実話の社会派人間ドラマ。
ポニーキャニオン (2014-08-05)
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「ハンナ・アーレント」(2012独ルクセンブルグ仏)
ジャンル社会派
(あらすじ) ホロコーストを生き延びたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、アメリカの大学で講師を務めていた。ある日、ユダヤ人の収容所移送を指揮したナチスの重要戦犯アドルフ・アイヒマンがモサドに逮捕されるというニュースを目にする。興味を持った彼女はアイヒマンの裁判に立ち会い、その傍聴記録を書いてそれを雑誌で発表した。これが世間に大きな波紋を投げかけることになる。
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(レビュー) ナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンを擁護したとい理由で激しいバッシングを受けた女性哲学者ハンナ・アーレントの物語。
ラストのハンナの演説を聞いて色々と考えさせられた。果たして”悪”とは何なのか?我々人間は誰しもが”悪”の心を持っている。しかし、その心はどこから来るものなのだろうか?
ハンナはこの”悪”という概念を二つに分けて考えた。
一つは悪を生み出す元となる”根源的悪”、もう一つは人間の心の弱さが生み出す”凡庸的悪”である。彼女はこのように”悪”を2種類に分けて考え、アイヒマンはただ命令に従ってユダヤ人を虐殺した、言わば組織の駒にすぎない”凡庸的悪”だった‥と主張する。”根源的悪”を持つ先天的な悪人ではなく、ただの小役人として擁護したわけである。
なるほど、確かに人は誰しも生まれながらに”悪”ではなく、周囲の環境、過去の体験から”悪”に染まるものである。だから”悪”は後天的に生まれるものである。その理論はよく分かる。
しかし、世間は当然そうは見ない。誰しもがアイヒマンを責め立て吊し上げて断罪しようとする。確かに家族や愛する人を殺された人々の憎しみは理解できる。人情としてその憎しみは当然だろう。
この映画を観て、自分はどちらの言っていることが正しいのか。正直よく分からなかった。世間の人々がアイヒマンを憎む心も分かるし、ハンナの言っていることも、もっともだと思った。
映画を観終わって色々と考えさせられるのは、こうした事情からである。誰が一体”悪”なのか?ということに対する明確な答えが見つからないのである。
そして、この映画を観て思ったことはもう一つある。
それは、ここに出てくる世間の悪に対する強烈な憎悪は、時代を超えて、我々が住む現代社会にも通じる所があるのではないか‥ということである。
例えば、犯罪を犯した人間を徹底的に叩く風潮が、ここ最近特に目立っているような気がする。それはインターネットが普及して以降、一層顕著になっている。誰もが気軽に結びつくことが出来るネット。しかし、それは時に大きなうねりとなって大衆操作のツールとして利用される危険性もある。
悪を批判する行為自体、悪いとは思わない。社会的にも必要なことだと思う。しかし、問題の本質を見誤ると、とんでもないことにもなりうる。その批判が、思考停止に陥った只の自己満足に終わってしまう可能性だってあるのだ。
本当に大切なことは、その犯罪がどうして起こったのか?一体どんな事情があったのか?そこを考えることなのではないだろうか?批判をする前に事実を多角的に捉え、問題の本質がどこにあるのか。そこを見定める必要性があるのではないかと思う。
この映画の主人公ハンナは、そんなヒステリックな集団心理をモノともせず、自分の主張を頑なに押し通した勇気ある女性だと思う。
劇中では様々な誹謗中傷や妨害を受けた。シオニストの幹部から脅迫を受けたり、雑誌の購読者から抗議の手紙が殺到したり、勤めていた大学から解雇されそうになったり等々。自分がもし彼女の立場だったら、とっくに心が折れてどこかに雲隠れしてしまうだろう。しかし、彼女はそうしなかった。堂々と表に立って持論を展開したのである。実に勇気のある女性だと思う。
映画は彼女の視点を堅守した端正な作りが徹底されており、作品のテーマ、つまり自身の正義を貫くことの難しさが明確に訴えられている。硬派な社会派作品として十分の見応えを感じた。
また、映画はハンナの仕事を描く一方で、プライベート風景も描いている。こちらは夫や友人との関係を中心にユーモアに溢れたテイストで綴られている。この辺りの硬軟交えた作りが、作品を取っつきやすくしている。
また、ハンナと恩師の関係も中々素敵で、その交友も面白く観ることが出来た。
特に、病床の恩師に駆け付けたハンナの言葉は忘れられない。恩師はアイヒマンを擁護するような記事を書いたハンナに、君はユダヤ人を愛してないのか?と問いかける。これに対して彼女はこんな言葉を返す。
「私は一つの民族ではなく”友人”を愛する」
ユダヤ人という民族ではなく個人の人間を愛する‥という彼女のこの言葉は、自分の心に強く突き刺さった。
2人は哲学者同士、よく議論を戦わせるが、最後は必ず笑って別れた。このセリフの”友人”とは、もちろん目の前の恩師のことを表している。主義主張が異なることがあっても、彼らは心の底ではお互いを尊敬しあっているのだ。だから、ハンナは恩師に対して、誤解しないでほしいという気持ちと共に、こんな言葉を送ったのだろう。その気持ちを察すると実に切なくさせられる。