「解放区」(2014日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) ドキュメンタリー作家になることを夢見ながら小さな映像制作会社で働くスヤマは、引きこもり青年、本山の取材現場で先輩ディレクターに反抗したことから部署を外される。一念発起して新たな企画を立ち上げるスヤマだったが…。
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(レビュー) ドキュメンタリー作家を目指す青年の苦悩をドライヴ感溢れるタッチで描いた作品。
まるでドキュメンタリーを観ているかのような生々しさに驚かされる。スヤマは新しい企画を立ち上げ、取材のために大阪の西成に入るのだが、そこで映し出されるロケーションが奏功している。炊き出しの風景などの実際の映像を交えながら、現実とも虚構ともつかぬ不思議な雰囲気が漂っている。
西成と言えば、日本で有数のドヤ街で治安も悪いとされている街である。最近でこそ再開発が進み、かつての風景とは大分趣を異なるという話を聞くが、映画が撮影された頃はまだ近寄りがたい雰囲気が漂う街であった。そんな西成にカメラを持ち込んで撮影した本作は半分ドキュメンタリーと言ってもいいかもしれない。
尚、本作は当初、大阪アジア映画祭に出品するために大阪市から支援を受けて製作された。ところが、劇中に出てくる映像が不適切として編集を要請され、監督、脚本、主演を務めた太田真吾はこれを拒否したということだ。結果的に助成金を返納して、彼は自主製作で完成までこぎつけた。
路上に寝転がる酔っぱらい、日雇い労働者のブローカー、ジャブの売人、炊き出しに集まるホームレスの群れ、粗末な宿泊場等が赤裸々に映し出されている。市からすればイメージダウンに繋がりかねないネガティブな表現に難色を示すのも無理からぬ話である。
ただ、純粋にドキュメンタリーとして作られているのならともかく、本作はフィクションである。いくらリアルな光景が映し出されているからと言って、一方的に編集を要請するというのは如何なものであろうか。
太田監督の作品は今回初見となるが、元々はドキュメンタリーを撮っていたということである。なるほど、それを知ると本作の独特のテイストも合点がいく。いたずらに話題性だけを狙って西成を舞台にしたというわけではなく、西成の実情を知って欲しいという気持ちから製作に至ったのであろう。
そして、自らスヤマを演じていることから、太田監督はこの主人公に少なからず自己投影している節も見受けられる。
スヤマは自分の撮りたいイメージすら掴めないでいる中途半端なドキュメンタリー作家である。同棲中の恋人とはうまく行かず、新しく立ち上げた企画も通らないまま、見切り発車のような形で西成に取材に入った。その際、一人では心細いので、かつて取材した引きこもり青年、本山を協力者として引き連れて行く。まず、ここからして問題である。どうして引きこもりの彼を連れだしたのか?当然、本山の家族は心配し、大事に発展してしまう。
しかも、そもそも計画性皆無の取材であるから当然撮影も上手くいかず、やがて資金は底を尽き、太田は怠惰で荒んだ”西成”の街にドップリと浸かりながら堕落の一途をたどってしまう。理想と現実のギャップにもがき苦しむその姿は、きっと監督自身の姿なのではないか…そんな風に想像できた。
作家の自己投影映画というのはフェリーニや園子温、北野武等、割と自己顕示欲が強い監督がこれまでにも撮っているが、彼もまたそういったタイプの監督なのかもしれない。
個人的には、本山を巡って展開されるサイドストーリーの方も面白く観ることが出来た。彼はスヤマにそそのかされて一緒に西成に入るが、いつの間にか彼もまた西成の街に馴染んでいってしまう。引きこもりの彼が、期せずして外の世界に出ていくという所にドラマを感じる。そして、そんな彼を家族が心配し連れ戻そうとするのが何とも皮肉的だ。
また、本山が終盤で吐露する言葉も印象に残った。彼を連れ戻そうと兄がやって来て喧嘩になるのだが、そこで初めて自分の思いをカメラに向かってぶつける。それは現代の格差社会に対する痛烈なアンチテーゼであり、その現実を何も伝えようとしないマスメディアに対する怒りにも聞こえた。
本作は一人のドキュメンタリー作家スヤマの葛藤を描くドラマであるが、それは同時に太田真吾監督自身の内省のドラマでもあり、更に言えばメディアに携わるドキュメンタリー作家としての使命を問うた作品のようにも思った。