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ナイトクローラー

J・ギレンホールの怪演とストーリーに見入ってしまった。
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「ナイトクローラー」(2014米)star4.gif
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ)
 ルイスはコソ泥をしながらその日暮らしをしている孤独な男。ある日、偶然遭遇した事故現場で、ビデオカメラ片手に夢中で撮影する男たちを目撃する。彼らは事故や事件の現場をカメラに収めて、その映像をテレビ局に売り込むパパラッチ、通称“ナイトクローラー”だった。早速ルイスはビデオカメラと無線傍受器を手に入れて、見よう見まねでこの仕事を始める。

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(レビュー)
 事件・事故の現場をカメラに収めるパパラッチ、ナイトクローラーでのし上がっていく男の物語。

 テレビでよく目にする事故や事件現場の映像は、基本的にはテレビ局のスタッフが撮影した物もあるが、たまに一般市民がスマホなどで撮影した映像が出てきたりする。我々は至る所で事件、事故の目撃者になる可能性があるわけで、今後益々こうした素人投稿の映像は増えていくのだろう。

 この映画には、それを専門で撮影するパパラッチ、夜の徘徊者と呼ばれる”ナイトクローラー”が登場してくる。果たして日本でも同じようなことをしている人たちがいるのかどうかは分からないが、事件や事故、他人の不幸を覗き見したいという心理は、おそらく誰でも持っているものである。この欲望がある限り、彼らのような存在は無くならないだろう。

 この映画のユニークな所は、こうした職業に焦点を当てた所だと思う。
 ナイトクローラーは基本的にフリーで活動をしている。撮影した映像をテレビ局に持ち込んで買い取ってもらい、その映像は翌朝のニュースで流される。マスコミも視聴率優先主義で、他社よりも過激な映像を求めたがる。ルイスたちはそれに応えるように、凄惨な現場映像をカメラに収めていく。しかし、被害者のプライバシーや、公共の電波で血なまぐさい映像をどこまで流せるのか?といったガイドラインを含め、道徳的にはかなりの問題も含んでいる。一視聴者として見たいという気持ちも分かるが、一方で被害者のことや社会への影響という事を考えた場合、複雑な気分になってしまう。

 主人公ルイスは、この仕事を天職として、まるで水を得た魚のように次々と事件・事故の映像をカメラに収めていく。それまでの無為な日常に別れを告げて、活気に満ちた日々を送るようになっていく。ある種アメリカン・ドリーム的な成功とも言える。しかし、彼のやっていることは他人の不幸の上に成り立っているわけで、同時に非常に居たたまれない気持ちにもなってしまう。

 ここがこの映画の重要なポイントだと思う。つまり、ルイスの成功を観客に見せておいて、あなたはどう思いますか?というクエスチョンを提示して考えさせるのだ。本作は娯楽映画として、とても良く出来た作品である。と同時に、見終わった後にはズシリと重い鑑賞感を残す骨太な社会派映画でもある。

 監督、脚本は「ボーン・レガシー」(2012米)、「落下の王国」(2006インド英米)で脚本を担当、「リアル・スティール」(2011米)で原案を担当したダン・ギルロイ。これまでは主に脚本家として活動してきたが、今作で初めて監督業に挑んでいる。

 尚、彼の家族は映画一家で、本作で製作に名を連ねている兄のトニー・ギルロイは映画監督・脚本家である。彼はボーン・シリーズ3部作では脚本を担当、その後に製作された「ボーン・レガシー」では監督も務めている。双子のジョン・ギルロイは編集マンで今作の編集も担当している。

 シナリオは、緊張感を絶やさない展開、ルイスの謎めいた魅力によって、グイグイと引き込まれるものがあった。決して共感を覚えるドラマではないが、ピカレスク・ロマンとしての王道を行っているところが潔い。もっとも、ルイスが余りにも上手く行き過ぎてしまう所に、若干リアリティが感じられなかったのは残念だが、そこは現代の寓話という風に捉えるべきであろう。

 また、今作においてカメラは非常に重要な役割を持っている。写す側と写される側という立場を隔てる絶対的なモノ。それがカメラである。言わば、写す側は<支配する者>、写される側は<支配される者>という優劣関係が構築され、だからこそ、それまで<支配される者>だったルイスがカメラを手にこの仕事に生きがいを覚えていくのはよく理解できる。そして、そこに人情という物は一切ない。あったら撮影などできない。ルイスが非人間的に見えるのはそのためで、彼は常に被写体を<物>として捉え<支配する>快感に酔っているのだ。
 劇中で彼のアシスタントが、こんな事を言っている。「アンタは人間の心を理解していない」。まさにそうで、人の心を理解できるようなら、こんな仕事はしていないのである。
 カメラはルイスの全てであり、それによって彼は世間を、社会を支配する喜びに浸っているのである。

 しかし、そんな彼でも本編中に2度だけカメラに写される側に立つ瞬間がある。
 一つはテレビ局のスタジオで、もう一つは警察の取調室でである。
 前者は、ニュースキャスターのデスクに座って悠然とカメラを見つめるカットである。彼の静かな野心みたいなものが感じられた。後者は、取調官の事情聴取をクレバーにやり過ごして、監視カメラに向かって不敵な笑みを浮かべるカットである。まるで警察を挑発するかのような、その怪物じみた表情は実に不気味であった。カメラを前に怯むどころか、堂々としている。
 <撮る側>が<撮られる側>になるということは、先の優劣関係の話で言えば劣勢、支配される側に立つということを意味している。しかし、すでにカメラという<凶器>を手にしたルイスにとっては、その劣勢は不利とは言えない。まるで<撮る側>の心理を見透かしたように余裕の笑みを浮かべ、いつでもお前にカメラを向けてやるから覚悟しな‥というような挑戦にも見えてくる。

 果たしてルイスがどこまで成り上がっていくのか?映画は最後まで描いていない。しかし、仮にこの怪物がいなくなったとしても、我々視聴者がいる限り、彼に変わる別のナイトクローラーが現れて、カメラを片手にこの<支配>は続くだろう。怖さと危うさを感じるエンディングである。

 キャストでは、何と言ってもルイスを演じたJ・ギレンホールの怪演が印象に残った。大幅に減量しての役作りで、その努力は画面から如実に伝わってきた。どこか超然とした佇まいには近寄りがたい怖さがあり、自ら言うような「死神」を彷彿とさせるような造形を形成している。残念ながらオスカーにノミネートはされなかったが、ここ最近の彼の演技はどれも高評価を得ていて、いずれ賞レースを席巻する日も近いのではないかと思う。
[ 2015/09/05 01:28 ] ジャンルサスペンス | TB(0) | CM(0)

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