日本国に対する強烈なアジテーション。実相寺の魔術的映像も冴えわたっている。
「曼陀羅」(1971日)
ジャンルエロティック・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 海辺の小さなモーテルに二組のカップルが宿泊していた。彼らは互いの女を交換して愛し合った。その光景をホテルの支配人真木が隠しカメラで覗いていた。ひとしきり愛し合った後、片方の女由紀子は恋人信一と一緒に浜辺に出た。そこをモーテルの従業員達に襲われる。抵抗空しく信一の前で無残に犯される由紀子。それを見た信一は今までに感じたことのない快感に打ち震えた。後日、二人はその時の快感を忘れられず再び真木のモーテルを訪れる。一方その頃、もう片方の女康子は妊娠したことが分かる。恋人の祐に結婚を迫るが、彼はそれを拒否し‥。
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(レビュー) 二組のカップルがモーテルの支配人のユートピア思想に取り込まれていくエロティック・サスペンス。
モーテルの支配人真木が目指すユートピアは、はっきり言ってカルト宗教のごとき怪しさに満ちており、何とも胡散臭い。彼が目指すのは俗世からの解脱。すなわち、山奥に籠って畑を耕し自給自足の暮らしを送りながら、一般社会とは断絶した生活を送るというものである。閉鎖的なカルト教団にはありがちな思想と言えるが、この窮屈で不便な暮らしをここに登場する二組のカップルは受け入れていくようになる。
物語は寓話的なテイストで進行する。モーテルや閑散とした海、霊気が漂うような森等、非日常的な空間がこの物語をことさら幻想的に見せている。
しかし、当時の世相に照らし合わせて考えてみるとまた別の物も見えてくる。
いわゆる60年代のアメリカの若者たちのヒッピー文化には、自然回帰的な生活を求めるコミューンの形成があった。若者たちはそこでセックスとドラッグを共有し平和理想を掲げ、一般社会から離れたところに安住を求めた。当時の日本にもこうした文化があったことは確かで、フーテンの若者たちなどは正にその影響をモロに受けた人種だろう。本作の真木の思想もこれに似た共同体意識が伺える。つまり、ここで描かれる物語は時代の風刺としても捉えることが出来るのだ。
ただ、個人的には真木の思想にはどうしても共感できなかった。
社会との関わり合いを捨てて、自分たちの共同体の繁栄を望むのが目的だとするなら、これは明らかに浮世離れした〝理想主義かぶれ”の物言いそのものである。現実をきちんと見ていない。
映画は真木の哲学とそれを盲信する二組のカップルに迫りながら、それがさも正論のように描かれているが、絶対的な存在である真木の支配が個々の自由を束縛するという関係性がある以上、建前上はユートピア思想でも実際は強権支配のディストピア思想以外の何物でもない。
尚、二組のカップルはそれぞれに真木のこの思想の取り込まれ方に若干の違いが見られる。
まず、信一と由紀子は元来、性欲に忠実に生きる人々である。浜辺での強姦は真木が張り巡らした策謀であり、彼らはそれにまんまと引っ掛かり快楽に溺れていくようになる。真木は元々が異常な性的倒錯者で、常に欲望に忠実に生きよと命じている。二人はその言葉に従順に従っていく。
一方の祐と康子は別に性欲の権化ではない。最初は真木の言葉に否定的な意見を持つ。
しかしながら、祐はかなりのモラトリアムで、大学にも行かず学生運動に形だけ参加しながら、ただ何となく未来に対する絶望的なビジョンを抱いている。康子に対する冷たい仕打ちも、子供など欲しくないというセリフも、いかにもこの手のモラトリアム青年にありがちな捨て鉢な言動だ。彼は現実の世界に何の未練もないのである。そこに真木のつけ入るすきがあった。やがて祐は、信一たちに遅れを取る格好で、現実を捨てて真木のユートピア思想に同調していくようになる。
そして、康子については他の3人とは異なり徹底して真木の誘惑に抵抗していく。そこがこのドラマのポイントとなっている。
映画はクライマックスで"ある事件″が起こり、それによって一旦同調したはずの祐と真木が再び対立することになる。ここは興味深く見れた。
真木が見る未来は常に明るく希望に満ちたものであるのに対して、祐は先述の通り社会を徹底したネガティヴ・シンキングで捉えている。真木の思考との違いは、真木の代弁役とも言うべき信一との対話で描かれるのだが、どちらの求める社会がより高次なものと言えるのか‥見る側に考えさせるような問いかけになっている。
これを判断するのは中々難しいだろう。個人的には真木の思想にかすかに救いが残されている分、まだ理解できるような気がするのだが、それも建前となると単なるロマンチストの意見だ‥という風になってしまう。
ただ、映画は真木が辿る運命に大きな敗北を、祐が辿る運命に勝利とも敗北とも言えない結末を用意している。これを見ると、もしかしたら答えが出ないところにこの映画のメッセージが隠されているのではないか‥という気もした。つまり、混沌とした日本社会の未来に対する警鐘。それ自体をこの映画は語りたかったのではないか‥ということである。何とも煮え切らないラストであるが、同時に深く考えさせられたりもした。
監督は実相寺昭雄。独特のハイライト効果とクローズアップで真木や祐の狂気を不敵に切り取りながら、作品に息詰まるような緊張感をもたらしている。序盤の浜辺のシーンのスピーディーなカメラワークの迫力等、映像の数々に対する偏執的なこだわりは、いかにも実相寺らしい。また、今回はショッキングな効果音が各所を不気味に盛りあげていて、効果音の演出も印象に残った。
悲運のヒロイン康子役を演じた桜井浩子の大胆な脱ぎっぷりも見応えがあった。「ウルトラマン」のフジ隊員の濃厚なセックスやSMプレイにちょっとした秘宝感が味わえた。