清々しさと郷愁に満ちた青春ドラマ。
「横道世之介」(2012日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 長崎の港町から大学進学のために上京した横道世之介は、明るく素直な青年である。入学式で出会った倉持や同級生の加藤らと友情を育む一方で、町で知り合った年上の女性・千春に片思いをしながら、大学ライフを謳歌していた。そんなある日、加藤のデートの付き添いで、お嬢様の祥子と出会う。二人は次第に惹かれ合っていくのだが‥。
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(レビュー) 様々な出会いと別れを通して成長していく青年の姿をノスタルジックに綴った青春映画。吉田修一の同名原作を映画化した作品である。
物語は80年代を舞台にした世之介の学園ライフを中心しながら展開される。時折、彼の友人たちのその後の姿が挿入されるが、こちらは現代を舞台にしたドラマとなっている。全体的に展開に躓くような所もなく上手く作られていると思った。また、現代の友人たちからの視点で語られる世之介との思い出話‥というような見方もでき、それによってこの映画にノスタルジックな抒情が付帯する。味わい深く見れた。
自分は世之介よりも少し下の世代であるが、それでも劇中で描かれる80年代のポップカルチャーや風俗、当時の学生たちのノリは面白く見ることが出来た。例えば、丸井の10回払いというセリフには思わずニヤリとさせられたし、当時流行ったボディコンやウォークマン、ヒット・ソングなど、色々と懐かしく思い出される。そう言えば、この頃はホイチョイ・プロダクションズが出てきたことによって、若者文化にも一つの変化が訪れていた頃だったように思う。世之介のように恋にお洒落に奔走していた大学生は結構いた。バブル真っ盛りだったこともあり、今となっては随分と能天気な時代だったなぁ‥と思い起こされる。
映画は世之介が上京する所から始まる。以後、倉持との出会い、加藤との出会い、そして加藤を通して千春と出会い、最後に天然系お嬢様・祥子と出会い初恋が語られる。実に微笑ましく見ることが出来た。
世之介の人間的な魅力にも惹きつけられた。彼は誰に対しても心を開くタイプの人間で、こう言っては何だが今の時代には無い純朴な、そして常に前向き志向な性格の好青年である。この人柄には誰もが親しみを持つだろう。彼のような主人公が成立するのはやはり80年代、ある意味では能天気だった時代だからこそと言う気もする。これが70年代を舞台にした映画だったらリアリティは無くなってしまうだろう。逆に、90年代以降になってしまうと、浮世離れにしか見えなくなってしまう。この時代設定が実に絶妙だ。
時制を交錯させた構成もドラマチックな効果をもたらしている。
中盤、現在の千春の口から飛び出す思わぬ”言葉”は衝撃的だった。その後、すかさず映画は80年代に戻り、コインランドリーで陽気にサンバを踊る世之介のシーンに引き継がれる。ここは本来であれば可笑しいはずなのに、その前の千春の”言葉”のせいで何だか物悲しく感じられた。悲喜のバランスが絶妙でこのシーンは今作一番の名シーンのように思う。
また、トリッキーな展開もあって、例えば世之介と祥子が夜の海辺で愛を囁くシーン。良い感じで二人はキスしようとするのだが、それを邪魔する”ある意外な来訪者”が登場する。この”仕掛け”には驚かされた。
監督、共同脚本は
「南極料理人」(2012日)の沖田修一。「南極料理人」の時にはオフビートなタッチが若干、映画に入り込む上で邪魔だったが、今回はそういったことはない。160分と長い上映時間だが、その長さを全く感じさせない所は見事で、とてもテンポよく見せていたと思う。
キャストでは祥子役を演じた吉高由里子の可愛らしさが印象に残った。ややマンガチックな造形になってしまった感が否めないが、天然系のお嬢様という役柄を屈託なく演じており、ヒロインとしての輝きも十分である。
世之介を演じたのは高良健吾。こちらも好演している。尚、このキャストで思い出されるのは、以前見た
「蛇にピアス」(2008日)という作品である。あの時は両者とも荒んだ青春を送る痛々しい若者を演じていたが、個人的には今回のような初々しいカップルの方が彼らには似合っているような気がした。もちろん2人の相性もバッチリである。
今作で不満だったのは、世之介の周囲の人間が過去の世之介を回想する現代編の方である。いずれも世之介のことを何だか遠い存在のように見つめるのみで、何だかそっけない。例えば、祥子は海外に旅立ってから世之介と連絡を取っていたように見えなかったし、倉持夫妻も世之介のことをほとんど”過去の人”扱いである。あれほど好きだった相手である。あれほど固い友情で結ばれた相手である。それをこんなにアッサリとした存在認識にしていいのだろうか?
もっとも、”現実的”には、長年会ってなければ友達でも恋人でも”過去の人”になってしまうのは仕方がないことなのだが‥。しかし、見ている方としてはそこは”現実的”ではなく”映画的”であって欲しい‥という気もしてしまう。