今こそこの作品のテーマを探求する意義があるように思う。
「神々と男たち」(2010仏)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1990年代、アルジェリアの山村にカトリック修道士達が滞在していた。彼らは村人を診療したり相談相手をしながら地元に根付いた暮らしを送っていた。そこにイスラム過激派の襲撃が始まる。修道院長クリスチャンを中心に、修道士たちは避難すべきか村に留まるべきかで意見が分かれる。そこにテロリスト集団が負傷者を診てくれとやって来て‥。
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(レビュー) アルジェリアで起こったフランス人修道士誘拐事件を描いた実話の映画化。
イスラム過激派のテロに毅然と抗した修道士達の姿が感動的に描かれている。紛争地帯における難民保護という構図は、以前紹介した
「ルワンダの涙」(2005英独)のシチュエーションに近いものがある。また、宗教による紛争の火種を題材にしているという点では
「ミッション」(1986米)に近いテーマ性も感じられた。もっとも、「ミッション」に比べれば本作にはそこまでの神の無力さ、宗教のアンチテーゼは見られない。ただ、この事件そのものが悲劇的な結末を迎える事を考えれば、どうしても宗教の“限界”という所については考えさせられてしまう。
そもそも宗教はそこまで万能にできていない。祈りを捧げれば全ての人が幸せになれるわけではないことは、今の世界情勢を見れば分かるだろう。キリスト教とイスラム教の対立は根深く、現にこの物語の中にもキリストとアラー、二つの神が登場してくるし、聖書とコーラン、二つの啓典が出てくる。厳然として争いは存在するのだ。ただ、渦中にいる人々にとっては、せめて祈ることで救われたい‥というのも<現実>なのだろう。状況を劇的に変える事は出来なくとも、幾ばくかの平穏が訪れ、わずかな生命が救われるのなら祈ろうではないか‥。何事も宗教に頼るのは反対であるが、この考え方はあってもいい様な気がする。この映画も正にそのことをラストで訴えているような気がした。
修道士達の博愛主義は実に崇高であるが、それが宗教の絶対性を啓蒙するものではないことも映画を見ればよく分かる。彼らには夫々に考え方もあれば私生活もある。神に仕える以前に、一個の生身の人間として生きているのだ。帰国して家族と暮らしたいという者もいれば、このまま村人を見捨てていけないという者もいる。映画の冒頭で詩篇82篇「あなた方はみな神々である。しかし人間として死んでいくだろう」というフレーズが登場してくるが、これは正に彼らは心弱き一人の人間である事を指し示す言葉だと思う。夫々の葛藤が宗教の限界を言い表している。そして、それが個々を“生きたキャラ”として息づかせ、このドラマをリアリティーのあるものにしている。
演出は全体的に静謐にまとめられている。決して派手さはないものの、真摯な語り口には好感が持てた。ただし、幾つかのシーンにだぶつきや不要が感じられた。丁寧に描写を積み重ねていく事でドラマに説得力と力強さをもたらそうとするのは分かるが、少々退屈する。例えば、ミサのシーンは日々のルーティンとして現状の不安感、閉塞感を表現している事は理解できるが、全てがほぼ同じ演出の反復では芸が足りない。ここは変化が欲しい。あるいは、必要にして十分な語り口に徹して欲しかった気もする。
そんな自然体な映画であるが、1箇所だけ作為的にドラマチックに盛り上げられているシーンがある。それは後半の晩餐のシーンである。この映画にはBGMは一切ないが、このシーンだけはカセットテープから「白鳥の湖」が流れてくる。何故ここで「白鳥の湖」?と最初は不似合いに思ったのだが、曲が進むに連れてこれが大変盛り上がり感情を揺さぶられた。セリフを排して音楽だけで引っ張った演出にも脱帽である。
また、このシーンは人物へのクローズアップも特徴的である。本作は映画が始まってから暫く“引き”のショットが横溢する。そのため8人の修道士の個性が中々掴めないのだが、後半に行くに連れてカメラはどんどん各人物の傍に擦り寄っていくようになる。そして、この晩餐のシーンでは、ついにカメラのショットサイズが表情を捉えるまでに接近するのだ。この時にはすでに修道士達の個性は十分に把握できるようになっており、カメラは各人の表情を克明に捉えながら夫々の内面を炙り出していく。巧みに計算されたカメラワークだと思う。彼らの表情一つ一つが無性に愛おしく感じられた。
尚、劇中には修道士達の訓辞が色々と登場してくる。婚約に悲嘆する村娘への助言などは味があって良かった。また、修道院長クリスチャンの言葉の中にも印象に残るセリフがあった。
「野に咲く花は光を求めて移動しない」
実に美しい比喩で、且つ彼の強い信念が伝わってくるようなセリフである。