斬新な手法で撮られたホロコースト物の新たなる傑作。
「サウルの息子」(2015ハンガリー)
ジャンル戦争・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 1944年、アウシュヴィッツの強制収容所で死体処理を行う”ゾンダーコマンド”として働くサウルは、ある日ガス室から奇跡的に一命を取り留めた少年を発見する。しかし、その直後その少年は息を引き取った。サウルは自分の息子として彼を埋葬しようとするのだが…。
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(レビュー) アウシュビッツ強制収容所で死体処理を行う男が息子の埋葬のために奔走するサスペンス映画。
サウルの息子とは本当にいたのだろうか?映画を見る限りそのあたりの事はよく分からない。後半で彼の妻が出てくるが、その会話の中にも息子の話は一切出てこなかった。
しかし、彼はガス室で見つけた瀕死の少年を自分の息子だと言ってきかない。解剖室から遺体を盗み出し、ラビを探し出し、他の死体が無残に火葬される中で少年の遺体を埋めようと懸命に穴を掘る。その何かに取りつかれているとしか思えないような行動は、傍から見れば完全に奇行そのものである。
ただ、彼の心中を察してみれば、おそらくこの奇行にもちゃんと意味はあるのだろう。
それは、人間をまるで家畜か虫けらのように殺してしまう戦争というモノに対する、彼なりの”抵抗”。つまり”死”というものに対する彼なりの敬意であり、人間がいかに”人間らしく”いられるかという事を証明するための”儀式”だったのだと思う。
だから、少年が彼の息子かどうかというのは、この際あまり関係なく、あったとしても極めて教示的な意味における父子関係。言い換えれば、「父」である「神」と「子」である「人間」の関係という意味でしかないような気がする。
サウルはユダヤ人である。ユダヤ教における「神」は「父」を意味する。
これまでにも数多くのホロコースト映画は作られてきた。その多くはヒューマニズムに根差した人間賛歌映画だった。今回の作品も根底は一緒である。ただし、主人公は生命を守るために戦ったり、自分の身を捧げる殉教者ではない。サウルは、すでに息を引き取った少年を葬るために奔走する。”生”のための戦いではなく”死”のための戦いという所が、このドラマの斬新な所で、この着眼点が実に素晴らしいと思った。
ラストは様々な解釈ができよう。果たしてサウルの微笑みは何を意味していたのか?そしてラストカットの意味とは?
自分は神の”回答”と捉えた。もう十分だ‥よくやった‥という神からの”許し”のように思った。森の中に消える”アレ”は天使で、その先には天国が待っているのかも‥などと、映画を見終わった後に想像してしまった。そうすると、サウルの最後の微笑みも何となく理解できる。
本作は基本的にはサスペンス映画のような作りになっている。息子の遺体を持って逃げるサウルの恐怖に焦点を当てたストーリーは、終始緊張感に溢れていて実に見応えがあった。
また、収容所の仲間たちは反乱を計画していて、その計画がどうなるかというのも非常にスリリングで面白く見れた。そういう意味では、本作は徹頭徹尾、本格的なサスペンス映画となっている。
また、カメラワークも実に斬新で面白い。映画の画面サイズはほぼ1:1のスタンダード・サイズになっていて、これがドラマに圧迫感、閉塞感、緊張感を与えている。去年見たX・ドラン監督の
「Mommy/マミー」(2014仏)もこのサイズを効果的に使った映画だったが、普段ビスタ・サイズを見慣れている我々に対して緊迫感と切迫感を与えるという意味では大変効果的だった。
しかも、本作はほぼ全編、手持ちカメラでサウルのアップを粘着的に捉えている。これがシーンに臨場感を与えている。まるでサウルと一緒に収容所の出来事を追体験しているかような、そんな錯覚に陥った。
そして、サウルの周囲で行われる虐殺の数々は、ほとんどがぼやけて見えない。阿鼻叫喚の音だけが強調され、戦争の恐怖を表す方法としてこういう表現もあったのか‥と唸らされた。