「泳ぐひと」(1968米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 日曜日の午後、友人宅で水泳を楽しんでいた会社重役ネッドは、突然、ここから自宅まで各家庭のプールを泳ぎながら帰宅すると言い出す。驚く友人たちをよそに、彼は海パン姿のまま次の家へと向かうのだが…。
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(レビュー) 中年男が次々とプールを泳ぎ渡りながら、様々な人々と出会っていく不条理劇。
出だしからしてかなりシュールな映画であるが、途中から更に奇妙な世界へと迷い込んでいくようになる。そもそも何故ネッドは友人宅のプールを泳いで帰ろうとしたのか?その理由が最後まで明らかにされないので観終わった後にチンプンカンプンになってしまう人もいるだろう。
この映画には原作がある。ジョン・チーヴァーという作家が書いた短編小説である。自分は原作を未読なのだが、どうやらこの作家は本作のようなアメリカ東部郊外に住む中産階級についての小説を数多く手掛けた人物らしい。
中産階級の人々は一見すると何の不満もない幸福な暮らしを送っているように見える。しかし、彼らも人間である。実際には様々な影を抱き、複雑に絡み合った感情に悩まされながら生活している。普通の人々と何ら変わらない人生を送っている。それを暴いて見せたのがチーヴァーだと言われている。その作家性を知ると、本作のネッドの心情は何となく想像できるだろう。
つまり、彼は裕福な暮らしと愛する家族に囲まれて生きてきた過去の思い出の中を、ただひたすら”泳ぎ続ける”人だったなのではないだろうか。
ネッドは泳いで訪れたセレブたちを相手に、失われた家族との思い出話に花を咲かせながら郷愁に浸る。落ちぶれた孤独な我が身を昔話で慰めながら家路につくのだ。これは、まさしく当時の中産階級の”姿”を言い表しているように思う。
ドラマとしては非常に後ろ向きで、観てて居たたまれない気持ちにさせられる映画である。しかし、これが当時の中流階級の心の闇、不安を表現していたとすれば、これは時代の一つの証憑と言えなくはないだろうか。チーヴァーの原作。そして、それを元にした本作は1960年代のアメリカ文化を語る上では非常に重要な1本に位置づけられる作品だと言える。
終始、不条理で不安な気持ちにさせる作品だが、そんな中、ネッドの心を晴れやかにする出会いが二つ用意されている。そこだけは観てて救われた。
一つは彼の家でベビーシッターとして働いていた少女との出会い。もう一つは水の入っていないプールで遊んでいた少年との出会いである。
前者では、ネッドは若い頃に戻ったかのように一緒に野原を駆けながら我が身の自由を謳歌している。まるですべてのしがらみから解放されたような清々しさが実感された。
後者は、過去の自分の幻との邂逅とも捉えられる。温もりに満ちたトーンで描景され、何とも言えない切なさが味わえた。
監督は西部劇の佳作「ドク・ホリディ」(1971米)等で知られるフランク・ペリー。中々味わい深い作風を身上とする作家である。
ただ、本作では撮影中にネッドを演じたB・ランカスターと度々対立し、最終的に解雇されてしまったそうである。データによると、その後に名匠シドニー・ポラックが呼ばれて一部撮り直しをしたということである。尚、ポラックの名前はクレジットされていない。