤を解消できないというのであれば、それは何と悲しい世の中だろう‥と思う。これではこの映画で描かれている村人たちの集団心理と何ら変わらない。
キャストでは、一正を演じた三國連太郎の怪演が印象に残った。特に、黒人兵士をナタで追い廻す時の形相はホラー映画さながらの恐ろしさだった。
また、黒人兵士を演じた俳優の熱演も印象に残った。調べてみると、彼はアメリカのインディペンデント映画界の父J・カサヴェテスの監督デビュー作「アメリカの影」(1959米)の主演俳優だった。「アメリカの影」は全て即興演出で撮られたドライヴ感溢れる社会派人間ドラマで中々ユニークな作品だった。その彼がどういう経緯で今作にキャスティングされたのかは分からない。
ただ、大島渚が本作を製作した時期は、松竹を退社して間もない頃だった。自分と同じように本流から離れた所で活動をしていたカサヴェテスに興味を持っていたとしても何の不思議もない。それで彼の作品を見て今作に彼を起用したのかもしれない。