普遍的なテーマを時代にリンクさせて上手く描いている。
「ソーシャル・ネットワーク」(2010米)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) ハーバード大学の天才プログラマー、マークは恋人に振られた腹いせに、親友エドゥアルドを誘って大学のデータをハッキングし、女子学生の顔写真を使った人気投票サイトを作った。これが学校側にばれて彼は厳重処分を受ける。そんな彼に目をつけたのが、ボート部に所属するウィンクルボス兄弟だった。彼らは学生を対象にした交流サイトを作りたいので協力して欲しいと言う。マークは名誉挽回のためにそれを引き受けた。しかし、その一方で彼はエドゥアルドと“ザ・フェイスブック”というソーシャル・ネットワークのサイトも作る。これがマークとその周囲に大きな変化をもたらしていく。
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(レビュー) 世界最大のソーシャル・ネットワーク・サービス“フェイスブック”の舞台裏に迫った作品。
創設者マーク・ザッカーバーグと周囲の人間の愛憎がミテリアスに綴られている。基本的にノンフィクションであるが、多分にフィクションが混じっているということである。一体どこまでリアルなのだろうか?ラストは間違いなく創作と思えるが、俺はここにこの映画の最大のポイントがあるように思った。
たった数年で世界最年少の億万長者になった文科系ヲタク青年の末路は実に残酷なものである。莫大な富と名声を得て本来なら幸せであるはずなのに、彼の心はそうではなかった‥というのがこのラストから伺える。彼のラストの所作は極論すれば孤独なオナニーである。インターネットによって交友範囲が際限なく広がっていく現代社会。それを作り上げた人間が、まさか友達も恋人もいない孤独な青年だったとは、何と言う皮肉だろう。人間関係のあり方はどこへ行ってしまうのか?ネット社会はどこまで人間関係の真実を捉えうるのか?見終わった後に様々な問題が脳裏に浮かんだ。
監督はD・フィンチャー。これまではどちらかというと、独特のビジュアル、サスペンスを売りにした作家という印象だったが、そんな彼が本作のような地味な作品を撮るとは意外であった。有名スターの起用もないし、これまでに比べたら小さなバジェットでの製作であろう。ほぼ法廷ドラマに近いダイアローグ劇なので、比較的<絵>にしにくい内容でもある。しかし、今回フィンチャーはこの地味な題材をアイディア勝負で見せている。
映画はフェイスブックが巨大なビジネス産業になっていく過程を描く<過去編>と、裁判のやり取りを描く<現在編>を交錯させながら展開されていく。<現在編>では二つの裁判が語られる。一つは親友エドゥアルドが提訴した経営権問題。もう一つはウィンクルボス兄弟が提訴したパクリ問題である。
<過去編>は基本的にマークの視点で綴られているが、<現在編>は夫々の裁判の原告であるエドゥアルドとウィンクルボス兄弟の視点で描かれる。視点の分散によってマークの内面が掴みにくいものとなっているが、この突き放した距離感は計算されたものであることがよく分かる。ウィンクルボス兄弟の調停シーンの一部で、マークは感情を高ぶらせるが、それも前半のみ。映画が進むに連れて彼の表情はどんどん虚無的になっていく。一体彼はこの裁判をどう思っているのか?親友に訴えられて何を思うのか?そこは観客自身が画面とセリフに能動的にアプローチすることで手繰り寄せていかねばならない。これは明らかにマークに感情移入させない恣意的な演出である。彼の孤独感を虚無的に見せるためのフィンチャーのロジカルな演出に他ならない。
映画を受身で見る人にとってはサッパリ分からない‥ということになりかねないが、これはやはり見事である。時制の交錯で法廷ドラマの謎解きの面白さを演出し、尚且つマークの人物像を本人を含め3つの視座で見せることによって彼の孤独に深遠さをもたらすことに成功している。本来地味になってもおかしくないはずのドラマを、こうしたサスペンスでグイグイと引きつけながら見せていくのだ。この手腕は見事というほかない。
