戦争を市井の視点から描いた秀作。
「この世界の片隅に」(2016日)
ジャンルアニメ・ジャンル戦争・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 昭和19年2月、太平洋戦争の真っ只中。絵を描くことが好きな18歳のすずは、広島市から海軍の街・呉に嫁にやってきた。彼女を待っていたのは、海軍で働く文官・周作だった。彼はすずと以前に会ったことがあり、ずっと彼女のことが忘れられずにいたという。こうしてすずは、新しい生活に戸惑いつつも健気に嫁としての仕事をこなしていくのだが‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 過酷な戦時下でも笑顔を忘れず逞しく生き抜いた少女の成長を感動的に描いたアニメーション作品。
「夕凪の街、桜の国」(2007日)の原作で知られるこうの史代の同名コミックを、
「マイマイ新子と千年の魔法」(2009日)の片渕須直が監督した作品である。
すずの淡々とした日常描写を丁寧に紡ぎながら、戦争の悲惨さ、無情さを訴えかけた類まれな傑作になっていると思う。
何と言っても目を引くのは、温かみに溢れたタッチで描かれた絵である。柔らかな描線と水彩画のような淡い色で構成された映像は暗く陰惨な戦争との対比で一層美しく尊いものに見える。
例えば、すずが嫁ぐ呉の家は緑に包まれた山腹の田園地帯にあるのだが、本当にこの国で戦争が行われているのか‥と錯覚してしまうほど美しい景色に包まれている。しかし、そこから一望できる呉の港には軍艦がひしめきあっていて、これを見るとやはり戦時下であることをいやが上にも意識させられる。
この”日常”と”戦争”は、戦況がひっ迫する中盤から徐々にクロスオーバーされていく。そして、後半ではついに、すずの平穏な”日常”は”戦争”に浸食されてしまう。あの美しく尊い平和な日常が、理不尽な戦争によって無残に壊されてしまうのだ。
戦場の悲劇をひたすらに過剰な涙と怒りで訴える反戦映画がある一方で、こうした形で戦災を”日常”の中に描いた所が本作の白眉だと思う。
思い出されるのが黒木和雄監督の
「TOMORROW 明日」(1988日)という作品である。あれも長崎に原爆が投下された前日を、様々な人々の目線から描いた反戦映画だった。新婚夫婦の祝宴から始まる日常描写の積み重ねは、やがて起こる原爆投下の恐ろしさを虚しく語っていた。そういう意味では、本作も「TOMORROW 明日」もドラマの構造としては同じレトリックの上に成り立っていると言える。
個人的に最も印象に残ったのは終盤、すずが「普通でいたかった」と独白するところである。
すずは自他ともに認める、のんびりとした少女で、戦時下の折、どうかすると浮世離れした存在に見える。ただ、過酷な時代からこそ、彼女の朗らかな姿が周囲に安堵と癒し、笑いを与えていたことは間違いない。
例えば、中盤で登場する遊女のリンなどは、明らかにすずの朴訥とした雰囲気に惹きつけられた一人だろう。おそらくリンは遊郭での仕事に疲れ果てて、そのイヤな現実をすずと出会うことで和らげることが出来たと思う。
あるいは、義姉の径子もそうである。彼女は結婚に失敗した勝気な出戻りの小姑である。すずは彼女が苦手で、呉の家では肩身の狭い思いをする。しかし、そんな径子ですら、すずと一緒に暮らすうちに次第に心が打ち解けていく。
すずは綺麗な大輪を咲かす花ではないかもしれない。しかし、どこにでもフワフワと飛んでいくたんぽぽの綿毛のように、彼女の笑顔やのんびりとした雰囲気は周囲に温もりと癒しを与える。すずとは、そんなかけがえのない小さな花だったように思う。
このように、すずはこの物語における平和な”日常”を象徴した存在と言える。だから、彼女が”普通ではない”戦時下で”普通でありたかった”と嘆くシーンは、自分の心に突き刺さった。あのすずをここまで悲しませ、変えてしまう”戦争”とは一体何なのか‥という憤りにも似た感情が沸き起こり、観てて悲しい気持ちになってしまった。”日常”が”戦争”に呑み込まれてしまった現実を、最も残酷に表したセリフ。それが、この「普通でいたかった」だったのではないだろうか。
全ての幸福を一瞬で奪ってしまう戦争の残酷さで言えば、径子の娘・晴美の数奇な運命も印象的である。すずを慕う幼い少女の純真無垢な姿は、やはりすずの佇まい同様、非常に”天使”めいている。そんな彼女でさえ戦争に巻き込まれて悲惨な運命を辿るのだから、これも”戦争”の残酷さを象徴していると言えよう。
一方、本作にはすずを巡って展開される慎ましい恋愛ドラマも用意されている。こちらは夫である周作と彼女の幼馴染である水原を交えたメロドラマとなっている。
