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CUT

映画監督の信念がバイオレントに体現された怪作。
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「CUT」(2012日)hoshi2.gif
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ)
 映画監督・秀二は兄から借金しながら映画作りを行っていたが、一向に芽が出ず鬱屈した日々を過ごしていた。ある日、その兄が借金のトラブルで死んでしまう。秀二は兄がヤクザから金を借りていたことを知り、残った借金を返すためにヤクザ相手に殴られ屋を始める。

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(レビュー)
 映画はかつて真に芸術であり娯楽だった!しかし現代の映画は商業主義に堕してしまっている!今一度映画の面白さ、崇高さを思い出してほしい!

 正確ではないが、主人公、秀二は上記のような言葉を叫びながら街を練り歩く。普通の人からすれば、映画なんて娯楽の一環、デートや家族サービスの余興としての価値しか見出してないだろう。秀二の叫びは誰の心にも届かない。何とも虚しい映画青年の心の叫びである。

 秀二が作りたい映画は、過去の映画黄金時代に栄えたような活気と魅力に溢れた作品である。ところが、映画作りは失敗続きで借金だけが増えてしまった。そこに兄の訃報が入る。兄から借金をしていた秀二は責任を感じ、残りの借金を返済するために進んでヤクザの殴られ屋になる。兄が死んだ場所で、まるで罪滅ぼしのように自らの肉体を痛めつけるのだ。まるでキリスト教における「殉教」のようである。

 監督・共同脚本はイラン出身のアミール・ナデリ。元々はイランでミニマムな作品を撮っていた監督であるが、その後ニューヨークに移り住み細々とインディペンデント映画を作っている。自分はニューヨークに移ってからの作品は見てないのだが、どちらかというとアート志向の強い作家という印象である。おそらくだが、ここで描かれる秀二の映画作りの信念は、ナデリ監督の信念でもあるのだろう。彼も映画=芸術というスタンスを持った映画作家であることは間違いない。

 監督のこうした作家性を知った上で本作を見ると、今回の物語はかなり理解しやすいと思う。

 つまり、秀二の殴られ屋という行為は、映画の素晴らしさを証明するために行う神聖な儀式。先ほど言ったキリスト教における「殉教」にも近いかもしれないが、自分の考える映画作りの信念に向き合おうという彼の決意の表れなのだと思う。

 「殉教」のそもそもの意味は、その死がその人の信仰を証していると同時に、人々の信仰を呼び起こすというものである。極めて教義的で自己完結的な行為であるが、秀二も兄の死を償う形で映画の素晴らしさを自己証明したかったのではないだろうか。そして彼は死に、ラストで生き返り、自らの映画作りの信念を証明して見せる。世の中に映画の素晴らしさを証明するために、彼は再び立ち上がるのだ。
 なぜ彼が借金返済に固執するのか?なぜ執拗に自分の肉体を痛めつけるのか?こう考えるとその理由が何となく理解できる。

 また、これは昨今の商業主義な映画産業に対する痛烈なアイロニーという見方も出来るかもしれない。ブロックバスター映画がもてはやされる現代において、身を削りながら映画作りの苦しみに耐える貧しい映像作家がいるという現実。それをナデリ監督は秀二という映画青年を通して訴えたかったのかもしれない。

 尚、共同脚本には青山真治が名を連ねている。彼もまた独特の芸術志向を併せ持った映画監督である。

 主演は西島秀俊。身体を張ったハイテンションな演技が続き、彼自身、俳優業の転換点となったと言うだけあり、その熱演には目を見張るものがあった。殴られた顔が痛々しく晴れ上がり、まさに凄まじいの一言である。鍛え抜かれた肉体も見事。

 尚、劇中には様々な名画の引用されている。クライマックスの名画100連発(?)は中々イイ趣味をしていると思った。オールタイムベスト100としてそれほど文句の無い選定である。
 また、劇中に登場する「無」の文字が彫られた墓石は、小津安二郎の墓石だろうか? 以前見たW・ヴェンダース監督のドキュメンタリー映画「東京画」(1985西独米)にも登場していた。
[ 2016/06/29 01:38 ] ジャンル人間ドラマ | TB(0) | CM(0)

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