意外なほど王道なボクシング映画。

「ボクサー」(1977日)
ジャンルスポーツ・ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) プロボクサーを夢見る青年・天馬は片足に障害があり、それが原因でジムから解雇される。どうしても諦めきれなかった彼は、元東洋チャンピオンの隼にコーチを頼み込んだ。しかし、天馬はかつて隼の弟を事故死させた相手だった。隼は何度も断るが、天馬の熱意にほだされついにコーチを引き受ける。
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(レビュー) 落ちぶれたボクサーと中年の元ボクサーが二人三脚でチャンピオンを目指していくボクシング映画。
寺山修二が東映の元で撮った、彼にしては珍しいメジャー映画である。当然大衆寄りな作りが貫かれているが、しかしそこは寺山修二である。幾つか彼らしい独特の演出が見られるのが面白い。
例えば、中盤の過去のボクサーたちの栄光と挫折をカットバックで見せるシークエンスや、天馬の行きつけの食堂の描景はいかにも寺山らしい祝祭感に溢れている。ある種サーカス的奇妙さとでも言おうか…。画面に若干フィルターもかけられており、寺山ワールドが堪能できた。
ただ、こうした寺山修二らしい感性が顕現する箇所はごくわずかで、基本的には一般人向けに作られた王道のボクシング映画となっている。コアなファンからすれば、寺山独特の美的感性が削ぎ落された”生ぬるい”作品と映るかもしれない。
物語は常套に展開される。天馬と隼の因縁関係は、序盤の弟の事故シーンを起点にしながら軽快に綴られている。終始面白く追いかけることができた。また、そこに割って入る隼の娘も上手く立ち回っていると思った。彼女がこのドラマにおけるキーパーソンと言っていいだろう。中々美味しい役所である。
そして、隼の過去に何があったのか?明確にはされていないが、終盤でそれが何となく想像できる所も面白い。おそらくだが、それは家族、とりわけ娘との関係に大きく起因しているのではないだろうか。
ボクサーに限らずアスリートにとって最も大切なのは闘争心である。隼人は”あの時”、対戦相手の向こう側に娘との幸せな暮らしを垣間見、その闘争心を失ってしまったのだと思う。ボクサーとしての人生を捨てて父親としての人生を選択し、その瞬間、彼は闘うことをやめてリングを降りる決意をしたのだと思う。
しかし、その結果どうなるかというと、彼の元から妻と娘は去ってしまった。何とも皮肉的な話であるが、人生とは時に残酷なものである。ストリップ劇場のポスター張りで食いつなぐ隼の姿が憐れに見える。
そう考えると、彼が天馬にかける思いはコーチとしての夢だけでなく、失ってしまった家族の絆の再生の意味もあったのではないかと思えるてくる。隼人にとって天馬は”息子”でもあったのかもしれない。
撮影は名手・鈴木達夫。木場や横浜の赤レンガ倉庫での特訓シーンに美しい映像が幾つか見られた。また、これは明らかに寺山の感性の表れだと思うが、シンメトリックな画面構図と幻想的な映像演出が幾つか見られた。特に、隼の娘が別れの電話をかけるシーンは印象的である。
キャストでは天馬を演じた清水健太郎の熱演が素晴らしかった。孤独な目に荒々しさを宿した造形が絶品である。また、ファイトシーンにもかなりの説得力が感じられた。
隼を演じた菅原文太も哀愁漂う演技が◎。