また、フェイスブックというキーワードを持ってきた所にも意義があると思う。極めて流行的な素材をスキャンダラスに取り扱うことで、ワールドワイドな共通認識をベースに敷きながら作品が確立されているからである。
ただし、フェイスブックというキーワードは確かにこの映画の重要な素材であるが、本作が描くテーマはあくまで成功者の盛衰のドラマの方にある。フェイスブックの中味を知りたい人には不向きな映画であって、何となればフェイスブック以外にいくらでも素材の代用が利くドラマになっている。したがって、作品のテーマ、ドラマ性そのものは決して斬新と言うわけではない。良く言えば普遍性のあるドラマだが、悪く言えばこれまで何度も見てきたきたような“ありきあたりなドラマ”と言うことが出来る。
ちなみに、D・フィンチャーが何故このテーマで映画を撮ったのか?その理由を過去作品から次のように想像できる。
彼が監督した「ゲーム」(1997米)という作品がある。ある資産家が謎のゲームに巻き込まれていく不条理サスペンスで、作風が虚実入り混じったあいまいなテイストで描かれるため、現実なのか、夢なのか段々分からなくなってくる一風変わった作品だった。現実と虚構に翻弄される資産家の運命は正にゲームそのもので、テーマは虚実入り混じったマジックの世界‥といった所だろうか。
このブログで紹介した
「パニック・ルーム」(2002米)は、誤解を恐れずに言うなら、母胎(パニック・ルーム)と外界を行き来する物語と言える。これも壁を隔てた二つの世界は物理的な形で登場し、主人公の母娘はその壁を打ち破ることが出来るかどうかという選択に翻弄される。このドラマは父性からの解脱というメタファーになっている。
「ゾディアック」(2006米)は連続猟奇殺人犯を追う新聞記者のドラマである。彼は事件を20年も追い続けながら次第に精神薄弱に陥っていく。現実と妄想の境界線を見失った哀れな男のドラマと言えよう。
このようにフィンチャーは好んで、現実と虚構、内界と外界といった相反する世界に引き裂かれる主人公の姿をを何度も描いてきたのである。
その観点から言うと、本作の相反する世界は<リアル>と<ヴァーチャル>の世界と言うことになるだろう。マークは<リアル>なキャンパス生活では煮え湯を飲まされ続けてきた負け犬である。しかし、彼には突出した才能があり、それによって<ヴァーチャル>、つまりネットの世界にフェイスブックという王国を作り上げて<リアル>の世界に復讐しようとしたのである。結果はご覧の通りなわけであるが、これはフィンチャーが描き続けてきた“二つの世界に引き裂かれる主人公の姿”そのものではないだろうか。
お久しぶりです、ありのさん。
この作品なんですが、今年の「アカデミー賞」の前哨戦でもある「ゴールデングロ-ブ賞」で「映画・ドラマ部門」で4部門受賞したそうです。それから、映画の世界ではいろんな出来事が出てきて、1月29日に恵比寿ガーデンシネマが、今月27日には、シネセゾン渋谷が相次いで閉館を発表しまた、シネコン(大型複合型映画館)の最大手である、tohoシネマズ(東宝系列)が一部地域(鹿児島、長野)今年の春あたりから、観賞料金の値下げを発表したそうです。それから、ありのさん僕が1月2日に見た、「相棒Ⅱ劇場版」はすごく良かったです。ロングラン上映が決定したので、ぜひ見に来てください。杉下右京役の水谷豊さんの演技がいいんですよね。
アカデミー賞を取れるかどうか分かりませんが、間違いなく本作はその有力候補と言えますね。
ただ、テーマに新味がないのと、素材をどこまで評価するか‥そこが判断材料になるのではないかと思います。
未見ですが、他にも有力候補が揃ってますので、今月下旬の授賞式は注目しています。
ところで、都内の単館が次々と閉鎖するニュースは実に寂しい限りです。恵比寿ガーデンシネマもシネセゾン渋谷も随分行きました。思い出深い映画館です。それが相次いで閉館とは‥残念です。
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