S・ゲンズブールの怪演と難解なテーマに圧倒される。
「アンチクライスト」(2009デンマーク独仏スウェーデン伊ポーランド)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) ある夫婦がセックスの最中に幼子を死なせてしまう。精神薄弱に陥った妻をセラピストの夫が支える。妻の悪夢に出てくる“エデン”という森に病気を克服する鍵があるのではないか‥?そう考えた夫は妻を連れて”エデン”に立つ古い小屋へ向かう。
goo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 子供を失った夫婦が辿る運命を過激な性描写とショッキングな映像で綴った寓話。
監督・脚本は鬼才ラース・V・トリアー。表向きはサイコ・スリラーだが、タイトルにあるとおり本作には宗教的なメタファーが数多く散りばめられておりかなり難解な映画になっている。解釈は色々と分かれそうだ。
夫が妻をカウンセリングしていくドラマは、観客が夫の目線になって彼女の精神世界を、言い換えればこの世界を作り上げた監督自身の頭の中を目撃していく行為そのものと言える。おそらく本作を真に理解するにはトリアー自身を理解しなければならないのだと思う。しかし、彼は映画制作時に鬱病にかかりカウンセラーの治療を受けていた。ゆえに、本作の解釈に一定の方向性を見出せないのは当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。
映画はプロローグとエピローグを含む全5章で構成されている。まず、ハイスピードカメラで捉えたプロローグの美しさに目を見張る。トリアーの初期作「エレメント・オブ・クライム」(1984デンマーク)、「ヨーロッパ」(1991デンマーク仏独スウェーデン)を想起させる映像美は、映画の“引き”としては申し分ない。尚且つ、そこで描かれているのが、セックスと死というエロティックな事象である。ゾクゾクするような興奮をおぼえた。
尚、本作は随所にこうした美的感性が飛び出してくるのだが、その多くはポスト・プロダクションによる働きが大きく貢献しているように思う。そういう意味では、自然主義映像集団“ドグマ95”を立ち上げた頃や、演劇的メタ構造を取った「ドッグヴィル」(2003デンマーク)とは対極に位置する作品スタイルであり、どちらかというと彼の初期時代の作品に近いと言えるだろう。
その後、「悲嘆」「苦痛」「絶望」という3つのチャプターでドラマが展開される。二人が“エデン”と呼ぶ森の中に入っていき、妻のカウンセリングを通して子供の死の真相が明らかにされていく。この辺りはサスペンス映画として見る事が出来るのだが、事件のネタ明かし、それ自体については、正直なところそれほど衝撃的というほどではなかった。“エデン”というネーミングや「アンチクライスト」というタイトルから、キリスト教に反旗を翻すような挑戦的で野心的モノ、劇中に度々登場する人類の“ネイチャー(本質)”に深く言及されるかと思いきや、そこまでのスケール感が無く肩透かしを食らう。そもそも、この物語を語る上で最も支柱となる人間の“悪魔性”に男女の隔たりがあるはずもない。この映画は何故に妻の方だけに特別に“悪魔性”を持たせているのか?母性と父性の区別も明確にされていない上に、妻がたまたま論文の中で自らの悪魔性を発見してしまった‥という偶然性がこのドラマを陳腐にしてしまっている。
おそらくこれは想像だが、トリアー自身の中に母性への畏敬がとてつもなく大きなトラウマとして存在しているのではないだろうか。これは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000デンマーク)を見たあたりから薄々感づいていたのだが、この作品を見て改めてそのことに確信を持てた。
そして、映画は子供の死の真相を探るサスペンスの一方で、罪の意識に苛まれていく夫婦の苦悩のドラマも追っていく。最終的にこの夫婦は破滅の道を辿っていくのだが、その意味については色々と想像出来よう。
“エデン”というネーミングから、当然この二人は現代のアダムとイヴというふうに捉えていいと思う。二人は子供を死なせた罪人として“エデン”に戻ってき、あるいは神の力で引き戻されたと考えることが出来る。当然、罪滅ぼしのためである。しかし、あろうことか妻は自責に取り付かれる一方で、ひたすら夫にセックスを強要する。子供の死と向き合うことなく快楽を貪り尽くしていくのだ。自責と快楽。この狭間で彼女は急激に精神を崩壊させていく。
一方の夫も初めはセックスを拒むのだが、徐々に彼女のペースに巻き込まれ、また“エデン”がもたらす様々な怪奇現象を目撃していく事で自制心を保てなくなってしまう。こうして彼もまた妻との快楽に溺れてしまう。
二人は罪人という自覚無しに、快楽に溺れ罪業を深めていく。彼らを見ていると、キリスト教における原罪という言葉がいやが上にも思い浮かんでくる。原罪を背負った人類の始祖とも言えるアダムとイヴ。そのメタファーであるこの夫婦は、現代に於いても罪を拭いきれず、むしろ罪に罪を重ねて堕ち続けていく‥。これは正にアダムとイブのドラマのように思えた。何と救いのないドラマだろう‥。
これに付随して興味深いのは、“エデン”が何故かように禍々しい姿をしているのかという事である。そこに楽園というイメージは一切無い。しかも、何か得体の知れない悪魔的なエネルギーに取り付かれた動物達が次々と登場してきて夫婦を脅かす。すでに“エデン”はかつての“エデン”では無くなってしまったという事なのだろうか?だとしたら、この映画は人類の絶望をかなりネガティブに描ききっている。
この破滅的なドラマを見ると、まるで出口の見えない迷路に迷い込んでしまったかのような、そんな怖さを感じてしまう。鬱状態にあったという監督の頭の中は、想像を絶するほど深い闇に支配されていたのだろう‥。
エピローグでは、いわゆるドラマの“オチ”的なものが描かれている。少しホラー映画的な終わり方だったが、こういう幕切れは嫌いじゃない。また、ホラーに限らずあらゆるドラマにとってのオーソドックスな幕切れとも言え、変な言い方かもしれないが、収まるところに収まってくれたという充足感があった。
尚、劇中に登場する3人の乞食の物語については何を意図しているのかサッパリ分からなかった。3人の乞食の名前が夫々のチャプターを表しているのだが、それが何故森の動物達なのだろうか?あるいは、ここには何か出典があるのかもしれない。
キャストでは、妻を演じたS・ゲンズブールの肉体を張った演技が印象に残った。過激な性交描写や、暴力描写に果敢に挑み、その熱演はカンヌでも認められた。そもそもトリアーは演者を極限的に追い込むことで最大のポテンシャルを引き出す演劇主義的なアプローチをする演出家である。そのため「ドッグヴィル」に主演したN・キッドマンは半ばノイローゼになったというくらいである。今回のS・ゲンズブールのギリギリの演技は正しく怪演の部類に入るだろう。終盤は圧倒されっぱなしだった。