海軍に入隊した水原が休暇を兼ねて数年ぶりにすずの元を訪れるシーンがある。水原はずっと、すずのことが好きだったが告白できずに離れ離れになってしまった。そして、一方のすずもかつて水原に特別な想いを寄せていた。そんな二人の微妙な心の揺れは見ててドキドキとさせられた。2人を前にした夫・周作の複雑な心中も察すると、このメロドラマは実に味わい深く見ることができる。
と、同時にすずも一人の”女”であった‥ということが分かり、かなり大人向けのドラマとして味付けされている。
片渕監督の演出は、前作「マイマイ新子~」同様、実に端正にまとめられている。日常描写を丁寧に描くことでキャラクターの”実在感”を観客の深層心理に浸透させた手腕は見事である。
本作はフルボディのショットが多く、キャラクターの表情をアップで捉えた映像はそれほど多くない。普通であれば感情表現をダイレクトに伝えるべくアップを用いたくなるような場面でも、キャラクターを俯瞰的に捉えることで、画面の中の”生活感”を優先している。そこがキャラクターの”実在感”に繋がっているように思う。
テレビアニメとして長年愛され続けている「サザエさん」にも同じことが言えると思う。過度な演出を避けて淡々とした日常描写を俯瞰的に捉えた映像は、どこかの家族風景を見ているような、そんな感覚で観れてしまう。
やたらと煩いわけでもなく、かと言って空疎でもない。観客自身が身近に引き寄せてみたくなるような絶妙な距離感。それがこの映画は観客との間で実に上手く保てているような気がした。
アニメーションを作画したのはMAPPA。ここは老舗のマッドハウスから独立した制作スタジオである。片淵監督の前作「マイマイ新子~」を製作したのがマッドハウスだったので、その流れから今回はMAPPAになったのだろう。前作同様、非常に丁寧な画作りをしている。
また、前作の新子もそうだったが、本作のすずにも空想癖がある。すずは絵を描くのが大好きで、そのイマジネーションが時々現実の世界に飛び出してくる。アニメーションでしか表現しえないアーティスティックな感性が画面を様々に彩り、目で見ても十分に楽しめる作品となっている。
その他に、カリグラフで描かれたようなシュールな演出もあり、これなどはすずの錯乱した心理を表現しているのだろう。こういう実験的な映像演出も面白い試みに思えた。
尚、片渕監督はああ見えてかなりの航空機マニアでもある。だからか、本作は細かい所までリアリティが追求されている。その最たるが爆撃シーンであろう。素人目ながら、かなりのリアルさが感じられた。
また、高角砲の着弾の煙が様々に彩色されていたのは、実際に当時の日本軍がそのような弾薬を開発していたからだそうである。自分は後で調べて分かった。
こだわりということで言えば、エンドクレジットを見ると分かるが、資料協力の数が尋常でないくらい多いことにも驚かされる。これも後で知ったのだが、画面の通行人にまでモデルがいるそうである。そこまでこだわった片淵監督、正に恐るべし‥と言うほかない。”細部に神は宿る”というが、こうしたディティールへの飽くなき追求が作品の完成度を高めている。
もう一つ、本作を成す重要なピースとして忘れてならないのはキャストである。
すずを演じたのは女優の、のん。事務所がらみの問題で一時は引退まで危ぶまれていた彼女が、能年玲奈から改名して臨んだ復帰作が今作である。おっとりしたすずにピッタリな声質であることは、彼女をスターダムに押し上げたTVドラマ「あまちゃん」の演技から何となく想像できたが、まさかここまでハマるとは思ってもみなかった。間違いなくすずに生命の息吹を与えたのは彼女の声だろう。ほのぼのとした演技もさることながら、周作に噛みつく演技、終盤で見せる激昂の演技。いずれも見事だった。ただ、欲を言えば序盤の幼少時代の声はもう少し工夫して欲しかったか‥。成長してからの声色とほとんど変わらなかったので不自然に聞こえてしまった。
本作は製作資金が足りず、2015年3月~5月にかけてクラウドファンディングで不足分を賄ったそうである。前作「マイマイ新子~」にいたく感動した身としては、本作が日の目を浴びたことは素直に嬉しい。多くの支援者のおかげで完成したことを考えると、まさに奇跡のような映画と言えるかもしれない。
「アイアン・スカイ」(2012フィンランド独オーストリア)など、すでに海外ではこうした方式で製作された例はあるが、日本では大変珍しいと思う。従来の製作委員会方式の牙城を崩すべく一つのケース・スタディとして、今年公開されて大ヒットを記録した
「シン・ゴジラ」(2016日)同様、注目に値する。「シン・ゴジラ」も製作委員会方式ではなく東宝単独での製作だった。