本当に魔女の仕業なのか?
「ウィッチ」(2015米)
ジャンルホラー
(あらすじ) 1630年、ニューイングランド。村から追放されに信仰心の熱い一家が、遠く離れた森の近くで自給自足の暮らしを始める。ある日、年ごろの長女トマシンが子守り中に赤ん坊を見失ってしまう。その後も一家には説明のつかない不幸が次々と降りかかり‥。
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(レビュー) ある一家を襲う理解不能な恐怖を不穏なトーンで綴ったホラー作品。
タイトルからも分かる通り、この映画は魔女を題材にした作品である。ただ、魔女そのものが画面に登場するのはちょっとだけで、しかもそれは現実なのか幻想なのか判然としない。これは魔女と言うよりも悪魔と言った方がいいかもしれない。本作は、いわゆるオカルト映画に近いタイプの作品である。
かつて「エクソシスト」(1973米)や「オーメン」(1976米)といった作品が作られ、1970年代にオカルトブームが巻き起こったことがある。低予算である程度資金を回収できるということで色々と作られたが、中には棒にも箸にも引っかからないような凡作も生まれた。ただ、目に見えぬ存在”悪魔”は多くの人々の心を虜にしたことは事実で、このジャンルは現在でも脈々と受け継がれている。
例えば、Jホラーなどはその流れからきていると言っていいだろう。ハリウッドでもJホラーは新たなタイプのホラーとして受け入れられた。
そして、これらの作品の多くは、悪魔に取りつかれた者が異常な状態に陥り自らと周囲の人々を破滅させる‥というストーリーになっている。
考えてみれば、悪魔とは誰の心の中にも住みつく可能性がある”観念的な存在”である。そして、実態が無いがゆえに強靭で不死身である。映画の中では絶対的な”悪役”として大変魅力的な存在なのである。
逆に言えば、人間とは常に悪魔に付け入れられる弱い生き物‥ということになる。これが正に一連のオカルト映画に共通するテーマのように思う。人間は元来、悪魔に魅了される生き物なのである。
本作の一家も正にその通りで、父は母の食器を売ったことを隠してトマシンのせいにした。母はトマシンだけに冷たく当たり(原因は不明だが‥)子供たちを不公平に扱った。トマシンは幼い双子に事件の責任を押し付けた。幼い兄弟は平気で悪戯したり嘘をついた。まぁ、彼らはまだ未熟だから仕方がないという言い方もできるが‥。
ともかくも、この家族は皆が嘘や暴力を振るい、互いを傷つけあいながら過ちを犯している。彼らは敬虔なキリスト教信者である。しかし、困窮する生活の中ではその信仰心も霞み、悪魔に付け入られてしまうのである。
本作の家族間の醜い争いを見ていると、本当に人間の心は弱いものだなぁ‥と、そう思わずはにいられなかった。
物語は序盤からテンポよく進む。チラッと映る不気味な存在は一体何なのか?本当に魔女が存在するのか?という疑問を抱きながら前半部はミステリアスに展開されている。
そして、<トマシン>=<魔女>として糾弾されていく後半は、ひたすら可哀そうになってしまった。いくらトマシンが自分は魔女ではないと訴えても、家族は誰も信用してくれない。”魔女狩り”という言葉があるが、まさにトマシンもそうした憂き目にあっていく。
と同時に、こうしたある種のヒステリックなバッシングは、心の弱き人間社会では決して無くなることのない悪癖である‥ということも再認識された。疑わしきものを追い詰め断罪するだけで、結局問題は何も解決せず、ただ夫々が自己満足に浸るという現実。こうした風潮は今でもある。そういう観点で観れば、本作は実に普遍的な作品にも思えてくる。
監督、脚本は本作が長編デビュー作という新人ロバート・エガース。
ニューイングランドの寒村が舞台ということで、全体を寒色トーンでまとめあげた手腕は見事である。また、日中の透明感あふれる美景は、本作をどこかダーク・ファンタジーのようにも見せている。画作りに関しては抜群のセンスを感じさせる。
クライマックスの盛り上げ方も見事である。低予算のインディペンデント映画ということで全体的に大人し目の恐怖が続くが、クライマックスからラストにかけての高揚感は実に大胆にして痛快である。堂々の結末を迎えている。
尚、彼は本作が各映画祭で認められて、次は「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイクを任されることになった。今からどんな作品になるのか非常に楽しみである。
キャストでは、トマシン役を演じたアニラ・テイラー=ジョイの瑞々しい美しさが印象に残った。彼女も本作をきっかけにしてハリウッドデビューを果たしており、今後が期待される。