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岸辺の旅

死者と生者のロード・ムービー。
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「岸辺の旅」(2015日)星3
ジャンルファンタジー・ジャンルロマンス
(あらすじ)
 夫の優介が失踪してから3年。妻の瑞希は深い喪失感を抱えながら孤独な日々を送っていた。そんなある日、優介が突然帰ってくる。彼は自分はすでに死者であると告白した。その言葉に戸惑う瑞希だったが、彼の帰りを喜ぶ。そして、優介が辿ってきた道程を一緒に歩かないかと誘われる。こうして瑞希は彼と一緒に旅に出た。それは様々な人々との出会いと別れの旅となっていく。

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(レビュー)
 死別した夫と一緒に旅をする妻の愛の物語。

 同名原作を黒沢清が監督・脚本を務め、共同脚本に宇治田隆史が名を連ねたファンタジックな一本である。宇治田隆史は熊切和嘉監督の作品で常連だが、黒沢清とは今回が初のコンビとなる。黒沢清らしい独特な世界観と、宇治田隆史が作り出す狂気と抒情を融合させた世界観がど噛み合うのか。そのあたりを注目して見た。

 結論から言うと、中々の良作になっていたと思う。原作は未読なので、どこまでオリジナル色が入っているのか分からないが、少なくとも死者になった夫と生者である妻の不条理で不気味な、それでいて心温まる旅のドラマは見事な感動へと昇華されている。

 黒沢清と言えば、ホラー・ジャンルの作家というイメージがある。無論、人間ドラマも普通に撮れる作家であるが、その場合でも必ずホラータッチが入ってくる。それゆえジャンルを超越した独特の作風となり、それが人によっては入り込みづらい一因になっているように思う。現に自分もそうした一人なのだが、しかし今回はそれほど違和感なく物語に入り込むことが出来た。

 俺は最初、優介の存在が瑞希が作り出した妄想なのではないかと疑った。しかし、2人が電車に乗る際、彼が駅員と普通に会話するので、彼女以外にも認識されるのだ‥ということが分かり、一気に作品世界に引き込まれた。つまり、優介は死者でありながら現実に存在する不確かな存在なのである。
 しかも、この物語が一筋縄ではいかないのはここからで、その後に優介が世話になったという新聞屋を訪ねると、彼も実は優介と同じ死者で、普通の人間には見えず、優介と瑞希にだけ見えるのである。
 こうなってくると、旅の中で瑞希たちが出会う人々は果たして死者なの、それとも生きた人間なのかよく分からなくなってくる。この辺りのミステリアスな所が非常に面白く見れた。

 こうした二律背反な題材についてのサスペンスは、過去の黒沢清作品でもよく見られた物である。
 例えば「ドッペルゲンガー」(2002日)という作品がある。主人公が自分と瓜二つの人間に追い回されながら、現実と非現実の混濁した世界に埋没していく、かなり不条理でコメディ・ライクな映画だった。あるいは、「叫」(2006日)という作品は女の幽霊に翻弄される刑事がこの世とあの世を彷徨うドラマだった。つまり、こうした生と死、現実と非現実という相反する世界が共鳴しあいながら混沌としていくのが、いわゆる”黒沢清ワールド”なわけである。我々観客はそれに魅了され、時に困惑させられてしまうのである。

 また、陽と陰のグラデーション・コントロールも、いかにも黒沢清らしい映像タッチで、今回も印象的に登場していた。例えば、死者が登場する場面では徐々に全体の色調が薄暗くなる。生から死の世界への切り替わりを、この映像演出によって黒沢清は表現しているのである。このあたりを見ると、やはり今回もホラー映画なんだ‥と思えてくる。

 その一方で、本作のテーマは清廉な夫婦の愛のドラマであり、そこには共同脚本を担当した宇治田隆史のカラーが見えてくる。

 優介の生前が描かれていないので、この夫婦が一体どんな暮らしを送っていたのかは分からない。しかし、互いのセリフや優介の不倫相手の存在から、決して良好ではなかった‥ということは想像できる。

