トリアーの鬱病が世界を審判した怪作!
「メランコリア」(2011デンマークスウェーデン仏独)
ジャンルSF・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 花嫁ジャスティンは新郎マイケルと結婚パーティーが行われる姉夫婦の邸宅へ車を走らせていた。ところが、途中で車がトラブルに見舞われ到着が大幅に遅れてしまう。どうにかパーティーが執り行われるが、和気あいあいとした祝宴ムードはジャスティンの母親の発言で静まり返る。これによってジャスティンの精神は情緒不安定になっていく。その後、彼女のわがままが続きパーティーは台無しになってしまった。姉クレアと夫ジョンは憤慨した。それから7週間後、惑星メランコリアが地球に接近していた。クレアの元に鬱状態のジャスティンが帰ってくる。
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(レビュー) 未知の惑星メランコリアの接近によって人類が滅亡の危機に瀕していくSF人間ドラマ。
監督・脚本は鬼才ラース・V・トリアー。彼は前作
「アンチ・クライスト」(2009デンマーク独仏スウェーデン伊ポーランド)製作中に鬱状態にありカウンセラーの治療を受けていた。出来上がった作品は正に世界の終焉を占うがごとき恐るべき傑作で、見終わった後には暗澹たる思いにさせられたが、今回は更に彼の鬱傾向が作品にダイレクトに反映されたと見ていい。前作から1歩踏み込んで世界の終焉が描かれている。前作で消化不良だった人がいたなら、本作をぜひ見て欲しい。きちんとオチがついているので‥。
但し、今更言わずもがなであるが、本作はいわゆるハリウッド製ディザスター・ムービーのような娯楽性、破滅へ向かう人々に感情移入を指向するようなリアリティを追求する映画ではない。予めナンセンスな寓話として割り切った上で見るべき作品である。
今回の主役ジャスティンは、紛れもなく監督自身の分身と言える。彼女はメランコリアとテレパシーで交信しながら1人悠然と構える。その姿は終末をを待ち望んでいる監督自身の姿に見えてくる。
これは前作でも感じられたことなのだが、監督は人間の存在そのものを徹底してネガティブに捉えているのだろう。物語は第1部「ジャスティン」と第2部「クレア」で構成されているが、第1部で見られるジャスティンと様々な縁故者のやり取りからその考えが伺える。いかに人間が悪しき存在か‥ということが、パーティーの参加者たちの行動によって赤裸々に表現されている。
そして、第2部「クレア」ではいよいよメランコリアの接近によって、人類破滅の危機が描かれていく。ここではクレアが逃げ場所を求めて慌てふためく姿と、死の運命を受けとめるジャスティンの姿が対照的に描かれている。普通ならここで神の軌跡でも描いて見せるのだろうが、鬱病を患うペシミスト・トリアーの中にはそんな気はさらさらない。ただひたすら迫りくる惑星メランコリアを美しく、右往左往するクレア達を醜く撮るのみである。
これは人類に蔓延したエゴイズム、憎悪、欺瞞が、美しく輝く惑星メランコリアによって吸収浄化されていくという、トリアーの厨二病的な発想から生まれた一つのシュミレーション映画なのだと思う。観客の中には異論があるかもしれないが、おそらく監督はこの結末をもってハッピーエンドと捉えているのだろう。
映像も見応えのある作品だった。特に、アバンタイトルの絵画的な描景の連続は、前作の冒頭のシーン同様、ハイスピードカメラとCGを駆使しながら陶酔的な美しさを突き付けてくる。また、第1部のセピア調を貫く画面色彩は長編デビュー作「エレメント・オブ・クライム」(1984デンマーク)を彷彿させ見応えがあった。終末へ至る人類の最後の輝きとでも言おうか‥。デカダンでロマンチックで趣が感じらる。
欲を言えば脚本のバイブレーションを考えて欲しかったか‥。第1部と第2部にもう少し相関が図られていたら作品全体がよりドラマチックなものになっていたかもしれない。パーティーで賑わう第1部は様々な人間関係が面白く見れるのだが、第2部はごく少数の登場人物で展開されるミニマムな作りなので幾分ドラマも単調になってしまう。例えば、第1部に登場したジャスティンの両親を第2部に登場させて‥というやり方はあっても良かったように思った。