色んな意味で驚かされた作品。
「シン・ゴジラ」(2016日)
ジャンルSF・ジャンル特撮・ジャンルアクション
(あらすじ) 東京湾に突如、未知の巨大生物が現れる。日本政府はすぐさま緊急閣僚会議を開いた。しかし、前代未聞の危機に有効な対策を立てられず、巨大生物はついに上陸してしまう。内閣官房副長官・矢口は巨大生物の発生地点から発見された科学者の遺文を手掛かりに、巨大生物を止めるべく特別対策室を設置する。
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(レビュー) もはや世界的なアイコンとも言える「ゴジラ」。その新作が「ゴジラ FINAL WARS」(2004日)以来、12年ぶりに復活した。今回は総監督・脚本に「エヴァンゲリオン」シリーズの生みの親である庵野秀明、監督・特技監督に樋口真嗣を迎え、これまでにない新しいゴジラ映画を作り出している。
「シン・ゴジラ」の「シン」は何を意味しているのか?それは観た人それぞれに解釈があろうが、自分はまず何より「新」という漢字が頭に思い浮かんだ。
今回のゴジラは明らかに54年版のオリジナル・ゴジラを意識したストーリーとなっている。しかし、ただ単にオリジナルの焼き直しというわけではなく、現代社会に照らし合わせた新解釈の元、新しいゴジラが描かれている。現代でしか描けないゴジラになっている点に注目したい。
まず、何と言っても、3.11の東日本大地震、それに伴う形で起こった福島第一原発事故を暗に含ませたストーリーが非常に現代的である。様々な場面でそれが想起できるが、巨大生物出現で開かれる対策会議でのやり取り、そしてクライマックスに登場する血液凝固剤を積んだ車両。このあたりを見ると完全にあの時の政府の右往左往ぶりや、福島原発で活躍した特殊車両の映像が思い出される。
この他にも、今回のゴジラ発生のキーマンである牧博士のバックストーリー(家族を放射能汚染で失った)、無残に破壊された被害地域の惨状を捉えた映像等、様々な点で3.11の影が色濃く反映されている。
そんなわけで、今回のゴジラは従来の”怪獣”という意味合いよりも、むしろ”災害”というイメージの方が強い。そして、この”災害”は人間が投棄した放射能廃棄物によって発生した。54年版は水爆実験の結果、ゴジラが誕生した。人類がこうした不幸を作り出してしまう事への警鐘、あるいは皮肉として、単に娯楽としてだけでなく社会派的なメッセージを放つ傑作として、今回の映画も54年版同様、重く受け止められる作品となっている。
但し、映画は後半から本来の怪獣映画らしくゴジラ殲滅作戦を中心に描かれていく。前半のリアリティは後退しカタルシスを重んじたエンタメ色にガラリと切り替わる。前半であれほど仔細に対策会議の風景を描き、また自衛隊のゴジラへの発砲を指示系統を含め細かく描いていたことを考えれば、明らかに不自然であり、ご都合主義に映りかねない。
また、石原さとみの演技が周囲から浮いていることや、過去の「ゴジラ」シリーズの音楽を手掛けた故・伊福部昭のBGMがそのまま使われているあたりに違和感を覚えてしまった。全体のトーンから明らかに乖離している。
本作は決して完璧というわけではなく、かなり歪な作りの作品となっている。それゆえ、細かな点を指摘すればいくらでも突っ込み所は見つかり、そこが評価の賛否に分かれてしまう原因になってしまっているのかもしれない。
庵野監督の「エヴァンゲリオン」はマイナーチェンジを繰り返して今でも続いているシリーズだが、彼はこの作品を未だに終わらせることが出来ていない。自分はテレビシリーズとその後に作られた劇場版しか見ていないが、いずれも完全燃焼とまではいかず消化不良だった。それらに比べると、今回の「シン・ゴジラ」は意外なほどウェルメイドな収集の仕方となっている。ここにはテレビシリーズの最終回のような意味不明なエンディングも、劇場版で突如現れた”巨大○○”といった遥か斜め上をいくようなギミックも登場してこない。至極痛快な娯楽作品として盛り上げられている。確かに後半からおかしな箇所は続出するが、逆にここまでエンタメ性が徹底されると潔いという印象が先行してしまい、庵野作品の中では一番全うに作られた作品なのではないか‥という気がした。