 例えば、優介が死んだ原因は精神的に追い詰められたことによる自殺である。仕事の悩みか、あるいは他の悩みか?はっきりとした事は分からないが、彼はその悩みを瑞希に相談できないまま自殺した。逆に、瑞希も彼の心の病に気付けなかった。この夫婦は、ことほど左様に、満足にコミュニケーションが取れていなかったということが分かる。

 しかし、そんな彼らがこの旅を通して深い愛で結ばれていく。そこがこのドラマの感動的な所である。しかも、実に淡々とした展開の中に2人の愛が丁寧に筆致されており、このあたりの抒情性は共同脚本を担当した宇治田隆史のカラーがよく出ていると思った。

 尚、映画を見終わって”未練”というキーワードが思い浮かんだ。これも非常に重要なキーワードではないかと思う。
 そもそも、今の瑞希たち自体が、優介の生前の未練で繋がっているとも言える。また、彼らが旅で出会う3組の家族も、夫々に過去に対して未練を抱えて苦しんでいる。1つ目のエピソードに登場する新聞屋は妻に対して、2つ目のエピソードに登場する女性は妹に対して、3つ目のエピソードに登場する男は妻に対して、夫々未練を抱えている。
 彼らは皆、生と死、二つの世界に引っ張られながら宙ぶらりんの生活を送っている。死者に対する、あるいは生者に対する愛を断ち切れないで苦しんでいる。

 確かに愛する人を失ったショックは大きいと思う。その悲しみから立ち直るのは容易ではないだろう。しかし、いつまでも死を引きずって生きていくわけにはいかない。残された人は、死という現実を受け入れて、いつかは新しい自分の人生を歩んでいかなければならない。

 本作のラストは、正にこの事を語っているように思った。”未練”を断ち切って新しい人生を歩んでいこう。いつまでも死を引きずっていないで前を向いて生きていこう。そういうことをこの映画はメッセージとして語っているのではないだろうか。
 ラストシーン、残された瑞希の気持ちを察すると実に悲しくなってくる。しかし、同時に彼女の人生は再びここから動き出せる‥そんなふうに思えて、少しだけ明るい気持ちにもなった。

 ”未練”と言えば、本作で一番ゾッとさせられた場面がある。それは死者でも何でもなく生きた女性、優介の不倫相手である。中盤で瑞希が彼女の元を訪ねるのだが、ここなどは正に未練たらしい女の戦いである。不倫相手に宣戦布告をする瑞希。それをあっけらかんと、やり過ごす相手の女。瑞希は未練を抱えているが、相手にはそれがない。不倫と夫婦愛では愛の重さは当然違うが、それにしてもこの不倫女の冷淡なこと‥。本作で最もゾッとさせられたのは彼女だった。
 更に言えば、この時の黒沢清の演出も秀逸である。カメラの切り替えしで二人の会話を繋いでいるのだが、最後に突然、横から撮っていたカメラが正面に切り替わる。この時の不倫女の表情の恐ろしさといったらない。女の怖さ。そして子供の存在の大きさというものを改めて知らしめる1カットである。
 不倫相手を演じた蒼井優の存在感も際立っていた。彼女はこの1シーンのみの出番であるが、瑞希役の深津絵里を完全に食っていた。

 一方、これもいかにも黒沢清らしいと言えるのだが、彼は時々珍妙な演出を敢えてする癖がある。奇をてらいすぎてその場のトーンとずれていたり、コメディタッチを過度にしてしまうことで失笑を買ってしまったり、とにかく違和感のある演出をたまにするのである。

 本作で言えば、優介が田舎の人々に話して聞かせる物理の講釈である。なぜ彼が光の質量や宇宙の誕生の話を彼らに話して聞かせるのか?しかも村の人々も彼のことを「先生!」と呼んで慕っている。もしかしたら、そこに何か意味があるのかもしれないが、自分にはさっぱり分からなかった。
 また、瑞希の父親が終盤で登場してくるのだが、これも意味が分からなかった。ドラマ的には大した重要な場面ではない。わざわざ入れたという事は何か狙いがあったのかもしれない。しかし、これも自分には全く理解できなかった。
 毎度のことながら黒沢清作品には少しばかり翻弄される。
[ 2015/11/08 02:23 ] ジャンルファンタジー | TB(0) | CM(0)

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