fc2ブログ










彷徨える河

幻想的な世界観に魅了される。
pict304.jpg
「彷徨える河」(2015コロンビアベネズエラアルゼンチン)星3
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ)
 先住民族の唯一の生き残りであるシャーマンのカラマカテは、アマゾン川流域のジャングルに一人で住んでいた。そこに病に苦しむドイツ人民俗学者が救いを求めにやって来る。自分たちを亡ぼした白人に対する憎悪から一旦はそれを拒むカラマカテだったが、このまま見殺しにすることも出来ず、治療に必要な聖なる植物ヤクルナを求めてカヌーを漕ぎだす。数十年後、孤独によって記憶や感情を失ったカラマカテの前に、ヤクルナを求めるアメリカ人植物学者が現われる。カラマカテは彼と共に再びアマゾン深部へカヌーを漕ぎだすのだが‥。

ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!

FC2ブログランキング
にほんブログ村 映画ブログへ人気ブログランキングへ



(レビュー)
 アマゾンのジャングルを舞台にしたアドベンチャー・ドラマ。現在と過去を交錯させながら、文明によって滅ぼされた先住民の生き残りと白人の数奇な旅を寓話的なテイストで描いた作品である。尚、本作はコロンビア映画として初めてアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。

 何とも不思議なテイストを持った映画である。南米特有のマジック・リアリズムが横溢し夢とも現ともつかぬ奇妙な味わいを残す。今作には二人の白人が出てきて、先住民カラマカテにアマゾンの奥地へと誘われるが、まさに見ている自分も未だ見ぬ新天地へ連れて行かれるような、そんな新鮮な感覚に捉われた。

 尚、今回の現在と過去のドラマは、実在した白人探検家の手記をベースに敷いているそうである。そう考えると、ここで描かれる様々な出来事は全くのデタラメと言うわけではないのだろう。だからか、余計に現実と虚構の境を見失うような不思議な印象を残す。

 監督・脚本は今回が初見となるシーロ・ゲーラ。すでに本作を含め、これまで撮った作品はいずれも世界各国で話題となっており、コロンビアが生んだ俊英として注目されている。

 連想させるのは、やはり南米出身のA・ホドロフスキーの一連の作品であろうか‥。「エル・トポ」(1970メキシコ)に代表されるように、彼の作品は難解、シュールと評されるが、その独特の語り口からカルト的な人気を得ている。「百年の孤独」の作者であるガブリエル・ガルシア=マルケスにしてもそうであるが、ラテン・アメリカには元々こうしたマジックリアリズム的な作風を生む土壌があるのだろう。

 本作も時に観念的で神秘主義的、何とも掴みどころのない”事件”が登場して惑わされてしまうが、この独特な世界観は唯一無二と感じた。これは、ジャングルという魅惑的な舞台設定によるところが大きいと思う。

 星空が煌めく夜空の美しさ、ゆっくりと流れるアマゾン川の包み込むような優しさには、本来自然が保有する生命の恵みが実感でき、それらを前にしては人間同士のイザコザなどは、どうしようもなく卑小なものに思えてくる。この「自然」対「人間」の対比がドラマを面白く見せていることは間違いない。自然の圧倒的な美しさに惹きつけられてしまう。

 但し、本作はモノクロ作品である。一部でカラー映像に切り替わるが、基本的には深みのある白と黒の陰影で構成されている。美しいとは言っても、決して華やかな美しさはない。どちらかと言うと、渋みのある美しさだ。ただ、これがかえって自然のシビアさを強調し、息苦しいほどの圧迫感で観る者を圧倒してくる。極論してしまうと、本作の主人公はカラマカテの背後に存在する「自然そのもの」とも言える。それくらいのリアリズムと説得力が、この映画からは感じられた。

 また、オープニングの蛇がうごめくタイトル・シーン、豹が蛇を食らうシーンといった動物の描写は生々しく切り取られており、この辺りにも監督の執拗なこだわりが感じられた。

 原題は「Embrace of the Serpent」。翻訳すると「蛇の抱擁」という意味になる。タイトルにもなっているくらいなので、蛇はこの映画の中では非常に重要な意味を持っている。蛇は何を意味しているのか?そのあたりのことを考えてみると、より一層この映画のテーマを深く探求することができるだろう。自分は、蛇はカラマカテたち先住民族を亡ぼした白人、つまり入植民を暗喩したものと解釈した。

 尚、本作を見て幾つか連想した作品があるので付記しておこうと思う。

 カラマカテの旅は現在と過去の二つで構成されているが、実は二つとも同じ道程を辿る。これには”時”の普遍性を意識させられるが、同時に旅の終わり方が違うことを考えると、カラマカテの過去の”清算”を意味しているような気がした。彼は過去に成しえなかった悔恨がある。その悔恨を現在の旅を通じて彼は解消させていく。

 そして、この現在と過去の旅の中で、カラマカテは宣教師に支配された村にたどり着く。いずれも衝撃的な結末が待ち受けているが、これを見て自分は鬼才V・ヘルツォークが監督した「アギーレ・神の怒り」(1972西独)の一場面を思い出した。「アギーレ」は、伝説の黄金郷エル・ドラドを目指してスペインの探検隊がアマゾンの奥地を旅するいう映画である。舞台設定が同じジャングルという事で共通しているし、現在パートに登場した怪しげな宣教師が「アギーレ」で先住民を蹂躙する怪優K・キンスキーにダブって見えた。

 また、この宣教師は先日観た「グリーン・インフェルノ」(2013米)よろしく凄惨な結末を迎える。そこには監督のブラック・ユーモアも感じられた。実を言うと、映画を見始めてすぐに、まさか「グリーン・インフェルノ」みたいな展開が待ち受けていたりして‥と心の中で想像していたのだが、案の定そうなってしまったのでここは笑いがこらえられなかった。

 また、ジャングルの奥へ奥へと遡上していくシチュエーションに、フランシス・F・コッポラ監督の「地獄の黙示録」( 1979米)も連想した。言わずと知れた戦争映画の傑作で、ジャングルの奥地に潜む”狂気”に見ているこちらも呑み込まれてしまうような恐ろしい映画だった。そんな「地獄の黙示録」同様、本作も狂気の世界を”彷徨う”体験が出来る映画である。

 倒錯したマジック・リアリズムの世界に身を委ねながら、「自然」と「文明」、「神」と「人間」について考えてみるのもいいだろう。さすれば劇中の植物学者のように”新しい世界”を発見することが出来るかもしれない。
 いずれにせよ、映画館を出て現実の世界に引き戻されてホッと胸をなでおろしたのは久しぶりだった。それくらい眩惑されっぱなしの2時間であった。
[ 2016/11/10 01:17 ] ジャンル人間ドラマ | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://arino2.blog31.fc2.com/tb.php/1548-c9217fee