演出も極めて庵野的ケレンミに満ちている。まるでドキュメンタリーのように再現される対策会議主体の前半部は、庵野監督が敬愛してやまない岡本喜八監督の傑作「日本のいちばん長い日」(1967日)を参考していると思われる。ちなみに、岡本喜八監督の写真が映画冒頭に出てくるので、分かる人ならクスリとさせられるだろう。
また、極端な早口と短いカッティングで紡ぐ会話劇には市川崑監督の影響も見られる。「エヴァンゲリオン」のタイポグラフィーを見れば分かるが、庵野監督は市川崑監督の影響も大いに受けているはずである。
あるいは、物越しに人物を捉えたキッチュな映像構図には実相寺昭雄監督の影響も見られる。
こうした庵野監督の嗜好が前面に出ているという意味でも、ファンには満足できる作品になっているのではないだろうか。
それにしても、如何にしてこのような斬新なシナリオが成立可能となったのか、気になる所である。というのも、登場人物がべらぼうに多く、一人一人の名前と顔を一致させるには不可能なほど展開が素早く進む。そのため、序盤から付いていけいない観客が続出してもおかしくはない。はっきり言って商業映画としてはかなり挑戦的である。決して観客に親切な映画とは言い難い。
しかし、庵野監督は敢えてそれを狙ったのだろう。本作はヒーロー不在の映画。とことん集団劇であり、夫々の才能を持った個人が集まった”チーム”が主役の映画である。誰かに感情移入させようとも、逃げ惑う一般市民の身になって恐怖を味あわせようとも思っていない。
普通であれば、主役である矢口の視線に集中した人間ドラマが用意されてしかるべきである。そうした方が、分かりやすいエンタテインメント作品になったはずである。
しかし、庵野監督は敢えて誰にも感情移入させず、俯瞰視点で見せる映画にした。もしかしたら、氏はドラマの排除という独自の美学(?)に目覚めてしまったのだろうか?散々「エヴァンゲリオン」という終わらないドラマを作ってきた氏の”開き直り”がここにあるとしたら、それはそれで大変興味深いことである。
いずれにせよ、映画はドラマを重視せずとも成立してしまうものである。そもそも映画の原初は記録映像にある。
本作のキャッチコピーは「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」である。だとすると、本作はフィクションの中で語られたシュミレーション・ドキュメンタリーであり、「虚構新聞」的なモノとして捉えるべき”フェイク記録映像”なのかもしれない。正直な所、ドラマ的な満足感は余り得られない作品である。
だが、そんなことに何の意味があろう?そんな監督の声が聞こえてきそうである。
そして、昨今これに似た映画があったことが思い出される。昨年見た
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(2015豪)がそうである。主人公マックスのドラマは浅薄だったが、映像の情報量にノックアウトされた作品だった。今回の映画も情報量という点では負けてはいない。映像と会話、オマージュの濃密さに圧倒されてしまう。
54年版の「ゴジラ」は、もはや怪獣映画としてのみならず日本映画史に残る名作であるが、今回の映画もそれとは違った方向性で見事に新しい「ゴジラ」を誕生させた傑作と言っていいだろう。オリジナル版ありきの作品なので、比肩するとまではいかないが、少なくとも後世「ゴジラ」シリーズを語る上では欠かせぬ作品になっていることは間違いない。
自分は、まだこの作品を見ていないのですが、ある民放テレビ局でこの作品が取り上げられたときに、MX4D版を中心に当日券の完売が続出しているみたいです。そして使われている台本もふつうの映画作品より分厚くそして現在、かつての防衛大臣で東京都知事をしている小池百合子さんと東日本大震災発生当時に官房長官をしていた、枝野幸男さんが製作協力してくれたそうです。
小池氏と枝野氏の名前は確かにエンドクレジットに名前がありました。
あのセリフの量ですから確かに台本はかなり分厚くなるでしょうね。ボリューム的には3時間分くらいあるのではないでしょうか?
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