「雨のなかの女」(1969米伊)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 平凡な主婦ナタリーは夫を残して家出をする。彼女のお腹の中には赤ん坊がいた。旅の途中で、彼女は元大学フットボールの選手ジミーに出会う。彼は試合中の怪我で脳に障害を患っていた。二人は交流を育みながら旅を続けるのだが…。
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(レビュー) 家出をした平凡な主婦の旅をしみじみと綴ったロード・ムービー。
監督、脚本はフランシス・F・コッポラ。彼の初期時代の作品で、非常に私的な作品だと本人が語っている。
コッポラは前作「フィニアンの虹」(1968米)で華々しくハリウッドデビューを果たしたが、製作体制はあまり満足のいくものではなかったらしく作品の出来については思う所があるらしい。元来作家主義である彼にとって、システマティックなハリウッドの製作体制は肌に合わなかったのだろう。その鬱憤を払うかのように、この「雨のなかの女」では自由奔放な演出を披露している。
映画自体は散文的でストーリーと言ったストーリーはそれほどない。基本的にはナタリーが旅で出会った人々と起こす様々な事件をスケッチ風に描くというものである。
ただし、ジミーとの関係から、母親の宿命をテーマにしていることは何となく読み解けた。
ジミーはラグビーをしている最中に事故で脳に障害を負ってしまった可哀そうな青年である。ナタリーは初めこそ彼のことを逞しい青年として恋愛の眼差しで見るが、彼の不幸な境遇を知ってからは母性愛を目覚めさせていくようになる。ある意味でジミーは”大きな子供”とも言え、彼に向けられる愛はお腹の中の子供に注ぐ愛とも連動しており、ナタリーは徐々に”女”から”母親”へと変貌していくところが面白い。
映像はラフな手持ちカメラを基調としたドキュメンタリズムが徹底されている。中には即興的に撮られているような箇所がいくつか見受けられる。低予算なインディペンデント作品にありがちな作風だが、これが画面に生々しさを与えている。
また、オープニングの電話ボックスの長回しは中々に挑戦的である。ナタリーが妊娠したことを長距離電話で夫に告白するカットなのだが、彼女の葛藤がひしひしと伝わってきた。
もう一つ、最後のシーンも中々に魅せる。特に、ここでの銃の使い方はちょっと衝撃的であった。仮にコッポラの自己投影が反映されているのだとしたら実に悲しい結末と言わざるをえない。本人が私的な作品だと言っているので、そんな穿った見方もできる。
キャストではジミー役のジェームズ・カーンが絶妙な演技を見せている。その無垢なる表情は、後のマッチョなイメージを考えると意外である。
尚、ナタリーの夫が中絶のために東京へ渡航すると言っていたことからも分かる通り、当時のアメリカではほとんどの州が人工中絶を禁止していた。キリスト教の国ということなのでさもありなん。今でもアメリカでは中絶禁止の州が存在する。